第7話 アスター大神殿1

 「行くのは仕方ない。だが、絶対に!しっかりと!武装していくぞ」

 「まあ普段着で行くわけにはいかないだろうけど、武装はしなくてもいいんじゃ…」


 返答は、ぎろりと睨みつける視線。


 「甘い」

 クロムはファンの意見を一刀両断にした。


 もともと、ファンは無防備すぎる。先ほども短剣すら持たずに外出していた。

 確かに一番得意とする弓は持ち歩きにくい装備ではあるが、だからと言って丸腰はない。


 それを指摘すると「俺の腕なら抵抗せずまっしぐらに逃げた方が生存率が高い。その時に武装は速度を落とすだけだ!」と胸を張って答えられる上に、あながち間違いではないのがやりにくい。


 本人が言うほど弱いわけではない。

 士官学校の実技試験に合格して騎士資格を得ているのだから。

 ただ、アスランの民らしく、ファンの戦闘力はほぼ、馬上で発揮されるのだ。


 馬を走らせながら弓を撃ち、当てる。

 速度を落とさずすれ違いざまに武器で攻撃する。


 それはアスラン軍では当たり前の技術で、誇れるようなものではない。

 当然ファンもできる。馬に乗っていれば、自分よりも強いとクロムは思っている。

 クロムもできることはできる。だが、それは努力して習得した技術なのだ。


 アスラン人は違う。正確に言えば、アスランの遊牧民は次元が違う。


 息ができることを誰も誇らないのと同じだ。


 息を吸い、吐くように自然に、馬と一体化し駆け抜ける。

 彼ら彼女らは、物心がつけば一人で馬に乗り、いつから乗り始めたのかなどは誰も覚えていない。

 十歳にもなれば、馬から馬へ走らせながら乗り換えることもできるようになるし、狩りも始めているから弓も撃てる。


 その十歳から、クロムは馬に乗った。

 まともに走らせられるようになったのは十三歳だった。

 騎射をなんとか「できる」と言える程度にまで習得したのは士官学校入学目前の十五歳。今でも狙って当てられるのは三割程度だ。


 到底、遊牧民には馬術ではかなわない。


 だから、徒歩で剣を振るう事に重点を置いた。

 体術も叩き込んだ。幸い、少しは才能もあった。才能豊かとは言えなくても、あるにはあった。


 多対一でも一方的に負けるような無様は晒さない自信がある。守って戦うことだってできる。


 だが、だからと言って。


 「敵地に防具なしで言って殺されても、そりゃ自業自得だ」

 「待って、クロム。そもそも敵地なのぅ?」

 「貴様のココはなんだ?中にはワタアメでも詰まってんのか?」

 「いだだだだ!!やめて!つむじやめて!」


 ヤクモの悲鳴に、慌ててファンが止めに入る。


 「敵地はさすがに言いすぎだぞ、クロム」

 「お前な、アスラン人がアスター大神殿にどう思われているのか、わからんわけじゃあるまい?」


 使った皿を重ねながら苦笑を浮かべ、ファンはそれは知っているけど、とクロムの懸念を肯定した。


 「だけどさ、今のアスター大神殿は親アスラン派もいるからな。今回、俺たちを呼んだのはそっちだと思うぜ」

 ユーシンに重ねた皿を渡しながら、ファンはあくまで危険はないと穏やかに首を振る。

 「そうなのか?」

 受け取った皿から目を離さないように水を張った盥に沈めつつ、ユーシンは疑問を口にした。


 ユーシンには政治とか国家間の関係といったものはピンとこないが、アスランがアステリアを一蹴したことは知っている。

 アスラン軍の国境突破から王都陥落まで五日間しか要さなかったため、「五日戦争」と周辺国には言われている戦い。

 迎撃に出たアステリア軍を僅か千騎で突破し、「陥陣」と呼ばれた当時の王太子、現アスラン王の武勲は幼い時から何度も聞いている。


 自分ならできるだろうか。当時の王太子の年齢まであと数年、鍛えぬけばできるようになるだろうか。


