珈琲に導かれ

笠野 緑(仮)

一杯目 遺伝

 コーヒーを飲み始めたのは、中学3年の夏。受験勉強真っ盛りの時で、ただの眠気覚ましに飲んでいた。

 そんなある日、ふと父が豆からコーヒーを淹れていたのを私は思い出した。

 頼んで淹れてもらったコーヒーは、インスタントばかり飲んでいた私の味覚を大きく変えた。

 強い苦味の後にくるコーヒーの高い香りと酸っぱさが、口の中を包んだのを今でも覚えている。

 その味を覚えてしまった私は、自分でコーヒーを淹れるようになった。


 「今日さ、久々におばあちゃんのとこ行こうよ」

 当時介護をしていた父方の母、私の祖母の元へ行こうと、母が言ってくれた。受験勉強ばかりではと、両親は時折甘やかしてくれていた。

 借り地であったおばあちゃんの家は、住む人がいなくなれば取り壊すという話が出ていたので、今のうちに家の中で走り回った幼き日の思い出を残しつつ、まだおばあちゃんと私との記憶を増やそうと、私は言われるがまま付いて行った。

 当時おばあちゃんはまだ寝たきりにはなってはおらず、自分で自炊する体力は残っていたので、介護もそこまで必要とはしてはいなかった。しかし日に日に衰える体を見ると、心が痛んだ。

 6年前、最愛の夫であるおじいちゃんが亡くなってから、おばあちゃんは心身ともに弱り果てていった。しかしそれでも、私は長く生きて欲しいと願って孫の中で一番最後まで彼女に会いに行っていた。

 「いらっしゃい」

 足どりは重いが、おばあちゃんはいつも暖かく出迎えてくれた。家に着くと、広い家の片付けが進んでおり、今日は二階にある使わなくなったものの整理だった。家には未だに捨てられずにいるおじいちゃんの遺品がたくさんあり、腕時計にカメラ、アルバムなんかもあった。

 おじいちゃんが亡くなった当初、ちょっとずつ片付けようと話をしていたが、片付けるたびに悲しい顔のするおばあちゃんを見て、全く捗っていない。

 いつも私がくれば、笑顔を見せてくれるが、心の中では大切な物や思い出を消し去ろうとする“悪魔”と思っているかもしれないと、当時の私は思っていた。

 この日はとても寒く、当時の十二月最低気温を更新した日だった。

 「今日は寒いね。めぐちゃんは大丈夫かい?」

 私は“大丈夫”と言いつつ、冷え性の体を母と共にストーブに体を預けて言った。

 「お母さんこそ大丈夫? あら冷えてるじゃないですか」

 母が心配そうに手を握り、足首を触るとわはり冷えていたのか、“寒くないですか?”と聞いたのだ。靴下越しでもわかるくらい冷えていたらしい。

 「これくらい耐えないと生きていけないよ」

 そう言っておばあちゃんは強がったが

 「いいえ寒いものは寒いですよ。今スリッパ持ってきますね」

 そう言って母は玄関へと向かっていった。

 「ごめんなさいね」

 「いいんですよ。長生きしてもらわないと」

 「いいんだよこんな老ぼれ。そう長くないんだから」

 「何言ってるのおばあちゃん。それ言ったら私たちも同じだよ。いつ事故とかで亡くなるかわからないんだから。私は寒さで凍死なんてしてほしくないからね」

 「めぐちゃんはまだ若いんだから大丈夫だよ。安心しなさい。おばあちゃんがついてるから」

 根拠のないことを言うおばあちゃんだったが、もう“死”を覚悟しているのか、その言葉は重く感じた。

 「めぐ、寒いからお湯沸かしてお茶にしましょう。棚にお茶セット入ってるから準備して。お母さん新しいスリッパ車から持ってくるから」

 「わかった」

 母は車に向かい、私は言われた通りにお茶の準備を始めた。

 台所にあるアルミ製のヤカンに水を注ぎ、コンロの火にかけ、戸棚から急須と緑茶の葉の入った缶を出そうとした時だった。

 「ん?」

 棚の奥に隠れるようにあった、ステンレス製の綺麗なポットを見つけた。その隣には同じスレンレスで出来た容器が二つあり、一つは取手と蓋だけの物と、もう一つは最初に見つけたポットよりさらに小さなポットだった。

