第10話 ファンの手記 30年前の記録

 ※今回は少々残酷表現が多いです。この回自体は読み飛ばしても支障はありません※



 これは、筆者が当時のアステリア聖女国側の情勢を知る人物より聞き取った内容に、アスラン国内に残る調査書、そして当の本人たちより聴取した内容を加えたものである。


 アステリア聖女王国側の情勢は、明らかになる前に関係者がほぼすべて死亡したため、アスランの記録にはほとんどない。

 貴重な記録になるだろう。

 かならず後世に残し、伝えていかなくてはならないと決意した語り部の想いを無にしないよう、書き記しておこうと思う。


***


 アステリア聖王国がアステリア聖女王国だったころ。


 東にアスラン王国、北にその西進を阻み、あわよくば領土を奪い取ろうとする新興国家フェリニス王国という立地は、一見すれば非常に不安定に見える。


 しかし、急速に膨張、勢力を拡大し軍事力を増加させていったフェリニス王国に農作物を輸出することで、アステリア聖女王国は莫大な財を得ていた。


 アスランとフェリニスという二大強国の決戦は近く、寒冷地の為兵糧に不安のあるフェリニスは、多少高くてもアステリアの麦を買いあさった。


 同じ麦が、国境を超えるだけで三倍近い値段になる。

 商人たちは競って北の国境を目指した。


 国際交易をおこなえるのは、王家が認めた商人のみ。その商人になるため、多くの『手土産』が王室の宝物庫につまれ、さらに税収は金庫の扉を壊すほど。

 その弊害として一般市民の手に入る麦までが高騰し、じわじわと飢饉が始まろうとしていたのだとしても、それに目を止める者は王宮にいなかった。


 本来、それが王家の方針ならば、民の立場に立って諌めるのが「もう一人の王」たるアステリア大神殿主教の役割である。


 しかし、当時の主教は諌めるどころか、その行為を推奨した。


 表向きは、同じ女神アスターを信仰するフェリニス王国を支援するため。

 だが、当時の主教は絹と毛皮以外の服を持っていなかったと言えば、何のために麦の輸出を止めなかったかはわかるだろう。


 過剰なまでの麦の輸出は、アスランからすればアステリア聖女王国はフェリニス王国に付いたとみなされる行為である。


 聖女王にも、主教にも、意見する者はいた。

 特に、聖女王の従兄妹に当たるダレン公爵はアスラン王国の強大さを必死に説き、なんとか敵対行為とみなされるような真似をやめるようにと何度も何度も申し入れた。


 彼の父が聖女王の伯父であるが、女性にしか王位継承権のないこの国では、彼の父までは王族として認められるものの、彼は単なる貴族であり、発言力もない。


 領地もアスラン王国に隣接する、荒れ地ばかりの貧しい土地である。

 聖女王ゼラシアが即位すると同時に、領地のなかったダレン公にその土地を与えたのだ。

 そう言えば聞こえはいいが、要は王都追放である。

 何かと口うるさい従兄を追いやったという方が真実に近い。


 だが、だからこそ、間近に見て彼はアスランの強大さをよく知っていた。


 先代聖女王には兄が一人、妹が二人おり、兄の子であるダレン公には王位継承権はない。しかし、二人の妹の子には、女性であれば継承権が発生する。


 ゼラシアは上の妹の娘だ。彼女自身にも妹が一人おり、彼女はその妹を非常に可愛がっていた。聖女となれば結婚出産は許されない。

 次の聖女王はその妹の産んだ娘と決めてはいるが、聖女になれるかどうかは女神の意思による。聖女になれなければ、聖女王にはなれない。


 もう一人の叔母の元にも娘がおり、その娘がすでに聖女として拝命されていた。


 わずか十五歳にも満たない年齢の少女であるにも関わらず、女神の声を聴き、強力な御業をふるう。

 青みを帯びた黒髪と蒼玉のような瞳は、まるで女神アスターの化身だとさえ言われていた。


 妹の娘を後継者にするどころか、このまま成長していけば己が追い落とされかねぬと、ゼラシアは焦っていた。


 焦った末、アスター大神殿主教モリソンへ相談をしたのである。


 アステリア大神殿の主教は非常に強い権限を持つ。

 税収の一割は大神殿へと納められ、寄進には税がかからない。

 聖女王の即位も、大神殿が執り行う戴冠式が必須だ。


 しかし、あまりにも権限が強くなれば王室とは対立する。

 アステリア聖女王国の歴史は、王室と大神殿の、静かな対立の歴史でもあるのだ。


 だが、当代は違う。

 モリソンは、信徒のご婦人が説法中に失神すると言われるほどの美男子で、聖女王ゼラシアと主教モリソンが男女の仲だということは、公然の秘密だった。


 この時、ゼラシアの思考を占めていたのは、アスランの脅威を説く従兄の言葉ではなく、年の離れた従妹に対する焦りのみ。

 文官の麦の高騰とそれに伴うほかの作物の値段上昇に対する報告も、アスラン軍が国境配備の兵を増やしているという警告も、全て彼女の頭の中を素通りしていった。


 そんな聖女王ゼラシアの焦りを、モリソンは利用することを思いついた。


 彼は、贅を好み権勢を望む、一言でいえば俗物である。

 主教の座に座っているのも、女神の声を聴くからではない。

 声を聴き、御業をふるえなくとも、司祭に、大司祭に、そして主教にもなれる。


 そこでものを言うのは、実家の権力だ。


 モリソンは大貴族アローン家の子弟として生まれた。

 母の身分が低く、アローン家の一員としては認められなかったが、神殿に入るとその美貌と巧みな話術でするすると司祭にまでなった。


 そうなれば、実家としてもモリソンにさらに上に行ってもらえれば都合がいい。

 ひそかに手を回し、彼の周囲では不審な死が続き…そして三十代の、異例に若い主教が誕生したのだ。


 アステリア聖女王国は、穏やかな気候と豊かな農地に恵まれ、他国に攻め込まれたことも百年以上ない。

 その百年間は、アスラン王国の急成長期でもあり、何時攻め込んでくるかわからない東方の蛮族に対して、西方諸国が同盟を結び侵略に備えた年月でもある。

 何しろ、僅か10年程でいくつもの国がアスランに併呑され、遥か彼方にあった東方国境がアステリア聖女王国の東端までせまったのだから。