 そう思えば、血潮が熱くなるのを感じる。


 もっとも、今、全神経を注入すべきことは、皿を一枚も壊さないことだが。

 すでに五枚破壊している。次やったら飯抜きを言い渡されている以上、失敗は許されない。


 「なんでわかるんだ?ハクブツガクとやらの効果か?」


 すべての皿を盥に移し終え、大きく息を吐く。

 一枚も割れていないし、ヒビもない。穴も開いてない。よし。


 「博物学じゃないなー。ただの噂というか、アンナさん情報だよ」

 「アンナか…ならまあ、多少は信用できるな。しかし、あの守銭奴が金を渡さずに情報くれたんだとしたら疑うが」

 「冒険者になってすぐのころ、怪我したら大神殿に行って御業をお願いできるか聞いてみたんだよ」


 安価な魔法薬が効かない程度の怪我をしたら、神殿に行って癒しの御業を願うのは珍しいことではない。

 中級の魔法薬よりは少ないお布施で、出血をとめるくらいの事はしてくれるのだ。


 「いざという時に、最初から別の神殿行ってればよかった、なんてことにはなりたくないからな」


 癒しの御業は言い方は悪いが初級の奇跡であり、どこの神殿でも使える神官はいる。

 だが、常に御業を行使できる神官がおり、紹介状がなくても寄進による嘆願が受け入れられるのはアスター大神殿と、地母神ニーメの神殿くらいだ。


 ほかの神殿は規模も小さく、神官の人数も少ない。

 神殿というより祠とか祈祷所と言った方がしっくりくるところもある。


 30年前は、女神アスター以外への信仰が禁じられていた名残だ。

 他国との行き来が盛んになり、女神アスター以外の信徒も増えてきたものの、依然として夜明けの女神以外にアステリア人が手を合わせることはあまりない。


 地母神ニーメは幸運の神でもあり、安らかな死をもたらす死神でもある。

 その為、冒険者と傭兵に信徒が多く、年々神官の数も多くなってきている。

 しかし、言い換えれば、ひっきりなしに癒しの嘆願が行われており、寄進の金額も吊り上がっているのだ。


 同じ死に掛けの重症者が運ばれてきたとしたら、優先されるのは金貨を積める方。

 それを非難する気はないが、自分たちが後回しにされるのは困る。


 だから、できれば寄進の金額が明瞭なアスター大神殿に行きたい。

 そう思ってアスラン人は門前払いになるのか確認してみたのだと、ファンは言葉を続けた。


 「大神殿は左右に建物が別れていて、向かって左側はドノヴァン大司祭を筆頭にする保守派、右側はバレルノ大司祭が率いる改革派。親アスラン派はこっちの右側だな」


 だから右側の入り口から入れば大丈夫、と言われて、ファンは実際に一度、怪我はしていないが行ってみたことはある。当然、クロムには内緒で。


 視線は相当感じたものの、いきなり追い出されることはなかった。

 好意的、とはとても言えなかったが、その時の寄進が銅貨十枚だけだったことと、アスラン人であること、どちらがより影響していたのかは不明だ。


 「保守派、改革派って?」

 「わかりやすく言えば、30年前の在り方を取り戻したいのが保守派、現在のやり方を続けたいのが改革派ってとこか。

 反アスラン、親アスランともいえるけど」

 「んー、それって、えーと、保守派の人はどこを目指してるの?今、別に大神殿の評判ってわるくないよねえ?お布施は絶対まけてくれないって愚痴は聞くけど」


 ヤクモの疑問はもっともだ。

 だが、どこにでも、どんな組織にも、変わる前のやり方を望むもの、今は自分にない権利を取り戻したいと思うものはいる。


 「アステリア聖女王国の復活だろうなあ。当時、アスター大神殿の主教は、もう一人の王と言われてたらしいし。悪いことばかりじゃないんだけどな。王が暴走したときに止めることのできる権力者がいるっていうのは」


