死亡前クローン意思表示法。

些事

第1話

「ただいま…」「ふふっ、おかえり」


長い出張を終えた俺は、迎えに来てくれた彼女とともに笑顔でマンションに帰ってきた。


「なんだか、久しぶりだな、こんな風だったっけ?」

俺は見慣れたはずの部屋を見回した。


「そうよ…、アナタが出てってから何にも変わってないわ」



❇︎



「健一サン、お醤油とってくれない?」

「うん。…あれ、醤油ってどこに置いてたっけ?」


俺と加奈子は同棲して、しばらくになる。お互いの事はある程度わかり合っていたし、恋人としての関係から、もう一つ先の関係へと変わりつつあった。

 

「あっ……。」

ふと、加奈子の表情が翳る。


「…どうかした?」

「ううん、そこの戸棚の上よ」

気を取り直して明るく振る舞う加奈子。


「ありがとう。」


「ごめんね。」

加奈子は再び罰が悪そうに詫びを入れた。


「どうして、謝るんだよ。」

俺は茶化して彼女に気を遣わせないようにした。


「ううん…大丈夫。私がちゃんと覚えてるから」



❇︎


 

健一がテレビを見ている中、彼の背中を見つめている加奈子。

何かを思いつめたように、健一の背中に優しく抱きつく。

 

「どうしたんだ?」

「…なんでもないの」

「ただ、寂しかったから」

「ふふっ」


その夜、ベットで加奈子は健一に、二人で久しぶりにデートしないか?と提案した。

その提案にはもちろん賛成したが、

俺は出張前から彼女と約束していた事をすっかり忘れていた。その事を彼女に謝り、その日は眠りについた。



…二人は会えなかった数ヶ月間を埋めるように、休暇を楽しんだ。


そんな中、約束のデート中。

健一は不慮の事故で加奈子を亡くしてしまう。


結婚を約束した彼女を、自身が運転する車の衝突事故で亡くしてしまったのだ。


悲しみに暮れる彼の前に、死亡前クローン意思表示法というものを彼女が利用していたことが告げられた。


加奈子自身が、クローンとして蘇ることを生前希望していた事によって、

その後、彼女は何事もなかったかのように自宅に戻ってきた。



しかし、クローン制度によって、周りの人々は彼女がクローンであるという事を告げてはいけないという義務があり…



❇︎




主人公の健一は、事故後、初めて彼女の両親に会った。違和感を互いに共感しあうが…それも次第に薄れ、全く同じ彼女をみて、馴染んでゆく。


彼女は死んでいなかったのではないか?

