第50話 第一戦 ヤン・コンラート

 わたくしは、うそをつきました。


 





 ヤン・コンラートは白装束に身を包んでいる。

 今となっては意味すら失われつつある死に装束だ。

 帝国へと変化する前にあった伝統は時と共に失われ、公家というものの持つ意味も変わった。

 帝国へ変化した折には不穏分子を抑えるために公家はあった。そして、現在はただ古い文化を継承するためだけにある。

 役割を終える時が来た。

 ラファリア皇帝と齊天后マフの間に交わされた密約の架け橋となったのは、ヤン・コンラートその人である。


 水晶宮の薔薇園で先帝陛下に執り成しを頼み、この密約は成った。


 この戦いの勝敗に関わらず、ラファリア皇帝と齊天后マフは和解する。

 齊天后マフが導いた流れに沿い、ラファリア皇帝を頂点とした政治形態を造り上げるのだ。


 サリヴァン侯爵率いる領主軍はラファリア皇帝に従うことになるが、一部の不必要になった経営破綻している領主は反逆者として処分する。


 ならば、この戦いに何の意味があるというのか。

 勝敗で決まるのは、齊天后が表だって支配するか否かのみ。


 齊天后マフが勝てば、骨の貴婦人による覇道の急進を。

 ラファリア皇帝が勝てば、緩やかな覇道を。


 どちらも目指すところは同じだ。


 すなわち、帝国の改革と平定を諸外国に見せつける大掛かりな見世物に過ぎない。



 ヤン・コンラートは闘技場の観客席に入り始めた人々を見やる。

 古の時代、聖女アメントリルよって廃された決闘奴隷の血生臭い見世物に狂喜した人々と、同じ顔ではなかろうか。


「罪深いものでおじゃる」


 己も民も皇帝陛下ですらも、罪に塗れている。

 背後の気配に振り向いて、ヤンは平伏した。貴人がいたからだ。


「今はそのような立場ではありません。おもてを上げて下さい」


 困ったように、死したはずの第一皇子は言った。

 先帝陛下の死したはずの嫡子であり、先帝陛下がただ一人認めた皇子である。


「ありがたきお言葉に、甘えさせて頂きまする」


「ささ、面を上げて下さい。私はもう、皇子ですらないのです」


 線の細い優男である。

 繊細さが外面に滲み出たかのような、優しげな、悪く言えば気弱な印象があった。

 先帝陛下と似ているのは、その瞳と髪色のみである。


「御子殿、いかがされました」


「サリヴァン侯爵から、約定の言質を頂きましたので」


「左様でございますか。謀のために御身を用いたこと、この身をもってお詫び致します」


 皇子は首を横に振った。


「死人でしかない私に、それ以上は過分です。ヤン・コンラート、あなたの忠節を嬉しく思います」


それがしに出来ることが謀略これにございますれば」


「共に、いしずえとなりましょう。新しき世のために」


 古いものはいらない。

 ヤンと御子は笑う。そして、備え付けのテーブルに向かい合って座った。

 新しき世を進む若人の背中を押すためだけに、命を投げ出そうとしている。頭の良いやり方ではないが、貴種に生まれたからには血を流さねばならない。

 帝国のあり方に間違いはなかった。

 誰しもが命をかける時を見誤らなかったことこそが、この形へと落ち着く力となったのだから。

 侍女が茶を運んできた。

 正装の侍女というものは、闘技場に似つかわしくない。


「茶をご用意致しました」


 湯気を立てる暖かな茶である。今が旬であるミナンの果実と青イチゴが添えられていた。どちらも酸い果実だ。御子とヤンは茶に口をつけて、甘さに驚いた。

 それから、果実に手を伸ばす。

 口に入れると驚くほど酸いというのに、茶があれば丁度良い。

 寒さの残る今の季節に好まれる組合わせだ。

 ヤンの好きな茶である。

 御子は小さく笑んで、席を立つ。


「ヤン・コンラート、長きに渡りよくぞ尽くしてくれました。最後の御奉公である。……尽力せよ」


 穏やかながら、力強い命令である。

 御子は返事を待たずに背を向けた。


「御意に」


 ヤン・コンラートはその背に平伏する。

 御子の気配が消えた後に、ようやく顔を上げて立ち上がった。

 茶を片付けに来た侍女と目が合う。


「そなたには、苦労をかけたの」


「そんなこと、ありません」


