第20話 戦乙女

 空を飛ぶというのは、とても、とても気持ち良いものだ。


 心地よさの中で、自らが人でなくなったことを強く実感する。

 この世界で生きていこうと思えるまでに、長い時間が必要だった。いや、そんなに長くはなかった。ただ、長かったように思えるだけ。


 黒の戦乙女カグツチは、帝都出立の前に、学院へ立ち寄っていた。

 体を透明化させて、隠密状態になって、気取られぬように自らの末裔を見やる。


 五百年も経って、名残は黒髪くらいか。


 フランツ・カグツチという名の子孫は、鬼畜眼鏡なんてあだ名の似合いそうなハンサムで、カグツチの愛した人に少しだけ雰囲気が似ていた。これが名残というものだろう。


 見た目だけは良い男で、放っておけなかった。


 いつも口だけは英雄らしいけど、肝心な時は涙目になっている。そんなダメな男だった。けれど、わたしのために命を賭けた。その時に「まあいいか」と思ったのだ。


 この世界で生きていくことにも、その男を愛することにも。


 土くれから蘇ったカグツチは、自分がただの複製なのか、それとも魂というもので動いているのか。どちらでもいいと思った。


 アメントリルの作りたがっていた学院で、自らの子孫が学院長を務めている。あの女がそれを知ったらなんと言うだろう。

 益体も無い考えから、口元に笑みが浮く。


「何者ですか」


 と、フランツ・カグツチが鋭い声を発した。

 いけない。油断しすぎて気づかれた。間諜か細作と間違われたかもしれない。


「ギィ・サ・リエン」


 鋭い詠唱と共に、光刃の魔術が放たれてカグツチに飛来した。


「あ、解けた」


 この程度の術では痛みもないが、透明化は解けてしまった。


「何者で、すか……。そのお姿は、まさか」


「こんにちは。あなたのひいひいひいひいひいひい御祖母ちゃんか、もっと昔の御先祖様だよ」


「ふざけたことを」


 まあいいか、とカグツチは思った。

 子孫の放つ魔術を槍で砕きながら、戦いとも呼べないものが始まる。




 フランツ・カグツチという男にとって、今の帝国は居心地がよかった。

 生来、人にも物にも情が湧かない性質である。


 父である宮廷魔術師は、フランツの性質を見抜くと早々に家を継がせるのを諦めた。

 フランツは魔術や研究というものには向いていたが、人として生きるのに向いている男では無い。

 齊天后という異常な存在に対しても、それがどのような生命か調べたいという欲求があるだけで、その行いをなんとも思わなかった。


 帝国はあと十数年以内に内乱か戦争を必要としていた国だ。


 繁栄を続け過ぎた結果として、増えすぎた貴族をどこかで一度減らさねばならない。そして、新たな褒賞の大地を必要としていた。こうなれば、内乱による粛清か領土拡大の戦争は避けられない。

