リアとの別れ

「それで、どうしましょう? 私はこのままここにいることになりますが……」


 部屋を出た私はイライアスに尋ねた。これまでずっと一緒にいたから離れがたかったのもある。だけど、帰らないで、とは言えずに悩む。すると、イライアスが噴き出した。


「君はわかりやすくなったね。顔に書いてあるし、君の手は正直だ」

「あ……」


 見おろすと、無意識に私の手はイライアスの袖を掴んでいた。これは恥ずかしい。慌てて離そうとして更に笑われた。


「気にしなくても。私ももう少し君といたい。だが、君の部屋にお邪魔するのは……」


 イライアスの表情が曇る。まだ婚約者ではないし、未婚女性の部屋に行くのは、と迷っているのだろう。だけどそれなら扉を開けておけばいいし、誰かを立ち会わせればいい。


「いえ、大丈夫だと思います。もう少しお話がしたいですし……」

「君がいいなら……お邪魔するよ」


 どこか不安げなイライアスを不思議に思いつつ、私たちは相変わらず薄暗い廊下の先にある私の部屋に向かった。


 ◇


「本当に大丈夫か?」


 部屋に入るなり、イライアスはまた心配している。何が気にかかるのかと部屋を見渡して、あるものが目に入った途端に納得した。


 私の視線の先には窓がある。セシリアが落ちた、あの窓が。


 私はゆっくりと窓へ近づいた。あの日と天候は違っても、眼下には同じように荒れ狂う海がある。未だに目を瞑るとあの日の光景が脳裏に浮かぶ。雨に打たれながら叫ぶセシリアと、伸ばしかけて躊躇した自分の手。きっと忘れることはないだろう。


 ぼうっと海を見る私を、イライアスが後ろから抱きしめてきた。驚いてそのまま窓硝子越しにイライアスに尋ねる。


「どうしたんですか?」

「……いや。この部屋はいい思い出がないだろう? だから大丈夫かと聞いたんだが……。海に魅入られないようにしてくれよ」


 魅入られる? ああ、そうか。もしかしたら私が身投げするのではないかと心配しているのかもしれない。


 お腹に回されたイライアスの腕に自分の手を重ねる。ここが屋敷の中で一番寒い部屋だとしても、今は寒さを感じなかった。


「私は──もう大丈夫です。セシリアと協力して、少しずつこの家を変えていきたい。それに、あなたとのことを早く進めたいですから……待っていて、いただけますか?」


 イライアスは目を丸くしたかと思うと、破顔した。


「君は男前だね。もちろん待つよ。だが、残念だ。私が先に言おうと思っていたのに。私も早く準備を整えて君を迎えに来る。だからそれまで待っていてくれるかい?」

「ええ、もちろんです」


 私たちはそれからセシリアが来るまで、別れを惜しむように窓辺でお互いの体温を感じていた。その後イライアスは、一人で自分の屋敷へと帰って行った。


 ◇


 そしてその晩。私は不思議な夢を見た。私やセシリアにそっくりな女性と対峙する夢だ。同じような夜着を着ていたのに何故、私たちじゃないとわかったのかというと、彼女自身が名乗ったからだ。


 私はリアだ、と──。


「会うのは初めてよね、アリシア。はじめまして」

「あ、はじめまして……。いえ、私を起こそうと話しかけてくださったのはリアさん、ですよね」

「ええ、そうよ。わたしはずっとあなたに話しかけてきたのに、あなたはわたしの話を全く聞こうともしなかったから」


 リアは苦笑する。セシリアや私とはまた違った笑い方で、見ていて不思議な気分になった。つい、まじまじとリアの顔を見つめてしまう。


「何かしら? わたしの顔に何か付いてる?」

「いえ。同じ顔なのに笑い方が違うと、雰囲気が変わるんですね」

「今更何を言っているの? セシリアも違うでしょうに。変な子ね」


 呆れたようにクスクスとリアは楽しそうに笑う。変という言葉にも引っかかるけど、どうして今頃私はこんな夢を見ているのか、それが引っかかっていた。


「それよりも、どうしてリアさんとこうして話しているのかがわからないのですが。先程リアさんは仰いました。ずっと私に話しかけてきたって。今になって私があなたの言葉に答えられることに何か意味があるのですか?」


 リアは面白そうに腕組みをして目を細める。


「早速そこに気づくとはね。ええ、もちろん意味はあるわ。それはあなたが強くなった証拠」


 強く? 私は特別に何かをした覚えはない。それに、私はリアの言う強さがわからなかった。眉を寄せて考え込むと、リアが私の眉間を人差し指で押す。


「ほら。そんな顔ばかりしていたら皺になるわよ。わからないなら聞きなさい。本当にもう……いいわ。だからね、わたしはあなたの、現実から逃げたいという思いが作り出したもの。わたしと向き合うということは自分の弱さを認めて、現実を直視しなければならない。だからあなたはわたしの存在を拒絶するしかなかった。だけどもうあなたは、イライアスと共に前へ進むことを選んだ。辛い現実世界に戻ることを選択したから、わたしは用済み、ってところかしら」

「用済みって……」


 私は俯く。私が勝手に生み出したのに用が無くなったらさようなら、というのはまるでこの家での私のようだ。自分がされて嫌なことを、私も同じようにリアにしてきたのだ。これではお母様を責められない。


「いいのよ……って言いたいところだけど、許さないわ」

「え?」


 顔を上げると、寂しそうに笑うリアと目が合った。


「だからわたしはあなたと一緒にはならない。わたしはわたしとして眠らせて」


 リアの言葉は抽象的で難しかったけれど、私は頷いた。そうすることがリアのためになるのならと。


 リアは泣きそうに顔を歪めた。それでも泣くまいと踏みとどまっているようだ。


「……辛い記憶も楽しい記憶もあなたには返してあげない」

「……いいですよ」


 これはきっとリアの優しさでもあるのだろう。私の辛さを肩代わりしてきたリアの。だから私はリアに笑いかけた。


「これまでずっと、ありがとう。辛い思いばかり押し付けて、ごめんなさい」

「……馬鹿ね。楽しい思いもしてきたのよ。それこそイライアスとね」

「そうですか……」


 だけど嫉妬の気持ちは湧いてこなかった。辛い思いばかりでは耐えられないことを私は知っている。少しでもリアが楽しめたのならいい。


「それじゃあ、わたしは行くわ。だけど、またあなたが逃げたいと思ったら、今度こそわたしがあなたの人生を奪ってやるから」

「……ええ。そうならないように私も頑張るから──」


 そこで夢が終わったようだ。目が覚めると、目元のあたりが濡れていた。夢の影響だというのはすぐにわかった。だけど、この涙はリアのものなのか、私のものなのかはわからない。ただ、心の中に去来する寂しさを私は感じていた──。


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