 アスランがそこで進軍を止めたのは、西方諸国を畏れたのではない。外交の結果ですらない。


 時のアスラン王が没し、次代のアスラン王は膨張しきった国土を落ち着かせるために内政に腰を据えたからである。

 また、アステリアから西と東では、文化も風習も違いすぎた。

 そこを無理に飲み込むほど、アスランの新王は西方諸国に魅力を感じなかったのだ。


 だが、いつまた王が変わり、進軍が始まるかはわからない。


 西方諸国は決して互いに相争うような真似をせず、アスランに備えることを絶対の国策とした。

 それには、最前線になるアステリア聖女王国の兵を損なうようなことはしてはならない。

 百年の間にいくつか起きた小競り合いも、アステリア聖女王国には無縁だった。


 その長い平和は、この最後の聖女王と主教の存在を生み出してしまったと、のちに歴史家は分析する。


 50年前なら、アスランの脅威はもっと身近に感じられただろう。

 フェリニス王国の前身である国がアスランに滅ぼされたのだから。


 30年前なら、侵略の気配を見せないアスランに、西方諸国の同盟関係が揺らいだことで緊張感が生まれていただろう。

 小競り合いが日常と化した数年と、大きな激突があったのだから。


 10年前なら、フェリニス王国の台頭に目を光らせ、小麦の輸出には大きな制限がついたはずだ。

 フェリニス王国を興したのは元傭兵と噂の、得体のしれない男だったから。


 しかしいずれも、アステリア聖女王国にはそよ風すら起こさなかった。


 何も起きない。

 戦など、遠い国の話だ。


 ほかの誰でもない、アステリアの王室や貴族がそう思い込んだ末に、内政にも軍事にも外交にも興味のない聖女王と主教がたてられたのだ。


 政治を牛耳る貴族たちにとっては、政治に熱心な聖女王と口出ししてくる主教などは邪魔でしかない。

 この時、まったく王家にも国家にも忠誠心はなく、私腹を肥やすことにしか興味がなくても、政治家として才を持つ貴族が一人でもいれば、結果は違っていたかもしれない。

 または、国自体を乗っ取りたいと野望を抱く野心家がいれば、それでも未来は違っていただろう。


 残念ながら、そうしたものすらいなかった。貴族たちは自分の領地で小さな王となることを望み、聖女王国の政治はおざなりにされた。

 アスラン侵攻後に調査がはいったが、税収があまりにもまちまちすぎて、本来の石高がどれほどなのか把握できなかったほどである。


 急速に坂を転がり落ちようとする聖女王国を一押ししたのは、主教モリソンだった。


 彼は俗物である。そして、権力と財を手に入れれば、次に欲しくなるのは女だった。


 ゼラシアも、美女である。

 例えるならば大輪の赤い薔薇だ。当然美しい。

 しかも本来は地上の男が手を触れることも許されない存在である。


 その聖女王を組み敷くのは大いに彼の欲望を満足させたが、どんな刺激も慣れれば退屈に変わる。


 できればゼラシアの嫌う年下の従妹も手に入れたかったが、聖女王の機嫌を損ねて転落するのは御免だった。

 いたぶって壊せば喜ぶかもしれないが、モリソンが関心を持つだけで機嫌を損ねるのだから、やはり危険だろう。

 そうして獲物を物色するモリソンの耳に入ったのが、アーナプルナ山脈に抱かれた高原の王国クトラの姫君の噂だった。


 天女と称される、絶世の美少女。


 クトラの女が美しいのは知っている。

 何人か奴隷を買ったが、皆麗しい見た目をしていた。

 病に弱いのには辟易したが、嗜虐趣味のあるモリソンとしては、細い肢体を乱暴に扱い、弱っていく様を見るのは楽しかった。

 小鹿に例えられる大きな双眸から涙を流して苦悶するのを見るのは、大いに興奮した。


 それを一国の姫君にしてみれば、どうなるだろう。


 本来なら、ありえない妄想である。


 だが、彼は実質この国の最高権力者であった。

 己の欲望がかなえられないことなどないと錯覚できるほどに、それまでの全てがうまくいっていた。


 それがその方が都合がよい実家をはじめとする貴族たちの思惑だと理解できるほど、彼は聡明ではなかった。

 そして、その思惑を利用できるほど狡猾でもなかった。


 彼にそれだけの才覚があれば、アローン家はもっとモリソンを監視し、動向には注意を払っていただろう。

 アローン家の彼に対する評価は、美食と美女を与えて着飾らせておけば満足する木偶であり、それは正しい評価と言えた。


 その木偶が、少々高価なものを欲しがるような気軽さで戦争を起こそうとしているなど、思いもよらなかったのだ。


 ひそかにクトラ王国の情報を集めさせると、ここ数年冷害による不作が続いていることが分かった。

 モリソンには軍事のことは分からない。

 だが、相手が弱っている時に攻めるのは、好機をとらえるという事だろう。


 何しろ、姫君を手に入れるのだ。軍を出して征服するより他ない。

 そして彼はそれを、同好の士である聖騎士団長にも持ち掛けた。


 アステリア聖女王国の聖騎士団は、精強さと規律の高さをもって知られる。

 だが、百年の平和はすべてを緩ませていた。


 最後の聖騎士団長はモリソンの実家、アローン家のものである。

 団長と言っても、実際に戦闘を行ったことはない。


 ただ、彼は己を一流の軍師と自認していた。


 戦争がしてみたい。己の策で、指揮で、敵を蹂躙し、鮮やかな勝利を飾り、英雄と讃えられたい。

 それが騎士団長の望みであり、それを実行できると考える程度に無能な男だった。


 もしかしたらアスランとの戦争が始まるかもしれないと胸を躍らせていた聖騎士団長は、親戚の相談に飛びついた。


 クトラはアスランと長年同盟を結び、アスラン軍の出征には必ず勇猛と名高い兵団を同行させるという。

 なら、まずはそこを潰してアスランの力を削ぐ。

 それはとても軍略的だと手を打った。


 しかし、数年の不作にあえいでいると言っても、クトラ王国の兵は強く、攻め込むのならば慣れない高地での戦になる。それでは不利かもしれない。


 そこで自称軍師がひねり出した案は、戦とは外交の一つの手段なのだとは理解できず、ただ敵を殺すだけの事だとしか思っていない…作戦、戦術などとはとても呼べない愚考だった。

 

