第8話 アスター大神殿2
「アスターさまって、どんな神様だっけ?」
大神殿へ向かう道。
普段はあまり通らない道だが、大神殿は大通りから専用の道が伸びているので迷うことはない。
白い石畳がその目印で、色の違うタイルを使ってアスター女神のシンボル、真円が一定間隔で描かれている。
「夜明けを象徴し、公正さとか秩序を司る女神だな。天神五柱のうちの一柱で、雷帝リューティンの妹神、だな」
広く信仰される女神だけど、アステリアは元々「アスターの庭」を意味する言葉だけあって、アステリア聖王国の大神殿が総本山とされている。
「公正さと秩序か。反吐が出るな」
ふん、と鼻を鳴らすクロムは、ほぼ完全武装だ。
頭には鋼線を縫い込んだ布を巻き、革の胴当てと籠手。足には膝当てとつま先に鉄板を仕込んであるブーツ。
さらに革鎧に匹敵する丈夫な
もちろん、腰には愛用の剣も忘れていない。クロムなら素っ裸でも剣だけは持っていそうだけど。
「結局自分の信徒には甘い。そういう事か」
「神様だから、人間の争いには何もしないんじゃないかな」
戦争にいちいちその国の守護神が絡んできたら、地上は神々の遊戯板になってしまう。
アスター大神殿の犯した罪は許されることではないけれど、それでもって女神アスターを責めるのはさすがに酷だろう。
どんな素晴らしい功績も、とんでもない愚行も、人間の責任にするべきだと俺は思う。
「それはそうだ。クトラが滅んだのはヘルカの加護がなかったわけではあるまいし、我がキリクにウルカの加護があったから無事だったというわけでもないだろう」
自分の身長より長い槍を苦も無く担ぎながら、ユーシンが同意する。
ユーシンも胴当てと籠手を着けているが、肩から肘まではむき出しだ。
上着も毛皮と羊毛で作られた袖なしのもの。
胴当ての下に着ているのはごく普通の毛織物で、脚も脚絆を巻いているだけで防具はない。
ただ、クロムと違って、胴当ての下には鎖帷子を身に着けている。
これに帽子をかぶってマントを羽織ったら、ユーシン完全武装の出来上がり。
ユーシンが言っているヘルカとウルカは、クトラとキリクの守護神だ。
ヘルカは五つの目と四本の腕、そして乳房を持つ男神だ。破壊と再生を行う神とされる。
それに対してウルカは調和と終焉を司り、三つの顔と八本の腕に男性器を持つ女神だ。
この二柱の神は兄妹であり、姉弟であり、父子であり、母子であり、夫婦であり、一柱の神の両面であるともいわれる。
二柱の神は常に踊り続けていて、その踊りが四季を呼び、命を巡らせる。
クトラとキリクの人々は穏やかな舞踊を神に願い、それが日々の平穏な暮らしを齎しているのだと信じている。
30年前、ヘルカが足を踏み外したからクトラ王国が守られなかったわけではないよな。
神々は直接どうにかしてくれるわけじゃない。御業で手助けはしてくれるけれど、それだけだ。
ただ、俺たちを見守っていて、辛いときに泣きつかせてくれる存在。それだけでいいと思うんだ。
「神様がなんでもやってくれちゃったら、ダメ人間になっちゃうよねぇ。ぼくたち」
「俺はならんぞ。そもそも神など当てにしてないからな」
「クロムだしねぃ。っと!来ると思った!来ると思った!」
ヤクモの頭をわしづかみにしようとしたクロムの手は空を切った。
おお、見事躱したな~っと感心していたら、そのまま裏拳になってクロムの拳はヤクモのおでこを叩く。
クロムの一撃は額当てを装備していたら軽減されただろうから、短衣にマントだけじゃなく、ちゃんと頭防具もつけてくるべきだったかな。すまん、ヤクモ。
「痛いってば!ひどいってば!」
「それくらい避けろ。一撃避けさせてとどめの追撃を入れるなんざお手本みたいな動きだろう」
「だからってなんで叩くの!もう!」
一応、手加減はしているとはいえ、今のはクロムが悪い。不機嫌を八つ当たりで発散している。
理由は結局、俺が武装していないから。
朝から着ているシャツとズボンに、サンダルをブーツに履き替えて、丈夫な革のコート。
