死神
多部栄次(エージ)
序章 懐旧の雪
It is love, not reason, that is stronger than death.
死より強いもの、それは理性ではなく、愛である。
Paul Thomas Mann
寒気だった黒い空を眺め、腕時計の時刻を確認する。二十時五分。男は喫茶店の外の席で本を読みながら珈琲を啜る。建物のガラス窓から光が漏れ、それが街を照らしていた。街中を歩く人々は白い息を吐きながらバスに乗り降りしたり、バルへ寄ったり、帰るべき場所へと向かったりしている。
静かな街のどこからか走ってくるような足音が聞こえてくる。男は溜息をひとつつき、本を閉じた。
「ごめんごめん、遅れてしまった」
男の前まで駆けつけてきたのは黒目がくっきりとした茶髪の若い男だった。黒のアンダーとキャメルライダースジャケットにダメージのあるジーパン、ピアスやリングのネックレスをつけている辺り、友人のつながりが多い大学生にも見える。
気の軽そうな男に対し、椅子に座っている男は眉をひそめる。黒いウェーブロングヘアに色白の肌。フェミニン寄りにしてはっきりとした顔だちだと、それすらも色気を際立たせ、美しく思えてしまう。シンプルなダークコートを羽織った彼は時計を見ることもせず、タンザナイトの瞳を若者に向ける。
「五分遅れだ。ロミット、最低でも十分前の行動はどこの世界でも共通のはずなんだが、君の中ではそうではないみたいだね」
冷たい眼。ロミットと呼ばれた茶髪の男は苦笑した。
「おいおい、久々に会ってそれはないだろ。まぁ遅れたのは悪いと思っているけどさ、てかそういうとこ本当に相変わらずだな、ゼクロス」
ゼクロスと呼ばれた男は本を白いテーブルに置く。ロミットは隣の椅子に腰かける。
「ルーズなところも相変わらずのようだね」
「だからごめんって。でも本当に久しぶりだな。何年ぶりだ?」
顔を寄せたロミットの表情は嬉しそうだった。それを見、一瞬だけ間を置いてからゼクロスも微笑む。
「君にとっては何年ぶりだろうと思うけど、僕にとっては数百年だ。そろそろ忘れかけるところだったよ」
それを聞いたロミットは一瞬だけぽかんとしたあと、大きく笑った。
「おまえらしくない冗談だな。なんだよ云百年ぶりって……あ、そういうことか、おまえ"旅人"やってんのか」
ゼクロスは「そういうことになるね」といい、珈琲を一口つける。
「旅人」という言葉には多くの意味があり、また、「世界」という言葉にも多くの意味が含まれている。ゼクロスは時空間や次元を渡り、世界を旅している。
しかし、「世界」によっては別世界や並行世界、多世界の概念は科学的に存在しないと主張されていることもあるため、ゼクロスのような旅のやり方はあまり知られていない。だが、ロミットは彼と同様、他にも多種多様の宇宙の中に在る世界が存在することを知っているうちの一人だった。
「世界単位で旅するといろいろ時空軸の差が出るだろ? あ、てことは、おまえ何百歳も生きてんのかよ。いったいどこの世界の何の医療で延命してんだよ。"電脳"生まれだろうが、その体がもつはずがねぇだろうし」
「そういう君だって、随分と若さを保っているみたいだね。四十代のくせに、そんな私立大学に通う女好きの遊び呆けた学生みたいな格好して恥ずかしくないのかい」
ロミットの格好は確かに学生のようなそれだが、初老のそれとは思えないほど肉体が若々しかった。あのころから全く変わってない、と皮肉を込められるが、ロミットは得意の笑顔で流した。
「誰だって若くいたいさ。成熟病なんてどんだけ前の話なんだよ。そういうおまえだって人のこと言えない口だろ。ナチュラルでその顔は軽く嫉妬するぜ?」
「人を外見でしか判断できない君にひとつ言葉を捧げよう。表面を固め、磨くほど相手の心の内には刺さらないものさ」
「はいはい中身が未熟で悪かったですね」とふてくされる。
「冗談はともかく、僕はただ、時を無駄に過ごしただけさ」
その表情は少し物哀しそうにも見えた。
ふーん、とロミットはプラスチック製の白い椅子に背をもたれ、煙草を取り出す。
「吸うか?」
