第11話 ずっと十二時でいよう。

 ずっと十二時でいよう。

 そう読み上げた美里は、震えながら。


「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」


 と悲鳴を上げた。




 ――――海の家、小春日和の休憩室で、僕はバイトの飯田奏多君とだべっていた。


 「ねえ春日さん、行きましょうよ」

 「いやだよ。俺ももうこんな年だろ、今更キャバクラなんて行ったって楽しいことねえよ」

 「今だから行くんですよ。春日さん年齢にそぐわずめちゃくちゃ若く見えるじゃないですか! それに湘南イケメンですしどんな女性もお持ち帰りですよ!」

 

 強引に僕をキャバクラに連れ出そうとする飯田君は、最近入ってきた新人だった。

 金髪ピアス眼鏡で、虫歯だらけの青年だったが、根はいいやつで気が利き、お客さんに対する接客もほかの子に比べてダントツだった。

 ただ時々僕を強引に連れ出そうとするところが、少し腹が立つのだが。


 「それに今日給料日じゃないですか! 僕がおごりますよ!」

 「いや、それ僕の金だから! ここで働いて出た金でしょ。実質僕のジャン!」

 「そんなお金に執着しているから、奥さんにも……あっやべ」

 「……あー! もうわかったよ、行くよ行く! 今日はヤケ酒だ! 先に潰れた方の財布から代金支払うからな!」

 「いいでしょう! 望むところです!」


 結局こうしていつも僕は飯田君の口車に乗せられてしまうのだ。

 海の家だから、刺激的な景色は座っていても見ることができる。しかし、実際に可愛い女性と話してイチャイチャするなんて、当分ご無沙汰していた。

 だから僕は、「まあ、最近は飯田君のおかげでリピートしてくるお客さんの心もがっちり掴めてるし、いっちょ乗ってやるか。」と、建前を述べて半分嫌々、半分喜々として『ソラニオ』というキャバクラへ訪れた。

 店内はシャンデリアや年代物のワインやウォッカの置かれたバーがあり、大理石の机に黒永のソファが置かれた、いかにも高級感あふれる内装だった。

 ただ、一つ疑問に思ったのは、ダーツの代わりになぜ、皆割れたワインボトルをダーツボードに投げていることだった。


 「なんだありゃ……。まあいっか」


 応接間に通らされると、さっそく飯田君は据え置きのタブレットを開いてホステスの画像を眺めていた。

 

 「やっぱここは一番若い、ユイちゃんですかね? 春日さんは誰がいいと思います?」

 「……知らない。興味ない」

 「えー、そんなこと言ってぇ。本当は女の子たちにちやほやされたいんでしょ?」

 「うるさい! 誰でもいい。さっさと選んで!」

 「わかりましたよ。じゃあ、一番人気のセラさんで!」


 飯田君が選んだセラという女性は、このキャバレーでトップの人気を誇るホステスだった。

 本指名で三万円もかかる最高級のホステスだった。


 「……おい! めちゃくちゃ高いじゃないか。勝手に……」

 「ご指名ありがとうございます。月夜星羅つくよせらと申します。この度は……ええ?!」

 「ああ! お前!」

 「なんで、君がここに?」

 「どうして、が……」


 セラと名乗った女性は、幼馴染で小学校から社会人になるまでずっと一緒にいて、同じ釜の飯を食べ、ともに寝て過ごした氷河美里だった。


 そう、僕が仮想通貨で失敗し逃げられてしまった、最愛の妻が目の前にいたのだ。




 「美里……」

 「友一君……」

 「え、お二人お知り合いなんですか?」


 「ええ。知り合いも何も、元――」

 「ただの幼馴染だ!」

 「え、友一君?」

 (こいつには何も言うな静かにしてろ)

 (わ、わかったわ)

 「えー、そうなんですね! すごくお綺麗でびっくりしました! 春日さんも隅には置けないですね。このこのー」

 「うるさい。こいつとは小学校からの幼馴染ってだけだ。深いかかわりはない」

 「そんなこと言って、こんな玉のように美人な方侍らせておいて、やることやらないわけないでしょうに」

 「お前!」

 「ええ、そうよ。ただの幼馴染だわ。ね、とーも君?」

 「ぐっ」

 「本当に幼馴染なんですね。ということは、セラさんってもう、よんじ――」

 

 飯田君が、パンドラの箱を開けようとしたその時、美里がその箱をそっと閉めるかのように人差し指で飯田君の口元をふさいだ。


 「それは、ナ・イ・ショ」


 ぷーーーーん!


