第41話 救世の毒
甲殻戦鬼は理外の怪物であるが、理外にあるというだけで、人でも撃退できる程度の存在だ。
領主軍と帝国軍はそれぞれに順調に歩を進めていた。
あまりにも強すぎるものを作ってはいけない。
人は強すぎるものに寄りかかり、前に進まなくなる。
巨大な白百合に近づけば近づくほどに、辺りには異様な気配が満ちる。
木々の姿は奇妙な色合いへと変わり、目の前が歪むような色彩の花々が目立ち始めた。
冬の始まりの冷たさの中で、夏の花々が七色に咲き誇る。
心を惑乱させる幻色は、狂気の孤島を思い出させた。
「脳男の島と同じか」
リリーは思い出す。巡礼の旅で出会った異常なる魔人の島は、これとそっくりの色をしていた。
「ぼっとしないっ」
鋭い声で我に返る。
空から現れた甲殻戦鬼に、すぐさま手斧の一撃を喰らわせたアヤメに礼を言おうか迷ったが、彼女はすでに別の敵に意識を向けていた。
「お嬢様、こんな景色はまやかしですぞ」
ウドの声は走りながらだと言うのに耳元で聞こえる。細作の業だ。
老いた奴隷たちも戦士として槍を振り回している。
「ははは」
不意に笑いたくなった。
こんなものに惑わされているのは、わたしだけか。
明確にこの世のものでは無いと分からせねばならない。
人は理外に恐怖し、それを神とする。
甲殻戦鬼の群れを蹴散らしながら進めば、突如として道が開けた。
壁の如くあり得ないほどに密集した木々に狭められた道は、二股に別れていた。
先頭を走るリリーが手を上げて、皆は足を止めた。
「二手に分かれる、わたしは左に行こう」
決めたという訳ではない。自然と口を突いて出ただけだ。
「お嬢様は右へ行って下さい」
声をかけたのはウドだ。
彼にしては珍しいことである。
「ウド、何か見えたのか」
「お嬢様、こいつは細作の手管ですぜ。頭に血を登らせたヤツに行かせるように、仕向けてあるって寸法で」
二つの道を見ても、どちらも同じようなものだ。
「確かか?」
「へい、間違いなく。左はお嬢様の目線に合わせて選びやすくしてありまさあ。あっしらが騎士様を誘導する時に使う手ですよ」
言われてみれば、木々の枝ぶりが違う。左は馬上の者が進みやすくしてあるように見えないでもない。
「ふん、味な真似をしてくれますわね。リリー、左は私とウドの兄さんの領分ですわよ」
アヤメとウドは迷いなく左の道に足を向けた。
「二人とも、死ぬなよ」
リリーの口を突いて出たのは、意図しない言葉である。
「リリーも、後で会いましょう」
「ごめんなすって」
二人は戦士たちの半数を率いて左の道を。
リリーは残ったフレキシブル教授を見やる。
老いたというのに馬の扱いは一流だ。リリーに苦も無く付いてきた。
「行くか」
と、リリーは独り言のように言う。
「ああ、行こうかね」
響いてくる鬨の声は、帝国軍のものだろうか。
どうせ、妖精は待ち構えているだろう。
今までは始祖の吸血鬼や脳男といった理外の存在が、リリーの足跡を隠してくれていた。だけど、そんなものは今となっては必要無い。
「世の中というのは、よく出来ているものだな」
甲殻戦鬼が来ないのは罠の証か。
リリーは竹の水筒で水を飲む。
戦場を馬上で駆ける時、小便は無意識に出る。これは男も女も同じものらしい。気が付けば、股座が濡れていて小便を洩らしていたと後で気づく。
「僕はそう思わないよ。世の中には裏切られてばかりだ」
「帳尻を合わせる時なんだよ、お古いの」
帳尻を合わせることだけが、人に出来ることだ。正しくなくても、満足いくように帳尻を合わせればいい。
「若者というのは、いつも老人の先を往く。気に入らないね」
教授の減らず口に笑みをみせたリリーは、ミラールの頬を撫でた。ミラールはるぶぅと鳴いて、水筒の水をねだる。
「行こう」
水を飲ませてから、腹を蹴って歩を進める。
◆
左の道に敵はいなかった。
アヤメとウドにはそこにある異質な気配が分かる。
奴隷の老人たちにも、その異質さが分かる。
脳男のいた島にあった植物とよく似たものがそこには蠢いている。そして、敵はいない。
ここでは、甲殻戦鬼すらまともな生物に見える。
「厭なところね」
アヤメが言うと、ウドは肩をすくめてみせた。
「アヤメ殿」
「殿は結構」