 「おばあちゃん、これ何?」

 私は自分の手より大きなポットを差し出して聞いてみると、おばあちゃんは目を見開いた。

 「あ…それは……」

 何かまずい物を見つけてしまったのか、おばあちゃんは言葉に詰まってしまっていた。

 「それは……おじいちゃんのなの…」

 「あ……」

 まずい物を見つけてしまった。少し顔を曇らせ、おばあちゃんは言った。しかし何に使うのかはさっぱりわからない。

 「………」

 おばあちゃんは無言でタバコを出し、箱に一緒にしまっていたライターで火をつけて煙を蒸し始めた。

 「それはね……おじいちゃんのなの…あの人がいつも……コーヒーを淹れるのに使っていた……」

 初耳だった。つまりこれはドリップポットと呼ばれる物で、コーヒーを淹れるための道具だった。それを聞いた私は、聞かずにはいられなかった。

 「おじいちゃんコーヒー好きだったの!?」

 「ええ……まだ見つかっていないのなら、書斎にコーヒーミルがあるわ」

 それを聞いてさらにおばあちゃんに私は詰め寄った。

 「どこにあるの!?」

 「えぇ? い、言ったら捨てちゃうでしょ? いやよ……言いたくないわ…」

 その気持ちはわかった。でも、コーヒーの魅力に惚れ始めていた私には、聞きたくて仕方なく、そしてあわよくばコーヒー好きだったおじいちゃんの話が聞きたかった。ついでに道具も欲しかった。

 「教えて! 絶対捨てないから!」

 「えぇ…」

 雲行きはかなり暗かった。しかし私は付け足してこう言った。

 「おじいちゃんの話が聞きたいの! 私も最近…自分でコーヒー淹れてて、お父さんに淹れてもらったコーヒーの影響なんだけど…私もコーヒー好きなの……だから…ダメ……かな……?」

 「………」

 おばあちゃんはしばらく考え込んでから、タバコを3回ほどふかした後、答えてくれた。

 「……いいわ。来なさい」

 おばあちゃんは重い腰をあげ、おじいちゃんの書斎がある場所に向かった。

 横開きのステンドグラスのオシャレなドアを潜ると、机にはおじいちゃんの趣味だったと言っていた書道のセットがそのままになっている。片側の壁一面を本棚が覆い、反対には父と父のお兄さん、そしてその妹の名前が書かれた油絵が三つだけ飾られている。

 「……ここへ入ったのは、あの人が亡くなってからは入ってないのよ…」

 「ごめん……嫌だった…?」

 「いやいいんだよ。ここを残しているのは、あの人を忘れない為なんだ……私が亡くなったら、きっとこの家もなくなる……そうすると、私やあの人を忘れたくないと言う人も少ないだろう。だから私が生きているうちは……この家を残しておいて欲しいんだけどね…」

 「………」

 おばあちゃんは昔話も交えながら、本棚を整理しながら話してくれた。

 それを言われて言葉が出なかった。

 おばあちゃんは自分が寝たきりになったり、ここに住めない状況になったら取り壊されるのは目に見えていたのだ。

 おじいちゃんとおばあちゃんを忘れないという頑固たる意思は受け継げたとしても、ここを残しておけるお金はない。できることならそれに答えてあげたいけど、今の私には無理だった。私の両親や親戚で決めることなのだから。

