第4話 生活力向上計画②
時折吹き付ける冷たい風にもと子はついマフラーの端を引き上げて顔を埋めた。今、首に巻いているマフラーは先日、ピンクのママにバイトの報告をしに行った時、リュウから借りたものをそのままもらったもの。高いものではないけど、結構温かいからとリュウが自分が巻いてきたマフラーをくれた。少し前までリュウが首に巻いていたので、リュウの体臭と柑橘系コロンが混じった匂いがしっかりとついていた。リュウと会う度に、リュウからする匂い。妹のように可愛がってくれるリュウの匂いに包まれると落ち込んでたり、イマイチやる気が出ない時も元気が出る。不安な時も気持ちを落ち着けることができる。もと子にとって今や手放せない。まるで小さな子供が手放せないお気に入りの毛布のよう。今日も苦手な料理や家事を習うと言うことで少々気が重い。ところがリュウの匂いに包まれて歩いていると、もう今はリュウの手料理は何を出してくれるのか、そちらが気になっている。
「リュウさんのマフラーは魔法のマフラーやわ。」
もと子はクスリと笑った。
渡されたメモを頼りにリュウのアパートの前に着いた。木造の古い建物。築何年?このアパートの二階にリュウの住む部屋があった。ドア横のベルを押すとすぐにリュウがドアを開けた。
「おう、もとちゃん、いらっしゃい。はよ、上がり。」
リュウは、もとちゃんがいつでも俺から逃げられるようにあけとくから、ともと子に笑って言うとカギはかけずにドアを閉めた。
グレーのパーカーにジーンズ、長めの髪を後ろに束ねたリュウがいつもの人懐っこい笑顔で迎え入れてくれた。部屋は台所と六畳ほどのダイニング、その奥に和室が二つ並んでいる。和室は二つともカーテンが開けられていて、明るい日差しが差し込んでいた。一つの部屋には天井まで届きそうな本棚があり、ギッシリと本が並べてあった。それぞれの部屋では物は押し入れの中に納められているようで、こざっぱりしていた。
「あの地図で分かった?もとちゃん、賢い子で良かったわ。駅まで迎えに行くって言わんかったんは失敗やったか?って昨日の夜、悩んでたんや。あ、コーヒーでいい?」
もと子が頷くのを確認して、リュウはペーパーフィルターでコーヒーを入れ始めた。コーヒーの香ばしい香りが漂う中、もと子にイスに座るよう声をかけた。
もと子はバッグをダイニングの壁際に置くと、2人がけのテーブルのイスに腰掛けた。テーブルはホームセンターでよく見かけるような四角い焦げ茶色の木製。ただ2人がけにしては余裕がある。テーブルの上には何も置かれてなく、きれいに拭いてあった。
「リュウさん、きれい好きなんですね。私、自分の部屋を考えると恥ずかしい。」
「なあに言ってんの。もとちゃん、来るから大急ぎで片付けたんやん。和室の押し入れ開けたら、いろんなもの落ちて来るで。」
お待たせ、と言うとリュウはコーヒーとクッキーをテーブルに出した。
「もとちゃん、コーヒーに砂糖とミルクいるやんな?」と、聞くと冷蔵庫を開けて牛乳を取り出した。もと子は何の気無しにチラリと冷蔵庫の中を見た。冷蔵庫の中はタッパがいくつも入っており、見た事はないが男の冷蔵庫のイメージよりはるかに整理されている気がした。自分の部屋の何も入ってない冷蔵庫。思い出すと、もと子は頭を抱えたくなった。
「ガックリ。」
もと子の顔にそう書いてあるのに気づいたリュウは苦笑いをした。
「あのな、もとちゃん、俺は大学生の弟が高校卒業するまで弁当作ってきたし、今も飯は俺が作るんやで。もとちゃんとは経験値が違い過ぎるやろ?初めはうちも何も無い冷蔵庫やったで。安心して。」
もと子のコーヒーに砂糖とミルクを入れてやりながら、クスクスと笑った。
「え、でもリュウさん、凄すぎ…」
「アホ、今からめげてどうするねん。大したもんは作れへんから安心して。まあ、一服してからヤル気出そう。」