 優れた頭脳がそれを予見させていたが、フランツにとってはどうでもいいことでしかない。

 最初から戦争を予見していた男にとって、齊天后マフもどうでもよい手合いだった。興味があることといえば、齊天后が言う争いの中で人は発展するという言葉だけだ。

 魔術が廃れたのも、使い手が限られる技術だからだ。必要がなくなれば、不便なものを使うことはない。

 誰でも使えるものは日々進化を続けている。

 戦争で道具と文明は進歩する。

 さもありなん、と感心した。

 歳を重ねて、多少は考えが変わることはあったが、フランツ自身、自らの人でなしの本質は何も変わらないと思っていた。

 これからもきっとそうだと、この時までは思っていた。



「降参?」


 カグツチの言葉に、フランツはうなだれた。

 全ての魔術と剣術が通じなかった。全て意に介さず、手で払われる。炎も、雷ですら彼女には通じない。

 小柄な少女は、自身の背丈を遥かに超える長槍をピタリとフランツの喉元に突き付けた。全く鍛えていないであろう華奢(きゃしゃ)な手が、長槍を自在に操っている。


「ま、参りました」


「よろしい。あなたの目の色、とても似てるわ」


 カグツチの瞳が細められた。

 見た目は少女なのに、その瞳は老人のようだ。

 フランツの生家に残る黒の戦乙女の肖像画に、目の前の少女はよく似ている。しかし、身長や体の起伏でいえば、少しだけ違う。


「あなたは、あなた様は」


「黒の戦乙女カグツチ。自分で言うと恥ずかしいわね」


「ご先祖様は、老いることなく生きて霊峰シビに葬られたと聞いておりましたが」


「マフのおかげで仮初の肉体を得ただけよ。本当の私はもう骨でしかない。ふふ、骨の一欠片にも情報が残っているのね」


 フランツにとっては理解し難い言葉だ。


「どのような御用でこちらに」


「別に、用があった訳ではないよ。ただ、子供たちがどうなったのか見たくなったから」


「カグツチの家は、あれから」


 フランツの語る生家の歴史は長い。

 要約すると、カグツチの子供たちはただの人間だった。宮廷魔術師を幾人も輩出する名家であり、フランツの親戚筋や兄弟はその血を誇ることもあるが、ただの人間にすぎない。カグツチはそれを確認して、笑みを浮かべた。


「よかった、子供たちは人として死ねたのね。あなたにも髪の色くらいしか遺伝してない。そっか、うん。黄泉帰よみがえった甲斐があった。世の中はどうなっているの? 農奴狩りは、異端審問は、疫病は消せたの、教えて」


 アメントリルとその仲間たちが行った偉業の一つに、幾つかの病や伝染病の治療がある。ネズミの運ぶ病から身を守る方法や、衛生についての革新などである。


「今でも、流行病にはアメントリル様の記した教本が用いられています。御説明差し上げますので、どうぞ、椅子に」


「ええ、ありがとう」


 その後、フランツは使用人を呼んでお茶と菓子を用意させた。

 戦いの余波で嵐の通り抜けた後のようになっている学院長の部屋で、二人は語り合う。

 カグツチは、フランツから五百年で国や文化すらも変わったということを教えられた。

 フランツは、カグツチから神話時代の英雄が行った偉業がいかに血生臭いものであったかを教えられた。

 七杯目の茶と、軽食を使用人に命じた時には、夜半にさしかかっていた。


「そっか、我々のやったことは間違ってなかったのね」


「ええ、歴史を学べばアメントリル様とその仲間たちが行ったことは、世界を変えたのだと分かります」


 清潔な都市と高い識字率。そして、学院の存在でも分かるほどに、帝国は全てが高い水準にある。


「わたしの生きていたあのころは、暗黒時代だったわ。農村じゃあ飢えて人を喰うのも当たり前。わたしたちは、この世界で生きることに絶望しそうに、いいえ、絶望したの。だから、その全てをぶち壊してやろうと思ったのよ」


 そう言ったカグツチは少女のように笑った。


「アメントリルが一番酷かったのよ。みんなは聖人だとか聖女だとか言ってたけど、アイツは本当に酷かった。人を堕落させるために『自由』『平等』『博愛』を唱えたの。アイツのやった演説の邪悪さったら、今思い出しても笑っちゃうくらい」


「お言葉が過ぎます。そのようなことが教会の耳に入ったら」


「そう、それよ。教会に権力を持たせるためにやったのよ、アメントリルは。教会騎士団なんて言ってたけど、元は傭兵に農民、それに山賊もいたわ。捕まえてきた連中を鍛えて、騎士団を作ったの。最初の教皇なんて、生臭でちょっと抜けた男だったのよ。アハハハ、あいつが教皇って、すぐヘマをするのに、今じゃあ聖人なのよね」


「な、なんと」


「他にもたくさんあるわよ。歴史ってキレイなとこだけ拾ってくるけど、あの時のわたしたちは、この世界が憎くて憎くて、だから、世界を徹底的に変えてやろうって。でも、途中からはどうでもよかったかな」


「どういうことですか」


「護りたいとか、大切なものだとか、そんなのができちゃった。だから、黒の戦乙女って呼ばれることも受け入れた。それで、あなたからしたらひいひいひいひいひいひい御爺さん? になる人を愛したの。あなたの目元は少しだけあの人に似てるわ」