 ASMRのごとく耳元で囁いた美里の声に絶頂したのか、飯田君は鼻血を吹き出し、ソファに倒れ込んで失神してしまった。


 「お前、また見境もなく人を失神させといて。その癖直ってないな」

 「しょうがないでしょ。か弱い女性の年齢を言い当てられたら、私ここから追い出されちゃうんだから」

 「誰がか弱いだ。男勝りなくせに」

 「そうね。私は一声囁けば、巨漢も倒してしまう。文字通り、漢勝りで、あなたのただの幼馴染ね。でも……」

 「ん?」

 「ただのは……」


 何か言いたそうに美里は口を尖らせた。しかし、僕はその言葉の一文字も聞き取ることはできなかった。


 「なんか言ったか?」

 「いえ、何も。ねえせっかく来たんだから、お酒飲みましょ」

 「ああ、そうだな。でもどうするこいつ」

 「黒服さん呼んで医務室にでも連れて行ってもらうわ」

 「なんか、悪いな」

 「お互い様よ」


 黒服に飯田君を連れて行ってもらってから、僕は美里と酒を交わして、いろんな話をした。

 仮想通貨が失敗してから海の家を建てたことや、翠さんたちが来て助けてもらい経営が安定したこと。

 そして海の家で儲けたお金でカフェテリアを経営していること。

 そのカフェの次の店長が飯田君であることなど、僕の話を包み隠さず、洗いざらい美里に話した。

 美里は、僕が申し訳なさそうに語る言葉を、表情を変えず、うんうんとうなづきながら聞いてくれていた。


 「波乱万丈ってあなたみたいな人生のことを言うのね。でも今は安定して普通の生活をしているのなら安心したわ」

 「怒らないのか?」

 「どうして?」

 「だって、借金抱えてお前たちに苦労させた僕が、こんな普通の生活してて、気に食わないとか思ったりしないのかって」

 「思わないわよ。あなたを選んだのも私。仮想通貨で大儲けするんだって言って、止めなかったのも私。責任は全部私にあるもの」

 「美里。ありが……」

 「でもね」


 美里は一瞬にして凍り付くような目つきになり、残っていたワインを煽った。


 「全部許せるわけじゃない。を置き去りにしたこと。これだけは、が許さない限り、私もあなたを許さないわ」

 「…………その通りだ。一緒に育て上げようという約束を破った。小さい小さい娘の気持ちも分かってやらないまま。どうしようもない父、いや人間だ僕は」

 「……」


 美里はかみしめるようにドレスを握り絞めていた。


 「これは、到底通らない僕のわがままなんだが、もう一度三人で暮らす、いや食事だけでもいけないだろうか?」


 美里は震える手でワインボトルを振り上げるような勢いで掴んだ。しかし、気持ちを押し殺したかのように、そっと手をボトルから離し、膝の上に置いた。


 「それは、一度あの子と直接会ってから考えてみるといいわ」

 「わ、わかった。あいつは今どこに?」


 僕が娘の居場所を聞くと、美里は無言で立ち上がり、キャストの更衣室の方へ歩き出した。


 「少し酔いすぎちゃったみたい。続きは歩きながら話しましょ。アフターは一時間千円」

 「せ、千円でいいのか?」

 「かける私を待たせた十年分」

 「……八千七百六十万円?!」

 「二億円に比べたら些細な出資よ」

 「些細じゃないよ!」




 僕らは肩を並べて夜道を歩いた。

 黒のワンピースとチェック柄のストールを巻いた美里は、ドレス姿の妖艶さから一変して、落ち着き払った美しさと、少しばかりの子どもっぽさを醸し出していた。

 そして、付き合い始めた最初の誕生日にあげた丸眼鏡を、美里が今でもつけてくれていることに、僕の未練はより一層膨らむばかりだった。

 十月の半ばだというのに、気温は二、三度だった。

 美里は首に巻いたストールをより一層強く巻き付け、手に息を吹きかけた。

 美里が身に着けているフランクミュラーの腕時計は、十一時三十分を差していた。

 僕は、美里に少し近づきその寒そうな手と、自分の手を重ねようとしたとき。

 

