第46話 ひとりだけのお見舞い(4)

「あのね・・・・・」


ようやく彼女が口を開く。

わずかに聞こえるくらいの小さな声で。


「何?」

「私ね、死ぬかもしれない・・・・・」

「うん」


僕はあまり驚くことはなかった。

お母さんから聞いていて覚悟はしていたから。


「驚かないんだ?」

僕の反応がちょっと意外だったようだ。


僕は返事ができず、黙ったまま俯いていた。


「そうか。知ってたんだ・・・・・」

「ごめん。お母さんから聞いたんだ。大きな手術を受けなければならないこと。知らないことにしてくれって言われたけど・・・・・」


「ダメじゃん」

「うん。ダメだね」

僕は心の中でお母さんに謝った。


「僕に無理だよ。知らないフリなんて・・・・・」

「そうだね。確かに君には無理だね。お母さんも無茶言ったもんだね」

彼女は小さく笑った。


「ごめんね。気を使わせて」

僕は黙ったまま首を横に振った。


「私、小さいころから何回か手術はしてるんだけど、最近また発作が多くなってきてね。もう限界みたい、私の心臓。ずっとがんばってくれてたんだけどね・・・・・」


彼女はそっと胸に手を置いた。

僕は言葉が出せなかった。


彼女はすっと僕の手を取ると、掴んだ僕の手を自分の胸へ当てた。


「え? ちょっと何を・・・・・」

「まだ動いてる? 私の心臓・・・・・」


僕の心臓のほうが止まりそうだった。


でも、確かに僕の手には彼女の鼓動と温もりが伝わった。


「うん。動いてる」

「よかった」


その彼女の笑顔は今までになく眩しいものだった。

 

「怖いよ・・・」

そう呟いた彼女は急に悲しい顔になる。


「死ぬの・・・怖いよ・・・」


初めて見る彼女の弱々しい姿だった。


「発作が起きた時、いつもこのまま死んじゃうのかなって・・・思っちゃうの・・・。夜、部屋の電気を消すと、深いに闇に吸い込まれそうで怖くて消せないの・・・。このまま眠って、ずっと目が覚めなかったらどうしようって思っちゃうの・・・」