 カグツチの伸ばした手が、フランツの目元に触れた。

 柔らかな、槍を握る手とは思えない、少し冷たい手だった。


「さあ、わたしはもう行くわ。フランツ、何があっても生きなさい。あなたたちは、カグツチ、いいえ、わたしの生きた証なんだから」


 フランツ・カグツチという男の心は冷たい氷に覆われている。

 生まれつき情愛のようなものが無いのだと、そう思っていた。


「いずこへ向かわれるのですか」


「人食い姫を倒しに行くのよ」


「齊天后の命令ですか」


「ええ、アレの術で仮初の命を得ているからね。命令には逆らえないの」


「術ならば、破れるのではないのですか」


 どうして、こんなに必死でそんなことを言ってしまうのか。フランツには分からない。


「マフの術は特別なのよ。それに、あれは友達だからね。もう言葉は届かないけど。人食い姫が世界の呪縛を解いていれば、きっとわたしを倒してくれるはず」


「ついて行きます」


「……馬鹿なことを言うのね。どうして?」


「行かなければ、一生後悔する気がするのです」


「そう。それもいいか」



 この日、フランツ・カグツチは彼女に抱かれて空を飛んだ。

 カグツチの黒い羽は、空を切り裂くように飛ぶ。

 生物の、鳥が飛ぶのとは根本から違う。この世の理、ありとあらゆるを無視する神話時代の力だ。

 禿鷹の魔人と呼ばれる英雄たちが作った時代の御業である。



◆◆


 空から見下ろす景色は、驚くほどに美しい。

 汚いものは全て隠されて、見下ろす世界は綺麗なものだけが見える。

 一時間も飛んだだろうか、カグツチが地面に急降下を始める。


「何をなさいますっ」


「お腹が空いた」


 それは分かる。しかし、大地に激突するかのような速度で降りることはあるまい。

 フランツは悲鳴を上げそうになるのを我慢した。氷の如き鋭く冷たい理性が、悲鳴を上げて舌を噛むことを拒否した。

 大地に降り立つ瞬間、予想していた衝撃はなかった。

 ふわりと足元が浮かぶような空気の動きを感じて、優しく地に足をつけていた。


「し、心臓に悪いですよ」


「ああ、ごめんなさい。あなたも、あの人と同じことを言うのね」


 カグツチは嬉しそうに笑った。

 少女めいた顔立ちに浮かぶものは、熟れた女の艶めいた笑みのようで、フランツは言葉を失う。


「フランツ、そこにいると危ない」


「は、なんですか」


 そこで背後からの剣呑な音に気付いた。

 巨大な獣の唸り声だ。

 振り返って飛び退るのと、爪が通り過ぎるのは同時だった。

 瞬時に防衛術式を展開したが、どれほどの意味があるか。

 巨大な灰色の狼だ。

 農民の住む小屋より大きなくらいの、信じられないくらいの巨体であった。

 憎悪の炎がぐるぐると瞳の中で踊る怪物である。


「こ、これは」


「フィーンドよ。ステーキはとても美味」


「あ、あれを喰うのですか」


「うん。腿が美味しい。それに、こういう化物は駆除しないといけない」


 カグツチが手を伸ばせば、虚空より槍が現れる。

 現世に存在しようがない輝ける槍は、カグツチがフィーンドと呼ぶ巨大な灰色狼を怯ませた。

 まるで神話時代の再現だ。

 アメントリルの時代には、このような怪物が多くいたと伝えられている。巨大な怪物の骨は各地にあるが、今となってはその存在は嘘のように姿を消していた。


「どこから出たか知らないけど、消えなさい」


 カグツチの姿が消えた。

 次の瞬間、フィーンドの頸動脈から血が飛び散る。

 目にも止まらぬ速さで動き、槍を振ったのだ。

 フィーンドは緩慢な動作で倒れた。