もと子はおそるおそる、出されたコーヒーを口元に持っていった。すると、フワリと香ばしい香りが漂い、思わず大きく息を吸い込んだ。
「な、ええ香りするやろ?普通の豆やけど、やっぱり入れたては香りが違う。ファーストフードのコーヒーではこうはいかんからなあ。とはいえ、うちも普段は粉コーヒーやで。」
「え、じゃあ今日は特別に入れてくださったんですか?」
「気にしてもらうほどの豆ちゃうで。疲れた時とか、たまにどうしても飲みたくなる時があるんよ。自分へのご褒美とか、もう一踏ん張り、ヤル気出すぞみたいな。」
「リュウさんもそんな時あるんですね。」
「そらそやで。だから、もとちゃんも頑張ってみ。」
もと子は頷くと、しばしクッキーをつまみながらコーヒーを味わった。
「さあ、ボチボチ始めるか。」
空になったカップとクッキーののっていた小皿を流しに入れると、リュウはもと子にエプロンを渡した。リュウは膝上までの紺のエプロン。もと子が渡されたエプロンはグレーのエプロン。どちらも厚手のしっかりした生地である。サイズはメンズの膝上なので、もと子が身に付けると膝が隠れてしまう。胸元を覆うのに首にかける紐も短くなるよう、リュウに手伝ってもらいながら調整した。エプロンは以前のバイト先でもらったもので、使い込まれて少し色褪せていた。
「もとちゃん、ご飯炊ける?」
「,,,高校の家庭科実習以来です。」
「家に炊飯器ある?」
「,,,無いんです。でも、卒業した先輩から電子レンジでご飯炊けるのをもらえました。」
「そうか、良かったわ。とりあえず今日は炊飯器でご飯炊こうか。」
リュウはうちの晩御飯の分も炊くからと5合の米をお釜に入れた。流しにお釜を置くと、蛇口から出た水で米を研ぎ始めた。もとちゃん、ちょっと見てて、と言うとしばらく研いだ後、もと子に交代した。
「かき混ぜるのとは違うんやで。親指の付け根に力いれて、グッと。そやなあ、米同士擦れる感じ。」
もと子はリュウの手つきを改めて見た。手は回すのではなく、動きは上下、手首をきかせる感じ。
「こ、こうですか?」
「そうそう、そんな感じ。」
米を研ぎ、白い水の濁りがなくなるまで水の取り替えを繰り返した。お釜を炊飯器にセットし、炊飯のスイッチを入れた。
「ご飯炊いてる間におかずの材料買いにいこう。」
リュウは自分ともと子のエプロンをイスにかけると、財布とエコバッグをいくつか入れたトートを肩にかけた。リュウともと子は並んで近くのスーパーに出かけた。日射しは穏やかで、散歩するにもちょうどいい。
「エエ天気やなあ。もとちゃん、ご飯食べ終わったら、ちょっと河原まで散歩しよか。」スーパーにつくまで途中の川沿いの遊歩道を歩きながら、のんびりと川を眺めた。普段は見たことのない渡り鳥が川面に浮かんで時々、魚を狙って頭を水中に突っ込んだり、背中に忙しくくちばしを動かして羽根を手入れしている。日射しを受けて、川面はキラキラと光っていた。
「リュウさんち、近くに川があって、いいですね。」
「そやろ、仕事帰りに眺めてたら、ちょっと癒されたりするねん。あんな鳥とかな、しぐさ見てると可愛いで。」
リュウは目を細めて小さな渡り鳥の群れを指差した。
「あー、鳥見てこんなん言うのもなんやけど、お昼、鳥しよか?とりむねは安いし、皮取ったらカロリーも低いから、若い女の子にぴったりちゃうかなと思って。」
「と、トリムネ?」
「分からん?鶏のむね肉の事をトリムネって言うんや。」
「鳥のむね肉なんだ。トリムネって安くてヘルシーなんですね。覚えなくっちゃ。」
もと子はニコニコしてた顔を少し引き締めた。
「気合い入れる程の事じゃないって。おいおい、覚えていったらええねんで。今日は聞いたことない言葉がいっぱい出てくるんちゃうか?もとちゃん、真面目やなあ。」
