第46話 死神
風は止んでいた。
神というものが気を利かせたらしいが、善意なのか悪意なのかは知る由もない。
相対する死神は、剣を右手一本で上段に構えていた。
左手首より先は、リリーが斬り落として、今は無い。
死神の立ち姿は美しい。
美男と言うものではない。ただ、あまりにも完成されている。片手剣で上段など正気ではないというのに、竜の
リリーは感嘆の吐息を零した。
師と同等かそれ以上か。
「天稟があるな、死神」
「はは、お前が言うのかよ」
リリーは口元だけで笑んだ。
手は温石で十分に温められている。自然と、正眼に構えていた。
巡礼の旅から地摺りを使うことが増えていた。理由は簡単だ。重たい剣を持ち上げなくていいし、上手く入れば一度で終わる。
雪が舞い散る中、先に動いたのは死神のジャンであった。
ゆらりと剣が大気を溶かす。斬り裂くのではなく、溶かすような、大気そのものに剣が埋没してしまったような、そんな一刀である。
リリーは正眼に構え直した剣でそれを受けた。
驚いたのはリリーである。自然に身体が動いていたが、背筋の凍るような一合であった。
棒立ちで斬られてもおかしくないような、まさしく息吹そのものの剣。それをこんなにも、思ったとおりに受けきることができるとは。自らに驚いてしまった。
「やるな、リリー」
死神は右手で持つ剣に力を込めた後、すぐさま二歩下がった。そして、太ももを狙って剣を振る。
「くっ」
リリーは後退して距離を取る。
出血狙いの厭な剣である。以前の死神なら絶対にやらなかったことだ。こんな泥臭い剣をこの男は嫌っていた。
「右手一つでよくやる」
「お前にやられたからな」
その言葉は平坦なものである。しかし、籠もるものは筆舌にし難い。だからこそ、死神の悪癖である饒舌さはなりを潜めていた。
「しっ」
鋭い気合と共に、息吹の魔剣が死神より放たれる。
相対すれば、これほどに怖いか。
剣と連れ添って生きるリリーにとって、恐怖は友である。よく知った友であれば、剣の気配を辿ることができた。
振るえなくなった息吹。
自然と合一し、人の枷を外して振るう魔剣は、もはやリリーの剣ではない。
「見える」
実際には見えていないが、リリーは言った。
どこから来るか、分かる。一合、二合、打ち合って分かる。怖いが、人の手でそれは対抗できる。
ジャンは死神ではない。ただ、強いだけの男だ。
息吹の剣は全てが必殺であるが故に、懐に入らせない。それを知るリリーは、自ら飛び込んだ。
ジャンの口元が歪な弧を描く。
片手で放たれた膝狙いの剣をかわせば、殺気が胸元に飛んでくる。
どうしてそれが分かったのか、リリーにも分からない。殺気よりも、死の気配を嗅ぎ取ったからであろうか。
殺気だけは上に跳ね上がるというのに、実体の死神は身を低くして足首を狙う一撃を放っていた。
「そこか」
とっさに後ろに跳ぶことで、それをかわす。
「今のをかわすか」
追撃の代わりにあったのは、言葉だ。
ジャンは姿勢を整えただけで、攻撃の手を止めた。リリーもまた後退したところで息を整えている。僅かに、互いが間合いの外である。
二人の呼吸の音だけが、いやに大きく聞こえた。
「リリー、お前が怖いよ。あいつの弟子なだけはある」
死神は月の光を見た。どこにいても、星の輝きは同じ。空はこんなにも綺麗なものだったか。
びりりと、無いはずの手が痛む。失った左手の痛みに、死神の口元に
あれから、行を積んだ。
最低限の治療の後に虎剣山にこもり修行を行った。
深山幽谷に何かがある訳ではない。ただ、そこで剣を振り、獣を食らう。修行はひたすらに、リリーの影を斬ることである。
自らを殺す幻影と恐怖を振り払うための修練により、左手は化膿した。薬草を塗り込んだが、熱を持ち腐臭のある膿が垂れて、蛆が湧く。対処法は知っていたが、こうなるとだいたいは助からない。
虎剣山の風穴にこもり、瀕死の状態で夢を見た。
悪魔や死神といったものの息吹を確かに感じたことを覚えている。
死にたくないという想いを、敗北を認めないがための我慢が勝る。そして、同時に愚かであると、瀕死になりようやく理解した。
