旅の終わり

第48話 春

 雪解けはしても、風は冷たい。

 灰色の雲に覆われていた空に、機嫌を直した太陽が明るい姿を見せている。

 お祭り騒ぎのように皇帝陛下たちは帝都へ進む。

 ゆっくりと、着実に。



 大きな行列が帝都への街道を進んでいた。

 大量の兵糧を消費して進むのは、三万にもなる軍勢だ。

 騎馬の騎士たちの隣を徒歩の兵たちが随伴し、荷車には攻城兵器の部品が詰め込まれていた。

 帝都を攻め落とさんとする行軍である。

 びりりと張りつめた空気の中、先頭を進むのは姫であった。

 リリー・ミール・サリヴァン。

 人食い姫と侮蔑を込めて呼ばれていたのは過去のことである。今では、人喰いを自称する武人としての名声が広がっていた。

 セザリアの都での悪魔退治の噂が流布したことに端を発し、裏の世界に生きる幾多の殺し屋と賞金稼ぎを始末したとも噂されている。名のある騎士であった虎の将バルドルを木刀で打ち倒したことも、今では公然の秘密と成り果てていた。

 齊天后マフの台頭以来、その名は反抗の象徴として囁かれてきた。いつしか、秘密めいた邪教の本尊のように、人喰いの名に相応しい荒ぶる怪力乱神として、リリーは旗印に相応しいカリスマを持ち得た。

