第7話く

 ー現在

 星野まりが本社ビルの担当になってちょうど2年が過ぎた。人の出入りが多い職場なので、星野でも中堅清掃員である。先月までは新人の指導員としてペアで仕事をしていた。ようやく今日からまた1人に戻ったのである。

 2フロアを任されているが、お目当ての食糧本部や経営企画室のフロアは担当外である。さすがにフロアの希望までは出せない。たまに担当替えもあるので、気長に待つことにしていたが、先週良い方法に気付いた。

 ベテランの清掃員が自身の担当フロアが早く終わったので、星野のフロアに応援に来たのだ。応援についてマニュアルには書いていない。マネージャーの指示ではなく本人の判断だと言う。予定時間より早く終わることは手際良いと言えるが、手抜きと見られることもある。また作業量が少ないとして担当を増やされるかも知れない。時間内に終わることが基本で、早く終わり過ぎた時は控室には戻らず、清掃用具を手入れして時間を潰すことになる。

 翌朝の朝礼でマネージャーは応援について取り上げ、良い例として褒めていた。

(これだ!)

 星野の清掃レベルは“上の下”といったところ。担当外のフロアを応援出来る程ではない。

(今までは時間内に終わることを考えていたけど、今日からは出来るだけ早く終わらせるようにしなきゃ)

 早く終わらせるためには、一つ一つの作業を手際良くすること。更に歩く距離を短くする、つまり動線を意識することである。雑な清掃で他フロアを応援していたら、逆に叱責を受けるし理由を問い詰められるかも知れない。

(ここは焦らずにじっくり行こう)

 星野は自宅に帰ると丁寧かつ迅速に清掃を終える方法を毎日考えた。良いアイデアが浮かべば翌日試す積もりだが、これが簡単ではない。専門家が長年積み上げて来た様々なノウハウはマニュアルに盛り込まれている。今でも年に1回は内容が更新されているのだ。経験の浅い星野が思い付く画期的なアイデアなどなかなかない。

(結局は小さなことの積み重ねなのね)

 単純な作業ほど奥が深い。星野は取り敢えず歩く距離を短くすることから始めた。清掃用具や回収したゴミを乗せる台車がある。今までは部屋の中央付近に台車を置き、何度も往復していた。清掃の進捗に合わせて少しずつ動かして行けば、歩く距離を短く出来る筈だ。また全ての動作を“テキパキ”することだ。肥満体型の星野は動くだけで汗をかくので、どうしても動作が緩慢になってしまう。

(よし。明日から実行だ)

 動機は“不純”だが、何かに取り組んでいる時は充実している。これで成果が上がれば、計画を実行に移せると思えるだけで幸せな気分になれる。


 成果を検証するためには定量的なデータが必要である。今まで仕事中に時計を見るのは、10分単位で進捗具合を確認するためであった。これからはスマホで秒単位の時間を測って工夫の成果を検証しなければならない。

(いや待って。今まではどれだけの時間が掛かっていたのか、それがないと比較は出来ないわ)

 星野はノートパソコンを立ち上げ、明日から何をするかエクセルに打ち込んで行く。まず3日間は今までのやり方で清掃作業をし、比較対象となる所要時間を作業毎に弾き出す。スマホで時間を測るといっても、細かい作業毎にいちいち書き記して行くことは出来ない。考えた末、ボイスメモ機能を使って作業名、開始、終了を録音して行くことにした。移動も同様に記録する。

 机上の空論ではなく、上手く行きそうな予感がする。翌日の仕事がこれほど楽しいと思ったことはない。久し振りにワインを開け、星野は満ち足りた気分でベッドに潜り込んだ。


「一番島ゴミ箱・・・・終了・・・二番島ゴミ箱・・・終了・・・三番島ゴミ箱・・・終了・・・台車・・・三番島雑巾・・・終了・・・二番島雑巾・・・」

 星野はスマホを首から下げ、作業毎に所要時間が分かるよう喋り続けている。1時間ほど集中して5分の休憩を取る。いつも通り少し汗ばむが、とにかく喉が渇いて仕方ない。

(喋るだけでこんなに疲れるなんて)

