エヴァンの回想-背徳の夜-(1)

 ―やられた。

 机の上に置かれたメモを前に、エヴァンは一人、頭を抱えていた。

「エヴァン、どうした?難しい顔して」

 ル-ムメイトのスぺンサ-・ザウア-にそう問いかけられて、エヴァンはのろのろと顔を上げた。メモを彼の前に突きつけて、ため息交じりに答える。

「古典語の辞書が盗まれた」

「ああ、いつもの嫌がらせか。……なになに、『ヨハネ寮の裏の樅の木の下まで取りに来い』?わざわざ隠し場所を教えてくれるとは随分親切だな、この盗っ人は」

「いつものに比べたら軽いよね。どちらかというとただのイタズラに近いんじゃないかな。最近流行りの小説に影響を受けたとか」

「怪盗の仕業にしてはお粗末過ぎるがな。……とはいえ、明日の授業で使うんだ、取りに行くんなら早い方がいい。消灯時間に間に合わなくなる」

 そうだね、と頷いて、外出用のコ-トを羽織る。今までにも部屋に侵入されて、私物を盗まれることは何度かあった。この手の対応も慣れたものだ。

「点呼の時間までには戻って来いよ。明日の食事抜きは勘弁だからな」

 消灯時間の三十分前までに部屋に戻っていない生徒は、同室の生徒と一緒に罰を受けることになる。この場合は翌日の食事をすべて抜かれることが罰則となっており、育ち盛りの少年には辛い仕打ちだ。ここトマス寮からヨハネ寮まではそう遠くないから、遅くても三十分あれば帰って来られる。消灯前の点呼があるのは二時間後だから、まあなんとかなるだろう。

 割り当てられた部屋を出て、奥の角部屋の扉をノックする。ひょっこりと頭を出した部屋の住人に、やあ、と片手を上げて挨拶した。

「遅くにごめん、コ-ニッシュ。君の部屋の窓を借りたいんだけど、いいかな」

「また嫌がらせ?いい加減、寮長に言ったほうがいいよ。何かあってからじゃ遅いんだから」

「そうだぜノ-ランド、俺たちだって寮を抜ける手伝いをしたなんてばれたら大目玉なんだからな。今回が最後になるようにしてくれよ」

 心配そうに顔を曇らせる少年―シリル・コ-ニッシュの後ろから、彼のル-ムメイトであるラッセル・モ-トンののんびりした声が飛ぶ。たとえ敷地内でも無断で寮の外に行くことが禁じられている学園で、寮の外に隠される持ち物をこっそり探しに行くエヴァンをいつも手伝ってくれる彼らには、頭が上がらない。

「うん、ごめんね。いつもありがとう」

 ゲ-ムをしていたのだろう、カ-ドが散らばるテ-ブルを横切って、窓を開ける。ひんやりした夜風が吹き込んできて、カ―テンを揺らした。夜闇に目を凝らすと、黒々とした木のシルエットが浮かび上がる。

 勢いをつけて窓枠を蹴り、太い幹に飛びついた。そのままするすると地面に降りていく。

 昔、ジェイソンに無理矢理覚えさせられた木登りが、こんな形で役に立つとは思わなかった、と苦笑する。少しは感謝すべきかもしれない。

 巡回の教師をなんとかやり過ごし、指定された場所へ急ぐ。目的の樅の木というのは、学園内にある木の中で、最も大きいと言われているものに違いない。

 息を切らして樅の木の前にたどり着く。辞書を探すのに苦労するかもしれないと覚悟していたのだが、意外にもあっさりと見つかった。木の幹に紐でくくりつけられていたのだ。

「良かった、思ったより早く戻れそうだ」

 辞書を取ろうと足を踏み出したとき、足がもつれて転んでしまう。咄嗟に手をついたが、ずるりと左手が滑り、ついでその手首に鋭い痛みが走った。

「……っ!何だ、これ」

 指で探ると、地面にぎざぎざしたものが埋まっているのが分かった。円形で、中心に平べったい金属の感触。それが何かわかったとき、冗談ではなく顔から血の気が引いた。

(……これ、狩猟用の罠じゃないか。どうしてこんなものが……)

 うっかり踏んでしまえばその鋸状の刃が足の肉を食いちぎり、下手をすれば一生歩けなくなる代物だ。辞書のすぐ下に罠が設置してあったことから考えて、十中八九エヴァンを狙ったものだろう。辞書を囮にして、罠を踏ませることが目的だったに違いない。

 とりあえずハンカチで患部をきつく縛り上げ、辞書を回収すると、手首の痛みに耐えながら早足でトマス寮へ戻る。なかなか力が入らない腕を叱咤しながらなんとかコ-ニッシュの部屋の前の木を登り、震える手で窓を叩いた。すぐに窓が開いて、モ-トンが顔を出した。背の高い彼の腕を借りて、なんとか部屋に着地する。駆け寄ってきたコ-ニッシュが、エヴァンを見て目を丸くした。

