熟年離婚

あかりんりん

熟年離婚

私の名前は「男我 勝(おとこが まさる)」56才。

国立の大学を卒業し、都内の大手企業に就職し、勤続31年だ。

副部長まで昇進し、年収は1,200万円を超えた。これが私の自慢だ。


今は都内のマンションの一室を購入し、妻と二人で住んでいる。

妻は、25才の時にお見合いで知り合った「優 周子(ゆう しゅうこ)」だ。

それから3人の子供が産まれた。

子供達は一番上から長女30才、長男28才、次男26才で、長女だけは結婚し子供も産まれ、神奈川県に所帯を持っている。

長男と次男はまだ結婚せず、都内で働きながら一人暮らしをしているようだった。


そしてある冬の日に、仕事を終えて22時過ぎに家に着くと、妻にこんなことを言われた。

「お帰りなさい、お父さん。やっと、約束まであと少しですね・・・」

妻は私には目を合わさず、料理をテーブルに出しながら呟いた。

「ん?約束?なんのことだ?・・・」

私はその約束が思い出せなかった。

「ほらほらまた。まぁ、約束は約束ですからね。では、お先にお休みなさい」

妻はそそくさと部屋を出て寝室へ向かった。

仕事で遅く帰宅するのも当たり前であったため、いつしか私達夫婦はそれぞれの寝室で寝ることになっていた。

私は浮気などしたことは無いが、妻以外の人と関係を持ってみたいと思わなかったことも無い。

だが、今さら遅すぎると諦めていた。


私は料理を食べながらテレビをつけ、一通り番組を回している時、こんなニュースがあった。

「次のニュースです。男女平等を示す指数であるジェンダーギャップについて、2019年の日本は153カ国中121位であり、前年の110位から順位を落とし、先進主要国首脳会議参加国(G7)でも最低となりました。政府はこれを受け、男女平等をさらに推進していく方針を・・・」

「・・・男女平等?知ったことか・・・私には関係ないな・・つまらん。私は仕事をして、妻や子供達を食わしていく。それの何が悪いのだ」

そう呟いて、番組を回すが、面白く無い番組ばかりなのですぐにテレビを切った。

「そういえば、あいつ、約束なんて言っていたが、なんのことだったか・・・まぁ、どうせつまらん約束だろう」

そう言ってすぐに忘れた。


それから数ヶ月が過ぎ、3月末のことだ。

年度末になり忙しくなった。

その日も異動者の引き継ぎを行っており深夜0時を過ぎて帰宅したので、妻は寝ているだろうと思ったが、その日は珍しく起きていた。

そして、また、妻が不思議なことを言った。

「お父さん。約束の日まであと1週間になりました・・・あの日から私は、何度もお父さんのことを真剣に考えてみました。けれどお父さんは一度も私のことを真剣に考えてくれなかったと思います・・・」

