第34話 夕暮れ迷子
ばっちり洗濯してピカピカにしたハンケチを騎士に届けにいけば、偉い人しか入れない薔薇の庭園に案内されてしまった。
水晶宮の奥深く、もしかしたら平民で招かれたのは帝国史上初かもしれない。
シャルロッテはむせ返るような甘い香りに支配された薔薇園で、緊張からくる胃の痛みに呻いた。
薔薇のためだけに、魔術で室温を最適に保っているという温室である。
テラスに案内されて、とてつもなく高価そうな椅子に腰を落ち着けている。ケツを中心に肌が石になっているんじゃないかと思うくらいに居心地が悪い。
はやく、おうちに帰りたい。
場違いとはこのことか。
聖女候補の肩書で入ったことのある場所はとうに通り過ぎている。あの時だって、お祭りみたいもので感覚が麻痺している部分もあったけれど、それでも緊張した。
ここまで案内されるのに、すれ違った人たちは驚くほどの大貴族なはずだ。しかも、学院にいるような子供ではない。実際に国を動かす天上人サマたちである。
侍女様の出してくれた紅茶に口を付けてみたものの、薔薇の花を入れた紅茶だなどと気づけるはずもない。
虫を食ってた騎士にハンケチを返すだけが、なんでこんなことになったのか。
頭を抱えてしまいそうになったシャルロッテの耳に、しょきしょきという鋏の音が飛び込んできた。
ふと見れば、作業服の老人が薔薇の手入れをしている。
しょきしょきしょき、いらぬ葉が切られて落ちる、真紅の園。季語が無い。
「御嬢さん、見ない顔だね」
豊かな髭をたくわえた老爺は、どこか不器用な笑みを浮かべて言う。
「あ、はい、あの、なにがなんだか分からないんですけど、シャルロッテ・ヴィレアムと申します」
「ふむ、シャルロッテか」
「大変ですね、庭師さんも。こんなに広いし、偉い人も近くにいるし」
老爺は破顔した。
心底面白いといった顔で、シャルロッテはまたしても空気を読めてないアホの子のようなことを言ったかな、と不安になる。
「ふふ、ははは、そうだな、偉い人もおるよ」
「ここまでくるのに心臓が止まりそうだったんですよ。庭師さんもここは長いんですか」
シャルロッテの言葉を老爺はうんうんと嬉しそうに頷く。
「おお、長いよ。儂はずっと小さいころからここにおる」
「先祖代々の庭師さんですか」
「ふふ、そんなもんじゃよ」
「大変そうだけど、いいお仕事ですね」
「そう見えるかの」
「ええ、こんなに綺麗なお庭なんですもの。お手入れ、サボってたらこんなに素敵にできないです」
老爺は眉を跳ね上げて、その言葉に苦笑いを浮かべた。
「綺麗なのは見える所だけじゃ。虫もつけば、土も匂う。赤い薔薇は、人の血のようではないか」
「あははは、そんなことないですよ」
シャルロッテはけらけらと笑う。
「だって、人の血はこんなに綺麗じゃないですもの。薔薇はお花です」
包丁で手を切ることもあれば、鼻血が出ることだってある。血の赤は、薔薇の赤とはほど遠い。消えゆく命と咲き誇る生命は真逆だ。
「ふふ、ははは、そうか。そうじゃな。花は花か、そのとおりじゃ。うん、面白い娘であるな」
老爺もまた、楽しげに笑った。
そうしていると、いやに高い靴音が響いた。
「お父上、ここにいらしたのですね」
シャルロッテは、どうしてかその声に激しい違和感と不気味さを覚えた。
声の主は、礼服に身を包んだ長身の男である。金色の髪が印象的な、優しげな顔付きの美男だ。
シャルロッテはその男が、どうしてかひどく歪に見えた。生気の失せた顔色もそうだが、立ち姿そのものに不吉な翳りがある。庭師の老人よりもずっと、そこに生命を感じない。
「おお、わが息子よ」
シャルロッテの顔が引き攣った。
庭師の息子がこんな金のかかった礼服は着ない。
どうしよう。
不敬罪で縛り首になったら、どうするか。
「ご、ご無礼をお詫び申し上げます」