 大鹿ミラールに跨り、進む姿に視線が突き刺さる。


 春が来た。


 刺客の襲撃と誘惑は沢山あった。

 功を焦った若い騎士との小競り合いもあれば、隣国の細作の首を落としたこともあった。柔らかい陽射しの中を、皇帝陛下率いる行列は進む。

 凱旋となるか死地となるかは分からない。

 大鹿ミラールに乗り、リリーは先頭を行く。

 帝都の城門にたどり着くまでは、まるでお祭りのようだった。

 旅商人のキャラバンが後に続き、人数が増える。街道の宿場では皇帝陛下と人食い姫は歓待を受け、見物人や密偵が群がった。

 武芸者だという男が挑んだ際に、リリーは木剣で相手をして打ち負かした。

 強くなったとは思わない。

 昔はもっと強かった。

 熊のような大男の頭蓋を割ることに恐怖など感じなかったというのに、今は怖い。だから、武芸者を打ち倒した際に命は奪わなかった。

 弟子にしてくれと懇願されたが、断る。

 何も教えられることなどない。

 剣とは、ただの刃物だ。素早く動いて相手の隙間に刺しこむか、力任せに斬ってもいい。剣の握り方と振り方さえ知っていれば、あとはただ刺すか斬るか叩くかするだけのこと。


「なまじ、剣の技など知っていると、戦おうとする。それは、多分間違いだよ」


 達人と呼ばれる人と匹夫ひっぷにある差など微々たるものだ。ごく僅かなことに過ぎない。

 重要なのは、剣を、刃物を、武器を、殺意をもって握ること。そして、反撃させずに得物を振りぬくだけ。

 そうすれば、どちらかが死ぬ。

 大鹿ミラールに揺られていると、帝都の城門が見えてきた。

 一年ほどの旅は、まるで十年に匹敵するように思えたのに、数日に過ぎないようにも感じられた。

 ミラールが、るぶうと啼いた。

 漂ってくる街の匂いが不快なのだろう。


「ミラール、全て終わったら森に帰れよ。わたしの旅も、もう終わる」


 大鹿もまた友であった。

 遺伝子が統合されることのない種族であっても、友となれた。

 アメントリルと妖精のように、絆が生まれることもある。

 春の陽射しに照らされた歴史ある帝都の城門は、厳かであった。

 リリーは帝国貴族であることを捨てられない。

 齊天后マフのやる新しい時代に反する古い貴種であり続ける。




 帝国臣民は皇帝陛下と人食い姫の凱旋を歓声で迎えた。

 闘技場の戦いは広く知られている。

 そこには、国を想う声もあれば、野蛮な戦いの狂熱もあった。歓声だけではなく、怨嗟の声もある。

 帝国の空を飛び廻る人面鳥たちがけたたましく啼き声をあげた。


「帰ってきたか」


 帝都に住み着いた亜人達からは、棘のある視線をぶつけられた。

 湿地帯や沼沢地に押し込めて牛馬のごとく働かされた鱗の民は、それを敷いてきた旧来の貴族に怒りを抱いている。

 支配者の貌で彼らを薄ら笑いと共に見やる。

 死神がそうしていたように、人喰い姫に相応しく演じれば、周囲からは畏怖の視線。

 くだらんな。

 肉を持つ身であれば、少しのことで死ぬ。

 人間の身体というものは、そう出来ている。何を恐れるか。強さなど少しの差でしかないというのに。

 無性に、暴れたくなった。

 リリーは鼻から息を抜いて、剣の柄に手をかける。

 抜きはしない。

 ただ、それをやってみたいと思うだけだ。

 きっと、つまらないだろう。


「帝都こそ、我が故郷。リリー、我らは帰ってきたぞ」


 素っ頓狂なラファリア皇帝陛下の大声が響いた。


「陛下、傾奇かぶきなさるな」


 不敬な言葉が口を突いて出た。


「我が凱旋に華を添えるのがそなたの役目であろう」


 リリーの口元が歪な弧を描く。


「陛下の剣でありますれば、添える華は血の滴りとなりましょう」


 この寸劇に付き合うのも悪くない。

 どのみち、見世物になるのだから。

 剣一本で名を遺した者たちはみな、このような猿芝居で名声を得た。


「かははは、リリーよ。我が美しき剣のリリーよ、齊天后は骨の貴婦人。血は出ぬぞ」


「骨なれば、鉄より容易く斬れましょう」


 無意味な芝居だ。

 勝敗を左右しない。民衆に向けた芝居である。

 ラファリアは毒蛇のごとき強き皇帝として、悪名を広げねばならない。

 どちらが勝ったとしても、恐るべき強さを持つ蛇蝎の争いであったとせねばならない。そうするだけで、諸外国の干渉はある程度抑えられる。

 国と人の関係は似ている。

 舐められたら終わりだ。

 帝都の目抜き通りでの芝居は、どう見えているだろうか。

 滑稽であろう。


「ほほほ、勇ましきことでございますな」


 不意に声が響いた。

 貴族の学ぶ声の技術である。雑踏の中で高く響いているのに、大声とは聞こえない。役者であれば一流のさらに上という声。

 公家装束の男がいた。


「公家の正三位であったかな、コンラートよ」


 皇帝陛下は公家の姓を呼ぶ。


「旧王朝の官位でございますれば、もはや意味をなさぬものにございます」


 かつて、リリーと共に齊天后マフを倒そうとした公家の重鎮にして、学院の教師。そして、剣の達人でもあるヤン・コンラートは不敬にも皇帝に頭を垂れない。どころか、その目を見て物を言う。


「ふむ、古きは伝統とも言うがな。齊天后に尻尾を振る公家が何用か」


「皇帝陛下の益荒男たちのため、宿を用意しました。その案内にございます」


 不敬である。

 芝居がかった所作である。

 帝国に残る伝統を背負う男は、齊天后に与したか。

 国を想い、故郷を憂うのならば、当然のことだ。未来無き帝国に、齊天后は新たな道を示した。


「ふっ、この俺を裏切った畜生めが」


 ラファリアは憎々しげに言うが、心は裏腹であった。


「ほほほ、第三皇子に相応しき豪奢な宿にございますぞ。一目見やれば、ご機嫌も治りましょう」


 ヤン・コンラートにも、思慮があった。

 齊天后の御世みよに不要な公家であれば、決着の後にコンラート家には反乱分子が集うだろう。古いものとして、それらと心中すればよい。そして、皇帝陛下の世であっても同じこと。