 侍女は笑んだ。

 ヤンに仕えて二十年近くが経つ。共に独り身であり、長く共にあり、つい先日になってようやくしとねを温めあった。


「この姿を伝えてくれ」


 ヤンは公家言葉を使わずに言った。

 侍女は何か言おうとして言葉にならず、ヤンに寄り添う。

 二人の影が一つになった。





 侍女はかつて、山犬女郎やまいぬじょろうであった。



 出会いは二十年前。

 ヤン・コンラートが教師という生業たつきを得る直前のことであった。

 そのころのヤンは最古参の公家としての家名を捨て、帝都を捨て流離さすらいに生きるかの決断を迫られていた。

 そこに至るまでには幾つかの理由がある。



 幼い日から貧していた。

 コンラート家の屋敷は広大で、公家造りの文化財とでも呼ぶべきものであった。しかし、見てくれは立派でも、中身となれば困窮の一言に尽きる。

 妹と共に食べるための野草を摘みに行くのが日課だというのだから、それは推して知るべし。

 世間の者には押し花やら風流作法の修行だなどと嘯いていたが、押し花は売り物、野草は朝餉夕餉に、着物は自ら繕うといった有様である。

 妹の手を引いて、野原や川べりで草花を摘むのは楽しかった。しかし、帝国貴族の子供に笑われ、平民からは気安く見られるというのはあまりにも、それらは冬の嵐のように冷たい。

 気位きぐらいなど腹の足しにもならぬと知りながら、公家言葉を使った。

 奇異の目で見られてもいい。

 古い書物を読み漁り、古い言い回しを覚えていく。それこそ、帝国成立以前の貴族のように振る舞うことで、自己の中でのみ完結する精神的勝利法を得た。

 自己愛とは裏腹に、生活は苦しい。

 皮肉なことに、歪んだ自己愛を育てた書物への親しみは、写本と現代語への古典翻訳という新たな仕事に繋がった。

 幼いながら天才であると周囲から賞賛されても、暮らしは楽にならない。金があると見られれば、野草詰みの行き帰りに貴族の子弟らに絡まれるようになった。

 泣く妹。

 踏みにじられる草花。

 小突かれる程度である。妹も太ももを触られる程度である。

 ただ、惨めな気持ちになる程度である。


 惨めさは憎悪の種。

 憎悪は椿油に似ている。

 積もりに積もった惨めさの一つ一つは小さな種だ。惨めさの種を挽き潰せば、とろりと油のように憎悪が染み出す。


 強くなりたいと、古典文学に登場する英雄のように、強くなりたいと願った。

 ヤン少年が帝都一刀流に出会ったのは、そんな折のことである。

 師となったのは、長くヤン家に仕える老いた中間ちゅうげんであった。

 中間とは、騎士や主の雑事から身の回りの世話までをやる家付きの兵士のようなものだ。

 公家の中間をやれるだけの作法と資格は身に付けていたが、帯剣を許されているだけで扱えないものと思っていた。

 痛めつけられて屋敷に帰り着き、中間の持つ剣を手に復讐へ赴かんとしたところを、止められて剣を取り上げられた。


「ボン、素人が振り回しても、お手てェ切ってまうだけやで。剣はなあ、使い方ァ知らんかったら、爺の杖以下や」


 老いた中間から剣を奪うことすらできず、ヤン少年は咆哮した。

 精神的な勝利、なにするものぞ。

 この惨めさと憎しみは、敵の血を浴びねば埋まらぬではないか。

 金無し、権無し、誇り無し。

 何も無く、あるのは公家という意味すら失った伝統だけ。


「ひひ、自信持って生きるいうんは、力がいりますなあ。そらあ、相手ぇ痛めつけてナンボですわ。やるやらんはボンの勝手。棒切れの使い方、ご指南しまひょ」


 剣をどうやって握れば良いか。剣を持ってどう歩けばよいか。人の急所はどこか。不意打ちはどのようにすべきか。

 中間はヤン少年に悪魔的とも言える術を叩き込んだ。


 天稟がある。

 憎悪がある。

 守るべきものがある。

 強くなる条件は揃っていた。


 年上の騎士見習いを木剣で打ち負かし、ごろつきを黙らせられる程度には強くなった。

 棒で人を叩くたび、惨めさの種が割れる。

 叩けば叩くほどに、油じみた憎悪が影に染みこむ。


生殺なまごろしはぁ、あかんよ。いつかボンを背中から刺しに来る鬼を造りまっせ。やるんやったら、不具にするくらいやりましょ。勝ち負けいうんは、はっきりせなあきませんからねェ」