リュウは切れ長の目を細めてクスッと笑った。
「そうや、今日のお昼、とりむねのソテーと野菜炒めに味噌汁にしようと思ってるねんけど、アレルギーとか嫌いなものある?」
「全部大丈夫ですよ。私、好き嫌いもアレルギーもないです。」
「良かった。昼飯の後、川原で食べるおやつ何する?プリンでも食う?」
「わあ!プリンですか?食べます!食べます!」
「ドウドウ、落ち着け、落ち着け。」
「もう、私は馬じゃないですよ!」
唇を尖らせるも、目を輝かせて子供のように喜ぶもと子をリュウは笑ってあやした。
スーパーに着いて、二人はとりむねと野菜炒め用のキャベツ、ニンジン、もやし、ピーマンと味噌汁用に豆腐、ワカメを買った。料理の材料を買う時、肉汁がパックの中にたくさんたまってるものはやめておく、野菜は全体を一通り見て腐ってるところや傷んでるところがないか見ること、豆腐は賞味期限内のものか確かめること等のアドバイスをリュウから受けた。もと子は小さなメモに一言ももらさぬよう手早く書き留めた。
そして最後にプリン。
「これは今日、頑張ったご褒美や。もとちゃん、好きなん選び。BIGプリンでもエエで。」
ヤッター!この一言でもと子はプリン売り場の前に駆け寄った。隅から隅までじっくりながめると、大きなBIGプリンを手に取った。
「あのお、お言葉に甘えてBIGプリンでもいいですか?」
「エエで。そやけど、俺のBIGプリンも
取ってきてや。レジの方、先に行っとくで。」
ハイッ!と元気よく返事をするとクルリと向きを変え、プリン売り場へと小走りで行く後ろ姿はなんだか微笑ましい。リュウはフフと笑うとレジに向かった。
買い物を終えて、アパートに着いた二人は先に手を洗い、各々エプロンを身につけた。
「もうすぐご飯炊けるなあ。じゃあそろそろオカズ作っていこか。まずはとりむねを一口大に切ろっか?」
「ひとくちだい?」
「ひとくちだいってのは、一口で食べられるぐらいの大きさってことやな。」
なるほど、と買い物の時にも持参した小さなメモに一口大の事を記した。
リュウはキッチンばさみを使ってとりむねの半分を一口大に切り、ポリ袋に入れた。
「じゃあ、残りはもとちゃん、やってみよう。」
大きさはこれぐらい?、もと子は初めはリュウに尋ねていたものの、すぐ一人で切り終えた。
「トリムネは脂が無くてヘルシーなんやけど、焼いたら固くなるんや。だけど、お酒かけると、硬くなりにくいねん。塩胡椒もかけといて、下味つけとこう。」
ビニール袋に入れたトリ肉に酒と塩胡椒を振りかけてビニール袋の口を縛り、冷蔵庫に入れた。
次にリュウは冷蔵庫から野菜を取り出し、切ることにした。
「野菜炒めの野菜は今日はキャベツ、人参、もやし、ピーマンにしたけど、冷蔵庫に余ってる野菜入れてもええねんで。別にこの組み合わせじゃないとアカンことはないねん。」
リュウは鍋に水を入れ、湯を沸かし始めた。
「野菜炒めなのにお湯沸かすんですか?」
もと子は不思議そうな顔をして、渡された野菜を流しの中で洗い始めた。
「あんな、キャベツの外側の葉っぱとか野菜の硬いところあるやろ。ああいうところは先に茹でて柔らかくしたら食べれるねん。まあ、節約やな。」
そういうと、キャベツの外側の硬い葉を手でむしり、一口大に切った。これを鍋の湯の中に入れた。さらにキャベツを縦に4等分に切った。「中の葉っぱは下の硬いところだけ、お湯に入れたら残りは普通に炒められるで。まあ食べやすいぐらいにザクザク切ろか。」
一度キャベツを切って見せるとリュウはもと子に包丁を渡した。もと子はこれぐらい?と尋ねながらキャベツを切り、硬い部分のある下の部分の葉を鍋に入れた外側の葉の上に続けて入れた。
「ピーマンは初めに縦半分に切って。中に種があるからヘタと一緒に取ろうか。それからこれも一口大ぐらいでいいよ。切ってみて。」