 「ねえ、ここ覚えてる?」


 美里は不意にある建物を指さした。


 「あ、ああ。覚えてるよ。小中学校のころ通った塾じゃないか。懐かしいな」

 「あの頃、私たち本当にやんちゃしてたわよね。先生の話聞かずに喋りまくってたし。英単語のテストとか、机に堂々と単語書いてカンニングしてたりしたわよね」

 「本当だよな。カンニングバレた時なんか、激怒した倉田先生が僕らの机をちゃぶ台返しして、僕ら下敷きを机代わりにして立ったままやらされたもんな」

 「驚いて様子見に来た塾長の、二宮金次郎かって突っ込みは今でも忘れられないわ」

 「本当にな。だって、まさかちゃぶ台返しした机が美里の背中にぴったりフィットするとは思わなかったもんな」

 「そうだ倉田先生といえば何年か前に塾講師を辞めて、神主になったらしいのよ」

 「え、そうだったのか」

 「それも、私たちがよく遊んでいた大井神社で働いてるんだって」

 「知らなかった。そういえば神社の裏の竹林で皆で集まって遊んでたな」

 「そういえば、あの時誰が言い出したんだっけ? 健一郎君?」

 「ああ、健ちゃんだよ健ちゃん。いきなり鉈と麻縄持ってきてさ」

 「あれはびっくりしたわよね」

 「いきなり、「いかだを造ろう!」って」

 「何事かと思ったわよね。「金、名誉、権力、この世のすべてを手中に収めた俺の父シルバー・ロウジー。彼の死に際にはなった遺言は男たちを海へと急がせた」とか言ってさ」

 「親父の残した宝物を探し出しに行こうってはしゃいでたよな。てか、シルバー・ロウジーって、『銀次郎』をアナグラムっただけじゃんね」

 「それに健一郎君の親父さんまだ居酒屋でバリバリ働いてるし、勝手に殺すんじゃないわよ」

 「でも何の巡りか知らないけどさ、一番乗り気じゃなかった僕が、本当に海へと駆り立てられた、海の家で働くとはね。ちなみに健ちゃんって今何してるんだろう」

 「なんでも新大陸を見つけるんだーって言ってイギリスに行ったんだって」

 「いや本物の海賊になっちゃってるじゃん」

 「それもあの時造った筏で」

 「筏で?!」

 「「ボーイングメリー号に乗ったつもりで一緒に来いよ!」って私も誘われたんだけど、流石に麻縄が切れそうな船には乗れなかったわ」

 「どこがボーイングメリー号だよ。言うなれば、『もういい加減沈み艘』だわ。てか、麻縄切れそうなら言ってやれよ! ちなみに健ちゃんはイギリスには行けたのか?」

 「無事三年かけて到着したそうよ」

 「凄いな、沖縄から行ってもそれくらいかかるのか」

 「いえ、荒川の河川敷から」

 「荒川?! 秘密基地作った、あの荒川?!」

 「そう。荒川の河川敷から出発してイギリスまで、約三万キロを渡って到着したって、三年前にショートメールが届いたの」

 「いぃや、ヘンリー・ホッター三冊分のエッセイ! それは、ヘンリー・ホッター三冊分くらいのエッセイだよ! 「お前んち着いた」って連絡するレベルのことじゃないって」

 「そうだ。久しぶりに河川敷行ってみようよ。また掘っ立て小屋の秘密基地にスケベな本落ちてるかもよ」

 「中学生か! そういうことを女性がゆうもんじゃない。……でもまあ、今秘密基地がどうなってるか気になるのは事実だ。少し行ってみるか」

 「そうこなくっちゃ」


 僕たちは、小さくスキップを踏むように身も心も弾ませて、河川敷へと歩いて行った。

 夜の荒川は押し入れの中のように真っ暗で、気を抜くと誰かが襲ってきそうなくらい危険な夜道だった。

 しかし対岸に見えるスカイツリーのイルミネーションが際立って幻想的に思えた。

 そして僕らはかすかに照らされた月明かりの下で、思い出の秘密基地を探していたのだ。


 「確か、もう少し向こうにあったと思うんだけど……あ、あった!」

 「本当に残ってるもんなんだな、この秘密基地」