「爺の独り言に付き合ってもらったのじゃ。よいよい、それよりも、我が息子の侍女にならぬか。シャルロッテというたの。面白い娘じゃ。儂は気に入った」
少し困った顔で、老爺の息子だという貴人は笑んでみせた。ここで何か言ってしまえば、シャルロッテを侍女にしなくてはいけなくなることへの配慮だろうか。
「お、お戯れを。わたしのような市井の女にはそのような大役はとてもとても」
「今までの口上でよい。そんな寂しい言葉は使わんでいいぞ」
「父上、彼女が困っております」
わたわたするシャルロッテに現れた救いの神は、虫食いの騎士である。
「先帝陛下、そこなお女中はこの私めの客人でございます」
慇懃無礼とでも言うべきか、敬意の欠片も無い調子で発された一言により、暖かみのあった空気がすうと冷えた。
「お前か……。シャルロッテや、またきておくれや。爺はここで退散するでな」
「気にしないで、シャルロッテさん」
いそいそと歩き出す貴人の親子。
天上人の間にも色々とあるのだろう。それこそ、庶民と変わらないほどに。
ジーン・バニアスは黒い騎士礼服に身を包み、去っていく二人に頭を垂れる。慌ててシャルロッテもそれに倣った。
「あ、あの方、先帝陛下だったなんて。あのう」
「なんだ?」
「不敬罪、ならないですか」
涙目のシャルロッテに、ジーンは鉄面皮で応える。
「公式の場ではない。……キミから話しかけたのか?」
「あ、いえ、その」
ジーンの瞳に殺気が宿る。
やはり、この女は危険だ。かつて、ジーンが経験した未来と同じく、権力者と結びつき、その色香で帝国に落日をもたらす悪女か。それが、生まれついてのものだとするのならば、斬って捨てねばならぬ。
「庭師と間違ってしまって、あの、これ秘密ですよ」
「……」
これが擬態でないというのなら、どうすればいい。今ならば、不敬と断じて斬れる。
ジーンは、腰に佩いた細剣の柄に手をかける。
「あら、そのかたがお兄ちゃんの仰っていたシャルロッテ様ですわね」
ジーンの背後から顔を出したのは、黒髪の少女である。
シャルロッテと比べても小柄な、十二、三ほどに見える大層美しい少女である。お人形さんみたいな、そんな言葉がよく似合っていた。
「はじめまして、わらわ、じゃなくてわたしはアメリ・スー・バニアスと申します。この無愛想な男の妹、なのです」
「あら、はじめまして。シャルロッテ・ヴィレアムです。この前はお兄さんのお世話になっちゃって」
「うふふ、お兄ちゃんたら浮いた噂の一つもなくて、心配してたんですよ」
アメリと名乗る少女は、ジーンの腰の辺りをくるくると舞うようにまとわりついて、二人の顔を交互に見上げている。
この場では斬れない。
ジーンにとっては絶好の機会であった。しかし、アメリを名乗る齊天后マフの分け身は、ここで終わらせたくないようだ。妖精への対抗策とするか。ならば、シャルロッテの運命は、ここで斬られるより過酷なものとなるだろう。
「あ、そうだ。先日はハンケチをありがとうございます。お見苦しいところを見せてしまって」
「いいさ、別に」
「これでも、ちょっと反省しました。ハンケチ、洗ってきましたんでお返しします。それから、お礼っていうのも変なんですけど、ここに来るまでに侍女さんに焼き菓子を預けていますから、後で召し上がって下さい」
ジーンが何か言おうとするのを、アメリが遮って口を開く。
「シャルロッテ様は、
「ああ、あれってバニアス様だったんですね。んー、その、勝った方が正しいっていうか、下々のわたしには、よく分かりません」
ジーンは言葉を失った。
それは、揺るぎない正しさを持つ言葉だ。
ジーンは幾つもの未来を経験している。その中で、シャルロッテは常に勝者であった。彼女は、男と共に全てを手に入れる。そして、帝国を穢すのだ。直接の原因ではなくとも、彼女の存在は、大きな歯車の一つであったことに間違いない。