彼女の声が震えていた。


今、分かった。彼女の笑顔がどうして眩しかったのか。


彼女はいつ襲ってくるのか分からない“死”という運命の怖さから逃れるため、精一杯の笑顔を貫いていた。

笑顔はその怖さに打ち勝つためのものだった。


ずっと、ずっとその怖さと戦っていたんだ。

たった一人で。


当たり前のことだ。

本当に当たり前なことだったんだ。


死ぬのが怖くない人間なんているはずがない。

それが十八歳の女の子ならなおさらのことだ。


でも僕は何もしてあげることができない。


「ごめん・・・僕、何もできなくて」


それしか言葉にできなかった。

彼女は黙ったまま首を横に振った。


「ごめんね・・・」


僕はもう一度謝った。

謝るだけで何もしてあげられない自分がもどかしかった。


「ねえ。死んだら・・・死んじゃったら、君と逢えない寂しさも感じなくなっちゃうのかな・・・」


思わず彼女を見た。

笑っていた。瞳に涙をいっぱい浮かべて。


何か言ってあげたかったが、言葉が出て来なかった。


「もっと一緒にいたい・・・・・」


彼女の身体が震えていた。


「君と・・・ハルくんともっと一緒にいたい・・・・・」


彼女の頬に涙が零れ落ちる。

初めて見る彼女の涙だった。


彼女がとても愛おしい。

こんなにも人を愛しく思えたことはない。


それなのに僕は何もできない。

何も言えない。


どうして何もできないんだ。

なんで何も言えないんだ。


これほど自分が無力で情けないと感じたことはなかった。

僕も涙が溢れそうになる。


でもそれは悲しさからじゃなかった。


悔しかった。

彼女を守りたいのに、死の怖さから守ってあげたいのに。

今の僕はあまりにも無力だった。


その時、僕は何の意識もないまま両腕で彼女を引き寄せた。

頭の中は真っ白だった。

まるで雲の中にいるようだ。


僕はその小さな彼女の身体を包みこんだ。

優しく。

そして強く。


それしか・・・できなかった。


初めて抱いた彼女の身体は思ったより華奢で今にも壊れそうな感じがした。

彼女の髪が僕の頬に絡んだ。


そして彼女の頬の温もりが僕の頬に伝わる。


彼女の香りは僕の心までも包み込むようだ。


「僕が一緒にいるよ。何もできないけど、これからずっと一緒にいる。君はひとりじゃない」


そう。僕ができることはそれしかないんだ。


「だからもう無理しないで欲しいんだ。何でも言って欲しい。僕じゃ何もできないかもしれないけど・・・それでも・・・何でも言って欲しい。僕がずっと一緒にいるから・・・」


彼女はしばらく黙っていた。


「ありがとう、ハルくん・・・・・」


彼女の微かな声が空間ではなく直接肌を通して僕に伝わった。


彼女の体を包み込む力が無意識に強くなっていった。

そして僕の背中にある彼女の腕の力も強くなるのを感じていた。


「フフ・・・」


彼女が静かに笑った。


「どうしたの?」

「ハルくんの・・・匂いがする・・・」


弱々しいけれど、とても優しく安らかな声だった。


「そう? 僕には葵さんの匂いしかしないけど・・・」


それを聞いた彼女はまた笑った。


「当たり前じゃん・・・・・」


背中にある彼女の腕の感触がさらに強くなった。


しばらくの時が刻まれた。

僕は雲の中に浮かんでいるような気持ちだった。


「あのね・・・」

彼女が掠れた声で呟く。


「私ね、頑張ったんだよ、ずっと・・・・・」

「うん・・・・・」


「ずっと明るく、元気に。辛い時もけっこうあったけど、頑張ったんだ・・・」

「うん・・・・・」


「恋愛もね・・・男の子も好きにならないように頑張ったの。好きになったら、お別れの時に悲しいから・・・・・」

「うん・・・・・」


「でも神様って残酷だな。ずっと頑張ってたのに最後に・・・・・」


僕はその言葉には何も言うことができなかった。


どれくらいの時間が経ったのだろうか。

僕はゆっくりと彼女の体を離した。


「ごめんね・・・」

「フフッ、また謝ってる」


「ごめんね・・・何もしてあげられなくて」


彼女は黙ったまま首を横に振った。


「これからは僕がずっと一緒にいる。これから毎日来る。手術の日までずっと来る」

彼女は無言で頷いた。


「何かして欲しいことがあったら何でも言ってよ」

彼女はしばらく黙って考え込んだ。


「何でもいいの?」

「いいよ」


「じゃあ、ひとつだけ・・・ひとつだけ私の願い聞いてくれる?」

「何?」


「絶対聞いてよね」

「うん。僕にできることなら」


「君にしかできないことだよ・・・・・」


そう言いながら彼女は僕に顔を近づけてきた。

焦るあまり僕の身体は硬直した。

そして息をつく間もなく彼女の顔が僕の肩に乗ると二人の頬が重なった。


――え?


彼女の手が僕の背中を掴む。気がつくと僕の身体は彼女に包まれていた。


「私が死んでも、忘れないでね、私のこと」


囁くような小さな声だった。


「馬鹿なこと言わないでよ!」

「聞いてくれる約束だよ」


「どうしてそんなこと言うんだよ?」


「だって・・・・・」

彼女の言葉が詰まった。


「だって、君の心の中に残ることができれば、私が生まれてきた意味があるでしょ」


そんなこと言うなよ!

心の中で叫んだ。


「フフっ、今のは重かったかな? ごめん」

僕は黙ったまま首を横に振った。


「忘れないよ・・・絶対に」


それは彼女の死を認めてしまう言葉になることはわかっていた。

でも、今、僕にできるのはそう答えることしかなかった。


「ありがと、ハルくん」


囁くような小さな声だった。


彼女の僕の体を掴む力がさらに強くなるのを感じた。


体は苦しくなかった。

心が苦しかった。


彼女が愛おしい。


このまま時間が止まれってくれ。


心の底からそう願った。


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