首にはクロムの頭の布と同じく、鋼線を縫い込んである布を巻いている。
武器は、怒られたけれど結局置いてきた。それがクロムの不機嫌の原因だというのはわかるけれど、仲間に八つ当たりはダメだろう。
「クロム、さすがにやりすぎ」
「ほぉらああああ!」
「避けんコイツが悪いっ!」
最後の「いっ!」を言いながら、クロムの上体が沈んだ。
同時に、さっきまでクロムの頭があったところを、ユーシンの蹴りが通過していく。
一瞬遅れて、蹴りで生じた風が俺とヤクモの髪を揺らした。
「…?鍛錬を始めたのではないのか?」
人の頭がある位置まで足を上げ、風を起こすほどの蹴りを放った直後とは思えないほど、普通に歩きながらユーシンが首をかしげる。
「やっとらん!」
「???そういう話をしていただろう?」
「あーもう!往来で暴れるんじゃあないっ!」
さすがに怒るしかないだろ。これは。
ユーシンは別に不機嫌でも何でもない。いたっていつものユーシンだが、いつも通り過ぎて往来で暴れる変な人になっているし。
ただ、その迂闊に食らっていたら首の骨がどうにかなりそうな蹴りは、少しばかりクロムの八つ当たりに水をかけたらしい。
ガシガシと頭を書いている顔には苦笑が浮かんでいた。
「はいはい。かーちゃんがキレる前にさっさと行くぞ。お前ら」
「誰がかーちゃんだ!」
「お前以外に誰がいる」
「産んだ覚えはねぇし産めねぇよ!」
「????鍛練ではない?ファンはなぜ怒っている??」
道行く人の目が刺さる。
うん。このタイルがあるってことは、もう大神殿への参道だ。でかい図体の男数人が騒いでてていい場所じゃないな。
「とにかく!ユーシン!いきなり蹴りを放つな!クロムもいちいちヤクモをいじめない!」
「これから蹴るぞ!と宣言してから蹴るのか?余裕がないときはどうしたらいい?」
「じゃあ、ぼくが黙って蹴っていい相手の時は教えてあげるね?」
「頼む」
ヤクモが少し、同情の視線を向けてくるのがまた辛い。
しかし、ユーシンこんなにアレだったかなあ?もう少しどうにかなっているような気がしたんだけど…。
今度ユーシンのご家族に会う時は土下座を覚悟しよう。
皿を片付けられるようになったのとちょっとアレになったの、等価交換ってことで許してもらえないだろうか。ダメか。
しかしまあ、昔からどんなに大人が真面目な話をしていても、そこにうちの兄貴がいたら飛びかかって行って手合わせをねだるような奴だったし。
コイツが15歳になった成人の儀でもやらかしたから、元々アレな奴だったということで、うん。
そんなことを思いながら参道を登っていく。
アスター大神殿は小高い丘の上に建っている。
元々は平地なんだけど、街のどこよりも早く夜明けを見られるようにと、土を積み上げて丘にしたそうだ。
四本の尖塔を四方に構えた大神殿は、たくさんの彫刻が施された正門から始まる。
かつての建物のうち、壊されずに残ったのはこの正門と尖塔だけだ。門扉は跡形もなく突き破られて今はない。
門をくぐってまず広がる庭園には、かつてはたくさんの薔薇が植えられていたそうだ。虹の園、と謳われていたらしい。
30年前、その虹の園は馬蹄に踏み荒らされ、引き出された神官や司祭、そして当時の主教は庭園の中央、今は池になっている場所に引き出され、殺された。
今では、そんな凄惨な光景があったとは思えない。
丁寧に敷き詰められた芝生と、この季節はサフランの花が揺れる花壇は、派手さはないけれど穏やかな美しさだ。
庭いっぱいに植えられていたという薔薇も、池を囲むように咲いていた。
その庭園の向こうに、礼拝堂がある。
御業の嘆願や寄進は、礼拝堂に常に控えている神官さんにまずは取り次ぐらしい。
今回、俺たちは御業を願いに来たわけじゃないけど、取次は必要だろうしな。
庭を通り、礼拝堂へと向かう。
ふと、池の方から屍臭が風に乗って届いたような気がするのは、この場所で行われたことを俺が知っているから…薔薇の香りをそんな風に思ってしまったんだろう。