「お兄ちゃんは難しく考えすぎよ。シャルロッテ様、わたくし、転校して学院に通いますの。よろしくして下さいね。お友達になって下さる?」
「もちろん。わたしって友達少ないから、嬉しいよ」
「うふふ、楽しみだわ」
妖怪婆の演技に、ジーンは辟易とした。
その後は、世間話のようなことをして、シャルロットは帰ることとなった。
「今日はありがとうございます。死ぬかと思いましたけど、楽しかったです」
「そうか。妹を頼む」
「ええ、喜んで。あ、そうだ。わたしは、バニアス様の敵のヴィクトールおじ様やコンラート先生、リリーさんとも仲良くしています。アメリちゃんのことも、無理だと思ったら、その、わたしに気は遣わないで下さい。なんていうか、そういうつもりじゃないんで」
なんなんだ、この女は。
ジーンは苦虫を噛み潰した顔になる。
「いいんだ」
「そうですか。バニアス様、ごきげんよう」
「ああ」
シャルロッテは来た時と同じように侍女に連れられて去っていく。
薔薇園に立ち尽くすジーンとアメリは、その背中が見えなくなるまで、兄妹を演じる。
「ひひひ、太陽のような、天使のような女の子、なぁ」
アメリはマフの口調で地獄めいた声を発する。そこには、怒り、諦念、希望、色合いの違う感情が塗り込められていた。
「妖精の対策は任せますが、それが終われば斬らせて頂く」
「子供一人に怯えよるか、邪妖精の騎士よ」
二人の発する鬼気にも、薔薇は動じない。ただ、そこに咲き乱れている。
「齊天后殿、
「……お前はアメントリルに似ておる。少しだけ、お前を面白いと感じたわ」
アメリという名の少女の姿をとったマフに、ジーンは少しだけ親しみを感じた。
見た目に惑わされるのは危険なことだ。骨の淑女が同じことを言ったとしても、きっと何も感じなかっただろう。
仲の良い兄妹に見えているだろうか。それとも、我々は薔薇園に迷い込んだ悪魔なのか、そんなことを思ってジーンは微かに笑った。
◆
学院の日々は、表向きだけは何も変わらない。
気が付けば七日が過ぎて、また気が付けば七日が経つ。
時間は嘘のように移り行く。
コンラート先生の公家言葉が聞けなくなって、生徒の数が減っているくらいしか、表立った変化は無い。
第一皇子と第二皇子も、軟禁されることもなく今までと同じ自由に戸惑いながら生徒をやっている。
「やり辛いなぁ」
不動のボッチ位置にいるシャルロッテは、第一皇子と第二皇子に目をやってため息をついた。
講堂の一番後ろで、授業が始まるのを待っている。
少し前まではわりと気安く口を利いていた。しかし、ハンケチの一件以来、口も利いていない。どっちにしても、皇子様の兄弟はどっちも子供で、我慢できなくなって文句をつけたことが知り合う切っ掛けだった。
「大人になったってえことよね」
今までが子供すぎたということだ。
天下泰平にのんびりし過ぎていたのだろう。
政治的な敵というか、微妙な立場にいるシャルロッテと話すなど、彼らの背負っているものを考えたらできようことではない。
話によれば、今まで反目していた第一皇子、第二皇子派は一つに纏まろうとしているらしい。そして、反体制となるサリヴァン侯爵家の派閥の子供たちは学院を去った。
「お姉さま、浮かない顔ね」
と、声をかけられる。
見やれば、最近は一緒にいることが多くなったアメリである。
「んー、ちょっと感傷的になってたの」
アメリは気取った仕草で艶やかな黒髪をふぁさりとかきあげた。シャルロッテはいつも疑問に思う。どうしてそのポーズをする時、いつもドヤ顔なのか。
「お姉さまらしくないわ」
「みんな大人になってくんだなーって思ったの。アルくんとエルくんも軍事なんたらで学院にこなくなったし」
双子はお家の意向で軍役についている。