 もうやめて、と妹は言う。

 人を打ち据えねば、そうでもせねば惨めと貧しさからは逃れられぬ。



 伝統というものにどれほどの価値があろうか。

 古いものは義理事に欠かせない。とはいえ、公家が担ぎだされるのは年に数えるばかり。

 口をのりするなどと言うが、公家のほとんどは糊があれば薄めて粥にするほどの貧しさだ。

 権勢を意のままに、公家にあらずば人にあらずとまでうそぶいたのは遠い昔。


 十三になると、ヤン少年は公家の若者や貧乏騎士の子弟を集めた愚連隊の頭に収まっていた。

 強ければ人は集まる。

 取り巻きの多くはヤンを都合の良い番犬としか見ていない。

 それでもよかった。

 小銭であっても金は金。子供たちからのものでも、それなりに集まればまともなものを食える。


「ボン、その道ぃ行きはるんやったら、妹様のことは忘れなはれや。コンラート様には世話になっとるからね。わしがおるから、立派なゴンたくれになりぃ」


 中間はヒヒと笑う。

 この老爺は何者であったのか、後年になっても正体は知れなかった。罪過に満ちた過去のある男であったものと思われる。


 ヤン少年に転機が訪れたのは、貴族の子弟との喧嘩に熊のような大男が現れたことである。

 当時のヤン少年よりも、頭二つは大きい男。いや、少年であった。


「おう、帝都の悪童公家とは貴様のことか」


 地に響く大声である。

 貴族の子弟らしき格好はしているが、農民兵が持つような大きな木盾を背負っていた。金のかかった衣服からするに、貴族の御曹司であろう。しかし、どうして木盾などを背負うのか。


 ヤン少年は木剣を抜いた。

 言葉など不用。どのみち、やることなど一つ。ただ打ち据えるのみ。一方的に力を振るうことで勝敗を分からせるのだ。


「公家なぞ、うらなり青びょうたんと思っていたが、飢狼のごとき様であるな。よかろう、来い。故あって今は盾しか持てぬが、存分に相手をしてくれるわい」


 あれはどちらの勝ちだったのか。

 真剣であればヤン少年は大男を幾度も殺していたはずだ。しかし、木剣であるからには、痛めつけたという程度でしかない。

 真剣であったとしても、腕も足も太い男の骨まで断てたかは疑問が残る。

 少年らしさの残るというのに巌のごとき顔付きの男。奇妙な表現だが、そんな顔の少年は木剣で打ち据えられながらじりじりとにじり寄り、最後には盾でヤン少年を叩き伏せた。

 互いにこれ以上は死ぬのではないかという危惧を感じながら、全力で叩きあうこと数度。互いに意地を張ったままで倒れ伏す。

 引き分けとも言えたし、ヤン少年の負けとも言える。

 少年愚連隊は、どちらも引き分けの空気を感じ取ってその場は睨み合いながら、互いに退くことになった。


 屋敷に戻れば、師である中間の老爺はニヤニヤと笑っていた。


「ひひひ、近頃見ンようになった騎士とやり合うたね。ボンの負けや。あれは、首とるまで死なン手合いですわ。やる前から勝負はついとったねえ」


 なぜ、そんなことが言えるのか。


「そらあ、目的がちゃいますわ。ボンは八つ当たりで、あれは騎士や。マトを定めたら、取るまで死なン。そういうンが騎士いうんですわ。辺境いうとこにはまだ居ますんやで、そんな男が」