 嫌味の応酬とも言える問答の中には、確かな信頼がある。

 リリーは、腹の奥から息を絞り出した。


「こんなもの、苦しいだけだというのに」


 誰にも届かない小さな声で、言う。

 貴種の義務に縛られて、殉じることが幸せなものか。

 命をかけて、何が残る。何も残らない。いやと言うほどに、巡礼の旅はそれの繰り返しだった。

 芝居は続き、演じながら帝都を練り歩く。





 あてがわれた宿は、サリヴァン家の帝都屋敷である。

 かつての使用人たちはもういない。

 ヤン・コンラートの手配した使用人たちが最低限の世話をしてくれるが、家に戻ったという気持ちは湧かなかった。

 人が住まなくなっただけで、そこは別の屋敷になったように思える。

 たくさんの大切な何かが、抜け落ちていた。

 リリーは、庭園を歩いた。

 夕暮れの庭園には、かつて修行に使った木材や壺が廃材と一まとめにされていた。

 割れた水瓶を見下ろす。

 しゃがんで、撫でた。

 つるりとした表面は冷たい陶器の質感があるだけで、感慨らしきものは何も感じなかった。


「ここに、帰ってこれたか」


 庭園のテラスでシャルロッテと共に茶を飲んだことがある。

 手土産のガレットにつられて叔父上がやって来て、ちらりちらりと見てくるものだから、シャルロッテが一口どうぞと勧める。

 渋々といった様子で叔父上が口に運べば、巌のごとき顔に薄い笑みが浮かぶ。

 男とは面倒なものだ。

 そんな懐かしい記憶も今となっては寒々しくある。


「麻呂が少し見ない内に、強うなったの」


 公家言葉に振り向くと、ヤン・コンラートがいる。

 気配には気づいていたし、殺気が放たれているのも分かっていた。


「斬る気は無いのでしょう」


「見透かしてきよるとはのう。成長したものでおじゃる」


 コンラートは公家言葉で平静さを取り繕うが、それすらも見破られているかもしれぬと内心では戦々恐々としていた。

 これほどまでに強くなったか。


「先生は、どちらにつきますか?」


 前置きも何も無い。リリーは何でもないことのように問う。


「始祖皇帝は旧王朝より帝位を移譲され、この国を興した。麻呂ら公家というものは、それを行うにあたり橋渡しをしたにすぎん。国賊の誹(そし)りは受けねばならぬ」


「それでは、分かりません」


「麻呂は齊天后殿の麾下きかにあり、どちらが勝っても乱れぬように取り繕うと言っておる。その話をするために、今日は案内役を買って出たのじゃ」


「……それは、わたしには重要ではありません」


 リリーの片眼が危険な光を帯びた。

 ヤンも無意識に手が剣に伸びる。


「先生、鍛えられましたな」


「分かるか」


「分かります」


 舞踏の教師で生計たつきを得ていたころとは違う。

 妖精とシャザムにより仕組まれた敗北から鍛錬に励み、かつての肉体を取り戻した。


「どっちつかずの蝙蝠というのも存外に難しいものでの。計略謀略の上奏には、かけねばならぬものもある」


「先生も、でるのですね」


「うむ、齊天后率いる四人の勇士の一人でおじゃる」


 公家剣術の達人であるヤン・コンラートは薄く笑った。それは、誇らしいというものでもなければ冷笑でもない。

 ただ、少しだけ困ったというような、そんな笑みだ。


「叔父上もその中にいらっしゃるのでしょう」


「……うむ」


 シャルロッテと再会した折に、叔父上は近衛として参った。一度は反旗を翻した二人である。リリーの斬りにくい相手を駒とするのは、理に叶った策だ。


「齊天后殿にしては、まともなやり方ですね」


「リリーよ、齊天后殿が望んだのではない。麻呂らが望み、戦い勝ち得た役目でおじゃる」


 今度こそ、ヤン・コンラートは笑みを浮かべた。そこには、何にも恥じ入ることのない爽やかさがあった。


「先生、やりませんか」


 リリーから強烈な鬼気が放たれた。

 殺意は総身に満ち充ちて、口元には笑みがある。

 ヤンは後じさりながら、剣を抜いた。それは意識せずに戦場に放り込まれたことによる反射的な行動であった。


「今はまだ早いぞ、人食い姫」


 公家言葉も忘れてヤンは言う。リリーの突如とした豹変ぶりに、口の中が一瞬で乾いた。


「見世物として死なすなど惜しゅうなりました。それに、わたしが流されて始めたいくさであれば……、全てと戦うことこそ道理かと」


 リリーはゆっくりと剣を抜いた。

 鞘も、剣の拵えにも飾りは無い。魔国におわす魔王が黄金騎士に下賜した剣である。

 夕暮れの中、白刃は凶暴な光を宿す。


「リリー・ミール・サリヴァン、この命、いましばらく預けておけぬか」


 震える声で言ったヤン・コンラートは、構えを変えた。

 ゆっくりと、剣を鞘に納めていく。

 命の取り合いの場でそれは、あまりの恐怖があろう。

 額から滴る冷や汗がそれを物語る。


「先生も、お国のために戦われるか」


 リリーは苦虫を噛み潰したような顔で、剣を納めた。


「分かって、くれたか」


 ぎりりと奥歯を噛みしめるリリー。


「分かりたくなど、ない」


 分かるからこそ、これほどに苦しい。

 形の無いものを、誰にも分からぬ未来を、不確かなもののためにどうして命を賭けねばならぬのか。

 人だけではない。魔人も、聖女も、妖精までもがそうした。


「先生、教えて頂きたい。貴種の誇りのために、我が友は死んだ。それを止めなかったことは間違いだと今になって分かった。それに、友達とも、敵になった。どうして、どうして、こんなに不確かなもののためにっ」