生きているのは、ただ運が良かったからなのか、それとも魔人の血を引く故か。どちらかは、分からない。
悪夢が過ぎ去り、少しずつ体力が戻った。
それから、また剣を振った。
人の訪れない山中で、不思議な匂いを嗅いだ。
膿を出し切った後に、腫れの引いた左手首の断面から赤ん坊の匂いがした。
なんだか可笑しくて、笑いが出た。涙を流すまで笑った後に、この匂いは生命そのものであると知る。
それからも、剣を振った。
他者の命を吸い上げる
分かったことがある。
常に恐怖が背中にあった。
「リリーよ、俺は多分、なんかの化物の血を引いてるんだろうよ」
互いに休息を取るかのように、立ち尽くして言葉を待つ。
「ああ、わたしの友達にも一人か二人、いるぞ」
フレキシブル教授、アヤメ、探せばもっといるかもしれない。
「死神よ、前に言っていたな。殺したら強くなるとか。便利で羨ましい」
ジャンは小さく口元だけで笑った。軽く煽ってみたというのに、前のようにはいかない。
「あれは、怖いんだぜ。恨みとかそういうんじゃねえ。俺と同じヤツが現れて、そいつが俺より命を吸ってたら……、負けるんだ。確実にな」
「死神と恐れられているのに、気弱だな」
リリーの挑発に、ジャンは頷くのみ。
「ああ、気が弱い。本当のことを言ったら、俺は小心者だ。だから、イカレてるフリをして弱さを隠してた。周りが怖くてな、イカレたヤツだと思われて、ヤバいと思わせて手を出させないようにしようって、そんな弱い考えだよ」
「そんな風には見えない」
ジャンの相貌に危険な光が宿った。
「今は違う。リリー、お前のせいでこの世は怖いことだらけだって気づいちまった。この世には、怖いモンが多すぎる。分かるか、寝込みを襲われたら死ぬ、傷が膿んでも死ぬ。腹を壊して死ぬ。娼婦に
ジャンは熱っぽく語り終えて、冬の冷たい空気を吸い込んだ。
暗黒の空には満月の輝きがある。
「だから、分かった。死神はどこにでもいる。俺たちはみんな死神だ」
目を見開いて、死神は言い切る。
狂気があった。
「すまないが、全く意味が分からない」
「リリー、お前は俺の死神だ。だから、斬るのさ」
「初めからそう言え」
理由など、勝手に持てばいい。
あらゆる理由は勝敗を左右しない。介在するのは互いの持てる全ての力だけだ。
リリーとジャンはそれを知る。
「休憩しすぎたかな?」
死神は言って、剣を下段に構えた。
「そうだな。死神殿も、手の冷たさは取れた頃合いか」
リリーもまた、温石で手を温めていた。そろそろ温石も冷たくなる頃合いか。
八相に剣を構えて、リリーは駆けた。
死神は片手でしか剣を扱えない。力押しが効くと踏んだ。
雪を割りながら、肉薄する。
「きいぃぃぃええぇっ」
リリーは気合と共に間合いぎりぎりから剣を振る。
「いぃぃぃぃ」
怪鳥のごとき気合と共に、紙一重で避けた死神はくるりと廻って背中を見せた。リリーは面食らいながらも、無防備な背中目がけて剣を跳ね上げる。
ジャンは背中を見せながら、片足でリリーの間合いから外れる左に跳んだ。
「なっ」
リリーの驚きの声。
死神の鎌は、すでに放たれていた。
左目の端にきらりと何かが光る。
月光を反射する白刃が死角から迫り、真横に凪いだ。
間に合うか。合わねば死ぬ。
「あっ」
左目からどろりと血汁が垂れて、リリーから左の視界は失われた。
至近の斬り合いでわざと背中を見せて誘いをかける。それ自体が正気とは思えない。さらに、そこから相手を見もせずに跳び、体を独楽のごとく回して死角から頭を狙う。
名付けて、邪剣竜尾返し。
「きぃぃぃぃああああああ」
魔物の叫びにも似た、リリーの気合の声が大気を斬り裂く。
視界が定まらぬまま斬り合いをして勝てるはずがない。たとえ右手しかなくとも死神はそれだけの遣い手だ。
リリーのしたことは単純だ。距離を詰めて相討ち覚悟で剣を振る。
「はは、俺の死神が勝ったぞ」
リリーの剣は空を斬った。
二つの目でものを見るのと、一つの目でものを見ることは大きく違う。距離感がつかめない。
自棄の一撃をかわし、勝ちはほぼ決まってもジャンは冷静であった。死神の力を壊す剣を警戒し、リリーの右拳を剣の柄で叩いて剣を取り落とさせた。