 不作で苦しむクトラに、義援だと言って麦を贈る。

 毒をたっぷり含ませた麦を。


 麦の値段は高騰している。

 以前からアステリアの麦とクトラの岩塩が交易の商品となっていたが、現在輸出用の麦はすべて北に運ばれている。

 だからこそ、クトラは拒めないはずだと団長は進言した。どれだけ警戒しても手を出すはずだと。


 大神殿では、さらに小麦が高騰してから売るために、大量の小麦粉を保有していた。これに毒を混ぜて持っていけばいい。


 義援なのだから、それらしい使者が必要だろう。

 そう、女神アスターの化身と言われるような少女などうってつけだ。


 麦の運搬と護衛として、聖騎士団とアステリア軍の兵士を同行させる。


 王宮の中に入り、まずは宴だとクトラ軍兵士にその毒麦で作った食事を食わせる。

 毒で動けなくなった兵士を全滅させ、王族や将も討ち取れば、指揮系統が崩れる。

 件の姫はそこで捕えればいいだろう。毒を食っていても問題はない。解毒の御業を使えばいいのだ。

 先遣隊がそこまでやれば、後は主力軍が国境を突破し、烏合の衆と化したクトラ軍を壊滅させればいい。


 モリソンはその、狂気の思い付きでしかない策を得意げに聖女王に献策した。

 次期聖女王などと持ち上げられている小娘に、試練を与えましょうと。


 警戒されて麦を受け取られず、使者である彼女が殺されてもいい。

 それはそれで、ゼラシアの機嫌を取ることができるからだ。


 聖女王はクトラ王国などに興味はなかったが、邪魔な従妹を始末できるならと喜んで献策を受け入れた。

 この時点で軍費がかさむことに難色を示した貴族はいたが、大きな反対は起こらなかった。

 隣国同士の激突が間近に控えた今、アステリア聖女王国の武威を示すのは悪くはないと思われたのと、あまりにも稚拙な策すぎて、成功するとは誰も思わなかったのだ。


 もし、ダレン公がいれば必ず大反対をしていただろう。


 毒を戦に用いるのは、絶対の禁忌だ。

 毒矢が使われることはあるが、民にすら毒を食わせるのは周辺諸国から多くの非難を浴び、占領後の統治に大きく影を落とす。


 まして義援の麦と言って毒を盛るのは最悪の悪手と言える。


 今後、同じように飢饉が起こった時、外国からの麦の輸入や義援の受取に余計な警戒をしなければならない。

 うまくいったとしても、最終的にはアステリア自身に毒を盛る行為だ。


 それをわかっている貴族はいなかった。それが理解できる貴族や文武官は、すでに遠ざけられるか粛清されていたから。


 アステリアの毒は、すでに総身に回っていたと言えるのかもしれない。


 とんとん拍子に話は進み、僅か半月後には聖女王の従妹、サフィル公女は僅か数人の護衛と共に使者としてクトラ王国へと旅立った。


 この護衛も、モリソンに従わない聖騎士と神官ばかりである。

 完全な捨て駒だ。

 聡明だったという彼女が、どこまでそれを理解していたかは今となっては分からない。


 ただ、一つだけ言えることは、彼女はクトラへの義援の麦が毒だなどと言うことは、一切知らなかった。


 途中で山賊や魔獣に殺されてもいいと、寧ろそうなれと聖女王に思われていることは理解していたかもしれない。

 だが、まさか飢饉に苦しむ隣国に毒をおくるなど、それが己が信仰する神のしもべが行ったなどと、僅か十五歳の少女に理解できるはずもない。


 自分が役目を果たせば、旅の途中に見かけた痩せこけた人々を助けられる。

 腹が減ったと泣く子供を笑顔に、泣き声も上げない赤ん坊を元気に泣かせることができると、それだけを思って慣れない山道を震える足で登っていったのだ。


 歴史の皮肉とは、悲劇とは、こういう事だろう。


 彼女がもし、途中で諦めたら。

 膝をつき、もう歩けないと足を止めていたら。

 アーナプルナに巣食う魔獣の一頭でも、その喉に牙を突き立てていたら。


 これから起きる悲劇は、起こらなかった。


 彼女自身にはひとかけらも罪はない。

 けれど、彼女は悲劇の発端となってしまった。

 そのことに、どうしようもない悲しみと怒りを禁じえない。


 護衛の数を減らし、自身も負傷しながらも彼女はクトラ王宮へたどり着いた。

 その崇高な想いを陰らせることもなく。


 頬を汚し、足に豆を作り、カサカサにひび割れた手で義援の麦の受け取りを願う少女の姿は、クトラ王のみならず居合わせた臣下を圧倒した。

 クトラ王は喜んで受け取ろうと、これをもってアステリアとも友好を深めたいと宣言し、その言葉はすぐに同行していた一人の騎士によって大神殿へ報告された。

 

 そして運命の夜。

 

