第25話 カグツチ
時は少し戻る。
セザリアの港、そこで一番高い物見櫓にカグツチはいた。
槍を片手にじっと空を眺め続けている。
港に残った人々は、空を見ることで彼女が何かを得ようとしていると、神秘的な何かがそこにあるのだと信じていた。
実際には、三十分おきに眠りと目覚めを繰り返している。
目を開けたまま眠れるのは、生前からの特技だ。
大きな気配が一つ、消えた。
「今か」
輝く槍を手に空を飛ぶ。
体内に渦巻く限りある魔力、そのほとんどを槍に込めた。
目標は自分自身を中心に許す限り最大値まで。自らよりも位階の低い『モンスター』を対象に分解する。
『万能』に属する分解であれば、カグツチがいなくなった後で『モンスター』が湧くこともあるまい。
大地がほんの一瞬輝いた。
命を奪った感触が来たことを確認して、カグツチは空を切り裂いて飛ぶ。
グレーテルはフランツには似合いのいい娘だ。
きっと、グレーテルなら、フランツのダメ男ぶりを見ても「わたしがついていてあげなきゃ」という思考で彼に尽くすだろう。
「悪い女は叩きなさい。決して、フランツを渡したらダメ」
きっと彼女は言いつけを守る。
含み笑いが漏れた。
地獄から戻らされて、地獄がまだ続くのかと思ったが、この地獄はたまに良いことがあって、それだけで不思議と良かったと思える。
また、強くなった。
リリーを見てそう思う。
カグツチから見れば、この大地に生きる彼らは脆弱だ。
能力という縛りで見れば、カグツチが叩くだけで、リリーは絶命する。
「ここでやろう」
そう問えば、
「応」
と、迷いなく返してくれる。
アメントリルよ、我が友よ。
お前の誓願は成就している。
人はこれほどに強くなった。
彼らは世界の奴隷ではない。
その証として死力を尽くす。
◆
リリーは呼気を整えて、木刀を握る。
黒の戦乙女カグツチ。
真昼の太陽に照らされた彼女は、小柄な少女に見える。しかし、その全身より放たれる鬼気は、死神に劣るものではない。
「槍は、とらんのか」
「槍ばかり有名になったけど、あれは術具。本命はこっち」
カグツチが手を振れば、虚空より奇怪な武具が現れる。
それは、刃で出来た輪だ。一抱えほどもある大きな刃の輪。
「円月輪か」
「博識。正式名称は
カグツチは言うと共に、その小柄な体格からは考えられない勢いで円月輪を投げた。リリーが大きく距離をとって避けると、それは遥かな空に消えていく。
すかさずリリーが踏み込んだ所で、背後に迫る気配に大きく横に跳んだ。
大気に溶け込むように、煌めく何かが頬をかすった。血が、流れる。
頬の痛みで、死神に殴られた鼻がうずく。
「見えない刃、いつまでかわせる?」
「さっき、同じようなものを見たぞ」
風を斬る音で分かる。上か。
飛びのけば、地面に突き刺さった円月輪が姿を現してカグツチの手元へ戻るところだ。
「……それタイミング悪い。初見ならやれたのに」
リリーは小さく笑う。
確かに、死神の『真空波』とやらを体験していなければ、不可視の円月輪の鋭さには対抗できなかっただろう。
「いま、わたしは調子がいい。伝説の英雄とやらの力、打ち破れる気がするほどにな」
死神との戦いで疲弊しているのは確かだ。
全身から力は抜けていて、鍔迫り合いをやれと言われると辛いものがある。しかし、頭と体の芯は、まるで焼けた鉄のようだ。
大気に溶け込む透明の刃ですら、その存在を勘と気配で読み取れた。
理屈ではない。
渡り合えると、戦いと鍛錬で変異したと呼んで差し支えない
「……耐久力も能力も変わらないのに、怖くなったね。これだから、人間は素晴らしい」
言葉に割いていた時間が終わる。
二人は、どうしてか言葉を挟むのが惜しくなった。
先に動いたのはリリーである。
横凪ぎの一撃を見舞えば、カグツチはそれを素手で受けた。
「ぬう」
異様な手応えにリリーは唸る。
人を叩いた感触ではない。まるで、柔らかな土を打ったような重たい感触だ。それでいて、重さそのものによる骨に伝わるような反響は無い。
カグツチが後ろに飛びながら、円月輪を投げる仕草をした。見えぬ刃を反射的にかわそうとして、踏みとどまる。