「いや、遠慮しておく」
そうか、とロミットは興味なさげに煙草に火をつけ、白い煙を真上へ吐く。肌寒い風が煙を歩道へと流していく。
「最近は本当にいろんなものが発達してきたな。少なくとも俺の住むこの世界この時代のこの国では。昔も昔で相当だったけど、テクノロジーや医学も、政治経済までもなんか進化したっていうか」
それを聞いたゼクロスは珈琲を一口つける。
「というよりは、ある一点の分野が特化したことで、全体のハードルが上がってきたように思えるけどね。無理して発展させているから余裕がないように見えるよ。この世界では」
「そう思うか、やっぱ天才の感性は違いますなぁ」とにやける。「からかうのはよせ」と一言。
「思えば医薬大で出会ったよな俺たち。ラボは違ったけど隣だったし、お互い同じ時期で学位も取ったし。んで、それぞれの世界へ渡って医薬に携わる職に就いて。うわー懐かしい」
友人の嬉しそうな顔を見、ゼクロスは微かに笑った。
「ま、俺は仕事辞めたけどな」
だが、すぐに笑みは消えた。
「すると何か、今は無職と捉えるべきか」
「……お前もう少し驚けよ。別に呆れてもいいけど、その害虫を見るような目はやめてくれるか。あの、無職じゃないから。もう一回大学入ったんだよ」
「大学? ……あぁ、教師の道を選んだのか。大方看護だろうが、医者の職に飽きた君のことだ、最近は研究職の路も考えているんだろう。だが、それだと経済的に不安定だと君の恋人が許さないだろうね」
ロミットの目が丸くなる。そして参ったと言わんばかりに笑う。
「おまえよくわかったな。なんだよ、エスパーか?」
「仮にそうだったら君に対して蔑みの目を向けるだろうね。それで、医者よりも先生になりたいことがきっかけで、もう一回別の大学に入り直したのか。まぁその派手なファッションから、それだけじゃなさそうにも見えるけどね。女の香水を服に付けておいて、さぞ充実している日々だろう」
そう皮肉を言い、口角を少し上げる。
「俺なにも言ってないんだけど。でも当たってるから嫌なんだよなぁ。おまえその一歩間違えたら思い込みの激しい奴に思われかねない推理、俺以外にすんなよ? ぜってぇ嫌われるから」
「ご親切にどうも。どこの大学に通っているんだい?」
「私立インソルト大学。あぁ、『電脳界』の外の世界にあるとこの大学だから、多分おまえは知らんと思う」
「そうだね、数秒前までは聞いたことがない」
「脳チップでのネット検索はカンニングだぜ」
「ビジネスでは常套手段だよ」と薄く笑う彼は椅子に背もたれ、足を組み直す。
「まぁ故郷想いの君が他の世界に行くようになったのは少し驚いたよ」
「はは、まぁ最近は気軽に行けるからな。なんかあってもすぐ帰れるし」
ロミットは腕を組み、曇りかけた空を見上げる。暗い雲の隙間には、光り輝く小さな青い月が見えた。
「いやぁなんてったって『
「そうだね」とゼクロスは見向きもせず呟くように言った。
「……なぁ、おまえから呼んだんだから折角来たのに、しかも偶然的にこの『世界』で、この国のこの町でたまたま巡り合えたってのに、そんな冷たい対応はないと思うぞ。器は恒温生物のくせに中身は液体窒素で満たされてんのか」
「君だからこういう対応なんだよ」と冷たく言い放った。
「おまえ友達いないだろ」
彼の即答に冷徹な友人は一瞬だけ動きが止まり、目を向ける。
ロミットは先端から煙を出している煙草を指代わりに、テーブルに置かれた文庫本を指す。
「そもそも『奇形死』ってタイトルの本読んでる時点でダメだろ。なんだよそのグロそうなタイトル」
「ただの推理小説だ」
「推理好きってのも変わってるしな。あ、そういや卒業後の同窓会のときおまえ愛人いたよな! めっちゃ綺麗で職業もエリート過ぎて……」
「エイシスのことか」
「そうそれ! どうなんだ? 新しい家庭でも築いて一緒に旅でもしてんのか?」
ニヤニヤしているロミットに対し、ゼクロスは珈琲を飲み干し、ふっと笑う。
「別れたよ。随分前に」
気まずい沈黙がわずかの時間、流れた。
「……なんで?」
「お前に教える義理はないよ」
途端、椅子に背もたれた。