ウドはまたしても肩をすくめる。やりにくいが、最近になって慣れてきた。彼女が礼儀を忘れるのは身内にだけだ。
「ここにお嬢様を来させなかったのは正解だ。どうにも、気に入らねえ」
「気が合うわね。たしかに、人を見透かしているような、そんな厭な感じがしますわ。ビビらせようっていのが透けて見える」
作為的な狂気とでも言おうか。
誰かに見せるために作った忌まわしさがある。
ウドの知るそれは、細作が相手を動揺させるために使う一つの技術だ。例えば、相手の身内を引き裂いて壁に飾り付けるとか。
アヤメの知るものはウドより穏やかだが、意図するところは同じである。邪宗、邪教の祭壇にある虚仮威しの生贄のようなもの。
どちらも、見た者を自らの世界に引き込み萎縮させようとするものだ。そして、それらはいずれも気の弱さや子供じみたものが根底にある。
ウドは奇妙にねじくれた無花果に似た木に駆け寄った。
果実は実っていない。かわりにあるのは大きな肉袋だ。これを知っている者は、顔を青くするだろう。
身重の獣の腹を裂けば、そっくりのものが出てくる。中には育ちきらない子供が入っていて、間近で見れば、肉の果実は臓器のごとく脈動していた。
「さて、何が出るやら」
ウドが短剣でそれを裂いた。
羊水と共に、人間とも虫の幼虫ともつかぬものが出てくる。大きさは、大人の男ほどであった。
『きたのは、お前らか。奥へ、行け』
その未成熟なものは言うと、動かなくなった。死んだのだと分かる。
「私の領分かしら」
アヤメは言うが、このような魔は知らない。甲殻戦鬼とも違うだろう。 あれは、それこそ働き蟻のような、そういうものだ。こんなに奇妙なものではない。
この旅に付き従った奴隷たちは、それを見ても「気持ち悪いぜ」などと言うだけで平然としている。年若い兵士であれば錯乱もするだろうが、悪徳を知る老人たちはこれらを受け入れられる。
ただ一人、溝鼠のドガだけは奇妙な感覚を覚えていた。
老いた奴隷の一人であるドガは、こんな冒険とは無縁の小悪党として生きた。だから、この風景に懐かしさを覚えるというのは、とても奇妙なことだ。
ごく自然に、ドガは奇妙な色合いをした花を摘んで、その蜜を舐めた。
「やめなさい、毒になるかもしれません」
アヤメが鋭く叱責した。
闇狩りの倣いだ。魔に連なるものの誘惑には、食べることも含まれる。
一部の植物に擬態する魔物は、そのようなことをする。女の濡れそぼる
「あ、いや、つい、懐かしくて」
ドガは言ってから、花を落とした。
「ああ、そうだ。あっしは、ここにいたことがある。そうだ、この花の蜜は甘くって、いつも夢中で吸ってた。あっちだ、何も変わってねえ」
「何を言っているの」
ドガは虚ろな目で足を動かした。
握り締めていた戦槌を取り落として、走る。走りながら、革鎧を脱ぎ捨てていく。
「魅入られたか」
アヤメは口の中で短い祈りを紡ぐと、手斧を投擲する。
足手まといは処分せねばならない。
必殺の間合いで放たれた手斧はドガの頭をかち割る前に、妖魔の触手のごとく伸びた樹木に阻まれた。
身構えたが、そこにある樹木は攻撃に移ろうとはしない。ただ、折れ曲って手斧の進路を塞いだだけだ。
「どうする?」
ウドが短く問うた。
「罠は食い破るまで。ウドさん、後詰をお願いします」
「任された」
互いに口だけで笑んだ。
なんとも頼りになる。互いにそう思っている。闇に生きたがゆえに、同じだけ罪を背負うがゆえに、兄妹ほどに分かる。
「奴隷共、付いて参れ」
アヤメは細作の足で走る。それに奴隷たちが追いつけるはずはないが、彼らは懸命に後を追う。
ウドもまた鳥にすら気取られぬほどに大気に溶け込んで、その後を追う。理外の存在にどれほど通用するかは分からない。だが、自らの修練と技術が裏切らないことは知っている。
アヤメの足であればドガなどすぐに追いつける。だというのに、距離は縮まらない。
何がしかの術にかけられているのかは判別できないが、罠であるのは明白だ。
しばし走る。そして、辿り着く。
そこは、巨大な花に囲まれた広場だった。足元には柔らかな芝生があって、妖精の楽園にも見える。
「なんと邪悪な」
アヤメですら、顔色を変えた。
「ああ、そうだ、俺はここにいたんだ。ここにいるころは、なんにも苦しくなかった。帰ってきた、帰ってきた」