 星野は水筒のお茶をコップに入れて一気に飲んでしまった。

(あー美味しい)

 既に時間短縮のアイデアが1つ浮かんでいる。雑巾を台車に取りに行くのが無駄だ。しっかりと絞って腰のベルトに挟んでおけばよい。どれだけの短縮効果があるのか、早く確かめてみたい。いつもは勢いをつけないと立ち上がれないのに、今日の星野はさっと立ち上がり軽やかな足取りで仕事に戻ることが出来た。

 これまでの星野は仕事中に時計を見て、針が遅々として進まないと感じていた。ところがこの日は「えっ⁈」というくらい早く終業時間を迎えた。帰りは少し遠回りして最近オープンした惣菜店でポトフとサーモンサラダを買った。久し振りに薄いビアグラスでプレミアムビールを飲む。冷たいビールがポトフに良く合う。

(体型は随分変わってしまったけど、輝いていたあの頃のようだわ)

 いつも誰かに見られていることを意識していたあの頃。1人で家にいても化粧をし、隙のない装いで音楽を聴きながらアップルティーを優雅に口へ運ぶ。まるで映画のヒロインのように。

 屈辱と絶望に押し潰されて会社を辞め、引き籠もり、過食と拒食を繰り返しているうちに今の体型になった。化粧どころか肌の手入れすらしなくなると、星野の肌はみるみる潤いを失い荒れ放題となった。だぶだぶのワンピースしか受け付けない体型になると、幸せは諦めいつしか早死にすら望むようになった。

 今星野はささやかな幸福を感じている。新しい友達も出来た。少しずつ、少しずつあの頃に近づいて行くような気がする。


 スマホのボイスメモを再生しながら、エクセルに作業名と所要時間を正確に秒単位で打ち込んで行く。聞き取りにくい個所があると戻して聞き直す。星野は暫し作業に没頭し、目の疲れと肩の強張りを感じて手を休める。時計を見て驚いた。既に2時間が経過していたのだ。ホットコーヒーは口を付けぬまますっかり冷めていた。まだ半分も再生していない。

(当たり前よね。そのまま再生していたら、勤務時間と同じだけ掛かるわ)

 エクセルへの打ち込み時間もあるからそれ以上の時間が必要だ。このペースでは夜中になってしまう。星野は思案し、記憶を頼りに無音の時間帯を早送りすることにした。これにより作業時間が大幅に短縮された。


 その後星野は2日間にわたって従来通りの作業手順で所要時間を計測し、更に3日間を掛けて時間短縮の工夫を取り入れて時間を測った。残念ながら2分程しか時短にはならなかった。やはり工夫だけでは限界がある。全ての動作を“テキパキ”するとの結論に至ったのである。

 いきなり仕事だけ“テキパキ”とは出来ないので、星野は生活の全てを“テキパキ”と行動することにした。しかし星野の体型ではこれがなかなか大変なことで、何をするにも汗をかき息が上がる。毎日軽い筋肉痛だったが、1週間が過ぎる頃にはそんな生活にもだんだんと慣れて来た。更なる時間短縮のためには本気で運動を始めるしかない。あれこれ思案の末、星野は夕食後に1時間のウォーキングを始めることにした。過去に何度もトライと挫折を繰り返して来たが、今度こそ習慣化されるまで頑張り抜こうと星野の意思は固い。

 実際に始めてみると、満腹でのウォーキングは相当辛いので、自然と食事は腹八分目になった。歩く速度も次第に速くなり、1時間で歩ける距離も少しずつ伸びている。平行して清掃作業の時間も短縮されて行く。毎晩の集計も欠かさず行っているので、成果が目に見えて分かる。それが楽しくて、仕事にもウォーキングにも一層気合が入る。


 星野が作業時間の短縮に取り組んでからちょうど3ヶ月、かつてより20分以上も早く終えることが出来るようになった。たまたまではない。何度計測しても同じ結果になる。

(そろそろ応援に行こうかしら?)