主教は、膝と肘の骨を砕かれ、素裸にされて放置された。
神官たちの死体の上に。
季節は、初夏。それが主教に下された処刑法だった。
貴様の性根に相応しい。腐りはてた魂と同じく、体も腐りはてよ。
そうアスラン王は告げ、神殿の下働き達に一日一度、水をかけてやるように命じて立ち去ったそうだ。
もちろん情けからではなく、少しでも長く生きて苦しむようにするためで、主教はその後、五日ほど生きていたらしい。
主教や神官たちの死体は、アスラン王の怒りを畏れて誰も埋葬しようとしなかった。
あまりの酷い臭いに、随行していたアスランの王太子が父王に願い出て燃やし…その時うっかり礼拝堂とそのほかの建物に延焼して、大神殿は消火のために破壊された。
尖塔と門が残っているのは、燃える前に周りの建物が壊されたからだ。
だから、今俺たちのいる礼拝堂は再建された建物だ。
円柱が並び、実家にいるときに読んだ資料によると、儀式の際には五百人ほどを収納できるらしい。天井も高く、広い。
一番奥、台座の上に両腕を広げた少女の像が建っている。
甲冑を纏い、剣を携える女神アスターの神像だ。
夜明けとともに、背後の窓硝子からこの街最初の夜明けの光が女神像を照らし、朝が始まる。
神像は火が回る前に建物から避難できたので、大神殿建設以来のとても古いものだ。
纏っている甲冑の様式からして、アステリア聖女王国の始まりよりも古そうだ。
聖女王国が建国する前、カナン帝国の一部だったころの甲冑に見える。
もっとも、古くから存在する神を表現するために、像を作った彫刻師が知りうる最も古代の装いを纏わせたのかもしれないから、ちゃんと調査してみないと断定するのは軽率だろう。素材も石材か骨材かで年代や作られた場所がある程度わかるんだけど、こっからじゃ白っぽい硬いものとしかわからないなあ。
でも、よじ登って調べたら怒られる程度じゃすまないだろうし。
像を避難させたときに詳しいことを調べておいてくれたら良かったのになー。
調査報告書を読んだけれど、「見た目より軽い」「つるりとしている」くらいしか載ってなかった。調査ってものをわかっていないよな。
「おい、お前、今ものすごくダメなこと考えてなかったか?」
「え?いや、別に?」
はあーっとクロムは溜息をついて、手を振った。
「足元見るな。今、お前あの女神像を押し倒しそうな顔してたぞ。さすがに変態と思われるからやめろ。無機物に欲情するなら生きている女にしろ」
「そんなこと考えてないっつの!」
「どうせいつの年代に作られたか、何でできてんのかとか、気になってるんだろ?答えてやる。
ずっと昔に作られて、なんか硬いもんでできてる。以上だ」
「それを調べたいんじゃないかあ!昔にっていつ頃なのか!硬いものってなんなのか!」
「やっぱり考えてるねぃ…」
あ、誘導尋問…
周囲の敬虔な信徒たちの目が痛い。もしかして前に来た時、同じように考えていたのがバレて、案内係に冷淡な態度をとられたんだろうか…
「っと、さあ、さっさと用件を終わらせよう!明日は朝早いんだし!」
クロムにもう一度わざとらしい溜息を吐かれたが、うん。気にしない。
きょろきょろとあたりを見回すと、ウィルさんよりやや薄い緑色のローブを着た女性が俺たちを見ていた。
目が合うと、にこりと微笑まれる。
なかなか綺麗な人で、ヤクモがささっと前髪を直した。むやみに背筋を伸ばしているのをクロムが鼻で笑う。
「冒険者ギルドより参られた方ですか?」
「あ、はい。たぶん」
俺たち以外にも依頼を受けた冒険者がいないとは限らないけれど、俺たちもそうであることは間違いないし。
「ただ今の当番冒険者の方ですね?ジョーンズ司祭がお待ちです。こちらへ」
それなら多分俺たちのことだな。良かった。違ったらちょっと恥ずかしい。
女性が足を向けたのは、入り口から見て右方。
やっぱり右方改革派かたの呼び出しかあ。
礼拝堂を囲み、尖塔に挟まれるようにして建てられているのが、神官たちの部屋や応接室などがある棟だ。