 戦い続けて今がある。

 皆、他の誰にも分からない理由で戦った。

 巡礼の旅は鬼哭啾啾きこくしゅうしゅうの悲哀、怨嗟、呪詛に満ちていた。


「人はそのようにしか生きられん。不確かなものに追い縋り命をかけることだけが、人と獣の違いでおじゃる」


 じっと、見つめ合う。

 爛々と殺気に充ちるリリーの片目はまるで鉄のようである。そこに感情を読み取れない。

 リリーは返答せず、背を向けて歩き出す。

 ヤン・コンラートはそれを見ていることしかできなかった。

 寂寞せきばくとした背には、娘らしさも戦士らしさも無い。あるのは無常だけだ。


「罪深き、ことか」


 公家として生きるヤン・コンラートという男は、悔恨と共に言葉を吐くことしかできなかった。





 ヤン・コンラートはラファリア皇帝陛下たちと長い時間をかけて話し込んだ。

 密談のさ中、あのラファリアが感情を剥き出しにして怒声と共に地団駄を踏むなど、誰が想像しようか。

 リリーもその場にいた。

 密談のていすら捨てた喧々諤々けんけんがくがくとした言い争いである。


「そのようなこと、あの怪物が許したとでも言うつもりかっ」


 皇帝陛下の怒声が響く。


「いえ。ですが、寵姫様のお言葉であれば、聞き入れましょう」


「謀略か。この俺をもってしても読めぬ謀略であるか」


 激昂する皇帝陛下に差し出されたのは、一通の書状である。封蝋にある花押を見て、皇帝陛下は呻いた。


「おのれ、ここで、でるかよ。父上、恨みまするぞ」


 先帝陛下の花押の示すところは一つ。

 この企みに嘘は無い。ヤン・コンラートが、公家の誇りを体現する男が、それを偽りに使うなどということは有り得ないからだ。


「俺は、父を」


 狂皇と呼ばれるのならば、弑することも厭わない。と、続けようとした。


「よせ、ラファリア」


 口を挟んだのはリリーである。

 口元には皮肉げな笑みが浮かんでいた。


「リリー、お前は……」


「生きて帰れるか分からんなど、いつものことだ」


 ラファリアは、リリーが自らを名で呼んだ意味に気付いた。


「お前は、俺のために死ぬのか」


「お前のためなどであってたまるかよ。自惚れるな」


 リリーは言って、部屋を出た。

 密談は終わりだ。

 男たちは何も言わない。






 寵姫シャルロッテは先帝陛下の薔薇を摘む。

 夕焼けに照らされた薔薇園に外界の寒さは無く、少し先にある春の麗らかさに満ちていた。

 傍らには皇孫であるディートリンデ姫。

 姉妹のように仲睦まじく花を摘む姿を見つめるのは、安楽椅子に腰かけて柔和な笑みを浮かべる先帝陛下である。

 魔術により年中暖かな薔薇園に、幼いディートリンデの楽しげな笑い声が響いていた。

 侍女が戯れる姫に近づいて、何事か囁く。

 ディートリンデはいやいやをしたけれど、侍女に手を引かれて薔薇園を後にする。

 寵姫シャルロッテが手を振れば、ディートリンデ姫も手を振った。

 静かになった薔薇園に、シャルロッテの足音が響く。


「先帝陛下、お話があるとか」


「挨拶もなしにとは、の。シャルロッテや、姫が板についたものよな」


「はい、慣れました。御子様もいらっしゃらないのですから、何か、大切なお話かと」


 先帝陛下の唯一愛した皇子。

 死人を黄泉帰らせる齊天后マフの奇跡により、現世に戻ったありえない皇子。

 彼のために、先帝陛下は皇位の簒奪という暴挙を許した。


「あれは、黒騎士と話をしたいと言ってな。ふふふ、それにしても、風変わりな女と思っておったが、傾国の姫君となるとはの」


「まさか、こんな手をしたお姫様がいるものですか」


 シャルロッテの手には細かな傷がある。

 洗濯も料理も自分でする町娘の手だ。


「だが、この朕にそのような口を利くようになった」


 支配者の目がシャルロッテを刺し貫く。

 皇帝という特別な椅子に座る者にだけできる目だ。

 シャルロッテは、穏やかな笑みで応えた。


「先帝陛下、戻りません。もう、戻れないし、そのようなことは致しません」


 許されない、とは言わない。

 巨大な帝国の頂点にいた老爺は、瞳を閉じてその言葉を受け止めた。


「そなただけは、市井しせいに戻してやりたかった」


「自分で、ここに来ました。マフ様を選んだわたしに、後戻りはありません」


 子供のころ、甘い焼き菓子と果物のどちらかを選ぶことがあった。

 あれは両親の教育だったのだろう。どちらかを選べば、片方は手に入らない。そして、なかったことにも。