飛び退ろうとしたところを、鈍い輝きが通り過ぎた。断ち切られた髪の先端がはらりと舞い、頬がざくりと切れて出血する。
通り過ぎたのは不可視の円月輪。子供だましとも呼べる技であるが、その威力は一撃で人どころか岩をも断ち切るほどである。
「どうして気づける?」
カグツチの問いには答えない。
距離を詰めれば、カグツチは円月輪を軽々と短剣のように振るって応戦した。大きな刃ともなれば、相当の重さがあるというのに、軽々と振るう。小さな身体に対して、あまりにもその力は大きい。
異常であるが、当然の奇跡である。
なぜなら、彼女は黒の戦乙女カグツチなのだから。
◆
曰く、夜闇から産まれた魔の反逆者であると。
カグツチという女は、元々は魔であったとされる。
アメントリルと出会い、信仰に目覚めたカグツチは巡礼の仲間となり、敵対する禿鷹の魔人どもを打ち倒した。
骨相のレガメラは魔人と共に現れた大悪魔の一柱である。
アヤメとウド。そんな伝説の悪魔を打ち倒した現代の英雄たちもまた、カグツチとリリーの戦いに目を奪われていた。
カグツチの攻撃は暴風の如く。
リリーはその暴風に立ち向かう、唯人である。
「ああ、なんということ」
アヤメは自らの胸が打ち震えていることに気付いた。
これは感動なのか、それとも信仰の揺らぎなのか、彼女自身分からないでいる。ただ一つ、神の如き黄泉帰った聖人に立ち向かう者が、仲間であることだけが分かる。
どうして神は我ら力無き人に
アヤメに、コンゴウという家にとってカグツチは特別な存在だ。
かの聖人は、魔であった。だからこそ、どの英雄よりも魔を討ち果たしたのだ。カグツチに倣い、黒髪と黒目のアヤメは闇を友として、魔に近づき魔を討つ。
カグツチに認められるということは、自らの信仰が報われることで間違いない。
ずっと「カグツチ様のようになれ」と言われて、邪術に染まり生きてきた。
なのに、今は、リリーから目が離せない。
今まで、己は傷を舐めていただけではなかろうか。
運命とでも呼ぶべきものに立ち向かったことがあっただろうか。
「アヤメ殿、俺は加勢に向かいます」
ウドは、本音を言う時にだけ『俺』と称する。彼のそれは、本人ですら気づかぬ癖だ。
細作として生きたウドもまた、叶わぬ敵に相対して戦うような男ではない。勝てる戦いだけしかやらないはずの、そんな細作の習性を持つ者であるはずだった。
「レガメラ以上ですよ、カグツチ様は」
「お嬢様に、アンタもいる」
ウドにとって、アヤメは近すぎて接し方の分からない女である。
教会の暗がりに潜む毒蛇。
コンゴウ家の者は、禿鷹の魔人の血を引く彼らは、ウドにとって悪い意味での昔馴染である。
細作であることを誰よりも嫌悪しているウドにとって、後ろ暗い気持ちにさせられるアヤメは扱いにくい。
互いに傷つかない位置にいた。
「気安く、呼ぶのね」
見えぬ円月輪は、カグツチの手に戻る時にだけ姿を現す。
月の欠片を剣とする、と伝説にはある。あれがまさしくそれか。
「いつ死ぬか分からん旅だ。遠慮はやめるぜ。それに、母上からあんたらを任されてる。俺は一番年上で、男だからな」
女色のリュリュが誰より気遣ったのは、義理の息子であるウドだ。そして、母の罪滅ぼしに、リリーとアヤメを助けろとも言った。
『あの子たちの救いの手となりなさい。わたくしと、おまえに伸ばされることのなかった救いの手に』
吸血鬼の穢れた聖堂で、リュリュはそう言った。
ウドは短剣を胸に飛び苦無を両手に四つずつ挟んだ。
「そうか、俺はこいつがやりたかったんだな」
ザビーネを死神とする行を積ませたのも、これが欲しかったからだろう。
人を救うということは美談である。しかし、誰がそれをやれるのか。
言葉にはできるだろうが、救いとはどこにあるのか。ザビーネは安らかに逝った。
「お嬢様、加勢致しますぞ」
「応ッ」
カグツチの不可視の刃は、ウドにとってなじみ深いものだ。
細作の潜む闇の奥には、それに近い業を為す者たちがいた。リリーの打ち破ったツチノコの秘剣もまた、それに連なる。
アヤメは司祭服に隠していた手斧を取り出していた。