 経営企画室のフロアは星野の指導を担当した栗田佳奈、食糧本部は星野が3ヶ月前まで指導をしていた新人がそれぞれ担当している。栗田は同い年で時々遊びに行く仲だが、清掃技術は栗田が上なので、星野が手伝いに行くのは不自然だ。応援も要らないだろう。その点新人なら応援は必要だし、その後の成長を見に来たと言えばいかにも自然だ。

(よしっ。明日は全力で早く終わらせて、食糧本部の応援に行こう。いよいよだわ)


「川上さんどう?もう1人にも慣れたかしら?」

「あっ星野さん。こんなに早く終わったんですか?」

「ええ。川上さんのことが気になって見に来ちゃった」

「何故か今日はゴミ箱もシュレッダーもやたら多くて。少し苦戦してます」

「良いわよ、手伝うわ」

「ありがとうございます。助かります」

「じゃあ私は向こうの端から行くわ。それから元指導員として全体のチェックを先にするね」

 星野は“元指導員”のところで笑顔を作り胸に手を当てた。川上はそれを軽い冗談と受け取ったのか、短く声に出して笑った。

「よろしくお願いします」

 星野は川上が既に清掃を終えた所から見て回る。足下や机上をチェックするように指差しながら、星野の目的は“あいつ”がまだ在籍しているかを確認することだ。年齢的には結婚退職していても不思議ではない。異動でフロアが変わったかも知れない。

(いたいた。まだいるよー)

(15年以上も同じ仕事して飽きないもんだねー)

 清田は星野が勤務していた時と変わらず畜肉部にいた。散らかり放題の机の上はあの頃と同じだ。かつて中高生に人気のあったキャラクター好きは相変わらずで、清田の机とすぐ分かる。

(ん?家族写真?)

 崩れ落ちそうな書類の山に半分隠れるようにして写真立てがある。慎重にずらすと特徴的な屋上が人気のホテルを背景に、親子3人が弾ける笑顔で並んでいる。シンガポール。清田は結婚していた。そして可愛らしい女の子を授り、家族と海外旅行に行っている。星野が一度は行きたいと憧れていたあの観光立国に。

 星野がトイレにいることを知らず、星野を真似て揶揄した憎き清田が幸せを手に入れていた。15年以上も同じ事務を繰り返している寂しい独身女ではない。恋愛、結婚、出産、産休に育休そして職場復帰している。

(この旦那は・・・)

 星野がこの商社に勤めていた時、鶏肉課の課長代理で課は違うが清田の同僚だった男だ。社内結婚しても同じ部署で働けるのか。記憶を辿り固定電話で内線番号を検索する。

(これだ!)

 星野が番号を押すと、窓際の大きな机の電話が鳴った。

(畜肉部長・・・)

 川上が遠くから不思議そうに星野を見ている。慌てて受話器を戻して取り繕う。

「拭いてたら間違って押しちゃった!」

 星野が右の拳で頭をこつんと叩く仕草をすると川上は笑顔を見せて仕事に戻る。


 清田には軽い仕打をと考えていたが、幸せになっているなんて許せない。まして部長夫人になっているなんて。この会社で部長職の年収はおおよそ見当がつく。それでも働き続ける清田が星野には理解出来ない。

(子供が可哀想とは思わないのか?)

(自分だけ幸せになって良いのか?)

(きつーい仕打を考え直さないと)

 星野は湧き上がる笑いを抑え込むように水筒の水を喉を鳴らして飲み干した。


 翌日の朝、星野は寝不足で目がしょぼしょぼしている。昨夜は清田への仕打をどうするかがなかなか思い浮かばず、“まあこんなものか”と納得出来たのは3時過ぎであった。その後手順のおさらいをしていたら、30分が経過していた。もうこのまま徹夜かと諦めかけたが、知らぬ間に星野は寝ていた。

 目覚めた時は意外とすっきりしていて、朝ご飯はいつも通り美味しく食べられた。今は眠くて仕方ないが、計画を実行するためには星野の担当フロアをさっさと終わらなければならない。