 「ちょっと中見てくる!」

 「お、おい! いきなり駆け降りるなって!」


 土手を駆け下りて行った美里を追いかけ、中学のころ、秘密基地にしていた掘っ立て小屋にたどり着いた。

 中にはあの頃皆で持ち寄った漫画やお菓子の袋、粗大ごみ置き場で拾ってきたソファが、雨風にさらされて所々痛んでいたが、あの日と同じように残っていた。


 「いろいろ残っているわね。あ! 少年ステップ! まだタイガーボールが連載していた時のよ、懐かしー!」

 「こっちにはグローブと軟式ボールがあったぞ。……うわぁ、軟式のゴムが擦れてつるつるになってる。硬さで言ったら硬式と変わらないレベルだぞこれ」

 「このソファも懐かしいわね。獅子王ししおう君と健一郎君とあなたと一緒に粗大ごみのなかから取り出してさ」

 「あの時は監視の人の目を盗んで行ったんだよな」

 「獅子王君が、べしゃりなら任せな! って言って監視の人と雑談してたんだけどね。はたから見ててもすごい話術だったわ」

 「笑い転げるっていうのは聞いたことあるけど、笑い爆発って言うのは初めて見たぞ」

 「なんか、監視員の人が大笑いするたびに、周りがドカーンって爆発してたもんね。最後は監視室が爆発飛散して、監視員の人アフロで倒れてたし」

 「「どや、爆笑やったやろ!」ってドヤ顔で帰って来たけど、爆笑ってそういうことじゃないよな」

 「うん。そうだと思う。でもまあそのおかげでこのソファが手に入れられたわけだし。笑いのソファって名付けた獅子王君のセンスはどうかと思うけどね」

 「笑いのセンスはあっても、ネーミングセンスは皆無だったな。まあ獅子王っていう名前からしてなぁ……」

 「大田獅子王おおたライオンキングって。本当不憫な名前だよね」


 僕らは思い出話に花を咲かせながら、遺品を整理するようにもの探しを続けた。

 すると、僕が美里に借りたまま放っておいてしまった、計算ノートが、棚の隅から発見された。


 「あ、これ。あなたに貸してた計算ノートじゃない! あのとき無くしたって言って私宿題出せなかったんだから!」

 「ご、ごめんて。もう時効だろ、許してくれよ」

 「そりゃ時効だけどさ。返してほしかったよ。ほぼ新品だったし、私まで先生に怒られたんだから」

 「本当にごめんて。十年越しに返すよ。ありがとうございました」

 「はいはい、どういたしまして!」

 「でも、なんでこんなところに置き忘れちゃったんだろうな……ん? 数学ノート? ……あ!」


 僕はそう呟いて、美里がぱらぱらとページをめくるのを見ていると、遠目からでもはっきりとわかる、汚い僕の字がノートに羅列していた。


 美里さんへ。

 いつも隣に咲いている花は、僕を笑顔で包み込んでくれる。

 ほのかに漂う甘い香りは、僕の鼻腔を刺激し、恍惚へと誘いだすアロマ。

 そんな君の一つ一つのしぐさが愛おしい。

 髪をかき上げるその華奢な指、退屈そうに頬杖をついた時の頬の膨らみ、微笑んだ時にふと手で隠す君の唇。

 その一つ一つを感じたくて、僕は君の空気になりたい。

 好きで好きでたまらない。

 まるで風船のようにはち切れそうだ。

 長針と短針が巡り合っては離れていく、そんなつかず離れずの距離とは今日でおさらば。

 ずっと十二時でいよう。

                                  友一より


 「うわぁぁぁあああああああああ!」

 「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い! 全身に針が刺さったように痛い! なにこれ、あなたこんなの隠し持ってたの?! え、これもしかしてラブレタァ? こんなキッザキザのラブレターを、ノートに隠して何食わぬ顔で渡そうと思ってたの?! 怖い怖い怖い。低体温症で死んでしまいそうなくらい、体が寒いわ!」