 大男のことを思い出す。敵にはいつもしてきたことだ。自らの内に潜む黒い炎に、憎悪の油を注ぐ。

 不思議なことに、内臓を燃やすほどの悪意は生じなかった。


 それからしばらくして、大男が屋敷にやって来た。


「おう、この前ぶりであるな。俺はヴィクトール・サリヴァン。婚姻が済めばベルンハルトになる」


 大盾を背負うヴィクトールには、晴れやかな笑みがある。


「ヤン・コンラートでおじゃる」


「ほう、それが公家言葉か。叩きあったよしみもあってな、頼みがある。俺に宮廷の礼儀作法とやらを教えてくれんか」


 唐突な頼みごとであったが、ヤンはいくらかの金子(きんす)と引き換えに承諾した。

 貴族相手の家庭教師という意味であれば、かなり安い金額である。

 どうして敵であるヴィクトールの頼みを聞いてしまったのか、予想外のことに面食らったが故か。

 気心が知れる、というものであったのかも知れない。

 ヴィクトールと過ごす内に様々なことがあった。

 時に、否応なく悪童たちによる権力闘争に巻き込まれた。また、そこに付け込む渡世人と斬った張ったの争いもあった。

 少年から青年になるころには、友となっていた。

 ヴィクトールがサリヴァン侯爵家本家へ戻る旅路に付き添ったのは、少年時代の終わりのことだ。

 旅路の付き添いで帝都を離れるついでに、ヤン・コンラートという名前を捨て、根無し草として生きようと半ば決めていたのである。


「サリヴァン侯爵領にはセザリアの港から海路で行く。セザリアからなら、諸国連合へも抜けられるぞ」


 ヴィクトールは公家を捨てることに反対しなかった。

 賛成もしなかったが、好きに決めろと言ってくれた。

 この時、船が遅れたのは運命の悪戯か。それとも正しき道へ引き返せと言う神の意志か。そうとしか思えないほどの偶然であった。

 文が来た。

 遠い海は荒れているというが、セザリアの港は穏やかな春の日差しであったことを覚えている。

 妹の婚儀が決まったという知らせであった。

 帝都で幅を利かせる商人の後添いである。正室で迎えるとあるが、体のいい愛人である。

 ヤン・コンラートは激怒した。

 公家の姫を平民に売り飛ばすという悪習は、公家が権勢を失った日から始まった。売られた姫は「お捨て様」と呼ばれて憐れまれる。

 姫と引き換えに、商家から多額の援助を得て家を存続させる公家に残された最後の手段であった。


「家名にしがみつくがために、娘を売り払うか。許せぬ」


 怒髪が天を突きかねない様子で、ヤン・コンラートは旅支度を整える。

 父と商人を斬るつもりであった。


「落ち着けい」


 ヴィクトールが止めるのを無視しようとして、腹に一撃食らった。

 拳がめり込み、目の前が歪む。

 胃の内容物をまき散らしても、膝はつかなかった。


「止めるな、ヴィクトール」


「お前の妹御がどう思っているか、まずはそれからではないか。俺は難しいことは分からんが、勢いで人を斬ったら後悔することは分かるぞ」


 船には乗らなかった。

 この時、全てを捨てていれば何もかもが違っていたかもしれない。


 帝都に戻り、妹の意思を知る。

 公家の姫でいたことで、良き思い出など無い。そして、相手の男は年上だが、自らを好いてくれる優しい男だという。

 コンラート家への援助を惜しまないという商人とも話した。

 写本のために出入りしていた商家で一目惚れしたという話には、それなりの説得力があった。それが真実か否かは分からない。


「ヒヒっ、ボンは心配せンでええよ。ちゃんとシロやいうんは調べとるからね。あとは、ボンだけや。どっちに行くか、決めたらええ」


 師である中間の老爺は笑う。

 猿のような顔で笑う。

 斬る理由が無くなったというのに、手が熱い。

 ヴィクトールが、その手を掴んだ。


「ヤンよ、お前のことは分かっておる。妹御を祝福するが人の道であろう」


 ヴィクトールは船に乗らなかった。

 大きな負い目になるというのに、ヤンが帝都へ戻るのに付き合ったのだ。


「……、分かっていたのか」


「おう。お前が耐えておったこともな」


「なぜ、俺は兄になど生まれた」


「知るか。神にでも聞け」


 妹の体が育つごとに、その肢体に獣欲を覚えた。

 困窮しているが故に、妹と力を合わせて生きたのが悪かったのか。いや、それは違う。ただ、因業があった。

 師と友は知っていて、見守っていた。

 魂に染み付いた宿業と向き合うことは、内側から身を焼く炎に耐えることにも似ている。その一線を踏み越えるなど、そう難しいことでもないからだ。

 人でありたいのなら、踏み越えてはいけない。


「兄様、わたくしは幸せですよ」


 花嫁泥棒などという馬鹿げたことを実行に移すことはなかった。

 盛大な結婚式で、ヤン・コンラートは公家の持つ歴史と文化をこれでもかと見せつけた。

 古い様式はただ古臭いものではない。失われた華やかさと儚さ、そして、身内を祝福する優しさがあり、それらは後に語り継がれるほどに見事なものと帝都民に見せつけたのである。