 ただ、二人揃って暴走したとき、とてつもない災いとなる。


 「30年前の悲劇のように、お互い火を油を注ぎ合うと…どうしようもないが」


 30年前、長い歴史を持つ一つの国と民族を滅ぼした戦。


 信じる神が違う。文化が違う。人種が違う。

 それを罪として、己こそが正義だと、声高らかに宣言して。


 アステリア聖女王国は、隣国クトラを侵略し、多くの民と王族を虐殺した。


 犠牲となった民は、十万以上。王族に至っては、生き残ったのはたったの二人。

 白雲の城と呼ばれたクトラ王宮は、犠牲者の血肉により床の色が変わったと語られる。


 しかし、結局は、アスラン王国という信じる神も、文化も、人種も違うより強大な力に蹂躙されて、アステリア聖女王国とアスター大神殿は血に塗れて滅んだ。


 それでも、30年前を生き延びたアスター女神の神官がいないわけではない。

 地方の神殿に勤めていた神官たちと、大神殿を出て巡礼として各地を旅していた神官たちだ。


 大神殿にいた神官は悉く殺され、大神殿は廃墟と化した。

 だが、アステリア聖王国として、アスター大神殿を再建しないわけにもいかない。

 戦後、建物の修理と、各地の神官たちへの帰還の呼びかけが行われた。


 呼びかけにまず答えたのは巡礼たちだった。

 権勢をふるい、贅を好む主教らのやり方に疑問を持ち、大神殿を離れた神官たちは何の迷いもなく大神殿へと足を運び再建に尽力した。


 地方神殿に努める神官たちの動きは鈍かった。

 王都に赴けば殺されるという噂が根強かったせいもある。

 地方神殿の司祭たちの多くは、その土地の貴族出身だ。

 親兄弟の領地経営のために司祭となっているものが多く、王都に馳せ参じるものはほとんどいなかった。


 例外となるのは、左派の筆頭ドノヴァン大司祭である。


 彼は王都陥落の三日後には、治癒の御業を授けられた神官団や医者、薬師を連れ、王都イシリスを目指していた。

 時のアスラン王に謁見し、治療を施すこと、民の慰撫を行うことを願い出て許され、そのまま大神殿再建の中心人物として王都にとどまることになる。


 だが、実際に再建に向けて大きく動けたのは、右派筆頭バレルノ大司祭の登場を待たねばならなかった。


 彼がもたらしたものは、金である。


 再建に必要な巨額の金。それを、アステリア南部を領地とする大貴族出身のバレルノ大司祭は用意した。


 その後も神殿の再建に、彼は惜しみなく腕を振るった。

 今までは神官による判断に委ねられていた御業の嘆願を、治癒ならいくら、快癒ならいくら、解呪なら…と寄進の金額を設定し、その分を支払えば誰にでも御業を行使するようにした。


 その件で「奇跡を売る商人」と批判されることも多い。


 他にも他の神殿との交流や、積極的な冒険者支援、農地経営に護符や聖水の販売など、今までのやり方とは全く違う方法で神殿を経営している。


 だが、彼の働きがなければ大神殿は名ばかりの規模になっていただろう。

 聖女王国時代にあった王宮からの寄進はないも同然になり、蓄財は銅貨1枚にいたるまでアスラン王に接収されたのだから。


 バレルノ大司祭はいち早くアスランへ恭順を誓い、二度とアステリア王族から聖女を任命しないこと、聖女王の即位は大神殿として認めないことを宣言した人物でもある。


 当然ながら越権行為だ。

 しかし、衣食住を支えるバレルノ大司祭に異議を面と向かって唱えられるものはなく、現在も大司祭は年に一度使節団をアスラン王国へ送り、「ご機嫌伺い」を欠かさない。


 その行為をドノヴァン大司祭は激しく非難している。

 アスラン王国による大神殿の虐殺を正当化するのかと、使節団が組まれるたびに声を荒げ、阻止しようと立ちふさがる事すらあると言う。


 「ドノヴァン大司祭は、本当に清廉潔白で絵にかいたような聖職者、バレルノ大司祭は現実的な実業家で、そこそこ黒い噂もある。ただ、ドノヴァン大司祭は政治手腕や経営能力は皆無に近いらしくて、左方保守派の神官はまあ、嫌な奴が多いと聞いているな。ようするに、30年前、アスター女神以外への信仰を認めず、神官の地位が貴族に等しかったころに戻りたい人たちだから」


 「それは、大司祭が許しているのか?そのような振る舞い、聖職者として相応しいものではないと思うが」

 「羊の皮をかぶった豚に気付かんだけだろ。脳みそ花畑の奴によくいる」


 「そういうことだな」

 クロムの辛辣な言い方に苦笑しながらも、ファンは頷いた。


 「今回、俺たちを呼び出したのは左右どちらかわからないんだけど、俺は右方改革派だと思っているんだ。アスラン王国が儀式の許可を出したなら、そのお膳立てをしたのはバレルノ大司祭だろうからな。アスランとのパイプは彼の一派しか持っていないし。