 五百人もの兵士によって運搬されてきた荷馬車の行列は、飢えに喘ぐクトラの民に歓喜の声で迎えられた。

 王宮前広場には民が行列を作り、一人一椀、小麦粉を受け取っていく。

 王宮を警備する兵にも、王族や大臣、将軍たち、更にはサフィル公女にも、その小麦で作ったパンがふるまわれた。


 使われた毒は、即効性のものではない。夕餉に食べれば夜半に効果を表し、腹痛と嘔吐、吐血を繰り返して死に至るものだったようだ。

 当時の状況から、いくつか利用された毒の候補は上がっているが、現在でも確定はされていない。


 配られた小麦は一人当たりの量が少なく、毒だけで死んだ者は小さな子供や老人だけだった。

 王都だけで万を超すと言われる死亡者のほとんどは、その後に行われたアステリア軍による蛮行の犠牲者だ。


 まともな戦闘はほとんどなかった。

 武器を持つ兵士たちは動ける状態になく、毒を食わなかった人々は、慢性的な栄養失調で抵抗する力が残っていなかった。


 毒で動けない人々を殺し、婦女子を犯し、略奪を行う。


 それは、人を殺す訓練をしながらも、一度も戦闘を経験したことがない者たちによる、狂気だった。


 一度血に酔えば、止められない。


 もともと、アステリアは東方諸国を蛮族とさげすむ傾向にある。

 異形の神を信仰し、獣の皮を纏って暮らす未開の蛮族。


 それを殺すのは、人を殺しているのではない。

 むしろ、邪教を奉じる呪いから解き放っているのだと言われれば、そうだと納得する。

 本心ではもちろん、己の行いこそが蛮行だとわかっていても、それを隠す理屈があれば人間はどこまでも残酷になれる。


 この日、王都と王宮は血に塗れ、クトラ王家は滅んだ。


 だが、主教の求めたクトラの美姫は、王宮のどこを探してもいなかった。


 彼女も毒入りのパンを食べている。

 夜半に突然の腹痛と吐血に悶える彼女を救ったのは、同室で寝るほど仲が良くなっていたサフィル公女の解毒の御業だった。


 サフィル公女は自分も吐血しながらも、女神の奇跡をもって友人を救い…そのまま息絶えたと言われている。


 姫はクトラの戦士でもあった。友人の死に激しく動揺しつつも、我を失うことなくすぐに行動に移った。


 何が起こっているかはよくは分からない。だが、とんでもないことが起きている。

 そう判断した彼女は夜着のまま厩へ走り、天馬に跨った。


 アーナプルナ周辺に生息する天馬は、翼をもつ白馬である。

 れっきとした魔獣の一種だが、人に良く馴れ、乗騎として背に乗ることができた。

 地上から舞い上がることはできず、高い崖などから飛び出すことで滑空し、険峻な岩場を蹴って飛翔する。

 その為、天馬の厩は地上になく、屋上にあるのが幸いした。

 最上階に寝室を持つ姫の部屋の窓から、屋上まで登ることができたのである。


 愛馬を飛翔させる彼女の目が見たものは、地獄だった。


 生まれ育った王宮が、街が、赤に染まっている。


 それが親しい誰かの血であり、広場にゴミのように投げ出されているのが、両親の亡骸であることを見て取った時、最悪の事態が起きたことを彼女は悟った。


 愛馬の手綱を引いて広場に降り立ち、両親に駆け寄りたい。


 それを押しとどめたのは、戦士としての判断と、王族としての義務感だった。

 なんとしても、これを誰かに知らせて、王都を奪還しなくてはならない。民を救わねばならない。


 王都の守備軍は、おそらく自分と同じように毒にやられているのだろう。友人が、自分の命より優先して治してくれた、毒。


 どこからその毒が来たのか。

 それはクトラの王旗が引き摺り下ろされ、女神アスターを示す真円と盾の紋章が描かれた旗があがっていることで、明らかだった。


 自分の国の王族の少女を犠牲にしてまで、この地獄絵図を作りたかったのか。


 泣きながら、彼女は愛馬を駆った。


 目指すは、クトラとキリクの中間にあり、「ウルカの腕」と呼ばれる峰に囲まれるカイラス大僧院。


 両国の信仰の中心地であり、危険な山中にあることから、僧兵も多く抱える大僧院へ救援を求める。それが彼女の判断だった。


