青い世界 〜たとえば、こんな二人の場合〜

古博かん

相容れないモノ(彼女の場合)

 師走の某日、午後6時50分手前。

 腕時計に、ちらりと目をやり、待ち合わせ時間まで、あと10分少々ある事を確認してから、少し周囲を見渡した。外で待つには寒いし、この雑踏の中で、一人待つのは何だか寂しい気分になる。


 ふと、視界に飛び込んだ向かいのビルの二階。コンコースに続くお洒落ショップが並ぶ駅ビルは、煌々と明るい。あそこなら待ち合わせ場所もよく見えるし、何より暖かいから、調度いい。そう思って、点滅を始めていた横断歩道を足早に渡った。


 思った以上に暖かいビル内を、特に目的もなく、ぶらぶらと歩き回って時間を潰しているとき、とある雑貨店の前で、目に留まった透明感のある水色の小物。


 近付いてみれば、視線の高さに、きれいに陳列された置き時計の一種だった。クリアブルーの小さな粒が、一定間隔で中央の細いガラス管をすり抜けて、底に積もるのと入れ違いに、透明な泡が立ち上っていく。手前の商品プレートには「オイル時計」と銘打ってあった。


「へえ。これ、オイルなんだ。かわいいなぁ」


 色付けされたブルーの水玉は、透明なオイルと入れ違いながら、静かに時を刻んでいく。隣に置いてある、色違いのオイル時計をひっくり返せば、クリアピンクが、はっと目覚めたように時を刻み始める。その隣はパッションイエロー、更に隣はエメラルドグリーン。

 ついつい全部ひっくり返すと、鮮やかな時間が、音も無く、細いガラス管を零れ落ちていく。静かに振り積もる、色とりどりの一秒は、底で再び、一塊の液体に戻っていく。


(色々あったね)

 なぜか、自分たちの過ごした時間が、走馬灯のように目の前を駆け巡った。


 我に返って、自嘲気味に笑ってしまう。こんなセンチメンタルな一面が、自分にあったとは。きっと、仕事疲れか季節柄の現実逃避か、それとも、久々に会う約束なんてしたものだから、緊張しているのかもしれない。

 とにかく、ない。


 思えば、大学時代にサークルで知り合ってから、ほんの些細な事でも対立して、言い合いになって、小競り合いみたいな馬鹿を繰り返してばかりだった。

 そもそもの考え方から何から違うのを、仲間がワイワイ騒ぎながら、中和してくれていたから、楽しく過ごせていたんだと思う。二人になってしまったら、始めから、うまくいく筈なんてなかったのに、今更ながら、うっかりにも程がある。


 顔を合わせれば、厭味と憎まれ口の応酬。

 いつの間にか、というより、たぶん始めから擦れ違い。


 お互い、面倒くさいのと、日々の忙しさにかまけて、うやむやのまま、ここまできてしまったけれど、それだってそろそろ潮時——そう思っていたところに、会おうって連絡があって、それに乗った。