 ただ、積極的に進めているのは保守派だと思う」


 「んー、それでなんで、改革派?の人が僕たちを呼ぶの?」

 「やってきた護衛がクソだったから、まともな護衛が欲しいんだろ」

 ヤクモはユーシンと顔を見合わせた。


 クロムが人を酷評するのはいつものことだが、強さを何よりの基準とするアスラン人らしく、腕が立てば「クソだがまあ、肥やしくらいにはなるんじゃないか」とか、少しだけ褒める(?)ことが多い。

 それがないということは、間違いなく弱い。


 クロムの基準が厳しいのもあるだろうが、それでも武器を握ったことのない一般人に近いレベルなのではないだろうか。


 「大事な儀式なんだよね?」 

 「何故そんな心許ないのを護衛に?」

 何かの陰謀なのか。信仰とは死ぬことと見つけているのか。


 「ただ単に、何の危険もないと思っているからじゃないかな」

 付近には村も多く、聖女神殿跡地までなら山道も険しくない。

 今は道もなく、迷えば遭難する危険性はもちろんあるが、賊やゴブリンなどの目撃情報もない。


 ギルドでも、未帰還者がいなければ駆け出しに振るような難易度だっただろう。


 それなら大神殿への尊敬があり、何より奉仕として護衛を引き受けてくれ、さらに見目もいかにも正義の味方然としたあの二人はうってつけと言える。


 「だが、実際には何が潜んでいるかわからんと、そういうことだな!で、頼まれれば護衛を仕事として引き受けるのか?」

 「いや、ナナイの依頼を優先だよ」

 ユーシンの質問に、ファンは笑って首を振った。


 「当然だな。神殿からの報酬なんぞ、せいぜい小銀貨一枚程度だろ。話にならん」

 「ただ、無視はできないからな。さて、と。もう一度言うが、完全武装はなしだ、クロム。喧嘩を売りたいわけじゃない。あっちも俺たちに武器を向ける理由なんてないだろ」

 「あいつらはクトラ人だという理由で、父さんの故郷を踏みにじった。お前がアスラン人だという理由で剣を向けないと何故言える?」


 視線を向けず、クロムは低く、呟くように問う。そんな弟分の肩に手を置いて、ファンはまっすぐに青みを帯びた鋼色の瞳を見つめた。


 「信じてるからかな~。一度だけお会いしたバレルノ大司祭を。

 アスランからようやく許可が出た儀式に絡んで、アスラン人を害したなんてことになれば、ろくでもない結果にしかならないだろ。

 あの人はそんなことを許さないと思うからさ」

 「…頑固者。胴当てと籠手はしていくからな」

 「まあ、それくらいなら」


 折れてくれた弟分の肩をぽんぽんと叩き、ファンは納得してくれたことに感謝の意を示した。思いきり口をへの字に曲げながら、クロムは身支度に戻る。


 「俺も胴甲は付けて行こう。ファンの信念は美徳と思うが、それと危険に備えるのは別だからな!」

 「僕は武器だけでいいや。防具は干してるし」


 うん、とヤクモは頷き、洗濯ものと共に干されている革鎧を見る。

 前に干している装備品を盗もうとした冒険者がクロムとユーシンに半殺しにされて以来、安全に干せるようにはなった。

 ベルトで物干しには固定してるけれど、それがちぎられそうになったのはびっくりしたが。


 「よし、身支度が終わったら出発しよう」

 ガタリと席を立ち、ファンは大きくうなずいた。


 「俺は洗濯もの取り込んでくるから!」

 どう考えても武装する時間を取らないファンに、クロムは大きく溜息を吐いた。

 「また丸腰で行く気か…お前は…」


*** 


 (そんなことを言われても…)