 一瞬でも早く辿り着けば、誰か一人でも助かるかもしれない。


 通常なら天馬でも二日以上かかる距離を彼女は不眠不休で駆け抜け、僅か一日でその中庭に墜落した。

 泡を吹いて絶命する愛馬の上で藻掻くクトラの姫君を、修行僧たちが慌てて介抱する。

 すでに何も映さなくなった視界に気を止める余裕もなく、彼女は声の限り叫んだ。


 クトラ陥落、救援を願う、と。


 血を吐くような叫びを受け止めたのは、偶然にも僧院を訪れていた隣国キリクの王子だった。

 彼は姫君のことをよく知っていたし、その姫君が一人で救援を求めた意味も即座に理解した。

 大僧院に姫君の治療を頼み、国境守備に当たっていた一軍を引き連れて、クトラ王都へと急ぐ。


 軍の編成と、行軍にかかったのは、三日ほど。


 その三日で、クトラの王都は、蹂躙され尽くしていた。


 虐殺と略奪にふけっていたアステリア聖女王国軍は、憤怒に震えて突撃を敢行したキリク騎兵隊の前に、成すすべもなく壊走した。

 降伏は許されず、アステリアの兵士であると判断された時点で首を撥ねられる。

 負傷した状態で捕らわれた兵も、残っていた毒の麦を口に詰め込まれて殺された。


 元凶ともいえる聖騎士団長も、玉座で寝こけていたところを捕縛。

 同じ方法で処刑され、クトラ侵攻軍は全滅する。


 キリクの王子は率いてきた二千ほどの兵では弔いもできないと本国に報告する傍ら、生存者を求めて王宮を駆けずり回った。

 キリクとクトラは民族も同じ、双子の国である。

 両王宮の行き来は頻繁にあり、王族はもちろん、主だった大臣、将軍はみな顔も覚えている。

 婚姻も盛んなため、王族同士はほぼ親族だ。

 クトラ王妃は王子の叔母であり、彼の母はクトラ王の従妹である。

 他の王族も似たようなものだ。


 その見知った顔の無残な亡骸を見つけるたび、王子は身を震わせた。


 アステリアの悪魔どもを、同じ目に合わせる。

 それができねば己の心臓を抉り出す。


 血と汚物を投げつけられて穢されたヘルカとウルカの神像に誓いを捧げ、そして王子はさらに奥へと走り。


 王宮の奥、王族の住まいとなる場所で、王子は恐れていた人の亡骸を見つけた。


 クトラの王子。彼にとっては兄のような存在であり、槍と弓を教えてくれた師でもある。


 奮闘したのだろう。彼の遺体の傍には、アステリア軍の死体が転がり、膝をついたままこと切れた遺体には、何本も槍や剣が刺さっていた。


 泣きながらその槍を引き抜き、腐臭の始まった遺体を抱きしめる。

 優れた武人でありながら、戦いを好まなかった彼がどうしてこんな最期を遂げねばならないのかと、物言わぬ兄に問い続ける。


 その時、彼の耳が幽かな音を捕らえた。


 慌てて振り向くと、寝台から布をこするような音がしている。


 そこに横たわっていたのは、クトラ王子の妻の、変わり果てた姿だった。

 隣国から嫁いできたこの女性は、闊達な性格で夫や王子と馬の駆け比べをするような女性だった。

 夫婦と彼と、クトラの姫君と、四人で遠乗りをした日が鮮やかに思い出される。


 その彼女が、僅かにたてる呼吸。それが布をこすり、彼の耳に届いたのだ。


 美しい顔は何度も殴られて変形し、右手首の先がない。

 乱暴にまかれた布は血を吸って赤黒く染まり、もう彼女の命が、残り少ないことを示していた。


 それでも、義姉と慕った彼女は、王子を見てわずかに微笑んだようだった。


 ふらつく手で残る左手を握りしめ、名を呼ぶ。

 反応はなかった。既に、彼女は何の音も発していなかったからだ。


 彼女の胎には、子が宿っていたはずだった。春になれば五人で遠乗りに行こうと、交わした約束を思い出し、王子は声を震わせて泣いた。

 

 それから数日でキリク軍増援部隊が到着すると同時に、アステリア軍の侵攻が伝えられる。

 王子は軍を率い、迎撃のために進軍を開始した。

 山道にそって点在する町はともかく、村はアステリア軍の攻撃で壊滅してしまう。

 