妻は静かな声でそう言った。

「なんのことか分からんが・・・もう仕事で疲れたんだ。お前のグチを聞いている暇はない。風呂に入ってくるから、軽食を用意しておいてくれ」

そう言って風呂に入ってきたが、風呂から出たら軽食ではなく紙切れが用意されていた。

紙切れは「離婚届」だった。

「・・・なんだ、これは・・・」

「昔、子供達がまだ小さかった時にお父さんとケンカして、その時に私が言ったことを覚えていますか?」

妻は真っ直ぐ私を見てそう言った。

「・・・覚えてない・・・」

「そうでしょうね。分かっていました。私はその時にこう言いました。“子供達が巣立ったら、私は出て行きます。”って」

「まぁ、冷静になれ。今度お前の好きなものでも買ってやるよ。疲れているんだろう。それか旅行でも良い、お前が行きたい所でもかまわない」

「もうお父さんからは何も欲しくありません。私が欲しいものは“私の人生”なんです」

「そうか!なら勝手にしろ!出ていけっ!」

私はカッとなり、離婚届の隣に用意されてあった印鑑で、離婚届に力強く押した。


それからはトントン拍子で話しが進んでいった。

妻の考えで裁判等は行わず、このマンションの一室は私がもらい、貯金の3分の2を妻へ渡すことになった。


また稼げば何とでもなるだろうと思ったし、退職金にも期待していた私もそれで了承した。


それからいつの日か、私が休日に会社へ出かけている間に、引っ越し屋が来たらしく、妻の荷物が一つも残らず無くなっていたが、

「ふんっ、すぐに泣きついてくるさ・・・」

私は後悔などしていなかった。


それから約30年振りに一人の生活が始まった。

この年になって初めてするゴミ出しや洗濯に最初は戸惑うこともあったが、幸い昼飯は一般の人も使える食堂もあったため、特に困ることは無かった。だが、

「こんにちは部長、今日も食堂ですか?最近多いですね」

と言われることが多くなった。

会社の人には離婚したことを誰一人として言わなかったし、言えなかった。

「あぁ、妻が旅行中でね」

部長ともあろう人間が、家庭すら上手くやりこなせないのかとバカにされると思い、毎日場所を変えて、時には誰もいない会議室などに隠れてコンビニ弁当を食べていた。


そんな変わってしまった日を過ごしていると、やはり暇を持て余すようになった。

以前なら週末は部下達と飲み会、休日も隔週で上司達とゴルフだったが、つい家庭のことでボロが出てしまってはいけないため、断ることも増えた。

そもそも、部下も私から誘わなければ誰からも誘いは無いし、ゴルフは一度も好きになったことはないからかまったく上達しなかった。

ただ、それが当たり前だと思っていたし、出世を狙う人間は必ず参加していた。

「趣味」ではなく「仕事」だった。

私は家庭よりもそれを重視した。

悪いことだとは思わない。

むしろ、家族のために金を稼ごうとやっていたことだ。

それなのに、妻は私を恨んでいた。

「恩を仇で返されたものだな・・・」

私は週末に独りでコンビニ弁当を食べながら呟いた。

その翌日からの土日は暇だったので、久しぶりに子供へ連絡してみた。

長女は2人の子持ちなので、孫と遊んでやってオモチャでも買ってやれば喜ぶだろう。

そう思って長女へ連絡してみたが、

「明日は幼稚園の説明会があって忙しいの。それと日曜は友達と会う日。ゴメンねお父さん、またね」

絵文字も無い冷たい返信があった。

「そうか、まぁ、またいつでも遊んでやる」

と慣れないスマートフォンを触りながらメールを送ってみたが、それ以降の返信は無かった。

翌朝の土曜日に、長男へ連絡してみた。