ドガはわめきながら、巨大な花に縋りついて泣き始めた。
「苦しかったよぉ。苦しかったよぉ」
巨大な花の種類は分からない。鮮やかな紅色の花弁は、南国のそれに似る。そして、花の中心部、本来ならめしべやおしべ、柱頭のある部分には赤子の顔が生えて無邪気に笑っていた。
「……外は苦しい。ああ、ここが安らぐ」
ドガは泣き崩れている。
そこかしこにある大人ほどの大きさの花々の全てには、赤子の顔がある。どの顔も違う。山の民の顔つき、帝国人の顔付き、男の子、女の子、青い瞳、黒い瞳、金髪、赤毛。
「こっちにお前たちが来たか。予想外だな」
アヤメが声の方向を向けば、男がいた。
それは、ずっと懐かしい顔だ。
アヤメがリリーと敵対していた折に見た顔である。ジーンと同じく甲殻戦鬼へと変身する冒険者シャザムであった。
「あなたは、妖精に与する敵でしたわね。たしか、シャザムといいましたか」
「ああ、そう名乗っている。お前が見たのは端末に過ぎないが」
「ここは、なんですの?」
アヤメは司祭服の袖に隠した毒針を指先で探った。必殺の屍毒が理外の存在に効くか否か。
シャザムは少し考え込む仕草をした。
「そうだな、ここは俺の棲家だよ。同時に、端末の生産場所でもあるが」
「端末?」
よく分からない言葉だ。端の末とはどういう意味だろう。
「簡単に言えば、そこの男の様なものを造る場所だ。『取り替え子』というのがあるだろう。あれだよ」
チェンジリングとも呼ばれる神隠しのようなものだ。父母と似ても似つかぬ子供を育てるために、妖精が子供を取り換えたということにする。父親の分からない子供や不義の子供を誤魔化すための風習である。
「リリーが来たら説明しようと思っていたんだが、お前では話にならんか。なあ、知っていたら教えてくれ。リリーは転生者なのか? 俺はその真偽が知りたくて呼んだんだが」
シャザムの他人事のような言葉に、得体のしれぬ怒りが湧く。
「揃いもそろって、貴様らの吐く言葉はいつも誰に向けているものか分からない。気に入らぬ、お前たちの何もかも知ったというその顔ッ」
アヤメの投げた毒針は、何か言おうとしたシャザムの額に突き刺さった。屍毒がなくとも、額に針を刺されたら人は死ぬ。シャザムもまた何か意味の分からない言葉を吐いて倒れた。
「答えは地獄で捜すがよい」
アヤメは吐き捨てて、息を整えた。
「乱暴はよせ。お前たちが知りたいだろうことを教えてやる」
背後からの声。
振り向けば、またもシャザムがいる。
「幻術ではないな」
確かに実体があり、手応えもあった。
「ああ、この身体はまだ百ほど備蓄がある。いくら殺しても一緒だ。まあ、話を聞くといい」
シャザムは友好的な笑みをみせる。だが、それは仮面のごときもの。
「俺の話を聞いてから、質問に答えてくれ。まずは俺だが、アメントリルの仲間の一人だ。あいつはデカいことをやるが細かいことが苦手でな。俺が色々と手伝ったんだ。その色々は皇帝の蔵書棚にある」
アヤメは口を閉ざして聞く姿勢を取る。
「だんまりか。まあいい。アメントリルは原作の破壊を望んだ。なんだったか、逆ハーの話を再現してめたくそにしてやりたいって言ってな。ははは、あれって二次創作の話なんだぜ」
アメントリルのことを思い出したのだろう。シャザムの顔は人のような感情を浮かべた。だが、それは一瞬のことだ。
「そのためには、舞台を整えてやらないといけないだろ。妖精は人の細かいとこをやるには向いてない。だから、妖精に俺の分身をたくさん作らせた。最初は失敗も多くてな。たくさんの俺じゃあ限界があったから、貴族の赤ん坊を造り変えて端末にしたりして、なんとか舞台を整えたんだ」
そこにはドガも含まれる。世界中の情報を集めるために、様々な場所にドカのような端末は存在する。
シャザムのそれはアヤメに向けているようで、向けていない。独り言のようなものだ。
「妖精にやらせたら、変な生物を造るからな。本当に大変だったんだ。俺も脳の処理能力が足りなくて、途中で妖精に改造させた。一人でこんな大仕事をやるってのはなかなか大変だったんだ。せっかく舞台は整ったってのに、リリーとお前ら、それにマフのおかげで滅茶苦茶だ」
人間のように話しているのに、感情はそこに無い。