 狼の上に立つカグツチ。輝く槍の刃に太陽が反射して、その輝きを一層強くした。日輪のごとき輝きを背負う黒髪の少女。

 黒の戦乙女カグツチ。


「これが、神の槍か」


「あなたたちが言うところのクァ・キンの神具だよ。あっちに村があったから、持っていきましょう」


「は、しかし、大きすぎるのでは」


「持てる」


 少女は自分の体重を遥かに超えるフィーンドの巨体を担ぎ上げて歩む。

 驚きすぎて、よく分からない。今の自分はどんな顔をしているだろうか。フランツはそのように思った。



 村に入ると、驚きの後で歓声によって迎えられた。

 この怪物は、三日ほど前から近隣で人や家畜を襲っていたのだという。領主に報告して兵士を出してもらったが、それも戻らなかったそうだ。


 盗賊の類に村を荒らされる以上の絶望に支配されていたところに、その元凶を片付けた者が来た。

 フィーンドの巨体を、村人総出で血抜きをして、毛皮を剥いでいく。

 人食いの怪物だが、皆で食べることになった。敵を食べることで、死者への供養とする。腹の中からは兵士たちの鎧や首飾りが出てきた。

 親類だったのだろうか、泣き崩れる村人がいる。

 歓声と嗚咽の夜を迎えて、宴が始まった。


「昔とは違うね。この村は飢えてない」


「飢饉はここ五十年ほどは起きていませんよ」


 フィーンドの肉を焼く良い匂いが漂う。そして、フランツとカグツチの所にもワインと焼酎が回ってきた。


「そっか、食べれるようになったんだ」


「神代の時代は、貧しかったのですか?」


 カグツチは悲しげな顔で笑った。


「うん。村人は、どれだけ親切にしてやってもこんな風に迎えてくれなかった」


 帝国の成立以前、荒れに荒れていた。

 群雄割拠の時代というのは、ただ生きているだけでは生き残れない時代である。カグツチの知る村々は、常に争いと飢えがあった。


「初代皇帝の偉業もそうですが、仁皇であるべしという考え方があるのは確かですね」


「そっか。うん、よかった。さあ、食べよう」


 フィーンドの肉が焼ける匂いだ。

 一番先に、仕留めた者が食べることになっている。

 村娘から渡された肉を、カグツチは嬉しそうに頬張る。

 怪物を一撃で仕留める戦乙女も、今は可愛らしい少女だ。カグツチの家の祖先は、戦乙女のあらゆる面に惹かれたのだろう。なんとなく、分かる。

 牧歌的な宴だ。

 村人たちが笛を吹き、炎を囲んで踊る。

 炎に照らされるカグツチの横顔に、フランツは不思議な感覚を覚えた。


「フランツ?」


「あ、いえ、カグツチ様は、不思議な方だと」


「そういうところも、あの人に似てる。フランツ、人食い姫と会ったことがあると言っていたけど、どんな人だった?」


「あ、いや、なんというか、よく覚えていないのです」


 変わった女だとは思った。だが、それだけだ。

 学院の生徒でよく覚えているとしたら、第一皇子やシャルロッテくらいか。特に、シャルロッテは真っ向から噛み付いてきた変な女だ。


「フランツ、人と目線を合わせなさい。孤独は、一番辛いことなのよ」


 カグツチが思い描いたのはマフのことだ。

 マフは、昔からずっと孤独だった。仲間たちとも距離を取っていて、最後までこの世界を受け入れなかった。それでも友達で仲間だとカグツチは思っている。


「マフは孤独なのよ。世界に、人間は自分一人きりだと思ってる」


「そのようには」


「見えないでしょうね」


「はい」


「何もかも失って、新しいものをたくさん得たの。フランツ、あなたがいてくれたことが、私の生きた証。遺伝子は受け継がれた。それに、世界は変わった。あの子は、気づいてないだけなの」