 僕は土下座をするようにひざまずいて頭を抱え込んだ。この体勢はさながらダンゴムシだ。


 「そうだよ! それは僕が君に向けて告白しようと送ろうとしたラブレターだよ! でもボールペンで書いちゃって、ノート切るのも不自然だし、取り返しがつかなくなって無くしたことにしていたんだよ! ああ、熱中症で死にそうだぁ……」

 「ボールペンなんかで書くからよ! というか、直接書くんじゃなくてメモとかにしなさいよ! このまま先生に提出してたと思ったら、私も恥ずかしさで爆死してしまうとこだったわ」

 「た、確かに。そう考えると、隠しておいて正解だったわけか」

 「いや、正解じゃないから! 普通に直接言葉で言ってくれてよかったのよ。あの時みたいに」

 「そ、そうだな。今思えば結局、直接告って正解だったな」

 「そうよ。こんなキザなセリフなしで、ちゃんと好きって言ってくれたじゃない。あれで十分だったのよ」

 「美里……」

 「でも」

 「でも?」

 「このノートは、普通に返してほしかったなっ」

 「そうだよな。宿題提出できなかったもんな」

 「そういうことじゃないわよ! どこまでも鈍感なんだから……」


 美里はその計算ノートを、赤ちゃんを包み込むように大事そうに抱え、眼を閉じてほほ笑んだ。

 その姿が僕の見た美里の中で一番可愛らしくて、そして如何にも脆く崩れてしまいそうに思えた。

 目を開け僕の方を向いた美里は、何か振り切ったような表情をしていた。


 「ねえ。こうみると、ここだけ時間が止まっているように見えない?」

 「え? まあ確かに」

 「でも私たちの時間はいろんなことがあって揺れ動かされた。あなたと私が結婚して、あの子が生まれて、幸せな時間が訪れた」

 「うん。でも、僕が投資に失敗して、美里たちと離れ離れになって、海の家を開いてある程度食っていけるようになったところで、また美里とであった」

 「そうね。私たちの人生は、南極の海のように大しけで時にはサイクロンまで発生するくらい荒れた時間だった。でもね、ぴんと張った水面のように揺れ動いていないものがあるの」

 「ぴんと張った水面のように揺れ動いてないもの?」

 「そう。なにか分かる?」

 「株価?」

 「大荒れでしょうが! ここでそんなくだらないボケをしないで」

 「ご、ごめん。……あいつとの時間だよな」

 「そうよ。どこまでも鈍感なんだからあなたわ。私たちはこれから動かさなければならないのよ。あの子との時間を。あなたも、その自覚あるのなら、覚悟を持って会ってほしいの」

 「もちろんだ。十年もの歳月はすぐに取り返せないかもしれないけど、僕はもう一度あいつと、そして美里とちゃんと向き合うよ」

 「……そうね。そうじゃなきゃ私は、今ここであなたを囁きで気絶させて帰っていたはずよ」

 「それは……冗談じゃないようだな。僕も覚悟を持って会う。だから、改めてあいつのところに連れて行ってほしい。この通りお願いします」

 

 僕は深々とお辞儀をした。

 すると美里は、ふふっとほほ笑んで、すっと手を差し出した。


 「え?」

 「いいわよ。一緒に行きましょう」


 僕らは氷点下の夜道を二人で手を繋ぎ歩いた。

 お互いの手と手のぬくもりを、指の間まで逃すことなく感じようと、強く、そして優しく握りしめた。

 美里のつけているフランクミュラーの腕時計は十一時五十九分から、十二時にちょうど切り替わった。

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