女性神官が俺たちを案内した扉は、御業の嘆願を願う部屋の一つのようだった。
ベッドと椅子が置かれ、入ってきたドアと反対側の壁にもう一つドアがある。
それ以外には何もない。もちろん、誰もいない。
女性神官は俺たちが全員部屋に入り、ドアが閉まったのを確認して、反対側のドアのノブに手を置いた。ここで話すわけじゃないのか。
「もうしわけございません。大神殿も俗世。ジョーンズ司祭様が殿方をお呼びしたというだけで、それを吹聴するものも残念ながらおりまして…」
「多少の偽造が必要ってことですか。俺たちを呼んだのは、ジョーンズ司祭の独断ということ…?」
殿方を呼んだことがゴシップになるなら、ジョーンズ司祭は女性なのか。
「詳しくはジョーンズ司祭と、ともにお待ちの方にお聞きください」
反対側のドアは、毛足の長い絨毯を引かれた廊下につながっていた。ただ、壁に窓はなく、先ほどの礼拝堂に比べると息が詰まるような圧迫感がある。
「ここは、お忍びで大神殿を訪れた貴賓がお渡りになる回廊なのです」
「お忍びで大聖堂か。夜の礼拝、女神官のご奉仕ヤリ体放題ってとこか?」
「クロム…」
なんだその大人しか買えない本のタイトルみたいなのは。
「ご想像にお任せします…と言っても、近いものですね。バレルノ大司祭は確かに寄進にて御業を行使するようにされていますが、神官を売るような真似は致しません。ですが」
「売るような奴もいるってことだろう」
神官の中にも、身分がある。
一番強いのが、有力な貴族がコネを作るために送り出す子弟だ。自分の子や兄弟が司祭なのは、いろいろと便利なのだろう。
次が、商人や町民の子が神官を志し、寄進と共に出家した人たち。
そして最も低いのが、口減らしのために神殿に入った人たちだ。
裕福ではない貴族の末子や、婚外子。
神殿の外に出ても、生きていく術もない人たち。
そうした立場の弱い人を一生神官見習いとしていいように使っているというのは聞いたことがある。
ただ、右方ではそうしたことも含めて改革を進めているとも聞いていたけれど…。
俺の顔に疑問が出ていたのか、女性神官は苦しそうに笑った。
「売るような奴もいる、ということですよ。もちろん、そんなことができるのは有力者だけ。だからここを通る方の素性も、誰に会いに行くかも詮索しないルールなのです」
改革を進めていると言っても、バレルノ大司祭もたしかもう、70歳を超えているはず。
腹心はいても後継者はいないという話だから、どうしても手が届かない場所はあるのだろう。
手が届くと困る連中ががっちり守っている場所ならなおさらだ。
女性神官の足が止まる。開かれた扉の向こうには、階段が待っていた。
瀟洒な造りの木製の階段だ。
途中踊り場を挟んで、登り切った先にはドアはなく、明るい日差しの差し込む廊下が待っていた。
廊下に面したドアは二つ。
そのうちの階段側のドアのノッカーを、こんこん、と女性神官は動かした。
「失礼いたします。お客様をお連れいたしました」
「ありがとう。セーラ」
部屋の中から聞こえてきたのは、落ち着いた女性の声だった。
女性神官に促され、部屋に足を踏み入れる。
女性神官は俺たちに一礼し、下がった。部屋に入る気はないらしい。
そういう行為を行う場所と聞いていけれど、テーブルを囲んで二人掛けのソファが二台、一人掛けが一台あるだけの部屋だった。
「失礼します。…あれ?ウィルさん」
テーブルを挟んで向かい側にあるソファに腰掛ける女性の後ろに見知った顔がある。まあ、ここの神官なんだし、いてもおかしくはない。
ただ、ウィルさんと一緒にいたのは間違いなく左方の神官だったから、彼も思考的に違っていても、左方所属なのだと思っていた。
あのおっさんが派閥を飛び越えて同行を命じられるほど身分が高い男とは思えなかったし。
「ご足労お掛けいたしました」
ジョーンズ司祭であろう女性はすらりと立ち上がり、優雅に一礼した。俺もそれに応え、左手を胸に当てて腰を折る。
…どうでもいいけど、なんかこの人、すん…ってションボリしているような…?