「うわ、ぼろぼろじゃないか!大丈夫?」

「ほんとだ。何やってたんだ?手は血だらけだし」

 血まみれで使いものにならなくなったハンカチを捨てて、新しく貸してもらったハンカチで止血しながら、ここに戻ってくるまでの経緯を説明すると、二人の表情がみるみるうちに険しくなっていった。

「嫌がらせにしても度が過ぎてる。これは先生に報告すべきだ」

「駄目だよ、それだと君たちも罰を受けるじゃないか」

 いきり立つコ-ニッシュを慌てて止めるが、逆効果だったようだ。彼はふわふわの髪をかきむしり、垂れた目を吊り上げて叫ぶ。

「そんなことを気にしてる場合じゃないだろう!ノ-ランド、君ってやつは……!このままじゃ、死ぬかもしれないんだよ!?」

「まあまあ。シリル、あんたの言うことはもっともだが、ちょっと落ち着けよ」

 モ-トンが、コーニッシュの肩を叩いて宥める。

「こいつのために、一緒に罰を受けるのか、シリル?お優しいことだが、俺はちょっと賛成できないね。そんな義理も道理もないだろう」

「ちょっと、ラッセル!?そんな言い方しなくても!」

 袖を掴んで揺するコ-ニッシュを無視して、モ-トンはエヴァンに向き直った。

「俺はな、あんたたちと違って慈悲深いお貴族サマじゃないんでね。損をするようなら、どんな手を使ってでも回避したいのさ」

 なにせ骨の髄まで商人根性が染みついているからな、と笑う彼の目は、冷たく輝いていた。

「分かってる。君たちに迷惑をかけるつもりはないよ」

「だったら、どうするんだよノ-ランド!また嫌がらせされたら……」

 泣きそうな顔で、エヴァンとモ-トンを見比べるコ-ニッシュに、微笑む。こんなことになっても助けようとしてくれる彼の気持ちが、嬉しかった。

「それは……考えてみるよ」

「おいおい、それじゃあ打つ手なしってことだろ」

 モ-トンの呆れた声が、割って入る。それに少しかちんと来て、エヴァンは眉根を寄せた。

 けれど、次に続いた言葉に、目を見開く。

「あんたさ、ほんっとうに人に頼らないよな。ちょっとは縋ってみせろよ」

 面白くないだろ、と嘆息して、モ-トンは机をこつこつと叩いた。

「しょうがないからさ、ちょっと手助けしてやるよ。ル-ムメイトに嫌われるのはごめんだ」

 本当はここまでするつもりもなかったんだけどさあ、とぶつぶつ言いながら、彼は再び大きくため息をついた。

「何かあったら助けてやってくれって、からも頼まれたし……これからもいい顧客になってくれるかもしれないし。いやもうここまで来たら客にするしかないよな、うん」

「なに言ってるんだ、ラッセル?」

 不審そうに顔を覗き込むコ-ニッシュを、モ-トンは押しやった。

「こっちの話だ。俺にしては珍しく、対価なしであんたを助けてやるよ。本当に珍しいんだからな?泣いて感謝してくれよ、ノ-ランド」

 いつものような、茶目っ気たっぷりな笑顔が、なんだかものすごく胡散臭い。

「……どういうつもりか、聞いてもいいかな、モ-トン」

「いいや?話せないのさ。なにせそういう契約だからな。……ということで、ノ-ランドはいったん部屋に戻りな。また呼びに行くから」

 そう言うなり、モ-トンは立ち上がり、どこかへ行ってしまった。

「……何をする気なんだ?」

 呆然と呟くと、コ-ニッシュが首を振った。

「分からない。でも、聞かないほうがいい気がするんだ。ラッセルってちょっと特殊な人脈があって、それでいろいろやってるみたいだから」

「そうなのか?」

「うん。僕も良く知らないけど……ラッセルのお父上ってモ-トン商会の会長でしょ?だから、その伝手を広げるために、裏でこっそり商売してるって言われてるんだ。それで、上層部の人にまで干渉できるとか、実は裏で学園を操ってるとか、いろいろ噂が流れてて……」

 僕も、間違ってはいない気がするんだ、とコ-ニッシュは声を潜めた。

「ラッセルとは全然関係がないはずの高等部の先輩が、ラッセルへの伝言を頼んできたことは一度や二度じゃないんだ。先生の中にも、ラッセルに怯えてるようなそぶりをする人がいるし。……だから、気をつけて。ノ-ランドには、あいつの餌食になって欲しくないんだ」

 ずいぶんと物騒な話だ、と眉を寄せる。確かに彼には、いろいろと不穏な噂がつきまとっているが、エヴァンが見る限り、面倒見のよい兄貴分だ。コ-ニッシュの考えすぎだと思わなくもないが、ありがたく助言を受け取っておくことにした。

「……ありがとう、コ-ニッシュ。気をつけるよ」

 そう言うと、彼はほっとしたように頬を緩めて、頷いた。

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