 ウィルは、目の前に座る女性の質問に身を竦めた。


 髪の半分は白く、元の黒髪に混じって目立っている。

 温和そうな下がった目尻にも皺が寄り、若くはないことを物語る。


 しかしそれでも、十分に美しい。


 「ええと、ですね、ジョーンズ司祭…」

 「はい」

 にこにこと口許は笑っているが、目は揺れていない。

 「忌憚なく、貴方の思ったことを教えてほしいのです。ウィル」


 リタ・ジョーンズ司祭は、右方改革派の中でもバレルノ大司祭直属と言われている女性だ。一応、左方に所属するウィルにとっては何重にも縁遠い。


 大神殿に放り込まれた時に左方に入れられたから今でも左方に所属しているだけで、右方の司祭たちに対して敵意など微塵もない。

 だが、神官見習いにとって司祭は雲の上の存在である。

 せめて神官にならなければ司祭の傍で働くなんてことはない。とにかく偉い人だ。


 その中でも特に偉い人からいきなり呼び出され、答えにくい質問をされている。


 通された部屋は思ったより質素で、履き古した靴で入ることすら許されないという部屋ではなかったけれど、偉くてさらに女性の部屋だ。


 居心地の悪いことこの上ない。


 足の裏を受け止める絨毯以外には、招いた客に失礼にならない程度に立派なテーブルとソファがあるだけの部屋。

 チェストにはおそらく庭から積んできたのだろう色とりどりの薔薇が生けられた花瓶があるが、逆に言えば部屋を飾る品はそれしかない。


 「此度、護衛として奉仕をしてくださるお二人に任せられると思いますか?」


 「その…アンナさん、あの、ギルドの人は、何かマルダレス山にいるっていっていました…」

 何がいるかはわからない。ただ、何かがいる。それが、薬草採りの冒険者を襲っている。

 襲われた冒険者は、帰ってきていない。


 「で、でも、見かけより強いかもしれないってファンさんも言ってたし、その何かもどうにかできるんじゃないかって…」


 「ファン、ですか。アスラン人の冒険者…」


 ジョーンズ司祭の目が僅かに細くなる。

 その動きにウィルは肩を窄めた。


 右方の人たちはアスランのことを悪く思っていないというけれど、そうでもないのだろうか。


 今日知り合ったばかりの冒険者を罵る言葉は、聞きたくなかった。

 アスラン人だからって、ファンさんは良い人なのに…と心が不満の声を上げる。


 「その、ファン殿についてもう少し教えてください。アスランのどこの出身と?」

 「え、聞いていませんでした…あ、でも、大都を案内してくれると言っていたから、そこなのかも…」


 「他には?」


 「ほ、ほか?!」

 必死に思い出す。背中の支えてくれた手の大きさと暖かさ。見上げるような長身。優しい気配。


 「ヤルクトのモウキの子、ファン・ホユル・オラーン」

 そう名乗っていた。ヤルクト氏族のモウキの次男のファン、と。


 細められていたジョーンズ司祭の目が、今度は大きく開いた。

 「ヤルクトのモウキの子、と、そう名乗ったのですね?」

 「え、あ、はい」


 じっと胸に手を置き、ジョーンズ司祭は考え込んでいる。

 それはどちらかと言えば、思わぬ知り合いの話を聞いた時のようで、ウィルの不安より興味を煽った。


 「お知り合い…なんですか?」

 「…ファン殿とは面識はありません。ただ、ヤルクトのモウキ様が私の思っている方と同じ方であれば、20年前、命を救ってくださった方です」


 20年前。内乱のあった年だ。


 ジョーンズ司祭はバレルノ大司祭に命じられて、バルト王子の軍に従軍したという。

 髪に隠されているが、彼女の左耳はない。

 反乱軍にとらえられ、拷問を受けたからだと噂されている。


 「あの戦いには、アスランの方も参戦してくださいました。モウキ様の率いるアスラン騎兵がいなければ、陛下の偉業もなしえなかったやもしれません」


 「知りませんでした…アスランの人が戦っていたなんて」

 「左方では徹底的にアスランのことを排除しますから」


 悪口はよく聞くし、30年前の虐殺については必ず教えられる。

 突然現れ、アステリア聖女王国の平和な治世を断絶させた野蛮な侵略者。


 だが、実際にあったアスラン人は、野蛮でも冷酷でもなかった。


 穏やかな声とわざわざ椅子をテーブルの下に戻していった几帳面さ。

 むしろ、初対面の人をいきなり糾弾してきたり、斬るとか言う二人組の方が怖い。本当にイラッとしたからと殺されそうだ。


 あの冷たい殺意を思い出して怖くなっているウィルを後目に、ジョーンズ大司祭は胸の前で手を組み、女神に感謝をささげる。


 「ああ、そうだわ。モウキ様はおふたりご子息がいると仰っておりました。ホユル・オラーンならご次男ですね。よく似ていると仰られていたご次男様…」


 うっとりとジョーンズ司祭は呟いた。部屋に入ってきたときの、笑っていない目は完全に消えて、頬さえ染めている。


 「ファン様の御髪の色は?」

 「え!?えと、薄い金色でした。砂の色のような…」

 「まあ!やはりモウキ様のご子息なのね!」


 確かファンは、アスラン人には自分と同じような髪の色をしたものが多いと言っていたような…


 「やはり、すぐに冒険者ギルドに人をやって正解でした。此度の儀式、決してしくじるわけにはいかないのです。その大切な儀式にあの方のご子息がお力を貸してくださるなんて…これは運命です!」