そんな錯覚を持つほどだった彼だが、

彼女の死の瞬間を夢で思い出してしまい、やはり嘘ではない事を思い知る。



「お、おはよう。加奈子。起きていたのか。」

「あ、健一くん。おはよう。」


窓辺で漏れる朝日に彼女は照らされていた。ふいに夢で見た亡骸の加奈子の姿と重なる。俺は動揺を隠すように、彼女から視線を逸らした。


「ちょうどよかった、あのねぇ、健一くん、お醤油ってどこにしまってたっけ?」

「え…。」

「ん。どうか、したあ?」

「いや、そこの戸棚の上だよ。」


醤油の位置がわからない加奈子。

その些細な出来事でも健一の違和感は増していった。


次第に健一は彼女を拒絶するようになってしまうのだった。



❇︎


狭いリビングで加奈子は2人がけのソファーに座り、背中を向けたまま床に座る、健一を見つめていた。


「健一くん、週末の予定なんだけど、」


普段であれば、気を許した二人の何気ない会話。


「ねぇ、健一くん」

「ねぇ。」

「あ、ごめん。なに?」

「…。なんか、健一くん、最近冷たいよ。」


「え、ああ、ごめん。ちゃんと聞くから。」


振り返った健一は、加奈子の顔が暗くなっている事に気がついた。


「私、変かな?」


「え、」


「なんでもないけどね、別に」

加奈子は視線を伏せながら、苦笑いを浮かべた。


小さな沈黙がリビングを包んだあと、加奈子は不満を漏らした。


「なんだか、みんなから避けられてる気がするの。」

「…気のせいだよ。」

「みんな、そう言うのよ。」


「…。」


「…健一くんだって、避けてる。」

「…そんなことない。」

俺は心の内を悟られないように否定した。


「嘘つき。だったらなんで、今日まで会ってくれなかったの?」

「私たち、同棲してるんだよね?なんで一週間も帰ってこないの?」


彼女の不満は不安に変わっていた。


「それは、出張で地元に帰るから、ついでに実家に寄って行くって」


「ウソ。だって、健一くん、今仕事してないじゃん。」

「私聞いたもん、健一くんの会社の人に、理由聞いたら、健一くん体調不良ってことでしばらく休んでるって言うじゃん。」


「うそつき。」

怒りのこもった上目遣いで、俺を見つめる加奈子の瞳は少し潤んでいた。


「なんで、避けるの?」

「…私のこと、嫌いになった?」

「ちがう。そんなことじゃない。」

「だったら、なに?」


「…。」

本当の理由は、口に出してはいけない。


「…なんで、何も言ってくれないの?」


彼女の表情が怒りから哀しみに変わっていく。


「…俺たち、しばらく距離を置いたほうがいいと思うんだ。」


ついに俺は心に隠し持っていた感情を吐き出した。



「…いやよ。それだけはいやっ。」

「それしちゃったら、わたしたち、」

加奈子は取り乱している。


「とにかく、一度距離をおこう。」


「いやよ。」

食い下がらない加奈子は俺の袖口を引いたが、俺はそれを強引に解いた。


「しばらく、帰らないから」

健一は、罪悪感を抱きながらも、振り返らなかった。


「いや!」

加奈子の悲しむ顔が浮かんだが、健一はそのまま部屋を後にした。



❇︎



…避けられる理由の分からない加奈子は、次第に彼に付きまとうようになっていった。


数日後。

加奈子から、メールだ。


「あなたがいないとワタシ、おかしくなりそうなの!」「不安でたまらないの。」「父や母でさえも初めて会った他人のような気がして。」


「でも、あなたは違う」「安心できたの」「お願い。連絡して。」


「最近、私がワタシじゃない気がしてならないの。健一くん助けて…」

「どうして、何もしてくれないの?」


健一は加奈子からのメールを無視し続けた。携帯電話を握りしめ、心の中で彼女に詫びた。


そんな時、健一に矢田加奈子殺人の容疑がかけられ、警察がやって来る。


「そんな…!ボクはそんなコトやってない!!するわけないでしょう!一体、なんの理由があって…」


「今、あなたは※二番目の矢田加奈子さんと暮らしていますね?」

「彼女はどこです?」


「…それは」

「ちょっと上がらせてもらいますよ」

「おい、勝手に…!」


「あんた達、何なんだ!これなら、彼女にクローンだと言っているのと同じだぞ!」

「クローン法ですか…。しかし、容疑者の側に殺された女性がいて、何の保護もしない事はないでしょう?」


「それは、もう俺が殺したという前提じゃないか…!?」


「いえ、そうは言ってませんよ。あなたがどう受け取るかは知りませんが、警察には、過去に被害を受けた可能性がある2番目がいる際には、最大限の保護をする義務があるんですよ。アナタの仰る、クローン法でね」


「どうして、彼女がいない?」

「…ケンカ、したんですよ」

「どういった理由で?」

「そんな事も答えないといけないんですか」

「…」

「…理由はないんですよ。ただ、クローン体の彼女の振る舞いがどうしても、偽物に思えてしまって。」

「なんとなく、距離を埋める事ができなかった。」


「現在の彼女の所在は分かりますか?」

「はい。電話なら毎晩のようにかかってきますから」



ピンポーン。

…。

ピンポ、ピンポーン。

ピンポ、ピンポ、ピンポ…!

…加奈子だ。


ドンドンドン。

ガチャガチャ。


プルルルル!