「星野さん、今日もお手伝いして頂けるんですか?」

「ええ、気にしないで。でも私がいつも早く終わっているなんてマネージャーには言わないでね」

「分かってますって」

 星野は昨日と同じルートでチェックをしながら歩いていく。

「川上さん。昨日と同じ所にごみが落ちてるわよ」

「すみません。その机の方はいつもごみが多くて、足元にもよく落ちているんです。気を付けます」

 自然な流れで清田の机に来た。

(相変わらず散らかり放題ね。案外自宅はごみ屋敷だったりして)

 星野は請求書で膨らんだクリアファイルから、金額が少ないものを1枚抜き取る。川上の方を見ると、こちらに背を向けて掃除機をかけている。星野はシュレッダーからぱんぱんに詰め込まれた袋を取り出し、細かい紙片の中に手を入れて抜き取った請求書を隠す。紙片が飛び出さないよう慎重に口を縛り、台車に乗せて新しい袋をシュレッダーにセットする。

(暫く仕打が続くのだから、あいつが気付かない程度に少しずつね)

 金額の大きい請求書がなくなればさすがの清田も気付くだろう。真っ先に疑われるのは清掃員だ。あの程度の請求書なら取引先から未入金の問い合わせがあって初めて気付く筈だ。

(お前の信用をなくせ。会社の信用をなくせ)

 星野は言い様のない快感が湧き上がるのを感じた。

(これがしばらく毎日続くなんて)

 全身が粟立ち、込み上げる笑いが抑えられない。


 翌日はマグカップを泥水が満たされたバケツに浸し、雑巾でさっと拭いて元に戻した。

(腹壊せ。不味いコーヒーを飲め)

 次の日はパソコンのキーボードに砂糖たっぷりの缶コーヒーをぽたぽたと垂らした。

(キーボードが使えないぞ。仕事にならないぞ)

 その後も星野は清掃員が疑われない程度の嫌がらせを繰り返した。清田にどれほどのダメージを与えているのか分からないが、溜飲を下げることは出来る。寝る前に明日の仕打を考えることが星野の楽しみになった。清田がどんな顔をするか見れないのは残念だが、こればかりはどうしようもない。

(そろそろあいつへの仕打も考えないと)

 星野の人生をめちゃくちゃにした同期のあいつ。

(あいつには手緩い仕打じゃ済まないぞ)

 今でもこの会社にいるのか、まずはそれから確認しなければならない。


 星野と同期入社の笹本は経営企画室に配属された。総合商社の中枢部門で、同じ総合職採用でも営業事務の星野とは入社時点で評価が違っていた。その副室長に配属された樋口は50才代での社長が約束されたエリート中のエリートであった。

 星野が公然と樋口にアプローチをし、笹本も星野の気持ちを分かっていたくせに。あろうことか既に樋口とは恋愛関係にあったのだ。樋口も星野に思わせ振りな態度を見せていたのに。2人して星野をからかっていたのだ。2人の濃密な時間、星野の馬鹿さ加減を笑い飛ばしていたのだ。

(許せない。徹底的な仕打が必要よ)


 樋口が予定通り社長に就任したことは、ネットで検索済みだ。星野にとって最も許せないのは、笹本が樋口と結婚していることだ。もしそうならあまりにも惨めだ。そして仕返しも出来ないということになる。

 星野は明日、思い切って経営企画室のフロアへ行くことに決めた。

(久し振りに栗田と話がしたくなった)

(清掃のやり方で聞きたいことがある)

 理由は何でも構わない。ついでに星野が手伝うと言えば、栗田も元指導員として喜んでくれるだろう。明日はいつも以上に自分の持ち場を早く終わらせないといけない。星野は早めに寝床に入ると、あれこれ考える間も無く眠りに落ちた。