 「あ、あの?ジョーンズ司祭…?」

 「あー色ボケしなさんなや。ったく…」


 ガチャリ、と遠慮なくドアが開いて、あきれたような声が飛び込んできた。


 とっさに振り向いたウィルの目に、小柄な老人が映る。

 背はまっすぐなのに、おそらく、ウィルよりも小さいだろう。

 痩せた体に厚手のローブを引っ掛け、まばらに白い髭が生えた顎は痩せてとがっていた。手に持っているのは、真鍮の保温瓶のようだ。


 「すまんな。コイツは20年前から恋する乙女してんのよ。想い人は嫁さん一筋だってのにな」


 「え、ええと、いえ、ちょっと驚いたくらいですし…」

 老人はずかずかと部屋に踏み込み、保温瓶をジョーンズ司祭に押し付けると、一人掛け用のソファに腰を沈めた。


 「外まで色ボケ声が聞こえとるぞ。春先の猫か」

 「失礼な!確かに少し、昂ってしまいましたが」


 ぷん、と唇を尖らせるしぐさは、本気で気分を害したというより拗ねているようだ。

 「気持ち悪い。五十路迎えた女がしていい顔じゃねぇぞ。まったく…」


 老人の身形からして、神官以上であることは確かだ。

 ウィルのような神官見習いは袖も裾もたっぷりあるようなローブは着れない。

 支給はされているが、着る事ができるのは年に数回の儀式の日だけだ。

 禁止されているのではなく、動くのに邪魔なのである。


 つまり、雑用をしなくていい、世話をされる立場なら、自分より確実に偉い人だ。

 そうウィルは結論付け、背筋を伸ばした。


 「さて、おれもちょっとばかり、その冒険者について聞きてぇんだが、いいか?坊主」

 「は、はい!」


 この後の仕事の内容が頭をよぎる。

 そろそろ戻らないと夕飯までに終わらないかもしれない。

 そうなったら、容赦なく夕飯抜きだ。

 ウィルはそう食べる方ではないが、やはり夕飯がないのは辛い。

 いつの間にか仕事が増えていて、夕飯にありつけないこともままあるとはいえ、毎日食べたいことに変わりはない。


 「お前さんの仕事なら、今日一日はなしだ。つぅか、ここでおれ等の質問に答えるのが仕事だと思ってくれ」

 「え?」

 「アンドレイの奴は、おれの同期の弟子でな。まあ、おれにも融通をきかせてくれるんだ」


 仕えている師父の名を挙げられて、ウィルは咄嗟に手を合わせ、祈りの姿勢をとった。師父の師父と同窓であるなら、それくらいの無理は言えるのかもしれない。


 「ま、ちくっと嫌味くらいは言われるかもしれんが、勘弁してやれ。あいつァ同期のサイモンが助祭になったからな。焦っとるのよ」


 そういえば、よく師父がサイモンがどうしたとか言っていたような覚えがある。

 そのサイモン様に関しては、ぼんやりとしか輪郭が出てこないけれど、先日廊下ですれ違ったときは、後ろに引き連れている神官と神官見習いが増えていた…と思う。


 「助祭だ司祭だなんてなあ、女神の寵愛で決まるもんでもなし。アンドレイは根が真面目過ぎて、ちょっとばかり上の顔色うかがうのが下手なだけなんだがなっと、話がそれたな」