「久しぶり。たまには昼メシか夕飯でもどうだ?おごってやるぞ」

だが、昼過ぎに返信が返ってきた内容はこうだった。

「ゴメン父さん、今日も夜まで仕事だ。たぶん終わるのは0時を過ぎる」

「そうか、あまり頑張りすぎるなよ」

そう返信して終わった。

仕方ないので、土曜日は離婚してから毎週通っている近所のラーメン屋へ行き、それから次男へ同様に誘いの連絡をしてみたが

「ゴメーン友達とライブに行ってそのまま飲みだねー!でも、父さんが誘うなんて珍しいねー!どうかしたの?」

「いや、まぁ、たまにはどうかなと思っただけだ」

そう連絡して終わった。


私はずっと知らなかったことだが、妻から長女へ、私との離婚のことを昔から相談していたらしかった。

妻は私と離婚した後、パート勤務をしていた会社で正社員となっていたようで、どうやら英語の勉強をしていたらしく、英会話講師のスタッフとなっていたようだ。

そんなことはまったく知らなかった。

これらは後々娘から聞かされたことであるが。


それからまたコンビニ弁当を食べる日が数年続いたが、最近の付き合いの悪さからか役職は下ろされ、今では新入社員の教育係をやらされている。

教育係への異動の際に、表向きは「人材の一番大事な時期を君に任せるんだ」と言われていたが、同期や同僚達は私を陰で笑っていたようだった。

更にここ数年の不景気によって会社の業績も悪くなってしまい、とうとう採用は募集人数よりも応募人数が少なくなってしまった。

加えて面接で「会社よりもプライベートを大事にしたいです!」とハッキリ言ってしまうような大卒でも、人数不足という理由で雇わなければならなかった。

そしてそう言った彼は採用後わずか2ヶ月で退職した。

まだ教育中であったが、教育係の私には一言も相談は無かった。

その年は私が教育をした新人5人のうち3人が1年以内で退職した。


そんな年が数年続き、とうとう定年を迎えた。

いや、「やっと定年を迎えることができた」と言うべきかもしれない。

離婚するまでは60才を越えても雇用延長するつもりだったが、今では私の居場所は全くと言って良いほど無くなってしまっていた。

あれだけ会社のために何十年もかけてきて、それこそ人生を費やしてきたのに、この仕打ちだ。

「こうなってしまったのは全て離婚からだ。あいつのせいだ。あいつが俺の人生を狂わしたんだ・・・」

私は元妻を恨む以外にストレス解消法を知らなかった。


私の送別会では数人が参加してくれたが、同じ部署の40代の独身男性と20代の女性新人達だけだった。

私の送別会であったが誰とも会話は弾まず、少し酔った若手女性から、20代の女性達は別の上司達からこの送別会に参加するよう勧められたそうで、その後、参加者を見てから40代の男性が参加を決めたようだった。

ほとんど独りで飲んで送別会を後にして、家でコンビニのつまみを買って独りで二次会を始めた。

「あれだけ休日にも連れ回されて、繰り返す昔の自慢話や終わらないグチを聞かされ、それでもニコニコしながらお世辞を連発し、イヤミや無理な仕事を振られた時にも耐えてきたのに・・・」

上司達は私の送別会の欠席理由をメールだけで済ませた事にまた腹がたった。

最終出社の日、最後の言葉を別部署を含めて全員にメールしたが、返ってきたのは人事部の雇用延長している65才の人だけだった。そこにはこう書かれてあった。

「長い社会人人生本当にお疲れ様でした。私も今月で退職します。本当に良い会社でしたね。私は高卒でこの会社に入社し47年間、何度もたくさんの人に助けられてきました。それは上司だけでなく、同僚、年上、年下の後輩達です。