魔術師を使った軍の編成に組み込まれ、今は訓練中だ。先日来た手紙には「帰りたい」とあった。
「大人になりたくてもなれないよりはマシよ」
アメリは哲学的なことを言う。
「ちっこいのにカッコイイこと言うね」
「まあ、同い年なのに」
シャルロッテも年齢が同じと聞いて驚いた。アメリはどう見ても、十二、三にしか見えない。
「お姉さま言うのやめようよ。アメリちゃんは声だけだと大人なんだし」
「失礼しちゃうわ」
この子は腹の中を見せない子供だ。いや、よくよく考えればグレーテルやリリーが単純すぎるだけだろう。
「いい声してると思うけどね」
そうこうしていると、授業が始まる。
経済の講義は領地経営に必須の学問だ。スケールは大きいものの、宿屋の経営にだって役立つ内容である。
大人になったら、実家の宿屋『猫の靴亭』を継ぐことになるだろう。
その未来はそんなに悪くない。
聖女候補に選ばれた時は、もっと荒唐無稽な未来を思い描いた。しかし、今はどうしてか、そういう夢を見れる気がしない。
授業が終わり、御昼どき。
お花を摘みに、とアメリに言ってカフェで落ちあうことにした。便所にいくから、先に食堂で待ってて、とは言えないのが淑女の難儀なところである。
あ、そういえば、アメリがお花を摘みに行くのを見たことがない。
貴人は便所に行かない。子供のころは信じていた。
カフェに行くと、何やら騒動が起きている。最近はなかったことだ。
◆
アメリがシャルロッテ以外に言葉をかけることは少ない。
ジーンの妹ということにしているため、すり寄ってくる者はいる。しかし、そのほとんどに「兄上にどうぞ」くらいしか言葉をかけない。
ただの生徒であるという建前からすると、それはよろしくない行いである。
一週間ほどで、彼女への敵意は限界まで膨れ上がった。
髪をくるくるにした女子を先頭にした七人ほどに囲まれているのもそのせいだ。
「バニアス様、少しは礼儀を学ばれてはいかがかしら」
アメリは囲まれてぼんやりと彼らを見ている。
「あなたの態度は目に余ります。サリヴァン派を崩しにかかっているのでしょうが、ここは
さて、そろそろ面倒になってきた。
黙っている時は、今後のことを考えていればよい。それは今までもずっとしてきたことで、特に苦しいことではない。
「羽虫が」
ここにいるのは人間の形をしているが
ここの文字を覚えるのには苦労した。耳には日本語に聞こえるのに、文字はそうではない。随分と、苦労した。たしか、アメントリルが最初に言語の習得を放り出したはずだ。
だから、日本語は
数値に支配された人形には、ひらがな、カタカナ、漢字を組合わせる難解言語は理解できまい。
「な、なんと仰いました。我らのことを虫などと」
「くふ、ひひひひ、虫らしゅう潰れてみせるがよい」
今までも、何度となくこれはあった。
最初は人形を壊すのも恐ろしいと感じたものだが、こいつらは所詮キャラクターでしかない。裂くか、捩るかすれば静かになろう。
「ごっめーん、お待たせアメリちゃん」
そこに割って入ったのがシャルロッテだ。
◆
ああ、なんていう目だろう。
アメリの瞳はぐったりと疲れきっていて、酒毒に侵された者のそれに似ていた。
酒は百薬の長と言うが、行き過ぎれば体を蝕む。酒にやられすぎると、次第にものを食べずに酒を飲むようになり、生臭さと甘ったるさを持った体臭に変わり、言動が怪しくなり、狂って野垂れ死ぬ。
アメリの瞳にあるのは、それに近い色だ。
「ごっめーん、お待たせアメリちゃん」
最初は助けるつもりだったが、今は絡んできてる人たちを助けないといけない。
「……シャル、ロッテ?」
首を傾げたアメリの瞳には、強烈な鬼気があった。
足が震えそうになる。どうしてかは分からないが、何か間違えれば皆が死ぬことになると、そう思った。
「今からアメリちゃんとお昼だから、ささ、どいてどいて」