 「老人のお話は、雨の日のカエルよりあちこち飛びますものね」


 いつの間にか、ジョーンズ司祭は茶器の用意をしていたようで、暖かい湯気がふわりと舞った。

 ウィルの前にもカップが置かれる。瀟洒なティーカップではなく、素焼きのマグカップだ。


 「熱いですからね。気を付けて飲むのですよ」

 「あああ、ぼ、僕がご用意しないといけなかったのに!」

 「私は私好みのお茶を淹れたかっただけです」


 出されたマグカップの中で揺れるのは、湯気を立てるミルクティー。ジョーンズ司祭の笑みに促され、ウィルはカップを口に運んだ。


 「おいしい…」

 熱すぎず、ぬるくもなく。

 とろりとした食感なのは牛乳を惜しげもなく使っているからだろう。

 それにこの、脳を揺らす甘さ。

 蜂蜜もスプーン一杯くらいは入っているに違いない。


 (贅沢だ…)


 さすがは司祭様、と思うが、同時にこのミルクティーが選ばれたのは、自分を気遣ってくれてのことだというのは分かった。

 二人のカップの中に揺れているのは、ウィルのそれより透明度が高く、紅い。

 ミルクをたっぷり使っているのは、ウィルの胃がそろそろ空腹を訴えているのを悟られているのだろう。


 「よかったらこちらも」


 指示されたクッキーは、朝食として饗される、ナッツを砕いて混ぜ込んだクッキーだった。朝食はこのクッキーが三枚と、もっと薄いミルクティー、それに運が良ければ腸詰一本かベーコン一切れ。祝祭の日には半分に切ったゆで卵がつく。


 遠慮がないわけではなかったが、香ばしい匂いに逆らい切れず、口に運ぶ。


 朝食に食べるそれよりも味が濃い。ナッツも形を保っている。気がつけば一枚ぺろりと平らげていた。


 「冬眠前の栗鼠だな」

 老人の口調は言葉とは裏腹に柔らかかった。

 おれぁこんなに食えん。じじいだからな、と言って、自分の分のクッキーを一枚残してすべてウィルの皿に重ねる。


 クッキーの小山は、常に空腹を覚えているウィルにとっては金貨の山に等しい。


 「あー、やっぱり、左方のことだからとほっとくのは良くねぇなあ。ったく、死ぬ前の仕事が増えちまったわ」

 「え…?」

 「左方じゃこれが朝飯なんだろ?右方じゃこりゃ小腹がすいたら摘まむもんだ。売店で売っている商品の売り物にならんやつだからな」


 売り物にならない?こんなにおいしいのに?


