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藤 夏燦
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小麦畑をまっすぐ貫く踏みならした足跡を見つけたら、その先をたどってはいけない。
大きな街に絹織物を売りに行った帰り、こうした足跡を見つけては母がよく言っていた。
「どうして?」
幼い少年には不思議だった。だって迷路みたいで面白そうだったからだ。
「小麦畑の足跡はね、ずっと遠いところに繋がっているのよ。そこはとても恐ろしくて怖いわ。それに二度とこちらの世界には戻ってこられないの」
「ふーん、そーなんだ」
こましゃくれていた少年はそれを母の作り話だと思った。その様子に母も気づいたようだ。
「信じてないわね?」
「うん。だって確かに小麦畑は広いけど、戻ってこれるもん」
「そう見えるでしょ。でもあれはあなたたち子供を誘おうとわざと開けたように見せているのよ。昔から小麦畑は違う世界と繋がっているって言うでしょ?」
「そんなの迷信だよ」
少年は思った。ミステリーサークルがよくこの街でも見つかるけど、あれだって誰かが作っているに決まっている。
「もう、そんなこと言う子にはご飯抜きですからね!」
母は怒って先に進んだ。生意気だった彼は謝りもしなかったが、それを今となっては後悔している。その年の暮れ、母は急病にかかって死んだ。
身長が伸びて小麦を上から見下ろせる歳になっても、少年は母が言っていたことが気になっていた。あれは子供が小麦畑で迷子にならないための忠告だったのか。それとも不思議な入り口があの足跡をたどった先にあるのか。確かめたくなった。
思春期が近づき好奇心旺盛になった少年は織物売りの帰り、小麦畑に開いた直線の足跡を見つけて足を止めた。もう夕刻に近く、畑は黄金に染まり、海のように風に揺られて波打っている。
七月はじめの夕風は心地がいい。
鼻をつく小麦と野の匂いに混じって、嗅いだことのない香りが足跡の向こうからした。鉄のような、雨のような。獣のような、機械のような。そんな匂いだ。
少年は胸の内がすっと凍るような気がした。長閑な小麦畑の景色のはずなのに、何故か。
そこでふと、また母の話を思い出した。
「小麦畑をまっすぐ貫く踏みならした足跡を見つけたら、その先をたどってはいけない」
そもそもこの足跡は何なのか。今でもわからない。人が歩いたあとなのか、それとも獣がつけたのか。はるか先の地平線にまで足跡は続いている気がする。
少年は近づいて、踏みならされた小麦を観察した。均整に同じ力で押し付けられたようだ。大きな機械を使ってやったように思える。でも一体、誰が何のために。この足跡が出る時期は決まっておらず、ふいに現れる。獣にしては踏み口が丁寧すぎるし、人にしては踏み方が乱暴だ。
確かめるしかない。
少年の心は好奇心に負けた。そしてほんの出来心で足跡をたどってみることに決めた。迷信なんて信じてはいなかったが、母の忠告は守りたかった。
それでも真実を言わずに死んでいった母さんが悪いんだ、と思った。子供だましの迷信ではなく、ちゃんとした理由を話してほしかった。母が死んだ今、それは自分自身で見つけるしかない。
小麦畑に足を踏み入れた瞬間、少年の心は前しか向かなくなった。いつも目にしている畑だし、何度も入ったことがあるけれど、足跡の上を歩いていると先に進みたくなる。
少年は自分の背丈より少し低い小麦に囲まれた道を無我夢中で進んだ。この先に足跡をつけた主がいるはずだ。もしかしたら村の大人たちもそいつを知らないのかもしれない。だったら僕がそいつを捕まえて、正体を暴いてやる。
風が渦を巻いて小麦を揺らしていく。黄金の海はやがて大海にかわり、見渡す限り小麦に囲まれた。それでも少年は振り返らなかった。振り返れば、負けな気がした。
地平線の彼方に二つに割れた小麦畑がある。そこを目指して進むと、また二つに割れた小麦畑が見えた。もうどれくらい歩いたのか。街と村を何往復もしたような気がする。少年は畑の向こう側までいったことはなかったが、こんなに広いのだろうかと疑問に思った。家も道も、川すらない。
それでも少年は振り返らなかった。きっと振り返っても同じ景色が広がっている。永遠の景色の中に取り残された心地になるのは怖い。
どうしてだろうか。日も落ちない。ずっとずっと空は夕焼けで、畑は黄金のままだ。それでも少年は進み続けた。
もしも日が暮れたのなら、少年は足を止めただろう。それに道や川で畑が途切れていても、少年は足を止めただろう。さらに誰かが少年を見つけて戻るように言ったのなら、少年は喜んで足を止めただろう。
しかしどれも起こらなかった。きっかけがなければ、足は止まらない。終わりがなければ、永遠が続く。
少年が村に戻ることは、二度となかった。
このような伝承は世界各地にあります。時間と空間は常に同一にあるとは限らない。日本での神隠しの伝承にはじまり、近年の事例ではフィラデルフィア実験やサンチアゴ航空513便事件などが有名です。
時間と空間、どちらか一方がなくなったとき、人はどうなってしまうのでしょうか。
そんなこと怖いから考えたくないと思う人も多いでしょう。しかし私はそこに不死から諷示ふうじが見えて、聊かの興味があるのです。
null(ヌル) 藤 夏燦 @FujiKazan
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