 実際にその後、公家様式の結婚式をしたいという相談が相次いだ。

 流行りを作ったコンラート家には多額の援助が舞い込んだ。

 ヤン・コンラートは家督を継ぐと決めたが、その前にヴィクトールの里帰りに付き合った。

 サリヴァン侯爵として家督を引き継ぐ兄君への詫びを含めた行脚である。


 若き日の冒険であったのは確かだ。

 海路では海賊に拉致され、孤島の砦を破壊して脱出した。

 ドーレン領からトリアナンへ続く打ち捨てられた街道では、エルフの魔術師に助力して世の外より来たという魔獣と戦った。

 他にも、様々なことがあった。

 名声は得られないが、様々な出会いと別れを繰り返した旅である。

 若き日の司祭長リュリュとの知己も、この旅で得た。


 長きに渡り公私を支えることとなる侍女とヤン・コンラートの出会いは、山賊の砦のことであった。


 異国から落ち延びた敗残兵が山賊と化して、旅人や村人から略奪を行

っていた。

 サリヴァン領から帝都に戻るための路銀を稼ぐために、山賊討伐に加わった。

 遍歴の老騎士が寒村からの依頼で、七人の仲間を集って三十人からなる騎兵崩れの山賊を討ち取ろうとしていた。

 大した金にはならないというのに、どうしてかそんなものに参加した。

 今になって振り返れば、年端もいかない少女を山犬女郎として使っていると小耳に挟んだのが理由だろう。

 妹と同じくらいの年嵩の娘が、檻から客の袖を引こうとしているのを見たからだ。

 七人の騎士たちの内、四人が死んだ。


 手に入れたのは少ない報酬と、夜鷹の子だという行き場のない山犬女郎が一匹。


 獣のように薄汚れた少女であった。


 山賊の砦は燃え落ちて、村にも行けず居場所もない。

 夜鷹の子である女郎など放っておいてもよかったが、ヤンは従者にすると言って連れ帰った。


 山犬女郎とは、山賊の経営する移動式の娼婦である。

 女郎たちは檻付きの馬車で移動しながら、宿場や街道で客を取る。

 村娘や浮浪児のような垢抜けない少女に赤い襦袢を着せて、女郎として整えればできあがり。なに、味見と躾は雇い主が済ませている。涙なんて辛気臭いもんは残っちゃいない。


 山賊が命のやり取りの無い生業を持ちたがるが故に生まれた悪徳だ。


 山犬の子は、夜鷹の娘で父親知らずの生まれついての娼婦だと啖呵を切った。

 山間の方言と破落戸ごろつき言葉の混じる下品な物言いである。


「腹を空かせた野良犬がよう言うものでおじゃ。ほれ、犬であるというなら尻尾を振れや」


 都人みやこびとであることを殊更に強調した公家言葉でヤンは山犬の少女をからかう。

 普段から公家言葉で雅な物言いを心掛けていたが、拍車が掛かった。

 言葉遣いの見本になるためである。

 帝都に連れ帰り、なんとか生計たつきを見つけてやるためにも、それなりの品格を覚えさせるためだ。

 この時、ヤン・コンラートは十七歳であった。


 帝都に戻り家督を継ぐにあたり、父に付き従うこと四年。

 公家の役目である宮廷監視のいろはを叩き込まれる。

 実家にいれば妹への負い目と自責が蘇る。そんな中、忙しい日々と侍女見習いとして屋敷に住まわせた山犬の躾は息抜きになった。

 お転婆な妹がいたら、こういうものかなと思う。

 様々なことがあった。

 山犬女郎であった少女は、ただの少女になり、それから女へと成長した。

 生まれと才はあてにならぬもの。

 少女は計数に才があり、算術で大いに家計を助けた。


「河原の石を数えて遊んでたから、数えるのは得意」


 橋の下で暮らしていた折、存命であった母が客を取っている時は河原に佇んでいた。

 大きな石を数えたら、対岸の大きな石を数える。こちらの石は女、あちらの石は男。夫婦めおとが幾つできるか数えて遊ぶ。

 それに飽きたら、それより小さな石を捜す。

 あの石はお兄ちゃんで、あの石は妹。

 河原は賑やかな家族で溢れている。


 小さな事件もあれば、大きな事件もあった。

 山犬女郎の素性を知って、脅しに来た破落戸ごろつきがいた。

 無実の罪を着せられた夜鷹の潔白を証明した。

 巾着切りの一味と共に、悪徳貴族の鼻を明かしたこともある。

 楽しいことも辛いことも、様々にあった。

 知識と経験と学を得て、女はついに侍女となった。

 ヤン・コンラートもまた、女と共に様々なものを得て公家となった。