 ウィルの疑問は顔に出ていたようで、ジョーンズ司祭の指が、一番上のクッキーを摘まんだ。

 「この通り、割れているでしょう?完全に丸いものだけを売っているのです。円は女神アスターのシンボルですから」

 上る太陽を、夜明けを示す円。なるほど、と思いつつ、少し欠けているクッキーに齧りつく。


 「もちっと量のある朝飯食いてぇだろうよ。若いんだから」

 「せめて右方と同じく、野菜スープにパン、肉類か魚を饗したいですね」


 この老人は、もしかしたら厨房担当の司祭様なのだろうか。

 もし、毎朝そんなに食べられるようになったら幸せだなあ、と気がつけばあと一枚になっていたクッキーを見ながら思う。


 これだけ食べられたら、夕飯がなくなっていても明日の朝まで耐えられそうだ。


 今日の昼食はギルドから帰ってきて慌てて飲んだ具のないトマトスープと、林檎一個。

 普段ならそこにパンが二個程度だが、今日はもうなくなっていた。

 主食なしはやはりつらい。夕飯抜きなら空腹で眠れなかったかもしれない。


 「でだ、坊主。そのファンって名の冒険者だが、ホユル・オラーン以外の名を名乗らなかったか?」

 「名乗っていない、と思います…」

 「そうか。周りにそいつの仲間らしきやつは?」


 何人かの冒険者と親し気に挨拶をしていたが、仲間というほどではなさそうだった。


 「えっと、四人パーティのリーダーだって言うことはアンナさんに聞きました。剣士ふたりに槍使いひとりで、全員男の人で、あ、皆アステリア人じゃないそうです」

 ふむ、と老人は頷いた。どうやら知りたいことを少しは提供できたらしいと思って、ウィルは嬉しくなった。


 右方の司祭たちに面識はなく、聖職者ではなく商人だという悪口も聞くが、こんなに美味しいお茶とクッキーを食べさせてくれる人が悪い人のわけはない。


 ウィルを懐柔しようとしているのだと師父や兄弟子には言われそうだが、たぶんそうではない。

 痩せて腹をすかせたウィルに、何か食べるものを勧めている、それだけだと断言できる。

 第一、ウィルを懐柔してなんの得があるというのか。ファンとも言葉をちょっと交わしたくらいで、ほぼ他人なのだし。


 「誰か、そいつを『ナランハル』と呼んでなかったか?」


 「ナランハル…?ですか?」

 「ねぇみたいだな。まあ、本人に会えばどのみちわかる」


 ナランハル…と口の中で呟いてみる。ホユル・オラーンと同じく異国の響きだ。


 「ナランハル、とはアスラン王国の四聖獣の一柱です。太陽を先導する紅い鴉とされています」

 「そんな鴉がいるんですか?」

 太陽を先導する…鴉。女神アスターもその鴉に起こされるのだろうか。


 「アスラン王国の神話ですからね。実在するかはわかりません。けれど、アスランの人々はナランハルが先導するので太陽は迷わずに天を渡り、地の彼方へ沈むのだと信じているのです」


 「それが、ファンさんなんですか?」

 もしかして、聖獣が人に姿を変えているとか?

 それにしては親しみやすいというか、高貴な人が出す威圧感のない人だったけれど。


 「ナランハルが象徴するのは、夏と紅だ」

 「えっと、赤?あ、ホユル・オラーンも次と赤っていってました!」

 「ああ。ある一族じゃ二番目の子をナランハルっていうんだよ。まあ、こいつがうっとりしてるモウキ様の一族だがな。おれ等としちゃ、そいつがただのファン・ホユル・オラーンなのか、ファン・ナランハルなのか知っときたいってやつでな」


 知り合いの息子なら、頼みやすいってことかな、とウィルは内心に頷いた。

 ジョーンズ司祭の暴走が少し心配ではあるが、まったく知らない人よりは信頼できるだろう。


 絶対に失敗できない儀式。それは左方も右方も同じことだ。


 だが、ジョーンズ司祭がファンに護衛の依頼をしなおしたら、あの人たちは怒るんじゃないだろうか。


 斬らねばならないと言い放った騎士風の男の冷たい目を思い出し、不安がよぎる。

 ウィルがもやもやと膨れる不安を持て余していると、ノックの音が室内に響いた。


 「はい、どうぞ」

 ジョーンズ司祭の声に応じて、「失礼します」という声と共に袖の長い神官服に身を包んだ女性が扉を開け、老人を見て目を瞬かせる。


 「あの、ジョーンズ司祭。お客様がお見えですが…」

 「おう、通せ。グダグダ言われんように、賓客用の道を通らせて来い」

 「…良いのですか?」

 「はい。このお爺ちゃん、帰ってくれませんからね。お通ししてください」


 女性神官は老人と司祭の顔を交互に眺め、はあ、とため息をついて頷いた。


 「そうですね。では、ご案内したします」

 「おー。それでいい。じじいは一度座るとなかなか立てねぇんだ。帰りはそこの若いのに部屋まで送ってもらうからよ」

 「迷惑だったらきっぱり断ってくださいね。ウィル」

 「いえ!僕にできることならやらせてください!クッキーいただきましたし!」


 この小柄でやせた老人なら、非力なウィルでも背負っていけそうだ。

 これだけいろいろしてくれたのだから、望まれればそれくらいはやらせてもらいたい。


 「お前さん、安すぎるぞ。もっと自分を高く売れよ。だが、まあ、頼まア」

 鼻に引っ掛けるような笑いが嬉しい。

 ほんのわずかな時間なのに、この老人がすっかり好きになっていることにウィルは気付いた。


 「まあまあ。若い子をたらしこんで。ウィル、このお爺ちゃんは見た目通り性格が悪いですからね。あまり心を許してはいけませんよ。気がついたら師父からの用事より、この人の用事の方を多くこなしている羽目になりますからね」

 「うっせぇな。老人への奉仕は美徳だろうが」


 老人は悪態をついて目を閉じた。

 瞳が薄い瞼に隠されると、さらに年老いているように見える。

 双眸に宿る力強い輝きが、彼を実年齢よりも若く見せているのだろう。


 「おれァもう、時間がねぇんだよ。もうちっとばかり仕事しなけりゃよ、安心して女神の御許にお呼ばれできねぇ。

 ああ、だからな。来るんじゃねぇぞ、ナランハル」

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