第18話 家なき子⑤

 3月に入り、もと子は就職先の病院から寮に引っ越す日が決まったと連絡が入った。引っ越し前日、リュウの部屋での最後の晩ご飯となった。国試が終わってからはもと子がリュウと自分の2人分のご飯の用意をしてきた。もと子は心を込めて晩ご飯を用意した。

「もとちゃん、明日から病院の寮やな。仕事は来週からか?」

「はい。お世話になりました。ようやく看護師になります。」

もと子は笑顔で頭を下げた。

「うん、頑張ったな。これからいろいろ大変なことあるやろうけど、負けんと頑張れよ。辛いことあったらいつでも愚痴りに来て。」

「ありがとうございます。ここまでこれたのはホントにリュウさんのおかげです。私、何にもリュウさんに恩返し出来てない。これからさせてくださいね。」

「アホやな。そんなん気にせんでエエんやで。恩返しって、それで言うんやったら国試終わってからずっともとちゃん、飯作ってくれたやろ。俺、いつも今日の飯なんやろ?ってスゴイ楽しみやったんやで。こんな楽しみ味わったんは初めてや。もとちゃん、ありがとう。」

みるみるもと子の目が潤んできた。

「私、またご飯食べてもらいたいです。作りに来ていいですか?」

「もちろんや!また一緒に飯作って、食おう。」

リュウはもと子の頭をクシャクシャと撫でた。

「もとちゃんが一生懸命作ってくれた、次はいつ食べられるかわからん貴重な飯や。冷めんうちに頂こう。」

2人は両手を合わせた。いただきます。

今夜のメニューはリュウの好きな焼きサバ、豚肉の生姜焼き、卵豆腐、厚揚げと玉ねぎと小松菜の炒め物、カボチャの煮物、グリーンサラダにジャガイモと玉ねぎとワカメの味噌汁である。リュウは焼き立てのサバを始め、次々と箸をつけ、どれも美味しそうに頬張った。

「もとちゃん、美味しいわ。腕あげたな。」

リュウに褒められたがもと子は眉を下げて、泣き笑いの顔をした。

「もとちゃんの手料理、次はいつ食べられるんかなあ。名残惜しいわ。」

「さびしいです。私…」

もと子は箸が進まない。ポタリポタリともと子の顔のしたの辺りのテーブルに水たまりができている。

「俺かてさびしいで。涙止まらんか?」

もと子は顔をあげられない。

「んーじゃあ、来月のシフトがわかったらラインしといで。休みが合う日に一緒に飯食おう。な?」

もと子は涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、右手に箸を持ちながら涙を拭った。

「…ホントに?」

「ああ、ホンマやで。俺にできる事で、もとちゃん、元気出る事あるか?」

「リュウさん、あのね、もしよかったらリュウさんのコロン教えてください。看護師は香水はアカンねんけど、スゴイ落ち込んだ時にリュウさんのコロンの香りを部屋で嗅いだら、リュウさんに励ましてもらってる気がして元気出るかなって。」

「よしよし、わかった。ご飯終わったら教えるな。」

ありがとうございます、と言うと、もと子は泣きそうな顔で微笑んだ。そしてリュウに促され、ポツポツと箸をつけ始めた。


昨夜のご飯の後、メソメソしていたもと子は泣き疲れてすぐに眠ってしまった。今朝もと子が起きるとテーブルの上にメモがあった。

"バンを借りて来るので、朝ごはん食べて用意しといて。"

リュウはもと子の荷物を運ぶのにロキからバンを借りていた。もと子の荷物は多くない衣類、教科書等の本、ピンクのママからもらったお古のカラーボックス2つと姿見の鏡。それに寝具。リサイクルショップで買った小ぶりのタンスはすでに寮に搬入してもらったもののバンがあれば荷物を運ぶのに安心だった。

1人、テーブルに用意された食パン、ウインナー付きのハムエッグとサラダを寝ぼけ眼でもと子は食べた。ボッーとしていた頭もご飯を食べるに従い、シャッキリとしてくる。今日からまた1人暮らし。しかも看護師として働くという、夢の第一歩が始まる。両手で頬をパンパンと叩いて、気合を入れた。

身支度をして、食器を洗い、引越しの最終チェックをした。準備万端を確認してすぐ、リュウが戻ってきた。

「もとちゃん、準備できたら行こか?」

もと子は元気よく返事をすると貴重品を入れたバッグを肩から斜めにかけ、右手にピンクのママから借りたカート、左手にボストンバッグを持った。カートとボストンをバンの後ろにのせてもらい、もと子自身は助手席に乗り込んだ。リュウはその間に本等の荷物の入ったダンボールを数箱、バンに詰め込んだ。リュウは運転席に乗り込むとお古の折り畳みの机をもらうためにピンクのママの住むマンションへと車を走らせた。30分も走らないうちにママのマンションに到着した。ママは既にマンションの入り口に待っていた。

「おはようございます。ママさん、今日はありがとうございます。」

もと子はママに挨拶をして、ママの傍らにある新しい段ボール箱に気がついた。

「もと子、とうとう夢の第一歩やね。この間は、せっかく合格を報告に来てくれたのにお店混んでで、ほったらかしになってごめんね。また落ち着いたら絶対に顔見せに来なさいよ。」