もと子はピーマンを縦に切ってヘタと種を取り出し、一口大に切った。人参は薄めの輪切りにおっかなびっくりで切った。硬さの取れたキャベツの硬い部分、ピーマン、人参、もやしとサラダ油をフライパンに入れた。新たに鍋に湯を沸かしながらフライパンで炒める前に味噌汁に入れる豆腐を切った。
フライパンに火を入れ、野菜を炒め始めた。
「野菜炒めは強火でささっと炒めるねん。野菜のシャキシャキ感が残ってる間に味付けするねん。俺は味付けは中華スープの素と酒、しょうゆをかけるねん。」
そういうとリュウは軽くフライパンを揺すりながら炒めるところをもと子に見せ、もと子に、やってごらんとフライパンを任せた。リュウは鍋に湯が沸くと顆粒出汁を入れ、次に豆腐と干しわかめを入れた。次に、しんなりとしてきたフライパンの野菜に味付けをすると、野菜を箸で摘まんで小皿に入れた。小皿の一つは自分に、もう一つはもと子に渡した。
「ん、大丈夫やな。もとちゃんはどう?」
「はい、美味しいです!」
味を確認して、リュウは野菜炒めを皿にあけた。
「味噌汁の味噌は、味噌汁の具が煮えたら一度火を止めて、入れるねん。それで鍋が一煮立ちしたら出来上がり。」
見といてな、というと鍋の火を止めて、お玉ですくった味噌をお玉ごと鍋に入れ、箸で溶かしていった。一煮立ちした鍋の火を止めると、お玉で少し味噌汁をすくってお碗に入れ、もと子に渡した。
「味見してみて。」
もと子は一口飲んでみた。
「ああ、美味しいです。」
もと子はリュウに笑顔を見せた。
リュウはうなずくと、冷蔵庫から先ほど下味をつけた鶏肉を出した。
「さあ、メイン焼こうか。」
「ハイ!」
野菜炒めに使ったフライパンをサッと洗うと簡単に拭き、サラダ油を入れて火にかけた。ビニール袋の中味を全てフライパンに入れると、肉の上からごま油を軽く回しがけしてフタをし、蒸し焼きにした。
「もとちゃん、箸でお肉つついてみて。硬くなってるやろ?硬くなったら火が通った証拠。もう食べられるで。ちょっと味見しよか?」リュウから肉のひとかけらをもらうともと子は食べてみた。リュウも味見をしてみた。
「んー、もうちょい塩気欲しいな。もとちゃん、どう思う?」
「そうですねえ、私ももう少し塩気あったらもっと美味しくなる気がします。」
「じゃあ、塩、かけてみよっか?」
ひとつまみの塩を全体に振りかけて、軽く混ぜた肉をひとかけらずつ二人で食べた。
「どう、今回は?いけそうな気がするねんけど。もとちゃんとしてはどう?」
「うん!これ美味しいです!」
リュウは笑顔でうなずくと皿に肉を移した。
メインの鶏肉のソテー、野菜炒め、味噌汁を並べ、炊きたてのご飯をよそって、テーブルに並べた。
「あっと、味噌汁に麩も入れよ。」
リュウは味噌汁のお碗に麩を追加した。
「もとちゃん、麩とか干しわかめみたいな乾物あると便利やで。お待たせ、さあ食べよっか。」
2人はテーブルに向かい合って座った。もと子はモジモジしながらスマホを取り出した。
「あのう、写真撮っていいですか?」
「せっかく自分で作ってんもんな。撮り、撮り。家でも作れるように撮っときや。」
リュウは写真を撮りやすいように皿の位置を変えてやり、もと子ははしゃぐ気持ちを一生懸命押さえて写真を撮った。
「いいかな?じゃあ、いただきます。」
「はい、いただきます!」
並んだ料理を見ながら2人は手を合わせて、早速、箸を動かし始めた。
「どない、自分で作ったご飯は?美味いやろ?」
味噌汁を一口飲むと早速鶏肉にかぶりついたもと子はモグモグと口を動かし、何度もうなずいた。
「この鶏肉、塩コショウだけなのにこんなに美味しいんですね。」
「そうか、そりゃ良かったわ。結構シンプルな味付けが美味かったりするねんで。ほらほら野菜も食べや。焦らんとゆっくりな。」