 クトラの守備兵が全滅したとは考えにくい。

 急ぎ合流し、最も国境に近い砦で迎撃するつもりで山道を往く王子たちが見たものは、信じられない光景だった。


 村で、町で、山道で、口から血を吐く人々の遺体。


 クトラ王都で生き残った民の証言から、アステリアが毒を用いたようだというのは分かっていた。

 だが、その毒を、民にも配り歩いていたとは、信じられなかった。


 人だけではない。空腹に耐えかねて家畜の毛長牛ヤクもその麦を食い、苦痛にのた打ち回っていた。

 巨体の毛長牛は毒だけでは死なない。

 しかし、血反吐を漏らし、転がって苦しむ毛長牛を治してやることはできなかった。

 この時点でも何の毒かは判明しておらず、解毒剤もない。

 仮にわかっていたとしても、毒を食って数日たった内臓は回復できなかっただろう。


 苦痛を長引かせるわけにはいかず、大切な家族である毛長牛を手にかけ、先に進む。

 その長い悲鳴を聞くたび、キリク兵の士気は高まっていったが、行軍は遅れた。


 キリク軍とアステリア軍の決戦は、そのために予定していた砦ではなく、アンシバル原という平原で行われることになる。


 そこにはいくつか村があったが、すでにアステリア軍に占領され、煙が上がっていた。生存者は絶望的だろう。キリク軍の士気は揮はさらに高まる

 アステリア軍はこれから続く登り路に備えてか、全軍停止しているようだった。


 数は、五千程度。キリク軍の倍である。

 王子は逸る軍を抑え、夜を待った。

 その日は満月。夜目の利くキリク兵にとっては昼間も同然だ。


 満月の光を浴びながら、キリク軍は風上、高地に陣を構えた。

 アステリア軍に動きはない。見張りはうろついているのは見えるが、気付いた様子もない。


 ぎりぎりまで引き絞られてから放たれた矢のごとく、キリク軍は斜面を下った。


 怒りに雄たけびを上げながら突撃するキリク軍の先頭には、もちろん王子の姿がある。


 手に持つ槍は、義兄に体に突き立っていた、彼が義兄に贈ったもの。


 身長ほどもあるそれを苦も無く振りかざし、王子はアステリア軍の只中に突き込んだ。


 結果は、キリク軍の圧勝。紙を突き破るように、キリク軍の突撃はアステリア軍を打ち破った。

 もともとアステリア側は、抵抗自体あると思っていない。国境の砦がほぼ無抵抗で落ちたことで、作戦の成功を知ったからだ。


 外交とは傅かれて貢物をもらうだけだと思っていた聖女王は、同盟国の繋がりも、戦争とは一国だけを相手に行うわけがないということも、理解していなかった。


 ただ、邪魔な従妹が消えて、ついでに戦にも勝てば聖女王国の名も挙がる。そうすれば、自分ももっと褒め称えられ、モリソンも一生己に忠誠を誓うだろう。その程度の考えだ。


 キリク軍による迎撃でアステリア遠征軍が壊滅したころ、もう一つ、進軍を開始した国がある。


 大陸交易路の盟主アスラン王国。


 盟主を名乗るからには、同盟国に危機があればすぐに援軍を送るのは当然のことだ。

 そうでなくとも、クトラ、キリクの両国はアスランと関わりが深い。二国が双子の兄弟なら、アスランはその親友だと言われるほどだ。


 特に、当時のアスラン王は両国との国交を重視していた。

 自分の娘を、クトラの王子に嫁がせるほどに。


 クトラの陥落と娘の訃報を聞いたアスラン王は、フェリニス王国に進軍するために状況を報告していた将を下がらせると、親征を宣言する。


 目標は、西方国境。


 西方国境には、フェリニス王国攻略の為に十万ほどの軍が駐留している。

 それに加え、王自ら禁軍十万を率いて大都を発った。

 それだけではなく、従軍する将軍に命じ、更に十万の兵を集めさせた。


 合計三十万。アスランの歴史上でも珍しいほどの大軍である。


 国境の平原を埋め尽くす、人と馬。

 様々な氏族を表す軍旗が靡き、進軍の角笛と太鼓の音が天と地を揺るがす。