 本当に今更だけど、ちゃんと会って、お互いきちんと話をするべきなんだ。もう、社会人オトナなんだし。


「……」

 そろそろ時間かな、と思っていたところに、着信。

 画面を開けば、「今着いた。どこ?」の味も素っ気もない、相変わらずの用件のみ。久々に会うというのに、本当に相変わらずなやつだ。もっとも、始めからだったけど。

 否応にも、肩の力が抜けていくのを禁じ得ないまま、結局こちらも、素っ気ない事務的な返事。

「今、向かいのビルの二階。すぐ行く」


 送信を確認してから、スマホを鞄にしまう。何となくオイル時計に視線をくれたとき、調度、最後のクリアブルーが滴り落ちた。


「さて、決着つけてきますか」


 そう独りごちて、急いで待ち合わせ場所に戻る。この寒い中待たせたら、それだけで不機嫌になるだろうし、厭味から始まるんじゃ、気分が滅入る。

 エスカレータを下って店を出ると、これまた信号が点滅を始めていて、慌てて横断歩道を走り切った。


「お前……赤に変わってるのに、無理矢理渡る馬鹿があるか、危ねーな」

「……」

 ごめん、お待たせ——そう言う前に、呆れた表情と供に、一見良識的な厭味が飛んでくる。本当に相変わらず……というか、まあ、今のは正直、言われても仕方が無い。

 言い返してやりたいところを、ぐっと堪えて深呼吸を一つ挟んだ。

 今日くらい、平穏に終わりたい。


「ほれ、行くぞ。寒い」

 短く言い残して、さっさと背中を向けて歩き始める。

 まったく、相手に合わせる気のなさも相変わらずだ。ほんと、何で今まで続いたんだろう。そもそも、続いていた——という認識は合っているのか。

「どっか決めてるの?」

「ん? ああ、この先ちょっと行った所のバル」

「へー。楽しみ」

 足早に進んでいく背中を、軽く追いかけるかたちで、ついて行った先、駅から五分程離れた裏路地の一角に、そのお店はあった。お洒落なネオンにスペインバルの文字。物静かな佇まいの落ち着いた大人の雰囲気漂う店だった。

「いいね、このお店」

 大きすぎない音量のアコースティックギターが流れる、間接照明が心地の良い店内は、そこそこ賑わっている。店の一角には、小さなステージも設置してあった。そこに視線を向けていたら、調度のタイミングで声をかけてくる。


「週末は、生演奏もしてるらしい」

「へー、そうなの。みんなで集まる機会があったら、ここ来たいね」


 店内を眺めると、天井には音響設備も整えてあり、壁面には飾りと収納を兼ねたようなギターが数本、掛けてある。ステージの端には、ボンゴやコンガといった打楽器も、さりげなく陳列してあった。

 懐かしいサークル仲間が揃って、久々にワイワイしている様子を想像していたときだ。

「大人数で押し掛けたら迷惑なだけだろ、考えろよ」


「……」

 楽しい空想すら打ち砕くような言葉が飛んでくる。確かに、どちらか例えるなら、居酒屋で、ノリノリで騒ぐ系の面子が多い集まりだったから、小ぢんまりとしたこの店には、少々不似合いな気はする。

 だがそれは、学生時代の話だ。

 あれから何年経ったと思っている。ぎゃんぎゃん喚いていた私にも、社会人らしい配慮くらいある。そもそも、集まる機会があったら良いなという、小さな願望だ。それを頭から否定されると、どうしてもイラっとしてしまう。


 目の前でマイペースに寛いでいる、やつの姿を睨みつけはしたが、反論したいのをぐっと堪えて、代わりにゆっくりと、お腹の底から息を吐き出す。

 ——よし、ちょっと落ち着いた。

「どうした?」

「どうもしない」

 怪訝な表情を見せながら、こちらに断りもなく一服始める、相変わらず男から視線を外し、目の前のメニュー表に目を落とす。バルだけあってお酒の豊富さ、特に地ビールとワインの種類に思わず、感心して魅入ってしまう。


 実のところ最近、お酒は控えているけれど、全面解禁したくなってしまうラインナップだ。どれも美味しそう。

「わー、どれにしよう」

 料理も美味しそう。

 ページをめくる度に、空腹感が増してきて、あれやこれや悩んでしまう。

「ねえ、何頼む——」

「あ、すんません。エストレージャダム、一つ」


 顔を上げた瞬間、目の前で店員さんを呼び止めて、自分だけさっさと注文してしまうこの男に、改めて、落胆と苛立ちを覚えてしまう。


(こういう時って、二人であれやこれや、会話や雰囲気を楽しむものじゃないの?)