「男児に生まれておるべきであったな」


「お転婆とよく言われました」


 先帝陛下は目を細めた。


「このような日は、マフがおらぬともあった。しかし、シャルロッテや、そなたがいるはずもなかった。この爺が不甲斐なきばかりに招いたことよ」


 皇子たちを担ぐ者を止めもせず、宮廷を分裂させたのは他ならぬ先帝である。

 真に愛した子に先立たれて以後、自らの種かも怪しい息子たちに毒蛇の争いをさせた。その勝者たる真の毒蛇に殺されるのであれば、それで良いと思っていた。


「我が不徳であった」


 先帝陛下に頭を垂れさせた悪女シャルロッテは、薄く笑った。


「いいえ、よかったんです。マフ様にも、リリーさんにも、ディートリンデ様にも、先帝陛下にも会えましたから」


 ただの町娘が出会えるはずもない天上人。だが、彼らもまた人である。


「シャルロッテや、姫として生きることは」


 なおも、老爺は優しい毒の言葉を続けようとしたが、それはシャルロッテにより止められた。


「いいえ、帝国必勝の策というのなら、そのお役目、謹んでお受け致します」


 先帝陛下はうつむき、歯を食いしばった。


「すまぬ」


「名誉なことです」


 シャルロッテには笑みがあった。彼女こそが、運命の女である。





 密談の翌日。

 昼日中、リリーが軽い修練で体を温めた後のことだ。

 殺風景な庭園のテラスに陣取って、アヤメと二人で茶を飲んでいる。

特に会話はなく、互いに干した果実をつまみながら紅い茶を飲むだけだ。

 松の葉で作る陣中茶に慣れると、どうにも街の茶が妙な味に感じる。


「……苦いな、これ」


 リリーはぽつりと漏らす。


「私は山羊の乳で割った茶が好きですよ」


 癖の強い味だった記憶がある。あれを飲んだのはどこの街道だっただろうか。

 干し葡萄をつまめば、酸味と強い甘味に舌が痺れた。

 幼いころは、砂糖菓子が好きだった。師に手渡すと、理由をつけて仕方なく食べるのだと取って付けたように言って、美味そうに食べていた。


「なあ砂糖菓子、あったかな」


「ええ、ありましたわね。せっかくですし、食べますか」


 アヤメがベルを鳴らすと、女中がやってくる。

 砂糖菓子を持ってくるように頼む時に、二人とも体に力が入っていた。


「警戒しすぎと思うか?」


 腰の短剣はいつでも抜ける。そして、アヤメもまた驚天動地の外法を繰り出せる。椅子に座っていてもやれる自信はあるが、一流どころの暗殺者が怖いのも事実だ。


「染み付いた癖のようなもの。なかなか抜けるものではありませんわ。リリー、嫌味じゃないから変な風にとらないでね」


「はは、分かってるよ」


 風はまだ冷たい。

 湯気をたてる茶で腹を温める。

 リリーが口を開いた。


「なあ、学院にいたころは、こんなに穏やかじゃなかったな」


「……嫌味?」


「違うよ。わたしは、なんだか背中から明日が迫っているような、窮屈な気持ちでいたよ。将来というのが、怖い訳じゃなかったが不安でたまらなかった」


 淑女が務まらないとか、そういった不安ではない。ただ、時間が迫っているのに何も準備が出来ていないような、そんな不安だった。


「そういうの、アヤメにはなかったか?」


 アヤメは鼻から息を吐く。鼻で嗤うといった様ではないし、呆れたようでもない。得心がいった時のはしたない癖である。


「聖女に選ばれないと、ラファリア様の側室になれないとあって焦っていましたわ。……こんなことにならなかったら、あなたも、シャ、……寵姫様も手にかけていたかもしれません」


「わたしがやらない代わりに、お前が鬼になるということか」


「この半身は鬼ですから、あながち間違いじゃァないわね」


 人鬼転化の術は使えば使うほどに鬼に近づく。秘薬でそれを抑えるが、アヤメの感じるところ、すでに半分は鬼となっている。


「そうか、もうあの術はよせ」


「お生憎様。私の勝手よ」


 太陽が顔を出せば、ほのかな温もりを感じる。

 春は訪れて、すぐに去るものだ。

 空を眺めれば、鷹が飛んでいた。


「……大きな鷹だな」


 空を旋回した後、水晶宮へと飛んでいく。

 誰かの伝令だろうか。




 伝令来る。

 齊天后マフとラファリア皇帝が率いる戦士たちは、この日をもって決まった。

 闘技場の完成は二日後に迫っていた。

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