「あら星野さん、どうしました?」

 栗田は突然現れた星野に対して、驚きと笑いを混ぜ合わせた表情を見せた。

「思いのほか早く終わって。急に栗田さんのことを思い出して来ちゃいました。お邪魔なら退散します」

「お邪魔なんて。同じ職場でもお話しすることは少ないですものね。何か用事がある訳ではないでしょう?」

「はい。よろしければお手伝いします。指導員の栗田さんに手伝うなんて失礼ですが」

「嬉しいわ。もう少しだから、お話ししながらやりましょ。向こうの端からお願いね」

 経営企画室はフロアの端にある。特に機密事項を扱っているので、他部門のような大部屋ではない。この部屋は最後に違いないと予想していたが、ドンピシャであった。


 笹本はまだいた。樋口と結婚していれば、社長夫人が同じ会社で勤め続けることは絶対にない。

(捨てられたんだわ)

 星野は素直に喜び、笑いを抑えようとはしなかった。本人は少し頬を緩める程度と思っていたが、実際は表現しようのない程の怖ろしい表情であった。

(もう仕打ちはいいか)

 笹本が樋口に捨てられたのなら、最大の仕打ではないか。だが少し疑問は残る。捨てられた女が同じ会社で働き続けるものなのか。星野なら間違いなく辞めている。

(何かあるのかも知れない)

 星野はその何かが知りたいのだが、どうしようもない。

(そうだ!良いこと思いついたわ)

 星野は一層不気味な笑い顔で笹本のデスクを睨んでいる。何かを話し掛けようとした栗田だが、星野を見て雑巾を落とし凍りついてしまった。


 星野は土曜日の家電量販店にいる。必要な機能さえあれば良いので、安くても知らないブランドでも構わない。それでも1万円以上は覚悟したが、税込7千円しないものを見つけ、直ぐにレジに並んだ。レシートのような保証書を渡されたが、トイレのゴミ箱に捨てた。

 軽くて小型のレコーダーに両面テープを貼り、笹本のデスクの見えないところにセットする。取り敢えずフル充電で出来るとこまで録音する。こまめにオンオフが出来ないので仕方ない。

 笹本の会話を録音して、どんな暮らしをしているのか確かめたい。星野がやろうとしているのは盗聴、立派な犯罪である。見つかれば悪戯、出来心では済まない。だが今の星野には常識的な判断は出来ない。実行可能かどうか、それだけだ。

 固定電話はあまり使用されず、スマホでの会話が多いだろう。勤務中のプライベートな用件ならメールやラインがほとんどに違いない。

(目当ての会話は録音されないかも)

 星野は落胆しかけたが、盗聴以外の方法が思い浮かばないので、取り敢えずやるしかない。

 総合商社は世界を相手に商売をしているので、定時はあってないようなものだ。夜中でも働いている者がいる。そんな社員に見つからなければ、夜中の経営企画室に忍び込むのは容易だ。


 昨日は仕事を終えて一旦帰宅し、少し仮眠して最終電車で本社に来た。ビルから少し離れたベンチに腰掛け、徐々に灯りが消えて行く窓を見上げて過ごした。経営企画室のフロアが一直線に暗くなったのは夜中の2時であった。それから更に1時間待ち、ビルの通用口からロックを解除してようやく中に入る。怪訝な顔をした警備員は、突然の訪問者が星野と分かって表情を崩す。

「星野さん、こんな時間にどうしました?」

「変な時間に目が覚めたらもう眠れなくて」

「それならいっそ出勤しようと?」

「その通りです」

「仕事熱心な方だ。私なら軽く日本酒でも煽って二度寝を決め込みますがね」

「今度はそうします」

 警備員は笑顔で右手を上げて、文庫本に目を落とし読書を再開した。

 星野は着替えだけ済ませたら清掃用具は持たず、経営企画室のフロアに上がった。念のため階段を使ったので、息が上がり少し汗ばんだ。かつての星野には考えられない運動量だ。

 ドアを静かに開け、音を立てずに体を滑り込ませたら後ろ手で慎重に閉める。外からは分からないように、懐中電灯の光で足元だけを照らす。笹本のデスクの前に立ち、下見で決めていた右側面を手探りで弄る。レコーダーを貼り付けるには十分のスペースがある。予めレコーダーには両面テープが貼られている。人差し指の爪で接着面の薄い紙を剥がそうとするのだが、上手くいかない。爪に汚れが溜まるので、常に短く切り揃えているからだ。

(あぁーいらいらする!)