 なんて思ってみたところで、元々、自分たちの間には、そんな空気は無かったなと思い直す。


「で、お前何すんの?」

 まるで急かすような言い方に、心がとする。

「——モリッツを、グラスで」

 店員さんが、愛想良くオーダーを受けて退いていく。


「ビール? しかもグラス? 何だ、飲まねーの?」

 タバコを咥えながら、意外そうに尋ねてくる表情を見て、ああ、そうか——と実感する。


 学生時代の一時期、生意気にもワインにハマって、よく飲んでいた時期がある。その後は日本酒にハマりまくる時期が続き、ご機嫌になるとウンチクを垂れては、目の前の男に、面倒くさがられた黒歴史がある。

 忘れてくれたら良いのに、この後に及んで、そういうことは、よく覚えているらしい。

 実際、家系なのか遺伝なのか、アルコールには異常な耐性があると自負している。仲間内では、酒豪の具類に入れられていた過去を思い出した。


「最近アルコール控えてるから、すっかり弱くなっちゃって」

「ぶっても可愛くねーぞ」

「あのね、別にぶってるわけじゃありません」


 お手拭きで手を拭きながら、ここまで、お互い通じ合わないものかと驚いてしまう。続いていたんじゃなくて、ずるずる来てしまっただけ。ちょっと勿体ない時間を過ごしすぎてしまったかもしれない。

「はあ……」

 突っかかることすら億劫になってくるのは、疲れの所為か、歳の所為か。気まずくなる前に、頼んだドリンクが運ばれてきたタイミングで、ひとまず乾杯する。

「お疲れ様」

「お疲れ」

 まるで会社の同僚と飲むような感覚を飲み干す。

 付き合いで飲む以外、本当にアルコールを口にしていない体は、何だかとても乾き切っていたらしい。

「やっぱ、美味しい」

 幾分か気持ちは上向いて、続いて料理を何品か頼んで、待っている間、当たり障りの無い会話をぽつぽつしながら、時間は静かに過ぎていく。


 ふと、静かに気泡立つグラスを眺めていると、クリアブルーの泡玉が、音も無く、目の前を零れ落ちていく幻が見えた。意味の無い会話も、お店の音楽も、ただ静かに零れ落ちていく。

「どうした、さっきから? マジでどっか悪いのか?」

「穏やかな気分に浸りたいだけです」


 ——最後くらい。

 本当に、この男にはデリカシーの欠片もないんだなと、心の底に沈殿する苛立ちを感じながら、代わりに浮き上がってくる物静かな感情。抑揚のない透明な物悲しさとともに視線を上げると、そこには拍子抜けしたような間抜け面。

 あのね、私だって、いつまでも子供っぽくキーキー喚くようなことはしないだけ、歳は重ねてるの。


「お待たせいたしました」

 運ばれてきたトルティージャや魚介たっぷりのアヒージョ、じゃがいもフライのブラバソース掛けを一通り堪能したあと、一人、ドリンクのおかわりを頼むマイペース男を眺めたとき、心の内を静かに、最後のクリアブルーが滴り落ちた。


「あのさ」

 ——もう、終わりにしない?

 トルティージャの最後の一切れを口に運びながら、自分でも驚くほど自然に、その言葉は口から出た。



「楽しかった、ありがとう」

「……」

 お店を出ると、ヒンヤリとした空気に身震いする。駅に向かって歩きながら、隣で黙りこくっているマイペースさんが、何を考えているのか、とうとう最後まで分からなかったけれど、少なくとも学生時代は、それなりに楽しかった。

 それは事実だ。


 すぐに駅の明りが見えてきて、腕時計に目を落とす。


「あ、急がないと電車くる。わたし行くね。じゃ、さよなら」


 最後に見上げた横顔は無表情で、そこからは、何も読み取ることは出来なかった。何だか、こちらも拍子抜けするくらい、あっけない幕の切れ方だけど、電車の時刻は目前に迫っている。急いで、点滅を始めようとする信号を渡りきり、もうそれきり、二度と振り返ることは、しなかった。

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