 義兄弟ほどの絆を育んだヴィクトールは、婚姻と共にベルンハルト伯爵家の養子となり姓が変わった。そして、瞬く間に近衛大将となる。


 時を同じくして、剣の師であった中間の老爺は亡くなった。

 いつもと同じような日を過ごし、同じように眠り、目覚めなかった。

 素性も年齢すらも分からぬが、コンラート家の縁者として葬儀を執り行うこととなった。

 驚くほどに誰も訪れない葬儀である。


「剣なぞに生きたところで、欲しいものは手に入らンね。よう出来とるわ、世の中いうンは。ボンも、今が正解や。もっとええこともあるからな、せやからそろそろお嬢ちゃんの面倒見たりよ」


 たった一つだけの、剣以外で出た年長者の言葉だ。

 素性も何も分からない師は土に還り、コンラート家の者が覚えているだけとなった。

 最後の言葉などという荘厳なものは、やはり届かない。


 ヤンが婚期を逃したのは様々な事情が重なっている。

 権勢に加担できぬという公家独特の政治的な事情もあれば、公家としての家格が高すぎて釣り合う娘が見当たらないという切実な事情もあった。

 もう一つ、ヤン・コンラートの傍らには常に侍女がいた。

 互いに触れ合いたいという気持ちはあった。

 出会った日の、自らを知る前の二人であれば、そうできただろう。

 自らの性癖を恥ずべき宿痾(しゅくあ)として戒めるヤンにとって、侍女は妹のようなものとして手を出して良い相手ではない。

 侍女は大恩あるヤンに触れたくとも、高貴な公家に山犬という穢れを抱かせることができない。

 精神的な貞操帯とでも呼ぶべきものが、二人にはあった。

 少年と少女であったのなら、踏み越えることのできた枷だ。

 世界の広さと信じられる明日のあったあの日なら、きっとその枷も踏み越えられた。

 時はすでに遅く、公家と女である二人は愛を律して踏み越えない。家族愛とも愛憎ともつかぬ情念を抱えたまま生きることを選んだ。

 そのまま時は流れて、ヤン・コンラートは貴族の間を実権の無い歴史と権威で取り持つという公家の役目を果たし続けた。

 新たな世代の若い公家を後任とし、学院で教師の職を得る。

 実際のところ、三人の皇子が同時に学院にいるという状況のための抑えである。

 ラファリア皇子が腑抜けと化してから、様々なものが変わった。


 そのような時であっても、皇子暗殺を企てた折には侍女の手を握ることしかできなかった。これで最後になるかもしれぬと、感謝しているとだけ、それしか言葉にできなかった。

 どうしても言えぬ言葉というものは、命をかけたとしても言えないものだ。

 気取っていたのだろう。

 子供のいない大人というのは、ただ大きくなった子供にすぎない。

 二人は、そんな大人だ。



 齊天后マフに赦されたのは、新しき帝国に血を残さんとする貴族的な考え方から恭順の意を示したからだ。

 ヴィクトール・ベルンハルト伯は、サリヴァンの血脈を遺すために。

 ヤン・コンラートは、力を第一とする新しき帝国に魅せられた。

 暗い情念と共にあったからこそ、齊天后マフやラファリア皇帝の掲げる負け犬の太陽に共感できる。

 公家であることに誇りをもっているように見せかけることに、疲れていた。それでも、忠義は帝国にある。だが、壊したいという思いも強い。


 公家という矛盾と共にあり続けて屈折した愛国心と、特殊な性癖からなる宿痾の苦しみからの脱却の念が捻りだしたのは、古きと新しきの融合であった。


 後世の歴史書で奇跡的な転換と表現されるヤン・コンラートの描いた絵図は、彼でなければ作れない特殊なものである。


 全てを焼き尽くして作り直す旧来のやり方でもなければ、アメントリルの為した個人の思想を国の中枢から末端に至るまでに行き渡らせるものでもない。

 強引に混ぜ合わせるという狂気の思想である。

 水と油を混ぜるに等しいというのに、それは溶け合っている。


 齊天后マフとラファリア皇帝陛下との密約のため、先帝陛下を仲介とするなど、まともな神経を持った者にやれることではない。

 未来の絵図は、清い心や未来への希望で形作られたものではない。

 散々に痛めつけられ、苦しみを背負わされ、生き方すらままならなくした帝国の歴史そのものへの復讐であり、ヤン・コンラートの愛した者たちを生かすために絞り出した策略である。