「ま、お前らに言っても仕方ないな。モブキャラなんだし。新しいリリーも造ってあるし、なんとかなるんだ。アメントリルのカルト教団にいるだろ、お前。なら、手伝え。あいつのために、造るんだ」
アヤメは長年の修行で培った仮面を脱ぎ捨てた。
「あなたの言葉を完全には理解できないけど」
その顔に憐れみの色が浮かぶのを抑えられない。
「私には、アメントリル様の教えと共に生きた私には分かる。あなたは、アメントリル様の望んだ未来のために、世界を操ったのですね」
「ははは、なかなか理解力があるな。あいつには世話になったんだ。ログインしたてでな、俺にはなんの力もなかったってのに、守ってもらった恩があるんだ。それに、あいつのやることは、いちいち面白かった」
アヤメには、憐れな魔人シャザムが救世(ぐぜ)の毒に侵されたのだと分かる。
「なんと憐れな。アメントリル様はどうして、こんな酷いことを。あなたの行いなど、アメントリル様はきっと、望んでいない」
シャザムに感情の色が宿る。
「モブキャラが知ったようなことを」
「望んでいない。だって、あの方は自分のことしか見ていない人だもの。アメントリル様の教えは、アメントリル様自身には何の意味もない綺麗事……。あの方は、ただ、自分のためだけに生きて、他者を顧みない」
巡礼の旅で知った。
聖女もまた、ただの人であった。苦しみと共にある人でしかなかった。
アメントリルの教えは素晴らしいものだ。彼女の心には何一つ響かないものだったからこそ、他者を救うに足る。
「お前に、何が分かる」
「分かります。私も、アメントリル様に縋って生きましたから。でも、今はもう、必要ないと知った。そして、私の役割も。この旅で分かりました」
アヤメは意図せずに浮いた涙を司祭服の袖で拭う。
「モブにどんな役目がある」
「アメントリル様の過ちを正すこと。それが私に課せられた運命(クエスト)」
シャザムの身体がばたりと倒れた。
大地が揺れる。
ひさびさに、ムカついたぜ。
頭の中に直接声が響く。
気が変わった。お前らはここで一人残らず死ね。
アヤメは異様な気配にその場を飛び退った。
さきほどまで立っていた場所に、地面から杭が突き出ている。それは、植物の根のようなものだ。
大地が揺れて、盛り上がる。
巨大な花が地を割って姿を晒していた。
「なんと……、これほどの怪物とは」
アメントリルが造りだしてしまった怪物の姿がそこにある。
薔薇の花に似た花冠を持つ、白い花。伝説の竜ほどの巨体である。
花弁には憎悪に燃える瞳と、巨大な口があった。茨の手足がゆらりと持ち上がり、天を向いて吠える。
皆殺しだ。何もかも。
花に咲く赤子たちの泣き声。
ドガは子供のようにうずくまって泣いている。
「アメントリル様、あなたは、なんと罪深いことを」
聖句を吟じようとして、止めた。
今のアヤメには必要無いものだ。
背後からは奴隷たちの悲鳴。
「奴隷共、足手まといになる。離れておれ」
アヤメは叫んで、手斧を取り出して走る。
茨の触手をかわしながら進むが、あの巨体のどこに手斧を打ち込めばいいのやら。
答えはある。人も魔物も、頭を潰されては生きていけない。例え理外にあろうとも、同じに違いない。
近づくのすら命がけ。どうしたらいいものか。
「くっ」
またしても、茨がやってくる。なんとかかわしているが、一度でもやられたら立ち上がれまい。
シャザムの巨体が暴れ回れば、そこかしこの赤子の花が潰れていく。
赤子の泣き声がそこかしこから響く。地獄の光景であった。
落ち着け。こんな時にこそ、落ち着かねばならない。
「アヤメ殿っ」
ウドの鋭い声。
そちらを見ることは無い。分かっている。
陰に姿を隠していたウドは、近くの木の上で短弓を構えていた。
放たれた弓矢はシャザムの花弁、瞳の部分で弾ける。
奇妙な音が頭の中に響く。それは、シャザムの悲鳴なのだろう。匂いから察するに、あれは邪毒の聖油だ。
「いつのまに」
「ちょいと前に拝借しやしたぜっ」
細作というのは、これだから油断ならない。
隙が出来た。
袖口に隠していた聖光丹という名の薬物を飲めば、目の前が光に包まれる。人を鬼に変える教会の暗部に伝えられた必殺の業。
「一の座点を解放し、続き二の座点、女陰を締め、背骨より回し、額の座点を開き、心の臓を鬼骨とする」