 俯いていた顔を上げると、本棚を整理するおばあちゃんの背中は、何か寂しさを感じさせるものがあった。

 「これだよ」

 「!」

 本をどかした後ろに、黒く大きなハンドルのついた物体があった。初めて見たそれはなんなのかさっぱりで、おばあちゃんはそれを床に置いてなんなのか話してくれた。

 「これが、あの人が使っていたコーヒーミル……もうずっとここにあるよ…」

 鉄で出来たそれは、私にはなぜか恐ろしく感じてしまった。

 これが昔のコーヒーミル……

 私は何か触れてはいけないものに触れようとしていると感じた。

 「あの人が入院して、幸徳(ユキノリ)が医者から癌だと話されたと言われた時、私はショックだったよ……」

 幸徳は私の父のことで、おじいちゃんとおばあちゃんを一番大事に思っていた人だった。

 おじいちゃんの葬儀の間、父は涙を流さなかったが、私と兄がいない場所では母に慰められていたらしい。

 「なんであの人がって、思ってしまってね。私も後を追おうとしたけど、いずれ迎えがくるからそれはやめたんだ。それまでこの家で、あの人との思い出に浸って眠ろうって決めたんだよ……」

 ミルを大切そうに撫でて、おばあちゃんは話してくれた。

 「このミルと、めぐちゃんが見つけたあのポットで、あの人は私にコーヒーを入れてくれたんだ。私が作った菓子を一緒に出すと、あの人は無言でそれを口に運ぶんだけど、最後はちゃんとお礼を言ってくれるんだ。幸徳たちがそれを横から取ろうとすると、あの人は渡さんと言わんばかりに口に頬張ってしまうんだ。そんなところが、今でも忘れられないよ……」

 「…おじいちゃんの入れたコーヒーって、どんなだった?」

 「それは美味しかったさ。美味しくなかったら私には飲ませてくれなかったんだ。自分一人で飲んじゃうんだよ。それでも構わないと私は言ったけど、あの人は頑固だったから、一度決めたらそんなことはしてくれなかったけどね」

 「……頑固じゃなくて…優しかったんじゃないのかな……」

 「どう言うことだいそりゃ?」

 「きっと、おばあちゃんには美味しいコーヒーを飲んで欲しかったから…そうやって自分が不味いと思ったやつは渡さなかったんじゃないかな……」

 「ふふ……そうかもね。あの人はそういうとこあったからね」

 「そうだよ。おじいちゃんの撮った写真みると、風景写真が多いって思っちゃうけど、一番多いのは“おばあちゃんが綺麗に写った”写真だったから」

 「そうだったね……多かったね…」

 しみじみと話していると、お母さんが車から帰ってきた。

 「ごめんなさい! 車の中にあったんだけどもどこにやったか忘れちゃってて……!」

 「あはは…」

 ちょっと気が疲れた私は、母に苦笑いで返した。

 「? それはなんですか?」

 「これかい? …めぐちゃんに話してた、おじいさんのコーヒーミルだよ。自分じゃ入れられないのに、捨てられないんだよ…」

 「そうだったんですか……めぐ、いい話は聞けた」

 「うん…」

 私は多くは語らなかった。おばあちゃんを見ると、右手で触れるミルを見て、“ もうこれともお別れなのかな…”と思っているように見えてしまった。

 「もしかしてだけど、めぐこれ欲しかったりするの?」

 バレてしまった。おばあちゃんには欲しいと言っていたので良いのだが、家にはもうすでにミルがあった。多分貰うのは却下されてしまうと思っていたから言わずにもらってしまえればと思ったが、うまくいかなかった。

 「…………欲しい…」

 ただそれだけ言った。捨てられるのだけは阻止しなくてはと思い、何か捨てられないようにする手段はないかと考え始めた時だった。母が予想だにしない言葉を言ったのだ。

 「……めぐ、欲しいならちゃんと言いなさい。おじいちゃんにも“貰っていきます”って手を合わせてきなさい」

 「でも、うちにはもう使ってるのあるし…それにおばあちゃんが大事にしてるものだから…安易に貰えないよ……」

 本当は心底欲しかった。けどおばあちゃんの気持ちを考えて、私は欲しいと直接は言い出せないでいた。話を聞いたらなおさら申し訳なくなってしまっていた。

 けど、おばあちゃんは違ったようだった。

 「いいよ。持って行って」

 「えぇ!?」

 一番持って行って欲しくないであろうあおばあちゃんがそう言ったのだ。

 「な、なんで!? おじいちゃんが使ってた大切なものなんでしょう!?」

 流石の私は聞かざるを得なかった。

 さっきまではミルを触りながら、おじいちゃんと暮らした日々を思い出しながら話し、“持って行ってほしくない。捨ててほしくない”と言わんばかりに表情に出ていたのに、急に言われれば誰しもこうなる。