「ママ、おはよう。下まで来てくれてありがとう。荷物どれかな?」

リュウの問いかけにママは傍らの新しい段ボールを指差した。

「え?これ新しいんちゃうん?」

「そうよ。もと子への合格祝よ。旅立ちの門出にお古なんかあげられないじゃない。」

「ママさん、私、お世話になってばっかりなのにもらっていいんですか?」

「当たり前でしょ!」

ママは笑顔で返した。もと子は目を潤ませ、指先で目をこすった。ママは思わずもと子を抱き締めた。

「もう、あんたったら可愛いんだから。頑張んなさい。でも、いつでも愚痴りに来なさいよ。全部聞いてあげるから。」

ママの逞しい腕の中で多少息苦しく感じてはいたが、もと子は嬉しくて何度もうなずいた。

「あ、そうそう、忘れるところだったわ。」

ママは腕を緩めてパンツの後ろのポケットから口紅を出してきた。

「これ、お客さんからもらったんだけど、あんたに似合うと思ったの。これよかったらデートやお出かけの時に使ってみて。」

口紅はパールピンク。優しい雰囲気がもと子によく似合いそうだった。

「ああ、素敵な色ですね。」

もと子は手に取るとうっとりとながめた。

「気に入ってくれて嬉しい。リュウ、あんたこの口紅したもと子をどっか連れてってやんなさいよ。」

リュウは笑って、もとちゃんが落ち着いたら絶対連れてくわとママに約束した。2人のやり取りを見ていたもと子にママはこっそりウインクし、もと子は顔が熱くなってきた。

ママからのプレゼントをバンに積み、ママに手を振るとリュウともと子は寮に向かった。寮に荷物を積み込み、部屋でリュウはカラーボックスを組み立て、もと子はダンボールを開けて荷ほどきをした。1時を少し過ぎ、ようやく生活できるぐらいに部屋が整った。

「もとちゃん、だいたい出来たかな。そろそろ昼飯食いに行こか?」

寮は病院のすぐ近くにあった。病院は駅からのアクセスもよく、駅周りのビルのビジネスマン目当てのレストランや居酒屋などの飲食のお店も多数あった。

「さあて、何食べる?せっかくやからもとちゃんの好きなんにしよ。俺のおごりやから好きなん言いや。」

「じゃあ、オムライス。」

もと子のリクエストで町の洋食屋という感じのレストランに入った。昼食には少し時間が過ぎていたせいか、客はそんなに多くないが、こざっぱりとして清潔な店内は居心地が良かった。

「このお店、先輩に美味しいって聞いてたんです。特にオムライスがおすすめだそうです。」

2人は先輩からの情報に従い、もと子は普通サイズ、リュウは大盛りのオムライスのセットを頼んだ。しばらくして2人の目の前にスープと目にも鮮やかな黄色い卵焼きにたっぷりとケチャップがかけられたオムライスとサラダが運ばれた。

「オムライスの上の卵はてっぺんにスプーンを入れると割れて、中から半熟のトロトロ卵が出てきますよ。」

オムライスを運んできたシェフの奥さんがニッコリと笑った。リュウともと子は顔を見合わせ、おもむろにオムライスのてっぺんにスプーンを入れた。すると、ハラリと卵の表面が割れて、中からトロトロの半熟卵が流れ出した。流れ出した卵はしっかりケチャップ味のついた硬めのご飯に絡んだ。卵のしたのチキンライスは酸味としっかりしたトマトの旨味が感じられ、それだけでも十分美味しいがトロトロの半熟卵が絡むと卵のまろやかさがまた違った味わいを生み出し、薄焼き卵に包まれたよくあるオムライスの場合とはまたひと味違った味わいだった。

「はあ、美味いわ。もとちゃん、先輩に感謝やなあ。」

「リュウさんのオムライスも美味しいですが、ここも絶品。」

ひと口ひと口、味わって口に運ぶ。2人は至福のひと時を過ごした。

オムライスを食べ終わり、コーヒーが運ばれた。ご飯が終わったらリュウが帰ってしまうとオムライスを食べる前は元気のなかったもと子が今やオムライスのおかげで笑顔が戻ってきた。

「もとちゃん、元気なってきたな。オムライス様さまやなあ。」

「あ、私ってゲンキンですね。さっきまでメソメソしてたのに。」

もと子は恥ずかしそうに笑った。

「旨いもんは偉大やってことやな。」

リュウはウンウンとうなずくと、バッグからビニール袋に入れた小さな物を出し、もと子の前に置いた。それは百均で売ってる旅行用の化粧水等を入れる入れ物だった。

「前、もとちゃんが言ってた俺が使ってるコロン。」

「下さるんですか?名前を教えてもらえたら自分で買いますよ。なんか、悪いです。」

「毎日使うわけでも無いんやろ?ワザワザ買わんでエエやん。無くなりそうになったらいつでも連絡してきいや。遠慮無しやで。」

用がなくては辛いことがあってもリュウに連絡も出来ずに我慢しそうなもと子がリュウに連絡しやすいよう、リュウは口実を作ってやった。

「リュウさん、,,,ありがとうございます。私、頑張りますね。でも、たまには愚痴を聞いて下さいね。」

「いつでもドンと来いやで。」

リュウはウインクして、右手の親指を立てた。もと子は泣き笑いのような笑顔を見せると唇をかみしめた。

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