自らが体内で行う邪術。意識と肉体を邪鬼へ近づける魔の業。
この業は無言では行えない。体内の気の高まりを確認するために、声に出す。リズムを一つでも違えれば、体内で気は暴発して肉体が折れ曲るからだ。
似た術は他にもある。邪宗では完全な鬼と成るために赤子を喰らうという。
全身に満ちる力に任せて、茨を振り払う。そして、シャザムの巨体によじ登る。
モブどもが、いい加減にしろ。
危険な気配が満ちた。
花弁にある口の部分に妖精のそれと同じ雷が集まっている。
『この機会を待っていたぞ』
異常な声が響く。
アヤメとウドの知る声だ。
常闇の脳喰らいと呼ばれる魔物であり、かつてアメントリルと共にあった七聖人が一人。今は脳男と名乗る魔人である。
ナツ、お前か。
脳男は宙に浮かび、神具の杖より放つ魔力の光で雷光を押し留める。
『今は脳男だ。妖精に守られたお前をやる機会を待っていた。その攻撃は私が止める。司祭、お前がやれ』
「言われなくてもおおおおお」
アヤメは花弁によじ登り、憎悪に燃える瞳と瞳の間にその拳を叩き込む。
邪鬼と化したその拳は、シャザムの理外の肉を貫いた。
「邪を以て魔を滅す」
魔を討つは魔のみ。その身を邪鬼にまで堕とし、より大きな善と救世を為す。
花弁の瞳から流れるのは血の涙。
巨体は崩れるように力を失い、地に伏した。
「アメントリル様には、地獄で会うとよい」
アヤメは血とも樹液ともとれぬ穢れのついた手で懐を探った。聖光丹の中和薬を取り出して、口に含む。
目の前が、狭くなる。この感触はいつまでたっても慣れない。
「アヤメ殿」
ふらついた体をウドが支えてくれた。
「殿は、いらないわ」
「どうにも、あんたにはくだけた口を利きにくいぜ」
「できてるじゃない」
アヤメは目を閉じようとして、やめた。
まだ、リリーの戦いは終わっていない。
『よくやってくれた』
脳男がいつのまにか隣にいた。
「いつから、いたのですか」
『お前たちと別れた後に妖精の襲撃を受けてな。シャザムの端末が場所を知らせたのだろうが、その時にやられたフリをして好機を待っていた』
その戦いは壮絶なものであったのだろう。脳男の神具の衣服には、戦いの痕があった。
脳男もまた命を賭した。魔人にしか分からない理由ではない。アメントリルのためだ。
罪深い聖女である。
男たちが惹かれたのもまた必然か。
「ナツ、どうして邪魔をする」
シャザムの声である。
花弁が弱々しく動き、いかなるものか声を出していた。
『……我々が間違ったからだ』
「アメントリルの夢を、叶えるとっ、俺たちは、約束しただろう」
シャザムの花弁から力が失われていくのが分かる。
脳男は沈黙した。
「アメントリル様の夢は、きっと、こんなことではないわ」
アヤメが代わりに言う。
「どうして、分かる」
「女だからよ」
「……」
シャザムは何か魔界語で言ってから、朽ちた。
花弁は急速に張りを失い枯れていく。
「あれは、最期に何を言ったの?」
アヤメの問いに、脳男は首を横に振る。
ふと見れば、泣いていたドガが倒れている。ウドが確認すると、死んでいた。
『これで、シャザムの影は消えた。この世界を操る者はいない』
シャザムと妖精がどのような技術でこれを為したかは分からない。この時、世界各地で取り替え子たちは死した。花弁の赤ん坊もまた、全てが息絶えている。
アヤメは死を悼む聖句を吟じた。きっと、シャザムにそれは届かないだろう。
「次は妖精ですわね。少し休んだら、合流します。ウドさん、先に行ってくれますか」
「お任せあれ」
ウドは姿を消す。
頼りになる男だ。
『司祭よ、感謝するぞ』
「あなたは、妖精を倒しに行かないのですか」
『魔人の力はあれには通じん。だが、リリーやお前ならば、勝てる』
「魔人の保証つきか。これから、どこへ」
脳男は答えなかった。
神具の杖を振り、空間を歪めてその姿を消す。
「アメントリル様」
アヤメは祈る。
世界に光を示した稀代の聖女アメントリル。
聖女に捧げる愛のために、シャザムは人ではなくなった。そして、脳男も。
アメントリルの罪をアヤメだけが償える。聖句を吟じる彼女は、まさしく聖女に他ならない。
祈りは、彼方に届く。
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