「はー、おまえ折角のいい女を」
ロミットは椅子に背もたれ、そう言っては煙草を吸う。
「仕方ないさ。もう過ぎたことだ。それに、今は家族ともいえる仲間がいる。まぁ、変り者ばかりだが」
呆れたように言うが、その表情は嬉しそうなものだった。
「じゃあそいつらと旅をしてんのか」
「ああ。この町の近くのホテルにみんないるよ」
「へぇ、まぁよかったな。俺以外にも友達いて」
「学生時代はお前以外にも何人かいたはずだが」
「あれ、そうだっけ。あぁ、そういや結構前の話だけど、電脳界で大変な騒ぎが何度かあったの知ってるか? 『歌姫』の
ゼクロスは、「知ってるよ」と笑みを向けた。
あとさ、とロミットは付け足し、
「その感染崩壊、『
その異名は一度電脳界を震撼させた存在として歴史に刻まれている。また、電脳界崩壊のきっかけもその存在であり、その出来事の後も、各世界でその名を挙げている。
旅人である者たちなら、特に電脳化の存在を知る人ならば必ず一度は耳にする。
「……」
一人の
「まぁ、そうだね」
と答えた。
「俺が訊きたいのはな」
ロミットの表情が一変する。
「その『冥王』と、あのときのおまえが関わっていたかどうかってことだ」
動きを止める。ゼクロスは瞳だけを動かし、目の前の友人を冷酷に見つめる。
「……それはどこで知ったんだい?」
「『電脳界』の情報力はお前も知っているだろ。情報が多すぎて肝心の
その声は半ば荒々しく、知りたいという欲求が獣の本能として喉から出てきている。それと同時に、そのときの被害に対する怒りも込められているように感じ取れた。
「そんなに知りたいのかい。僕が悪人かどうかってのを。それで本当に悪人だったら君はどうするんだ。縁を切って知人やSNSに言いふらすのか?」
ロミットの茶色い瞳を凝視するように見つめたまま口だけを動かす様は、昔からの付き合いをしてきた友人でさえも不気味に感じられる。
「いや、別にそういうことは」
「君のその優しさは受け止めておくが、嘘をつくような気遣いはいらないよ」
「……」
まぁ、と付け足す。
「実際、関わっているといえば、関わっているね。深く、広く、誰も知らない真っ暗な淵の底まで……ね」
自虐し、憐れむような目で話す。まるで内側の自分と語り合っているかのようにロミットは感じられた。その察した感情は底の知れない恐怖として彼に襲い掛かった。半端な情報をもとに突き詰めようとしたが、こちらが逆に飲み込まれそうな。誤魔化すように、保守的な対応へと変わっていく。
「そ、そうか。まぁ、おまえにも、その……いろいろあったんだな」
そう言い、複雑な感情を紛らわす。
「ある意味、あれは一種の病だ。あの時の僕は確かにどうにかしていた」
「……」
「悪いが、そのときのことはあまり覚えていない。いや、思い出したくないんだ。僕自身のことも、『冥王』のこともね」
「……そうか」
その場の雰囲気が変わり、重たくなる。
会話が途切れ、ただ周りの環境音がやけに聞こえてくる。無音故の雑音がただ耳の中を通り過ぎていく。今の気温よりも冷たく、重々しい空気の中、二人はただ黙ったままだった。
だが、それを変えたのはほんの些細なものであった。
「……?」
冷たい何かが肌に触れる。仄かに冷たい感覚は無意識に空を見上げさせる。
「お、初雪か」
ロミットはそう言い、ゼクロスと同様、夜空を仰ぐ。
「雪って積もったり凍ったりしていろいろ嫌なんだよな。交通機関ほぼダメになるし、寒いし」
ロミットは嫌そうな表情をしながら煙草を吸う。
「……僕は好きだけどな、雪」
静かに、ゼクロスは言った。どこまでもやさしく、あたたかく。
懐かしそうに雪降る夜空を眺めて。
共に学んだ仲間と別れた後、独りになったとき。
新しい出会いの前、自分を失っていたとき。
記憶は甦る。粉雪が融けるかのように、儚く、刹那に。散りに散った泡沫の記憶は、雪の冷たさで繋がり、記憶を眠りから醒ます。
懐かしく思えた白い雪は、やさしく降り注ぎ、儚く溶けていく。
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