師である伊達男のものより小ぶりな手斧であり、吸血鬼の巣に保存されていた穢れた銀で造られた業物である。
「神よ、これが間違いというのなら、進んで地獄に堕ちましょう」
聖句を唱えることで、熱くなっていた意識を戦いの冷たさに切り替える。
リリーの剣は情熱と意志のこもる熱いものだ。対照的に、アヤメの業は慈悲の一切を捨て去った凍てつく凶刃である。
「助太刀致します」
円月輪の攻撃をかいくぐるリリーの口角が半月のように鋭く引き攣れる。
マフと相対した水晶宮。あの戦いの呼吸が自然に出た。
互いの死角を相棒と補える。そして、援護を仕掛けるのは頼れる兄貴分だ。
鉄の意志で戦っているというのに、まるで、それはとても暖かな何かのようであった。
◆
強い。
リリー、アヤメ、ウド。
恐るべき敵であった。
カグツチにとって、彼らは攻撃を当てさえすれば弾ける血袋だ。なのに、自らの必殺を彼らは思いもよらぬ方法で切り抜ける。
この世界に落ちてから、望まない戦いの連続だった。
魔物と戦い、人と戦い、仲間であるはずのものと戦い、文化と戦い、哀しみと戦い、世界と最後に仲直りをした。
「簡単に倒せると思うな」
アメントリルという優しい狂人は、カグツチの友である。同じ苦しみと同じ哀しみに対して、アメントリルは世界を変えることで戦おうとした。決して、順応などしないと言い切った。
「アメントリルの率いた七聖人が一人、黒の戦乙女カグツチである」
カグツチもまた、友に報いねばならぬのである。
◆
人の形をした理外の存在であるカグツチは、強い。
カグツチの振るう円月輪の技は、洗練されているものの型にはまったものだ。円月輪を変幻自在に操っているとは言い難い。
だというのに、その攻撃には身を竦ませる迫力があった。
リリーは鬼女の力を引き出して木刀に乗せていた。
息吹の呼吸によく似ているが、この感覚は全く新たなものだ。
自然との同一化を目指す息吹により意識は清浄な高みへと引き上げられ、鬼女の持つ地獄の憎悪が闇へ引き込もうとする。
意識を中間に置く。
どちらにも傾かないところにあれば、息吹と地獄の力の両方が剣に乗る。
円月輪にこもる殺意をリリーは感じ取った。
不可視の斬撃を回避すれば、背後のアヤメが動いた。
どうして、こいつはいつも、何をして欲しいか分かるのだろう。もしかしたら、心を読んでいるんじゃないのだろうか。
「リリーっ」
アヤメの放った手斧が、カグツチへの手に戻ろうとした円月輪を弾く。
すかさず距離を取ろうとしたカグツチにウドの飛び苦無が襲いかかった。
カグツチは片手でそれを弾いたが、それは致命的な隙となる。
◆
師の息吹は大山のようであった。
山を相手に剣を振るなど、馬鹿なことだ。
リリーは、今でもどうして師を斬れたのか分からないでいる。
今なら、手が届くかもしれない。
山の大きさを競い合うのではなく、山に挑む人として。
リリーの木刀がカグツチの胸を袈裟がけに切り裂いた。
息吹と地獄が混然一体となった邪剣が、カグツチの、神の肉体を切り裂く。
木刀の軌跡からは、血の代わりに黒い塵へと分解されたカグツチの肉体そのものが大気に溶けだしていた。
「見事。私にかけられた呪わしき
カグツチは両膝より崩れ落ち、空を見上げた。
「ああ、太陽が」
青い空。
夏の青空には、雲と太陽がある。
太陽だけは、故郷と何も変わらない。
懐かしい思い出が頭を過る。
わたしは幸せ者だ。
二度死んで、その二度ともに悔いが無いのだから。
リリーは残心を解き、大きく息を吐くと、倒れるように座り込んだ。
連戦に次ぐ連戦に、全身が悲鳴を上げていた。
今は、声を上げる余裕もない。
フランツはカグツチに駆け寄った。
割って入ることすらできない自分は、どれほど不甲斐ないか。
「カグツチ様」
「フランツ……」
言葉はいらなかった。
必要なことは言った。そして、フランツにも、彼女に悔いが無いことは分かる。そんな顔だ。
「グレーテルを放しては、ダメよ」
「はい、約束します」
手を握れば、そこから暖かさは消えつつあった。
カグツチは近くで座り込むリリーを見やった。