 その人馬の飲料とするだけで、国境の川が干上がったなど様々な逸話が残されている。


 従軍する将軍は百人以上。中でもアスラン軍で最高位にあたる十二狗将のうち、半数の六名がこの遠征に参加していた。


 その六名に二十五万の軍を与え、アスラン王バトウはフェリニス王国の攻略を命じた。王都まで攻め上らず、しかし必ず南半分は陥とせと命じる。


 そして自身は残る五万と息子の王太子を伴い、アステリア王都イシリスを目指した。


 当時のアステリア聖女王国とフェリニス王国両国を一度に相手取るにしても、三十万はあまりにも多い。

 それでもアスラン王が過剰なほどの戦力を集めた目的は、ただひとつ。


 アスラン王国に逆らうものがどうなるか。

 それを周辺諸国に知らしめるためだ。


 アスランでは、敵国が降伏した場合は必ず一度、無条件に許す。

 それはアスランの開祖からの流儀であり、決して変えてはならない掟のひとつだ。


 だが、場合によっては降伏を選ばれては困ることがある。


 アスランは二度目の降伏は許さない。

 偽りの降伏をし、再びアスランに剣を向けたのならば、そこに住む住民毎滅ぼす。

 降伏を受け入れず都市を攻撃する場合でも、住民が攻撃の意思を持たない限り、民に対する略奪行為は禁止されている。


 だが、反逆や裏切りとみなされた場合は別だ。

 その国のものすべてが略奪の対象となり、何をしようと咎められることはない。


 中途半端な攻撃を加えては、フェリニス王国はいったん降伏を受け入れ、再度軍を整えて反撃に出る可能性が高かった。

 その時にもう一度大軍勢を編成し、馬の足が止まる森林地帯に進軍するのは避けたい。


 それならば、二度とアスランの領土を掠め取ろうなどと言う気が起きないほど痛めつけ、敵対するよりは良き隣人として振舞う方が得なのだとわからせた方がいい。

 フェリニス王国の特産品である木材は、草原が領土のほとんどを占めるアスランにとって手に入れたいものだ。


 痛めつけ、降伏させ、アスランに少々有利な通商条約を結ぶ。

 その為の大軍である。


 今回の攻撃目標であるフェリニス南部は農地として開拓された土地が多く、馬を走らせるのに支障はない。


 それに、騎兵での突撃だけがアスランの戦法ではない。

 強力な攻城兵器と潜入した密偵による内部攪乱、そして報奨と恐怖を巧みに使う切り崩しも行う。


 どれだけ高い城壁があろうと、壊してしまえばただの平地だ。


 この時にすでにフェリニス王国南部の守りの要、城塞都市エミルを護る将軍のうち二人は、アスランに内通していた。

 断れば一族郎党皆殺し、応じればアスランでの地位と報酬の財貨を約束され、半年以上前から内部構造や軍制の情報を流している。


 民にしてもそうだ。

 アスランが攻めてきたら住人が戦争に駆り出され、馬を止める人間の盾として使われるのだと、まことしやかに噂が流れる。


 不安が広まったところで、アスランは降伏者を必ず許し、保護するらしい。いっそ、本当に戦が始まったら、すぐに降伏した方がいいんじゃないか?と誰かが囁く。


 アスラン軍による包囲が始まれば、民の間でわだかまる噂は強力な伏兵となるだろう。

 もし一人でも城壁の外に出ようとすれば、そしてそれを止めようとする兵士が剣を抜けば、不安は怒りに変わる。


 誰かが兵士に石を投げれば、それは百個にも千個にもなって、内部から守備兵を襲う。

 その最初の石を投げたのが、まったく知らない顔だったとしても。


 そういった工作も騎兵による突撃と同じくらい、アスランの常套手段なのだ。


 アスラン軍は、八割以上が騎兵で占められ、全員が複数の替え馬を連れている。

 まずは騎兵のみで構成された部隊が迎撃に出た敵軍を踏み散らし、その後から数少ない歩兵軍が攻城兵器を守って進む。最後に、遊牧するための羊や牛、そして何より馬を連れた補給部隊が続く。