「あ、あの!ファンさん!あの!」
「なんだこのガリは。知り合いか?」
「最初に冒険者ギルドに依頼を持ってきていた人だよ。ウィル・ローダンさん」
本来は紹介を待った方がいいんだろうけど、クロムが警戒心を露わにしているんで手短にウィルさんと知り合った経緯を伝える。
「あの、ファンさんは、ファン・ホユル・オラーンさんなんですよね?!」
「へ?はい、そうですけど」
俺の返答に、ウィルさんはなんだかとてもホッとした顔をした。なんなんだろう。
「まあ、ファン・ホユル・オラーンではあるわな」
一人掛けのソファから、低い声がした。
どっこいらせ、と声を漏らしつつ、ひじ掛けを掴んでのろのろと立ち上がる小柄な老人。ウィルさんが慌てて手を貸しに駆け寄った。
「ああ、座ったままでどうぞ。俺たちは気にしませんから」
「こちらが気にしないわけにゃあいかんのですよ」
ウィルさんに支えられてこちらを見る老人の顔に、見覚えがあった。五年程前に会っただけで、絶対にそうだと言い切れるほど親しくしたわけではないけれど。
「お久しぶりですな。ナランハル」
クロムが緊張するのが解った。もし、言ったのが小柄なお年寄りでなければ、飛びかかっていたかもしれない。
だけど、俺だって驚いた。いや、少しは予想はしていたけれど。
おそらく、それはあちらも同じだろう。
俺の名前はウィルさんから聞いたのかな。親父の名前まで名乗ったのはマズかったか。きっと、老人からしたら俺の顔は見たくなかったはずだ。
「…お久しぶりです。また、会えてうれしいですよ。バレルノ大司祭」
「えええええ!?」
声は、意外なところから上がった。
「うるさいぞ坊主…爺は耳が遠いって言ってもな、耳元で叫ばれちゃさすがにうるせぇわ」
「だ、だって、あの!大司祭様!?」
「えっと、確か、右の方の一番偉い人だよねぃ?」
ヤクモの疑問に、老人は更に皺を深くして笑った。聞きようによっては失礼な問いを気にした様子もない、癖はあるが気持ちの良い笑顔。
ただ年齢を積み上げてきたのじゃなく、たくさんの経験と想いを重ねていたと解る笑みだ。
「偉いかどうかは置いといて、肩書は一番重いですわな。
女神アスターにお仕えするしもべ、ダン・ジョヴァンズ・バレルノにございます」
両手を広げ、片膝を曲げて頭を下げる。
アスターの信徒が行う礼は、老人にはとても辛そうだった。
ウィルさんは放心しているので、駆け寄って体を支え、ソファに座らせる。脱穀した麦のように軽かった。
「俺は今、ただの冒険者ですから。そうやって扱ってください」
軽い体や皺に覆われた顔には不釣り合いな、強い光を称えた視線が見上げてくる。
「ウィルさんも。ジョーンズ司祭もお願いします」
「大司祭様…」
うん、ウィルさんは大丈夫そうだな!大司祭様ショックで俺のことは多分頭から抜けてる。
となると、あとはジョーンズ司祭だけど。
じっと俺を見つめる視線は、何かを探しているようだ。
この人もナランハルが何を示しているかを知っていると考えて間違いないだろう。
「…てない」
「はい?」
「似ていらっしゃるのに、似ていない…」
ものすごく悲しそうに言われた。
えっと、なんて?