もと子のガツガツ食べる姿を見て苦笑いをしながらリュウは野菜炒めをもと子の前に進めた。もと子が目を輝かせて野菜炒めを頬張った。
「リュウさん、のんびりしてたら私全部食べちゃいますよ。」
「ホンマや、のんびりしてられへんわ。」
口をモゴモゴさせながら、悪戯っぽい目をしてたもと子をリュウは微笑ましく眺めながら、自分も鶏肉に箸を伸ばした。
食が進むにつれ、二人はいろいろなことを話した。「そういえば、私、来年から実習が増えて今ほどバイトができないんです。だからますます節約に励まないといけないんです。」
「だったら、また休みが合えば料理を教えようか?お昼、一緒に食べよう。」
「いいんですか?大事なお休みの日にお願いして。」
「ちゃんともとちゃんが食べてるかチェックしとかんと、また栄養失調なるやん。」
「あちゃー。確かにそうかも。」
もと子は頭を指先でコリコリとかいて、苦笑いをした。
すっかりお腹いっぱいになり、ごちそうさまでしたと2人はそれぞれ手を合わせた。
「リュウさん、残ったおかずはどうしますか?」
「それぞれ、ビニール袋に入れてからこのタッパに入れて、冷蔵庫に入れとこか。」
もと子が指示されたように残り物を片づけ、リュウが洗い物をした。洗い物を水切りに全てのせて片づけが終わった。
「汚れ物が片付いたことやし、繕いもの、やろか?」
そう言うとリュウは部屋の隅に置いていた四角い缶を持って来た。缶の中には沢山のまち針や縫い針が刺さった針山、握りばさみに白、黒の糸、下着に入れるゴム、大小、いろいろなボタンが入っていた。
もと子は上着を持って来て、取れかけたボタンのついた袖口を手にした。
「糸を2本取りにした方が丈夫なんやけど、絡まりやすくなるから太めの糸一本でやろっか?」
リュウはボタンと上着の色合いを見て黒い糸を出してきた。適当な長さに糸を取ると、糸を斜めに切るようやって見せた。糸の先を軽く舐めて針に糸を通し、反対側の糸の先を玉結びにした。
「さあ、おんなじようにやってみ。」
もと子は糸と針を渡された。
「えっと、斜めに切るんですよね?」
「そうそう尖ったところがあると針の穴に通しやすいんや。」
なるほど、と言うと、針穴に糸を通し、玉結びをした。
「見ときや。」
リュウは取れかけているボタンが付いた上着を手元に持ってくると針を布の表から通し、また表に返してボタン穴に通した。この時、糸を全て引かないで少し緩めに通し、また別のボタン穴に通し、2、3回繰返すと、布とボタンの間の糸にくるくる糸を巻き付け、巻き付けたところを突き抜けるように針を通して、さらに裏に針を通して玉止めをした。隣の緩くなったボタンのところを直すよう、もと子に上着を渡した。もと子はボタン穴から遠すぎるところに針を指してしまったりと、四苦八苦しながらもどうにかボタンをつけることができた。
「できました!」
「やれば出来るやん。前止める方のボタンも緩くなってるから、練習がてらやってみ。」
リュウに促されて再度ボタンつけにトライすることになった。もと子は何度も針で指を突き、失敗しそうになると、リュウに助けてもらいながらボタン付けを繰返し、最後は一人でつけられるようになった。
「全部直しました。」
「一人でつけられるようになったやん。もとちゃん、実はできる子やってんな。」
リュウは糸、針、ハサミを片づけながら、もと子に絆創膏を何枚か渡した。
「ありがとうございます。リュウさんのおかげです。」
「片付いたことやし、ちょっと腹ごなしに散歩行こうか?お茶とプリン持って。」
「行く!行きます!」
もと子は子犬のような無邪気な笑みを見せて、振り向いた。リュウは水筒とBIGプリン二つを小ぶりの白いトートに入れた。トートはかわいいペンギンのキャラクター。これは彼女からのプレゼント?もと子はチクリと心が痛んだ。