 「いいのよ。私が持っていても、使わないでここで埃をかぶっていくだけだからね。それに、めぐちゃんのちょっとはしゃいでいる姿が見れて、私は嬉しいんだよ」

 「え? あー……」

 “持って行って良い”と言う言葉に、私は嬉しくなった感情を外に出してしまっていたらしい。それを聞いて私は恥ずかしくなった。

 「それに、あの人も孫に使ってもらえたら嬉しいだろう。なんせ一番可愛がってた孫なんだから」

 「え?」

 私はそのことを初めて聞いた。というより可愛がられてた感覚が全くなかった。どちらかというと“口数の少ない優しいおじいちゃん”で、“ 頑固なところもある父に似た人”だとしか思っていなかった。

 「知らなかっただろうけど、めぐちゃんの小学校の授業参観は毎回行ってたし、幼稚園の発表会は欠かさずだったのよ。写真だってたくさん撮ってたし」

 「え? アルバムの写真見たけど、私の幼い写真結構少ないけど……」

 「いっぱい撮って捨てちゃったのよ。良いのしか残さなかったのよ。撮った数だとめぐちゃんが一番なのよ」

 「……そうだったんだ」

 「……寂しくなるけど、あの人が淹れてたみたいなコーヒーを、淹れてくれると、私は嬉しいな…」


 「………」

 「まだそうやってる……勉強しなさい」

 「うん…」

 おばあちゃんがミルを譲ってくれる話になった後、私はおじいちゃんの仏壇に手を合わせた後、正式にミルなどのコーヒーセットを頂いた。

 しかし車に乗って助手席のバックミラーを見ると、悲しそうなおばあちゃんの手を振る姿を見て、別れを告げた悲しむ人に見えてしまった。

 持ってきてしまったことに後悔して、リビングのテーブルの上に眠りこけるようにミルを眺めていた。

 「……これ、持ってきてよかったのかな…?」

 「ん? 欲しかったんじゃないの?」

 「そら欲しかったよ? けどさぁ……見送ってくれたおばあちゃんがすごく悲しそうに見えちゃってさ……本当に持ってきてよかったのかなぁって…考えちゃうんだ……」

 「そんなこと考える暇あるなら勉強しなさい。周りの子より成績は良くないけど、あなたは努力して前までの学年順位よりかなり上がったんだから。気を緩めるとすぐに元に戻っちゃうわよ」

 「…わかってるよ……まぁ…貰ってきちゃったものは仕方ないから、大事にしますよぉ」

 「……ふふ…」

 「? どうしたの?」

 「いや、やっぱり似てるなぁって」

 「誰に?」

 「めぐとおじいちゃん。努力を欠かさないところとか、昔から体が弱いのに張り切っては風邪引いたり。昔のめぐにそっくりだし、今も似てるんだなって」

 「ブフゥッ!?」

 驚いた反面、恥ずかしさが一気に込み上げて吹いてしまった。母や父から似ていると今の今まで言われたことがなかったからなおさらだった。

 「似てるの!?」

 「似てるわよ。コーヒー好きなとことか、周りより独特な価値観持ってるし、特に似てるのは頑固なとこよね」

 「がんこぉ!?」

 母のその言葉に私はまた驚いた。“頑固”とは無縁と思っていたのもある、それにこんなに似たとこが多くあることを、なぜ言わない母よ。

 「顔は女の子だから似つかないけど、性格は家族の誰よりも似てるわね」 

 「………」

 言葉が出なかった。というより見つからなかった。

 「遺伝ってやつ? …すごいね……」

 ただそれだけ言った。

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