「聖女候補風情が、この場でなんたる口の利き方ッ、この伝統ある学院に平民がいるだけでも」
「ピーチクパーチク囀ってんじゃねぇってーの」
名前も知らないお嬢様を、シャルロッテは怒鳴りつけた。
内心では「ごめんなさい」と思うものの口は止まりそうにない。
「お家の話かなんだか知らないけど、あんたらは負けてんの。バニアス様と皇帝陛下は勝った側。分かる? 負けたヤツは、黙って隅っこにいるしかねえってなんで分からない」
何か言おうとして、お嬢様方は口をパクパクとさせているが、何も言えないでいる。
権力争いとはそういうものだ。負けた者の理など、どれだけ正しくとも正当性は与えられない。
「わたしのこと、サリヴァン侯爵家派だって言いたいよね? それで斬首だって言われたらそれはそれでしょ。そうならないようにアメリちゃんと仲良くして何が悪いってのよ。あんたらみたいに、負けたことを認めないよりずっといいでしょ」
何を言ってるか自分でも分からない。
けど、これは傍から見たらそう見えるという内容だ。
シャルロッテには昔から嫌いなものがある。
勝ち負けをうやむやにすること。
どうしてかは分からない。ただ、昔からそれにイライラして仕方ない。勝ち負けをはっきりをさせないから、戦いは終わらない。
「聖女候補だからといって、貴種にその言葉……」
くるくる髪のお嬢様は、学徒の顔をやめた。敵を見る貴族の顔なのだろう。
「負け犬が吠えないでよ」
屈辱で青褪めた彼女は、何も言えないでいた。
舌戦はシャルロッテの勝ち。そして、余計な恨みをたくさん買った。
でも、もうやってしまったことだ。時間は巻き戻せないのだから、どうしようもない。
「くふ、ふふ、あははははは」
アメリはどこか邪悪さのある笑い声を発した。
鬼気と殺気は雲散霧消している。
「いこっか」
「ははははは、あはははははは」
笑い続けるアメリの手を引いて、カフェを出る。
とりあえず、午後の学業はサボろう。
どうせ、そんな気分ではない。
学院を出て、マーケットでお昼を採ることにした。
流石に虫には懲りていたので、シャルロッテが選んだのは辛いパスタを出す店だ。真っ赤なソースは亜人領から入ってきたものである。
「かっら、美味しいけど」
刺々しい気分の時はこんなものを食べるのがいい。
さんさんと照りつける太陽の下で、辛いものを食べる。あー、なんかイライラするのが治まらない。
「アメリちゃん、これどう?」
「ふふ、ははは、悪くはないですわよ」
可笑しいのかクスクスと笑うのがどうしても止められないようだ。
「ね、午後は遊ぼうよ」
「あら、何をされますの?」
「とりあえず、なんか食べたい。虫はもうヤだけど、明日のこととか体型とか気にせずに、さ」
「そう、それもいいですわね」
アメリは辛いものを食べているのに、汗もかかないし表情も変わらない。だけど、学院で見せるものよりは、いい顔をしているように思う。
胡散臭いヤツだけど、なんとなくほっとけないのだ。
次に食べたのは耳慣れない動物の乳で茶を割って、そこに黒い寒天を入れたという不思議なデザートだ。
甘味の強い乳のために、塩を入れている。そして、獣臭い。凄く獣臭い。
亜人種たちは学院の制服を着た女子がそんなものを食べるのが珍しいらしく、目を丸くしている者もいた。
甘い粥を食べて、最後に焼き菓子を食べていると、さすがに食べ過ぎたせいかお腹が重い。
休憩のために、今はマーケットの外れにある朽ちかけたベンチに座っている。
空気に湿気が混じり始めて、雨が降りだしそうな時特有の匂いがした。土っぽいというか、なんとなく嫌いになれないあの匂いだ。
「ねえ、どれが一番美味しかった?」
「どれも美味しいですよ」
アメリは味を感じない。
この分け身は、人間の形をしているというだけで、人ではない。