 その時、ドアが開いて誰かが部屋の電気をパチンと点灯した。急に明るくなったので、眩しくて視界が狭まる。星野は何とか薄目を開けてドアの方を振り返ると、中年男性が立っている。

「何と何と。お久し振りですね、うさぎちゃん」


「いえ、私は、違います・・・?うさぎちゃんって・・・?」

「僕のこと覚えてないですか?田嶋ですよ。星野まりさん」

(田嶋?)

 思い出した。樋口がその能力を高く評価し、自身の異動時に経営企画室に引っ張って来た男。見た目の野暮ったさ、不潔さから星野はほとんど相手にしていなかった。でも何故・・・

「どうして私と分かったのですか?見た目がすっかり変わっています」

「少し前に偶然遠くから見た時は全く気付かなかったよ。太った女だなと思っただけさ」

(随分はっきりと言うのね)

「でも先日、うさぎちゃんの声を聞いて思い出したんだ。残業で遅くなって、帰るのが面倒だから応接室のソファで寝ていた。誰かと喋ってたよな。えーと、栗田さんって言ったっけ?」

(あの時だわ。そう言えば使用中の札が掛かっていたような)

 仮眠が出来るようソファベッドになっていて、座面を上げると掛け布団が入っている。

「太って少し潰れた声になってたけど、抑揚や独特の癖からうさぎちゃんだと分かったよ。ドアの隙間から覗いた時は驚いたけどね。見た目があまりに変わっていたから」

 星野は何も言い返せない。

(しまった!)

 レコーダーを隠さず、右手に持ったままだ。

「驚いたのはそれだけじゃないぜ。あの時のうさぎちゃんの顔、思わず震え上がったよ。殺人者の目だったね。これは何かあるに違いないと思って見張っていたら、なるほどそれかぁ」

 田嶋は星野の右手を指差してにやりと笑った。

「で、でも田嶋さん、どうしてこんなことを。何の目的で、それにわざわざ」

 星野は喉がからからで、上手く話せない。

「うさぎちゃんの目的を先に聞きたいね。笹本さんの会話を何のために録音するのか」

「・・・」

「狙っていた樋口さんを笹本さんに横取りされて。仕返しでもするつもりだったのかな?」

「・・・」

「今でも2人の関係は続いているよ」

「えっ!」

「樋口さんは巨大企業の社長に相応しい伴侶を選んだ。取引先でもある大手食品メーカーのオーナー社長の妹と見合い結婚したんだ」

 田嶋は近くの椅子を引いて腰をおろし、組んだ足の靴を脱いでぼりぼりと掻き出した。

 星野はわずかに背中が粟立つ不快感を覚える。

「ただ樋口さんは笹本さんとの関係を諦められず、こそこそやるより社員として残すことを選んだんだ。その方が何かと都合が良いみたいだな。もっとも2人の関係を知っているのは俺と室長、副室長だけだ。秘書も知らないらしい」

「そんなこと・・・」

「それが案外バレないんだな」

 田嶋は指先を鼻に持って行き、匂いを嗅いでいる。最早これ以上、田嶋から引き出すことはない。

「何か勘違いされているようですが、私はただ清掃をしているだけです。失礼します」

 星野は案外しっかりとした口調で話すことが出来た。背を向けて歩き始めた時、田嶋の妙に明るい声が聞こえた。

「うさぎちゃん。樋口さんや笹本さんのことなんてどうでもいいじゃない。俺と付き合おうよ。うさぎちゃんには一目惚れだったんだよな」

 田嶋は右の靴下を脱いで、足裏を一層強く掻きむしっている。その恍惚とした表情を見るや、星野はあらん限りの悲鳴を張り上げてドアに向かって走り出した。

「うさぎちゃん。また明日も会おうね」



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