それらが無ければ私は何度も心が折れていたことでしょう。

貴殿は何か大きな夢ややりたいことがあり退職をされたのでしょうか。

私にはあります。

これまでたくさんの人に助けられたことの恩返しをしたいと思っており、まずは何十年も支えてくれた妻へ恩返しをしてあげたいと思います。

そして孫が8人いますので、孫の世話をしつつ、地元のボランティアにも参加したいと思っています。

長くなりましたが、本当にお世話になりました。

お互い健康第一にして過ごしましょう」

私はそれを読み、私の話などほとんど無く、自分のことばかり書いてある内容に苛立ったが、その後、とても寂しい気持ちになった。

「自分のやりたいことか・・・」

そう言えば自分の趣味といえる趣味が無いことを思い出した。

昔の上司に勧められた十万円を越えるゴルフセットも見るだけで嫌気がさしたし、好きだったラーメン屋も毎週通ってしまうと、どの味もマズくなっていた。


今では妻の家庭料理がただただ恋しかった。


そして退職後は相変わらずつまらないテレビに一人で文句を言い、買い物と公園での時間潰しの日々が続いていたが、62才を過ぎた頃からか、食欲がさらに無くなった。

ただでさえ食べたい物が何も無くなってしまっていたが、全てを体が拒否しているようだった。

退職するまでは80キロあった体重も今では65キロを下回っていた。

年賀状で知ったが、同期もその後半分は辞め、地元に帰って畑仕事をしたり、孫達と一緒に写っていたりした。

残りの同期のうちの一部は、副社長とのゴルフ写真や、ずっと悪口を言っていた妻との旅行写真を使っていた。

昔が懐かしくなった。

気がつけば退職して2年間、妻や子供だけでなく、会社関係者からも、年賀状以外は全く連絡は無かった。

その年賀状も昨年は見栄をはり作成してみたが、今年はもう興味も無かった。

これで来年から誰からも年賀状は来ないだろう。

そんなある日、いつものコンビニのサンドイッチを食べた時、あまりのおなかの痛みに吐いた。

体の異変に気がつき、痛みが続くことから、少し迷ったが救急車を呼び、病院へ向かった。

そこで医者から言われたのは

「精密検査が必要ですので、すぐに入院してください」

ということだった。

それからすぐに大きい病院へ行き、検査の約1週間後、病院から連絡があり

「医師から説明をするので、なるべく早い日にお越し下さい」

とのことだった。

毎日が暇だったし、他にすることもなかったので翌朝に病院に行くことになった。

私の不安は的中した。

胃がんで、ステージⅢのようだった。

「長期の入院準備をして来てください。そしてご家族にもご連絡をお願いします」

私より年配に見える医師は、最後に私の目を見ながらそう言った。

それから医師の勧める抗がん剤治療が始まったが、副作用の吐き気に、私はすぐに諦めてしまった。

「どうせ長生きしても、意味が無い・・・」

一応妻や子供達に現状を連絡したが、誰からも返事は無く、誰もお見舞いにも来なかった。

いや、一度だけ娘から連絡があったか。

それで前述した「私がずっと知らなかった事」を知る事になる。

それから2週間が過ぎた頃、急に妻が病室に現れた。夢だと思った。

「あなた。お久しぶりです」

妻は病室で痩せこけた私に向かって、静かにそう言った。

「あぁ、お前か・・・久しぶりだな。元気にしていたか?」

様々な感情や昔の記憶を少しずつ思い出しながら、私達元夫婦は久しぶりに長い間、話しをした。

今になって思えば、妻の話をきちんと聴いたのは本当に久しぶりだった気がする。

いや、初めてかもしれない。

数年ぶりに妻の顔を見たせいか、とても安堵し、なぜか涙が出てきた。

「今まで、すまなかった・・・」

私は涙を流しながらそう言い、妻は

「はい・・・」

とだけ言った。

「そういえば・・・娘から、英会話のスタッフをやっていると聞いたが、上手くやっているのか?まぁ、金は私が死んだら保証金があるから大丈夫だろう・・・」

と言ったが妻は

「・・・心配なさらなくて大丈夫ですよ。ずっと一人でやってこれましたから・・・」

と言って軽く微笑んだ。

「そうか・・・すまなかったな・・・」

その後、妻は毎日お見舞いに来てくれ、私が息を引き取る時にはずっと手を取って側にいてくれたが、最後の最後まで一粒も涙を流してはくれなかった。


私はただ、小さい頃から親に言われた通り、友達と遊ばずにたくさん勉強をして、浪人しながらも国立大学に入学し、ずっと親が勧める大企業へ就職した。

そして、お見合いで知り合った妻と出会い、子供達が産まれ、人が羨ましがるような人生を送ってきたはずだった。

だが、いつからこうなってしまったのだろう。


いつから私の人生が崩れてしまったのだろう。


私には、本当に、最後まで、分からなかった。



以上です。

読んでいただきどうもありがとうございました。

ニュースで日本の男尊女卑が強いことと熟年離婚が増加傾向にあることを知り、実際の体験談等も調べ、あとは想像して書いてみました。

亭主関白には憧れますが、威張るだけでなく、妻がずっと惚れてくれるような人格者になりたいですね。

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