「モウキ様によく似ていらっしゃるのに…なんか違う…」
「え?ああ、親父ですか?確かに顔立ちはそっくりって言われますね」
より正確にいえば、体はそっくり、中身は別物と言われる、だけど。
「そっくりと伺っていたのに…」
ついに顔を覆ってしまったジョーンズ司祭に何と言っていいものか。
しかしよく見ると、指の隙間か俺の顔をじっと見ている。その視線に見覚えがあった。
馬市で若駒を値踏みしているときの目だな。アレは…
混乱していると、クロムにグイっと体を引かれて後ろに追いやられる。
「悪いがコイツを性的な目で見るババアの前に置いとくわけにはいかんのでな」
「すまねぇな。ちょっと初恋こじらせたままで五十路に突入しちまったもんでよ。手はさすがに出さねえと思うわ。なんか勝手に幻滅しとるし」
「しっかり手綱を握っておいてくれ。ますます生身の女が苦手になったらどうしてくれる」
なんか、ジョーンズ司祭にも俺にもひどいことを言っている。
「おい、さすがに失礼だ。ジョーンズ司祭に謝罪を…」
「この兄ちゃんの心配は間違っていねぇから、謝罪はいらんよ。ファン・ホユル・オラーン」
バレルノ大司祭の口調と言葉に思わず頬が緩んだ。よかった。わかってくれたか。
「そちらも掛けてくれって、椅子が足りねぇか」
「あ、ぼ、僕、持ってきますね!」
放心から立ち直ったようで、慌てて駆けだそうとしたウィルさんだが、予備の椅子なんてあるんだろうか。
床には毛足の長い絨毯が引かれ、ソファの前にはラグもある。これなら直接座っても問題はないな。
「あの、ソファをちょっと脇にどけて、床に座ってもいいですかね?」
もともと、アスランもキリクも椅子は基本的に使わない。
野外に出て腰かける必要があるときに、持ち運びできる床几を使うくらいだ。
シラミネ生まれのヤクモも、絨毯や敷布の上に座ることに抵抗はない。
「では、わたくしたちもそうして座りましょう。お爺ちゃんはそのままソファにいてくださいね」
大司祭とクロムの暴言を気にした風もなく、ジョーンズ司祭はにっこりと笑って俺の提案を受け入れた。心の広い人だなあ。
「モウキ様はお元気であらせられますか?」
「ええ、まあ。殺してもなかなか死なない親父なので」
五十路に入ったばかりってことは、親父より少し年下か。
親父と関わったって言うなら、20年前の内乱だろう。30年前の侵攻でなら、この人は生きていないだろうし。
兄貴、もう生まれているな…あ、俺もいるわ。まさか、手を出していないよな?親父…
ジョーンズ司祭が腰かけていたソファをクロムと協力して持ち上げながら、嫌な想像に内心冷や汗をかく。
腹違いの弟は三人いるけど、まさか四人目とか…孕ませておいて何もしないのは流石に無責任すぎるだろう、親父…。
「安心しろい。拗らせてるだけだ」
「はあ…」
俺の内心を察したらしいバレルノ大司祭が断言する。それなら、良いんだけど。
「内乱の折、モウキ様には命を救っていただきました。白馬に跨り、颯爽と駆けつけてくださったあの雄姿!決して忘れることはございません!」
「親父殿、昔は白馬が好みだったのか?」
「20年前かあ…流石によく覚えていないけど、河原毛だった気がする。そのころの親父の馬」
「妄想だから気にすんな」
ソファとテーブルを片付けると、何だか部屋が広くなったような気がした。
ジョーンズ司祭の指示でウィルさんが隣室から追加のラグをとってきてくれたので、ありがたく広げて、そこに腰を下ろした。
俺とヤクモが並んで座るのを挟むように、クロムとユーシンが膝をついて座る。
胡坐をかくと一挙一動では立ち上がれないけれど、膝をついてつま先を立てるこの座り方なら、即座に攻撃に移れる。
二人とも、やっぱり完全には信用していないらしい。