アパートを出て、買い物の途中にあった川沿いの遊歩道を二人はのんびりと歩いた。
「あれ鴨ですか?何羽もいますね。鴨って渡り鳥?頭を水に突っ込んでる。」
「いつも見るわけじゃないから渡り鳥かもな。あれは魚を食べてるんちゃうか?」
「本当に魚、食べるんだ。びっくり。」
「なんで、びっくりすんねん。もとちゃん、おもろいな。」
遊歩道の柵から身を乗り出すようにして、もと子は川を眺めている。川面に浮かぶ鳥が魚を取ろうと頭を水中に突っ込んでいたり、河原で羽を繕っている。川縁では石の上で早めの甲羅干しをする大小の亀。見ている間に新たに鷺のような鳥もやってきた。またよく見ると川の中には大きなフナがゆったりと泳いでいる。目を凝らすと小さな魚も沢山スイスイと泳いでる。それぞれの姿をもと子は指差しては振り向いてリュウに話しかける。もと子のはしゃぐ姿にリュウは小さな女の子の姿を見ているような気分になった。
「うけてるなあ。もとちゃん、今まで近くに川はなかった?」
「うーん、あったかもしれないですけど、こんな風にじっくり見たことなかったです。なんかいつも考え事してたり、気持ちの余裕がなかったからかなあ。でも川ってこんなに面白いんですね。」
しばらく散歩を楽しんだ後、2人は遊歩道のベンチに腰掛けた。興奮冷めやらぬもと子に、温かいお茶とお待ちかねのプリンを渡した。もと子は早速プリンの蓋を開けると、ツルんと一口プリンを食べた。んー、やっぱり美味しい!目をつぶってスプーンを胸の前で握りしめた。
隣に座るリュウに振り向き、プリンを堪能しながら話しかけてきた。
「街中の川縁の散歩もこうやってるとすごく楽しいんですね。知らなかった。」
「やろ?時々、ここで川を見ながらコーヒー飲んだりしてんねん。煮詰まった時なんか気分転換にええで。お金かからんし。」
「コストパフォーマンスっていうんですか?スゴイいいですね。プリンも美味さ倍増ですよ。」
「プリンも美味さ倍増か。誘った甲斐があったわ。」
「また誘って下さいね。次は川で何に会えるかなあ。今からもう楽しみです。」
「料理教室に楽しみできて良かったわ。」
「何言ってるんですか?一番の楽しみは料理教室で作ったリュウさんのお昼ご飯ですよ。」
もと子はニッコリしてリュウを見た。リュウは、かわいいことを言ってくれるやんと、もと子に微笑み返した。話している間に風が冷たくなってきた。もと子の体が冷えてきたのではないかと、リュウは熱いお茶を水筒の蓋に入れ、もと子に渡した。すっかりプリンを食べ終えたもと子は、お茶の入った水筒の蓋を両手で覆うように持ってフウフウと冷ました。リュウは食べ終えたプリンの入れ物にお茶を入れ、入れ物の縁を持って、自分もフウフウと冷ました。お茶を飲み終わるまでの間、2人はただ川面を黙って見つめ物思いにふけっていた。
時計を見るともう夕方。お茶を飲み終えたリュウともと子はリュウのアパートに戻った。
「リュウさん、今日はご馳走様でした。散歩もすごく楽しかったです。次の料理教室、決まったらまた連絡下さいね。」
「うん、俺も楽しかった。また連絡するな。」
リュウは冷蔵庫を開けて、昼ごはんのおかずの残りを詰めたタッパをビニール袋と紙袋に入れ、もと子に渡した。
「もとちゃん、持って帰り。これ、おまけ」リュウはクッキーの残りも紙袋に入れた。
「いいんですか?あ、クッキーも。嬉しい!今日は本当にご馳走様でした。ありがとうございました。」
もと子はペコリと頭を下げると紙袋を大事に抱えた。
「さ、駅まで送るわ。」
リュウはもと子の手荷物を持ってやり、2人はたわいのない話に花を咲かせて駅までの道のりを歩いて行った。これからは月に一度、休みを合わせてリュウはもと子に料理を教えることになった。
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