留守番電話サービスに加奈子の声が残る。


「健一クン、さっきね、刑事さんが私の所に来たの。」

「私の身に危険が迫っているから、警察が保護するんですって」

「嘘よ…。」

「私を連れ去りに来たんだわ。」

「私がおかしいから、そうよね?健一クン」

「絶対に赦さないから。」


…加奈子。


…許してくれ。

俺は加奈子が警察に保護されてしまう事を何処かで都合がいいと思っていた。


彼女と距離を置きたい。

それが、二人にとって良いことだと思う。

支えてあげる事が、俺にしかできない事であったとしても、傷つけてしまうくらいなら、施設に引き取ってもらい、互いにケアを受けたほうがいい。


二人が個人として、それぞれの人生を歩んで行くために。


警察の容疑もいずれ晴れるだろう。

あれは…事故だったのだから。




『…本当に、そうか…?』

頭の中で誰かの囁きが響く。

「だれだ…!?」

『お前は、知らないだけだ…。』

「何を…」

『殺さなきゃ…』

「やめろ…」

『殺さなきゃ…!』

「やめろ…!」

『殺さなきゃ!!』




「…はっ!」

携帯電話の着信音が、夢から健一を覚ました。


電話の主は、会社の同僚、吉川陽菜だった。


「鹿山くん…?」

懐かしい声が、健一の耳から伝わった。

「ごめんね、本当は電話しちゃいけないんだけど…」

「どうして…?」


吉川、陽菜。会社の同僚。

気立てがよく、古くからの友人でもある。

健一の頭の中でぼんやりとしたイメージが浮かんできた。しかし、はっきりと顔が思い出せない。


「ううん、何でもないの。」

「出張先から帰ってきたって、さっき課長から聞いてね、心配でさ…」

「…会社に戻ってくるのは、来月からだっけ?」

「ああ、その事故のせいで」

「ごめんなさい…。私ったら不謹慎で…。」

「いや、いいよ。」 

「そっちにも、話は通っているんだろ?」


クローン法の内容によって、加奈子と面識のあった陽菜にも、守秘義務がかせられていた。


「その、電話したのは実はね、さっき警察の方が会社の方にみえてね…」

「鹿山くんのことみんなに聞き回っていたの。」

「鹿山くん、大丈夫だよね?」


「君も疑っているのか…?」

「そんなことないっ…!」

「私には鹿山くんがそんな事するはずないって分かってるから!」


「陽菜…」


なぜか、健一の口は吉川の愛称を思い出していた。

何故と思うのは、なぜ?



「鹿山くん…会いたいよ…」

「久しぶりに鹿山くんの顔が見たい…」


不意な告白に、胸を締め付けられる。


懐かしい感情とともに健一はその言葉を口走っていた。


「俺も、君に会いたい…」



実は、健一は同僚の吉川陽菜と浮気していた。

元々、大学の同級生だった二人。

加奈子との関係を知りながらも、密かに淡い恋心を抱いていた吉川陽菜は、健一のプライベートな悩みを聞くようになり、その後心を許していった経緯があった。



❇︎



…矢田加奈子の所在は分かったか?


先日、健一の元へ来ていた、粗野な刑事は部下に質問した。


いえ、確かに本人に会ったのですが…。

何?…どうかしたのか?

いや、ひどく取り乱した様子だったので、一度、彼女の両親の元へ送ったんです。

ですが、それから連絡がつかなくてですね。

容疑者の"彼"の監視は続けているので、安全だとは思うのですが…。


…気になるな。何分、稀なケースだからな。今回の事件は。

今後の判断情報になりかねん。それに、上も、動向を気にしているようだ。


…そうですね。

でも、私は、彼女のほうが気になるんですよ。

どうしても、はじめの事件が事故だと思えないんです。



❇︎



健一は、加奈子を避け、次第に吉川とばかり会うようになっていく。


二人は、人どうりが少なくなる夜に会う。

いつものように、道路沿いの公園。



そして、ついに健一は自らが抱える言いようもない不満を吉川に告白してしまう。

「俺は、オレじゃない気がしてしまうんだ…」

「加奈子を事故でなくして、今まで関係ないと思っていたクローン法というものに関わって、彼女の死と再生を目の当たりにした事で、この世の誰も彼もが、実はクローンではないのか?という妄想に取り憑かれてしまっているんだ。」 

「その疑問は、他人だけでなく、オレ自身にも向けられている」


「陽菜、教えてくれ…。今の、俺はクローンなのか…?」


「鹿山くん…。」

押し黙る吉川。


「言えないのか…。君でさえも。」

「そうじゃないのよ…!ただ、それはみんなが抱える不安だってことよ」


「そうなのよ…。あなただけじゃない。

誰もが大切な人を亡くした時に感じる不安。」

「数十年前には、感じる事のなかった不安なのよ」

「そうなのか…?」

「そう、だから、鹿山くん、いいえ、健ちゃん。私はあなたの味方」


「陽菜…」


プルルル…!!