左目を潰され、右目だけで目を見開くリリーの顔。悪鬼のごとき形相である。
「終わりだ、リリー」
迫りくる死に引き攣るリリーの顔。
それは恋人のごとく近い距離だからこそ為し得た。
死神の目に火花が散り、石のようなものをぶつけられたと分かる。
敗北を覆したのは、懐の温石である。拾った石ころがリリーの命を救った。
暖を取るための温石とは、手のひら大の石を焚火に放り込んで温めた後に、布で巻き懐に入れるものだ。
即席の武具として利用できるように、布の巻き方は工夫してある。大きめの布で石を包みこんで結び、余った布を捩ることで持ち手とすれば、遠心力をつけて打ち付けるフレイルにも似た武具となる。
「お前っ」
リリーのそれは計算したことではなかった。
剣を拾わなかったのは、斬り合えば負けるという恐怖からだ。
ジャンは距離を取ろうとしたが、それは悪手である。リリーはジャンにつかみかかり足を払って転倒させると、その首に温石の持ち手としていた布を巻きつけ締め上げた。
「ぐっ、お前、なんで」
死神に、その無様な戦いは理解できなかった。
「ううぅぅうううう」
手負いの獣と化したリリーはジャンに組み付き、背後から布で首を絞める。
魔人はあまりにも強い生命と力を持つ。しかし、彼らの身体構造は人と変わらない。だからこそ、この方法は有効だ。窒息で殺せる。
死神にとって酸欠は初めての経験である。
敗因は様々にある。
死神のジャンは強いが故に、組み打ちの経験がなかった。そして、剣だけで倒せない相手も知らなかった。それが、はっきりとした敗因だ。
首を絞められ、息苦しさから始まり、徐々に目の前が暗くなる。そして、身体から力が抜けていく。
死神のジャンが最後に見たのは、空に輝く月から舞い落ちる雪である。
「……」
事切れる間際、死神のジャンは誰かの名を呼んだ。だが、それは誰にも届かなかった。
恐るべき遣い手であった。
かつて、セザリアの港で戦った時とは比べ物にならない。
物言わぬ屍となったジャンの首から、リリーは手を離せない。これが、自らと同じく黄泉帰ったらという不安から、手の力を抜けないでいた。
「お嬢様、もう死んでやす。早く手当しねえと」
「う、ウドか、て、手が」
「さ、大丈夫です。ゆっくり、力を抜いて」
ウドが指を一本ずつ解き放してくれる。
寒さに加えて、恐怖で身体が凍えるように震えていた。
「細作共は片付きやした。さあ、ヴェーダへ帰りましょう」
息を吸い込んで、吐き出す。何度か繰り返すと、ようやく勝ったと分かった。
「くそ。目が痛いし、見えない」
痛みにも慣れた。
転げまわろうが叫ぼうが痛いものは痛い。なら、叫ぶ必要は無い。
それでも、失うことは悲しくて、怖い。
「片目に慣れるしかございませんな。そういう業も修めてますから、教えますよ」
ウドはあえて治るとは言わなかった。
リリーもまた、それを受け入れる。
「春まで間もないというのに」
「間に合いますよ、きっとね」
努めて、二人は先のことを軽く言った。
どうせ命など吹けば飛ぶ。
雪の中を歩いた。
さくさくと雪を踏む音と、つんと鼻の痛くなる寒さ。吹き付ける風の息苦しさ。それは戦いの後であっても変わらない。
リリーは死神の屍を振り返った。
「ウド、後で埋葬してやれないか」
「……外道の類にですか」
「わたしにもお前にも、墓くらいは欲しい。それぐらいあっても、罰は当たらん」
言ってから、リリーは痛みで顔をしかめた。
気を失いたいところだが、それをするとあまり良くない。
痛みは我慢できないが、慣れることはできる。
「痛いし、寒い。肩をかしてくれ」
「早く戻って、手当をしましょう」
リリーは、アヤメとリシェンが怒るだろうなと考えていた。
きっと、あの二人は姉か母親のように怒るだろう。
なんだか、それは申し訳ないような嬉しいような、不思議な思いであった。
雪の中で起き上がるものがあった。
月光を浴びることにより自動回復するという奇跡により、再び現世に舞い戻ったのは吸血鬼ユリアンである。
「あああ、あの女め」
月の光を遮るのは、女の影である。
男物の冬用騎士装束をまとうカリラである。