 ヤンはこの時になって、ようやく侍女を好いていることに気づいた。

 行き場のない山犬女郎を助けたのは、自分と同じ憎しみを抱えた瞳に惹かれたからだ。


 その夜、侍女は念入りに身を清め、髪をいて、待っていた。

 出会ったあの日に着ていたような赤い襦袢じゅばんは持っていない。できるだけ新しくて、綺麗な襦袢を選んで寝台で待っている。

 寝室のドアを開く音がいやに大きく響く。建付けの悪さから、大きな音を立てるドアとも二十年の付き合いだ。

 髪を下ろし、公家装束ではない男の姿は、手を差し伸べてくれたあの日の面影がある。

 ずっと、待っていた。

 互いに待ち続けていた。


「丈夫な子を産んで、幸せにしてやってくれよ」


「ええ、約束する」


 公家言葉も侍女の礼法も無い。

 ただ人として、男と女の姿があった。







 闘技場には大きな音があった。

 割れんばかりの歓声の中で、互いの陣営から一人目の戦士が現れる。

 純白の公家装束に身を包むヤン・コンラートは、帝都の民にはどう見えただろうか。

 公家剣術の遣い手であることが、『大声』の魔法で入場と共に伝えられている。

 ヤンの耳には、そのどれもが聞こえなかった。

 割れんばかりの音の中で、確かにその足音だけを聞く。


 薄汚れた傭兵のような出立。

 目立つのは腰に巻いた虎の毛皮と左目を隠す眼帯。黄と黒の模様は虎を打ち殺した証として、眼帯は左目を潰された敗北の証である。


『人食い姫、リリー・ミール・サリヴァンッ、第一戦から登場だッッ』


 試合運びを『大声』の魔法でがなり立てる芸人の声が響き渡ると同時に、世界に音が戻る。

 いまのは、死神の足音か。


「ヤン・コンラート、参る」


 口上に雅はいらない。

 剣を抜き放ちリリーを見据えれば、彼女も剣を抜いた。

 学院で出会ったあの日から、恐るべき遣い手であることは知っていた。しかし、これほどまでに、これほどまでに成っていたとは。

 ヤンには相対するリリーの強さが分からない。

 歴戦の強者のようでもあり、芝居の小道具として剣を持っただけの役者のようでもある。


「リリー・ミール・サリヴァンである」


 リリーの名乗りは、若き日のヴィクトールに似ていた。

 ヤンは地摺りの体勢から、剣を跳ね上げた。

 ゆったりとした歩法から、突如として疾風の如き速さで踏み込み、剣を振り上げる。

 ヤンが師より伝授されたのは、初手で殺すための外道剣である。


 次の瞬間、膝に鋭い痛みが走る。そして、景色が流れた。

 たくさんの記憶が走り抜けて、消える。


 ヤンの一撃を前に出てかわしたリリーは、互いの交差する一瞬の間に膝を蹴り砕いた。そして、前に倒れようとするヤンの首に剣を振り下ろす。


 ころりと、ヤンの首が転がった。


 一瞬のことに静まり返る闘技場。

 リリーは落ちた首を拾って天に掲げた。

 春の麗らかな陽射しは、返り血に塗れた人食い姫と、目を見開くヤンの首級しるしを照らす。


 怒号の如き大歓声に包まれた。





 ああ、やはり、こうなってしまった。

 侍女は天に掲げられた男の首を見て、小さく口元に笑みを浮かべた。

 いつも正しいことしか言わないひとだった。


「うそをつきました」


 涙を浮かべた女は、懐から短刀を取り出す。


「あなたと出会った時、あの時にはもう、赤ちゃんはできなくなってたの。ごめんね、嘘をついてたの。だから、また叱って。それで、昔みたいに、許して」


 女は両手で握った短刀を、自らの胸に深く突き立てた。





 第一戦の勝者、リリー・ミール・サリヴァン。


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