ジョーンズ司祭とウィルさんはクロムたちに近い感じだけど、あれはきっとお祈りの時の姿勢だな。
「さて、単刀直入に聞かせてもらうがな。何故、
「それは安心してください。俺が自分の弱さが原因で死んだのなら、その責任はすべて俺にあります」
それがアスラン王国の法というより、タタルの遊牧民族の絶対的な掟だ。
強さ弱さとは、肉体的な強さだけではない。
鷲になれないなら鴉になれ、とはよく年長者に言われることだ。
正面から戦ってみれば鴉は鷲に勝てない。
だけど、鴉は知恵で鷲を出し抜き、獲物を奪い取り、逃げおおせる。それもまた強さだ。
ちなみに、アステリアに来て、カラスが小さいのにびっくりした。
こちらのカラスは春と秋に渡りもしない別種であるというのは本で読んではいたけど。
鷲でもなく鴉にもなれないのなら、獲物として食われてもそれは仕方がない。
俺が仕事中に、たとえばゴブリンなりトカゲなりに食い殺されたとしても、それはこの国に対して文句を言うような筋合いではなく、俺という個人が弱かったことを葬式で叱るだけだ。
「ここにいるのは…ちょっと事情がありまして」
それで誤魔化されてくれないものかと思ったけれど、老人の視線は強く、到底納得できないことを示す。まあ、そりゃそうか。
「兄の支持者に、まあ、ちょっと、狙われたんです」
「後継者は長男でゆるぎないと聞いているが」
「アスランでは親の跡を継ぐためには、一族や配下の家長のうち、三分の二の承認がいります。いまのとこ、ギリギリ三分の二は集まりそうですが、何かあれば反対に回りそうなのもそこそこいるんです。
兄貴が跡目を継いでほしい人からすれば、反対派が弟を担ぎ出して、日和見連中が寝返るのが一番困る、と」
兄貴は俺と違って押しに弱くないから、ダメなものはダメときっぱり跳ねのけられる。
本当に親しい身内や友人に対しては甘いし、押しも弱いんだけど、それでも公私混同することはない。
羊一頭の値段だって妥協しない兄貴より、泣き落としが効きそうな俺に継がせたいってわけだから、まあ、いい人たちじゃない。
兄貴の支持者からすれば、目障りだ。裏で暗躍する連中を一人ずつ片付けるより、担ぎ上げる対象を消した方がいい。合理的ではある。
「なもんで、
「…なるほど。理屈は分かったが、なんでうちだ。そこの兄ちゃん、キリク人だろ?キリクでも東のカーランでもよかったじゃねぇか」
「意表をついとこうかと。バルト陛下とウルガさんには報告済みです。多分。親父が」
古い友人のいるところに息子が行くんだから、なにかしら言ってくれてるだろう。
うん。本当は俺が挨拶に行くのが筋だけれど、さすがに王様に挨拶なんて簡単にはできないし。
とりあえずこの話題があまり続くとクロムの気が立つし、さっさと本題に入ろう。
「あと…すいません。先に断っておきますと、他の仕事を受けたので護衛はできません」
簡潔に、マルダレス山で採れる満月花が入荷しなくなったこと、薬草採りの冒険者が帰還していないことを説明する。
「むしろ、失敗できない儀式なら、解決してからにした方がいいんじゃないでしょうか?」
「そうもいかねぇ。聖女拝命の儀は、女神のお告げがあった日から次の満月までに行わなきゃならん」
「そうなんですか…」
「30年ぶりのお告げだ。これを見過ごせば、次はいつになるか想像もつかん。かつては3年に一度はあったんだがな。おれはそう聞いとる」
3年に一度が30年ぶりか。アスランの侵攻で大神殿と聖女神殿が破壊され尽くしたことはやっぱり関係あるんだろうなあ。
「アスランは関係ねぇよ」
俺の顔にそう書いてあったのか、バレルノ大司祭は首を振った。
「女神は俺たちをお怒りになっている。ただ、それだけだ」
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