 アスランの糧食は自分たちの足で歩いていき、時期によっては増える。

 遊牧が始まれば、広範囲に散ってしまうので、補給部隊を叩くという大軍を相手にするときの常道も通じない。

 その補給部隊のほとんどを、アスラン王はフェリニス王国の部隊に同行させた。


 アステリア方面は時間をかけず終わらせるという意思表示と、民からの略奪を許可するという言外の命令だ。


 アスランが降伏を聞き入れないのは、一度降伏した相手が再度敵となった時。


 そしてもうひとつ、その敵がアスランの同盟国に深刻な被害をもたらし、盟主としての任を果たすべき時である。


 アステリア聖女王国は、クトラ王国を実に卑劣な手段で滅ぼした。それを許すことはできない。

 国の代価は国で払わせる。

 少なくとも、王都イシリスは踏みつぶす。

 すべての建物を破壊し、その地に生きる人間は殺すか奴隷として物に変える。

 火を放ち、燃え尽きた後は捕えた奴隷の手で瓦礫を丹念に塩と共に埋め、草も生えぬ不毛の地に均す。


 屠城と呼ばれる、最も苛烈な処置だ。


 それを命じることに、アスラン王はまったく躊躇いを持たなかった。

 アスランの国王として、交易路の盟主として、そして、娘を殺された父親として。


 彼は五人の妃を持ち、他にも多くの女性を侍らせていたが、子は二人しか育たなかった。

 いずれアスラン王を継ぐ息子にはかなり厳しく、時には不仲になり国外追放したこともあるほどだが、娘についてはただただ甘い父親だった。


 それほど愛した娘を嫁がせたのは、クトラ王国を重要視していることと、その婿になる王子を見込んでいたからだ。


 出来によっては息子を飛ばしてもいいかもしれぬと側近に漏らすほど楽しみにしていた孫と、娘と、娘婿を惨殺された彼の怒りはすさまじい。

 本来なら王が将軍よりも少ない兵を率いて、主戦場ではない場所へ赴くなどありえないが、ありえないと誰も進言できないほどに、怒り狂っていた。


 もし、その人物の到着がもう少し遅れていれば、今現在、アステリア聖王国は存在しなかっただろう。

 人の住めない、遊牧すらできない荒れ地が広がる死の土地と化していたに違いない。


 全軍に出陣を命じんとする王の前に飛び出し平服したのは、ダレン公とその妻、そしてまだ幼い息子だった。


 民もまた、聖女王ゼラシアの悪政に喘ぎ、今日の麦に事欠く有様。なにとぞ民はお許しください。


 荒れ地に額をこすりつけるダレン公は、嘆願を聞き届けてもらえるのであれば、この場で自分と妻と息子の命を差し出すと告げた。

 何度も繰り返される叩頭で彼の額は血に染まり、妻と息子も小石だらけの地面に額を付けたまま顔も上げない。


 前聖女王の甥、現聖女王の従兄のなりふり構わぬ嘆願は、怒り狂うアスラン王の耳にも届いた。


 両親に倣い、小さな背を震わせながら平伏する少年に、父親として、孫の誕生を待ちわびた祖父として、冷静さを取り戻したのかもしれない。


 アステリアを踏みつぶせば、西方諸国との全面戦争が始まる可能性が高いこと、その時、死の土地と化したアステリアには補給部隊を置けず、長く伸びた戦線は敗北の要因になりえること。


 そして、幼い子供を馬蹄にかけることを、愛娘は喜ばないであろうこと。


 アスラン王の脳裏によぎったいくつもの懸念は、確かにダレン公の決死の嘆願が気付かせたのだ。


 アスラン王の剣が抜かれる。出陣の勅令を放つ合図だ。


 鳴り響いていた太鼓や角笛は止まり、風すらも息をひそめる。

 これから王が宣言したことは、一度口から離れれば王自身にも覆すことはできない。出陣の勅令とはそういうものだ。


 敵は、アステリア聖女王国。

 聖女王を名乗る雌豚と、それを助長し女神アスターの使徒と偽称する溝鼠どもは一匹も生かすな。


 ただし、民には手出し無用。その者らは、アステリア聖王国の住人である。


 我はアステリア聖女王国の全てを残さぬ。その空になった国で民を守れるかは、おぬしが責を取れ。アステリア聖王ダレンよ。


 聞きようによっては、ダレン公がアスランに内通し、王の地位を奪ったと解釈される勅令。

 事実、それが原因でこの十年後、大規模な内乱が起こったのだから。


 けれど、アスラン王の真意は違う。

 

 民の命を懇願するなら、裏切り者と謗られようと、売国奴と罵られようと、その助けた民に王として責任を取れ。

 その責任は、嘆願のために命を投げ出すよりも重く、辛いものとなるだろう。


 声には出さない真意は、確かにダレン公に伝わっていた。だからこそ、彼は平伏していた顔を上げ、立ち上がり、アスラン王に誓ったのだ。

 

 この一命をもって、必ずや。


 新たな王を残し、アスラン軍は西進を開始する。

 先頭を往くバトウ王の口には久しぶりに笑みが浮いていたが、それを見ることができたのは馬を並べる王太子だけだった。


***


 そして、わずか五日の戦争が始まり、宣言通りアステリア聖女王国は滅亡した。


 聖女王ゼラシアは捕えられ、拷問の後、斬首。

 彼女の妹一家も幼児だった娘を含めて斬首された。

 王都にいた貴族もほぼすべて斬られたが、領地にまで攻め込み、族滅となったのはアローン家のみである。

 

 クトラ王国は、当初キリク王国とアスラン王国の援助により再興を目指していた。


 クトラ王国としての復興はできなくとも、キリク王国により統治されて国力を回復していけば、いずれは独立国として旗を掲げられる。


 カイラス大僧院で治療を受けていたアルナ姫は、アステリア軍を壊滅させたシーリン王子の妻となり、両王家最後の婚姻が行われた。


 いずれ彼女の産んだ子供たちの血筋から、クトラ王が現れればいい。


 アルナ王女はそう決断し、家族の弔いに出家して一生を費やすのではなく、前に進むことを決めた。

 もともと王子とは婚約中である。彼女の決断をクトラの生き残った民も、キリクの人々も歓迎した。


 だが、アステリア軍による蛮行は、その後もクトラを苦しめる。


 大量の民の遺体や家畜の死体に惹かれて山の獣や魔獣が人里に出現し、生き残った人々は住み慣れた村や町を離れるしかなかった。


 さらには、王宮で毎日行われていた退魔の儀式が途絶えたためか、アーナプルナの主と言われる氷竜ヒマルナルガの一個体が王都に巣を作った。

 王都は竜の息吹により氷に閉じ込められた魔境と化し、キリク王国の勇士による竜討伐が行われたが、王都に足を踏み入れることさえできず、クトラの復興は断念された。


 この、氷竜の侵入をもって、クトラ王国は滅亡したと史書には記載される。

 誇り高い高原の王国を滅ぼしたのは、隣国の邪念ではなく、母なるアーナプルナの主の意志であったと。


 それでもアルナ姫は、いつか子孫が氷竜を倒しクトラ王都を開放するのだと信じている。


 

 ただひとりの下卑た欲望がふたつの国を滅ぼし、今もまだ多くの人を苦しめている。


 歴史に「もしも」はない。だが、ほんのわずかに違っていれば起きなかった悲劇は、次の時代に生きる者の指標となるだろう。


 願わくば、語り部の意志がかき消されることのないよう。


 僅か30年でほぼアステリア聖王国内では忘れ去られた愚行を、これ以上風化させないよう。


 ファン・ナランハル 記す

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