「禁を破り、負けたか」
「なんの、用だ」
カリラは覚えのある気配二つに対して、何もしない。
「寵姫殿より、お目付け役を仰せつかったのでね。ユリアンよ、まだやるか?」
「まだ負けてない。血を、血を用意してくれ。生娘の血があれば、こんな傷などすぐに」
カリラは小さく息を吐いた。
「寵姫殿の頼みを聞いたが、我が君の命令を優先せねばならん。春まで、手出しはするなとあれほど言われたであろう」
「そんなもの、関係あるか」
「……所詮は蟲の類か。お前の間違いは、地獄で正せ」
ユリアンは牙を剥いてカリラに襲いかかった。吸血鬼であるからこその、人を超えた速度だ。
カリラの剣は、鬼よりも速い。
人が出すとは思えぬ呼気の後に白刃が閃く。そして、ユリアンの首が宙に舞った。
ユリアンは齊天后の神具により古い吸血鬼として生まれ変わった経緯がある。首を落とされても、復活できる。
それなのに、首だけとなったユリアンは命が失われていく恐怖を味わっていた。
「なにをした、何を」
流れ出る命が霧散していく。死が本能で分かる。
「息吹の剣だよ、吸血鬼。お前らや魔人を倒すために、我ら人が作り上げた剣さ」
魔人たちはその剣をバクの剣と呼ぶ。東の果てにあるタイクーンの治める国に伝わる伝説では、バクとは夢を食う妖獣である。
「僕は、僕にはまだやることがある。こんなところで……いやだ、死にたくない」
それ以上は言葉にならなかった。
カリラは合掌し、異国の言葉で祈りを捧げる。
祈りを終えると、カリラは背後に向き直った。
「久しいな。また会えるとは思ってもみなかった」
カリラは友に語りかけるように、振り返ってシャザに言った。
「ふふ、相変わらずと言うべきでしょうか。久しぶりですね、やはりお強い」
「怖い姐さんだな」
伊達男はおどけて言う。しかし、その立ち姿に隙は無い。斃してきた古い吸血鬼と同じかそれ以上か、怪物だと分かっている。
「今日はやらんよ。停戦の約定を破る訳にはいかん」
カリラは剣に付いた血を懐紙で拭うと、刃を鞘に納めた。
「そのほうが助かります」
「春にやりたいところだが、あれを見てはな。リリーめ、強くなった」
「あの無様な戦いがですか」
シャザは呆れるように言うが、そこに満足げな響きがあった。
「そうは言ってくれるな。ジャンはそれなりの遣い手だよ。あれとは間が悪くてね、姉弟弟子の再会はかなわなかった」
同じ息吹の遣い手が三人。
「なるほど。やはり、あなたはリリーの師でしたか。先に逝ったと聞いておりましたので、あれの師を引継ぎました」
カリラは笑みを浮かべた。
「やっかいな子だろう」
「ええ、とても、けれど、可愛い弟子です」
「ははは、だろうな。分かるよ。目に入れても痛くない、というのは言い過ぎだがね。子供のようなものさ」
「ふふふ」
「ははははは」
笑い声だけで言うなら、和やかなものだった。
「もう一人前か、寂しいものだよ」
「若者の成長は早いもの。もう、子供ではないのですよ」
一抹の寂しさと、喜びがあった。
「こちらが約定を破ったことになるが、首はどうする? できれば持ち帰って供養したい」
「政治のお話は知りませんが、リリーは埋葬を望んでいました。体はこちらで埋めておきます」
「後で礼をするよ」
カリラは倒れ伏す死神の亡骸に向かうと、一刀のもとに首を落とした。
ユリアンの時と同じく異国の祈りを捧げる。
死神のジャンは、死してようやく会いたいと願い続けた
「ジャンよ、これで息吹の継承者はあの子だけになった」
さきほどの戦いで、リリーは息吹を使えない様子であった。
すでに、雛鳥は手を離れた。いまは大空にあるということか。
「……負けていられんなあ」
世界が望むのだろう。
時代をかけて、古きと今が争う戦いだ。
二人の首を携えて、カリラは帰途についた。
ああ、早く春にならぬだろうか。
あの夜も、綺麗な月夜であった。こんな夜は焦燥にかられる。
待ち焦がれるとはこういうことだろう。
愛しているというのに、戦いを切望する修羅であった。
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