「
リリーは声を出せず、拳を天に突き上げることでそれに応える。
カグツチの身体は黒い塵となって、大気に溶けた。
フランツの手の温もりもまた、塵と消えた。
「カグツチ様ッ」
残るものは何も無い。
それもまた、敗者の常である。
黒の戦乙女カグツチのいた証は、運命を導く首飾りのみであった。
◆
セザリアの港は、人食い姫の凱旋に沸き返った。
フランツはカグツチが大悪魔を倒して天に還ったと港の住人たちに説明した。優しい嘘である。
凱旋の宴は三日続き、奴隷たちの生き残りは英雄として迎えられた。
生き残った奴隷は七名のみ。大半は死んだ。
リリーたちは英雄らしく振る舞うことよりも、体を休めることを優先させた。
三日ほど静養している間に、フランツに頼んでいた船の手配も済んだ。
潮風を受けて、リリーは髪を抑えた。
過酷な旅の中で、髪はすっかりパサついてしまっている。
学院には短い間しかいなかったが、風呂や髪の手入れだけについては女中もいて快適だったな、と妙なことを想った。
港にはフランツを先頭に騎士、そして住人たちが勢ぞろいしていた。
リリー一行の船の手配は滞りなく済み、後は船に乗り込むだけである。
「学院長殿、最後にやるか?」
「いや、いまさらカグツチ様の名誉を汚すような真似はせんよ」
リリーのからかいに、フランツは大真面目に返した。
やるというなら、それもよかった。身内がやられて、その報復であれば受けねばならない。しかし、フランツはそういう考えではないらしい。
ヴィクトール叔父はどうしているだろう。
恩讐に報いることとなるのか、今はまだ分からない。
「学院長、いや、フランツ殿、グレーテルと息災にな」
グレーテルはフランツに寄り添っていた。
フランツは学院へ戻る。グレーテルはサリヴァン領へ。二人がどうなるかは分からない。固く結ばれた手も、いつかは離れることになるかもしれない。
「齊天后殿については、こちらも牽制しよう」
奇妙な縁だ。
リュリュに続き、フランツも助力すると言う。敵が味方になるのは政の道ではよくあるが、武の道ではあまり無い。
よくよく考えれば、アヤメとも始まりは敵だった。
「皆の者、さらばである」
セザリアの港の民は、この奇妙な戦を忘れることはなかった。
人食い姫の武人としての名声は、この戦いから帝国全土へ響き渡ることとなる。
船の甲板には、リリー、アヤメ、ウド、ミラール、ルース、そしてドガを始めとする犯罪奴隷の生き残り七名がいた。
彼ら奴隷たちは、髪の白くなった老人たちである。
彼らは船に乗り込む前に、リリーたちに平伏し、以下のようなやり取りがあった。
『あっしらも旅に連れていってくだせえ』
「死出の旅である。サリヴァン領へ向かえ、領民とする約定は違えぬ」
『あっしらは半端に生きた刺青者、姫様の故郷でも肩身の狭い思いしかできやしません。それに、染み付いた悪徒の生き方。また楽な方へ流されちまうのは目に見えてるンです』
「それが、どうして着いてくるということになるのだ」
『恐ろしかったが、あっしらは生きていると、初めて思えたんです。仔細は想像もつかねえが、大切な旅なんでしょう。あっしらの命、最後に意味があることに使いてぇ』
「ええい、勝手にせい」
船は進む。
脳男とやらの住まう霧深い魔の島へ。
騎士、殺し屋、達人、死神、聖人が立ちはだかり、ここまで来た。
リリーたちには、次の戦いの予感があった。
「
手を開けて、握りこむ。
カグツチを斬った感触、確かに何かに手が届いていた。齊天后への切り札となるやもしれない。
敵とは思えぬ敵であった。正しく聖人なのだろう。剣を合わせれば、その思いもまた強くなる。
良き者を斬るのもまた、運命なのか。いや、その運命を斬るのだ。
「修行をせねば」
息吹と地獄の合わせ技、今やれと言われてできるものではない。
カグツチの遺した首飾りの輝きは、船の進む先を示していた。
指し示すのは、遠くに見える霧に包まれた禁忌の島である。そこに、脳男が待つ。
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