「そっかー」
「お姉さまは、どなたか気になる殿方はいらっしゃらないのですか」
「えー、なんで突然」
「お聞きしたいのです」
魅了の術を使ってもいいが、妖精に気付かれるかもしれない。それは避けたかった。
「実はね、こないだ幼馴染で双子の子なんだけど、両方から告白されて断っちゃった」
従軍する前、二人から直接想いを告げられた。
「あら、どちらか選べなかったの?」
「ううん、違う。昔からずっと一緒にいたんだけど、あの子たちって、多分、わたしのことお母さんみたいに思ってるって気づいたから」
フーゴとの決闘に至るまでの紆余曲折は、シャルロッテが鈍すぎるのにも原因があった。今は反省している。
「ほほほ、男はみんな母親の陰を追うものですわ」
「アメリちゃんは大人よね、そういうとこ。気になる人っていうかさ、多分、今は別のことで頭がいっぱいで、さ」
「どんなことですの」
「噂の人食い姫様。そんなに会って時間は経ってないんだけど、とにかく凄いの。あんな人、初めて見た。ほんと、ちょっとしか付き合いはないんだけど、きっと、時間があったら、もっと仲良くなってた気がする」
「……へえ、あの大罪人とですか」
「うん。本当に変な人だったけどさ。理由もなく皇帝陛下を弑(しい)しようとなんてしない。多分、何かあって、わたしには言えない何かが、あったんだと思う。お貴族様のことだしね、仕方ないって分かるの。でも、なんで言ってくれないかなあ。なんにもできないけどさ」
最後の言葉は震えていて、ベンチに背を預けて空を見るシャルロッテは、きっと涙が零れるのをこらえているのだろう。
どうして。
それは、シャルロッテとアメリが互いに思っていることだった。
呪いのようにこの大地に染み付いた予定調和のための人形が、どうして敵役にそれだけの関心を寄せる。どうして、人形が、美形の男を得るためだけの人形が、人間のようなことを言うのか。
どうして、あの端役でしかないリリーが、この妾に刃向い、あまつさえ一度とはいえ、妾を殺せるほどの力を得ているのか。
互いに何か言おうとした時、ぽつりと大粒の雨が額を叩いた。
「あ、降りだしたし。行こう」
シャルロッテに手を引かれて、マーケットではなく職人街の店の軒先へ逃げ込む。
炎の熱気と焼ける鉄の匂い。鍛冶屋だろうか。
「いらっしゃい、……またお嬢ちゃんかい。剣は売らんぜ」
店主の岩人は、シャルロッテと顔見知りなのか苦笑いを浮かべていた。
「ごめんなさい、雨宿りです」
「売り物で手ぇ斬るなよ」
言葉は乱暴だが、雨宿りは許してくれるようだ。
「ああ、そうだ、ここでリリーさんと会ったの」
シャルロッテは語る。
リリーとの出会いは、この鍛冶屋に剣を買い求めにきた折のことだ。
フーゴ・フレンデルとの決闘。そして、横入りと共に見たリリーの強さ。
間近で見た彼女の戦いはそれきりだ。あとは、鍛錬をする姿しか見ていない。
「へえ、全然違うんじゃなあ」
アメリは口調を変えるのも忘れて、そう漏らす。
その時、鍛冶屋の軒先に駆けこむ小さな影があった。
「あれ、あなた、どうしたの」
シャルロッテは語る言葉を止めて、闖入者に問うた。
それは、四つか五つくらいの小さな女の子だ。雨でびしょ濡れになっていて、その顔は今にも泣きそうになっている。
「ここ、どこ」
しゃくりあげるのをこらえている。
「ああ、迷子ね。大変だわ」
「迷子など珍しくないでしょう」
「いやいや、そうじゃないから。早くお父さんかお母さん捜してあげないと」
帝都は広い都市である。帝都の西門と東門、正反対にいる子供が迷子になってしまったら、見つけるのは不可能といっていい。
アメリ、マフの常識からすればそんなことはないと思うだろうが、遠距離との通信が可能な神具でもなければ、迷子で子供を亡くすというのは珍しい話ではなかった。