 暗黒時代を切り開いた。だからこそ、今がある。


「齊天后殿は、何をされようとしているのですか」


「アメントリルがしたように、時計の針を進めること。人間が生きて、進歩していく速度を速めたいの。月に行けるくらいに」


「月に」


 空を見上げれば、満月が雲間から黄色い顔を出していた。


「そう、行けるのよ。いつかきっと」


「どんな所なんでしょうか」


「ウサギはいないわ」


 宴は続き、村長の屋敷に一泊することになった。





 リリーたちは吸血鬼の回廊を抜けて、久方ぶりの太陽を見た。

 長い地下から抜け出ると、大気の匂いや草花の匂いを心地よく感じられた。

 リリーは大きく伸びをして、夏の大気を吸い込んだ。

 ぐっと伸ばした体が、陽射しの暖かさを感じ取る。少しの後ろめたさは、鬼女の魂の恥じらいか。

 あれからずっと、奇妙だ。


「太陽は、こんなに眩しいものだったか」


 地獄の獄卒かと思えるシャザとの修行は、地下の奥深くで行われた。柔らかな土を踏む感触は、吸血鬼の巣穴にはなかったものである。


「あら、詩的ですわね」


 と、アヤメが軽口を叩く。

 この女とも随分と気安くなった。毒蛇も慣れればそんなに怖くない。


「まあな」


「皮肉ですが」


「お前はアレか、何か悲しいことがあって口が悪くなったとかその手のアレか。それとも好きな子をいじめたくなるアレか」


 別に怒っている訳ではないが、言い返してやりたい時もある。しかし、リリーには上手い言葉が見つからない。


「だ、誰が好きですか」


「そこに反応されると私も照れるな」


 空を見やれば、雲が流れている。

 夏は、こんな青空が一転して雨になる。

 師は、雨の匂いに敏感な人だった。それも剣で覚えたのかと問うたことがある。


『生まれつきだよ』


 と、師は呆れたように笑って言っていた。あまり笑わない人だった。だから、その時の顔をよく覚えている。


「少し、変わりましたね」


「そうかな、自分では分からんものだよ」


 自分では自分の愚かさも小ささも分からない。そして、大きさや優しさも同じように分かれない。

 風が吹いた。

 ほのかに潮の匂いがした。


「そうか、海は初めてか」


 ぽつりと、リリーは独り言を漏らした。

 鬼女のリリーのいた世界は、屋敷と学院と宮廷だけだった。広くはないが、明るく煌びやかで、同じだけ闇の深い世界だ。

 海とは、大きすぎる塩辛い水たまりだ。


「あら、海は初めて?」


「いや、まあ、初めて見るような気分になると思う」


「そうですか」


「アヤメは、海は初めてか?」


 気づくと、呼び捨てにしていた。


「いえ、二度目です。帝国へ来る時は船でしたから、驚きましたよ。話には聞いていたけど、こんなに広いなんて思ってもみなかったから」


 草を食んでいたミラールがゆっくりと歩き出す。

 物狂いの馬子、ルースはミラールを引いて、ウドは毎度のことながら先に様子を見にいっていた。


「塩辛い水が面白くてな。ついぞ口に含んでしまったのさ。喉が渇いたよ」


「あはは、リリーさんもそんなことをするのね。帝国へ入る時に、同い年の仲間もいたのですよ。同じことをしたわ」


「その仲間は?」


「もういません」


「そうか」


 いつもなら、アヤメはここぞとばかりに責め立ててくるが、今はそんなことをしなかった。


「もう一度、海を見たかったんです」


 道なき道をしばらく進むと、街道に出た。

 遠く、海が見える。

 どこまでも続きそうな青い世界だ。

 しばし、海を見ていた。

 世界の広さというのは、地図だけでは測れない。

 リリーは、鬼女であるもう一人の自身がこの光景に惹かれていることが分かった。

 鬼女は愛に狂い、リリーは剣に狂う。一つのことだけにしか情熱を注げない人間というものは、意外に多い。


「広いな」


 リリーはそう呟いた。

 あの先にはきっと何かがある。異国があり、それ以上の何かがあちら側にもある。


「アメントリル様は、あの海を越えたのでしょうか」


 それはどんな道のりだったのだろうか。

 華やかな冒険譚だけではないだろう。それだけは確かだ。


「脳男とやらが教えてくれるさ」


「名前だけで、まともじゃなさそうなのが分かりますわね」


「人食い姫と闇狩りがいるんだ。名前では負けていないさ」


「時々、あなたは面白いわ」


 歩く。

 セザリアの港で船を捕まえねばならない。

 近隣より恐れられるという狂気の島へと渡るのだ。

 脳男は、そこにいる。


「潮風が」

 

 強い風が吹き抜ける。アヤメは髪を押さえた。

 セザリアの港は、リリーとアヤメも過去に訪れたことのある街だ。

 貿易港である華やかな都市だ。ヴェーダほどの文化的な洗練は無いが、異国人との混血や亜人種の多い港町である。

 ミラールが高く啼いた。


「これは、血の匂いか」


 リリーとアヤメが歩を進める先に、それはあった。

 矢を射掛けられた怪物の死体である。

 巨大な鶏の頭を持った鳥類だ。


「バジリスク、ですか」


「アヤメ、知っているのか」


「ええ、ごく稀に山の中で産まれる魔物です。こんな町に近いところにくるようなものでは……」


 ウドが戻らないのはどういうことか。

 街道を進むと、巡回の兵士たちがやって来る。


「旅人か」


「帝都から参ったが、そちらに怪物の死骸があったぞ」


 兵士たちは、油断なく弓を構えていたが、リリーが手形を見せると肩の力を抜いた。


「ここしばらく、怪物が出ている。この道は安全だ。早く街へ進まれよ」


「怪物ですって、どういうことですか」


 アヤメが声を上げた。


「……司祭さんか。今、セザリアは戦乙女殿が守ってくれているが、詳しい話は街で聞いてくれ。俺たちが巡回をしているが、鐘の音が聞こえたら町まで走れ、いいな」


 兵士たちはそれ以上とりあわず、先へ進む。


「どうなってるんでしょうか」


「なんにしろ、急ぐぞ」


 セザリアの港はすぐそこだ。

 またしても予感があった。

 死神の鎌が首にかかったような、不吉な戦いの予感である。

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