不意に携帯がなる。

着信番号は加奈子のものだった。


普段と同じように、無視しようとする健一の前に、加奈子の姿が。


「加奈子…。」

「健一くん、何してるの?」

「…加奈子、これは」

「その人、誰よ?」

「えっ…?」

加奈子が知っているはずの吉川の存在が、今の加奈子にはない事に気がつく。


「…矢田さん」

「何…?私の事知ってるわけ?」

「矢田さん、鹿山くんを開放してあげてください」

「は?」

「鹿山くんは、ずっと苦しんできました」

「鹿山くんは、あなたから距離を置きたいんです」

「は?」

「ふざけないで。健一くんを誑かして、私から遠ざけたのはアンタでしょ?」

「アタシが健一くんを開放するの!」

「邪魔者のアンタから…!」


加奈子の手には刃物がにぎられている。


「やめろ…加奈子…!」

「どうして、一緒にいたいのに!」

「私の存在を認めてくれるのは健一くんだけなのに…!」

「加奈子…、俺たち、もう、離れたほうがいいんだ。いや…、離れて欲しいんだ!加奈子…!頼む…!」


ふと、顔を伏せた加奈子は動きを止めた。


「…さな……から」

「?」

「もう、赦さないから…!!!」


「加奈子…!」

走り出した加奈子は、吉川に向かって刃物を突き刺した。


「…う、うそ」

血に染まる腹部をみつめながら、うなだれる吉川。

倒れゆく、身体に、加奈子は、憎しみを込め、トドメを指すように何度も何度も刃物を吉川の皮膚に突き立てた。


「もう、終わりね、私達。」

「加奈子…!」

吉川の血で赤く染まった加奈子は、足元に広がる血だまりを見つめている。


「健一くん、もう私を愛してくれないよね」

「こんな風に、狂っちゃったら、愛してくれないよね?」

憂いに微笑をたたえた彼女の表情は、薄暗い公園の街灯に照らされていた。


「…でも、大丈夫。」

「健ちゃんも私ももう一度やり直せばいいから」

「健ちゃんの次に、私も死ぬから。」

「そしたら、また仲直り出来るよね?」

「みーんな、嫌なこと忘れて、」

「だって、私達、とっても幸せだったじゃない?」

「きっと、うまくいくのよ」


振り返った加奈子はゆっくりと健一の元へと歩き出した。


「加奈子…、お前、自分のこと…」

「お父さんとお母さんに聞いたのよ。

でも、みんな偽物なの!だから、二人にもやり直してもらうことにしたの!」

「…そんな」

「あとは、健ちゃんと私だけ」

「健ちゃん、痛くしないから、じっとしてて」

「やめろ…」


その時、不意に声がこだまする。

『お前は、知らないだけだ…!』

『殺さなきゃ…』

『殺さなきゃ…!』

『殺さなきゃ…!!殺られる!』


その時、健一の中で、デジャヴだったのか、既視感を覚えながらも、空想か偽りの記憶か、

ある場面が蘇る。



…オレは、加奈子に、殺された…?



その瞬間、強烈な光とともにトラックが二人に重なり……。



❇︎



静かな朝、

目を覚ました健一は、長い夢を見ていた気がした。

「健ちゃん。おはよう」

優しげな笑顔の加奈子が側にいる。


「健一サン、お醤油とってくれない?」

「 うん。…あれ、醤油ってどこに置いてたっけ?」


「…そこの戸棚の上よ」

「ごめん。」

「どうして、謝るのよ、フフッ」


「ううん…大丈夫。私がちゃんと覚えてるから…。」

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