幼子の迷子というのはよくあるのだが、旅商人の子供などになると、そのままはぐれて会えなくなって、誰かに引き取られるか、孤児院に放り込まれるということも少なくない。
「おじさん、傘、貸してもらえますか」
「あいよ」
こちらを窺っていたのか、店主は小走りに駆けてきて番傘をシャルロッテに渡した。
「アメリちゃん、ごめん、探しに行くから」
ああ、アメントリルも、こんな無意味な善行をよくやっていたな。そして、最後に後悔していた。どれほどの善を与えても、それが自らに還るものではない。むしろ、悪意の矢となって返ってきた。
「……子供や、お前の父親でも母親でもよい。思い浮かべてみせい」
妙なことをしている。アメリはそう思った。
「え、おかあさん、おかあざあぁぁぁん」
「ええい、子供は嫌いじゃ」
アメリの指先に魔力が集まり、幼子の魔力波形を記憶する。帝都に置いた全ての要石と意識を接続して、幼子より読み取った波形を捜す。血縁者には似た波形が流れている。
アメリの意識に、術の副作用ともとれる反動が入りこむ。
母親に甘える子供の記憶、叱られて泣く記憶。様々な輝く色の記憶がアメリに流れ込む。この術は大嫌いだ。
「見つけた」
「おお、魔術師か。ほれ、傘だ」
岩人の差し出す傘は受け取らず、雨雲の広がる空に手を伸ばす。
何をやっているのか。いや、試運転だとでも思えばよい。
『リ・シ・トゥ・ギサン』
力ある言葉により要石と穢れの鳥より放たれた魔力が点を貫く。天候を強制的に変換。雨雲は帝都の中心から円状にかき消され、夕焼けの空が顔を覗かせた。
「えっ、ちょっと凄くない」
「あっちじゃ」
ああ、何をしているのだろうか。
なんだか顔を見られたくない。
アメリは早足で往来を進む。
「ちょっと、待って。足速いから、それ早足すぎるから」
聞いてやらない。
「待って、待ってってば」
シャルロッテは仕方なく子供を抱き上げて、走る。
学院の生活でなまった体には、幼児の重さはきつい。
雨上がりの街の匂いは、そんなに嫌いじゃない。
幼子の親はすぐに見つかった。
アメリが指差せば、女の子はシャルロッテの手から飛び出して、母親に抱きついた。
母親は、少女の名を呼んで抱きしめる。
二度と会えないかもしれなかった親子の再会。
夕日に照らされた親子の姿。
両親は何度も頭を下げて、お礼を言って。
幼子は「おねえちゃんたち、ありがとう」と舌足らずに言う。
旅商人は家を持たない。
親子がいるところが家になる。
親子は帰っていく。わたしたちに手を振って。夕暮れに消えていく。母親と父親の真ん中で、両手をつないで消えていく。
家に、帰るのだ。
「よかったね、会えて」
シャルロッテが言う。
なんとなく返事をする気になれなくて、アメリは遠ざかる影を見ていた。
「大丈夫だよ。大丈夫」
シャルロッテは幼子にするように、アメリの頭を撫でる。
なんとか逃れようとしたのををあやされて、シャルロッテにアメリは抱きすくめられた。
「……」
「大丈夫、寂しくないよ。わたしはいなくならないから」
ああ、泣いていたのか。
そうか、泣くとこんな感じだったか、随分と久しぶりのことで忘れていた。
「アメリちゃん、バニアス様の妹じゃないよね。お貴族様だし色々あるんでしょ。そういうのは、別に大丈夫。なんか、もうほっとけないし」
シャルロッテの手は暑苦しくて、その体も暑苦しい。
「かえりたい」
「そっか、今はこうしてたらいいから」
表情の失せた顔で涙を流すアメリを、どうにも見ていられなくて、シャルロッテはずっとそうしていた。アメリは、されるがまま。
二人の影が一つになって、大きく伸びている。
シャルロッテが特別な侍女として、水晶宮に
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