廻りだす歯車
次に目覚めたのは、すっかり日も落ちた時刻だった。執事から報告を受けて、アイリスの部屋を訪れたクリストハルトは、妻の姿を見てほっとしたように目元を緩める。
「さっきよりは元気そうだな。横になっていていいんだぞ?」
「大丈夫ですわ。寝すぎたせいか、少しぼうっとしますけれど」
「それは、よくない。……ほら」
ぽんぽんと枕を叩かれて横になるように促され、渋々アイリスは身体を横たえた。
「この体勢、お話ししづらいから好きじゃありませんのに……」
唇を尖らせるアイリスを、クリストハルトはじっと見つめた。真剣なまなざしにいたたまれなさを覚えて、思わず目をそらす。
「……なんですの?言いたいことがおありなら、早くおっしゃってくださいませ」
「ああ、すまない。少し感慨深くて、思わず」
「……?」
含みのある言葉に首を傾げると、クリストハルトが柔らかく微笑んだ。慈しむようなまなざしが下腹部に注がれるのを見て、はっとする。—そういえば、最近月のものが来ていない。
「……そんな」
くらりと眩暈がして、ぎゅっと目を閉じる。月のものが来ないのは、疲れているからだと思っていたのだ。—いや、そう自分に言い聞かせていた。
エヴァンの祝福の言葉が蘇る。あれは、このことに対する「おめでとう」だったのだ。
彼が複雑そうな表情だった理由が、とてもよく理解できた。アイリスも今、彼と同じ気持ちに違いない。
「本当に……?わたくしに、子どもが?」
「ああ。最後に月のものが来たのがいつか、それ以降君がどんな様子だったかを君の侍女にも確認して、先生がそう診断なさったよ」
アイリスはクリストハルトの口から月のものなんて言葉が飛び出したことに唖然とし、ついで真っ赤になった。平然としていられる夫が信じられない。
「まさか、お聞きになったんですの?そういうときは席を外されるのが礼儀というものではなくて?」
「妻の身体のことは知っておいたほうがいいと先生がおっしゃるから、ありがたく同席させていただいたよ。今はそういう時代だそうだ」
「なんですの、それ……」
呆れてものも言えない。怒る気力さえ失くして、アイリスはぐったりとベッドに沈み込んだ。満足そうに目を細めているクリストハルトを、なにげなく見つめていた。ご機嫌なとき、彼はよくこういう表情をするのだ。
「クリストハルト様は、嬉しいのですか?子どもができて」
ふと覚えた疑問が、するりと口から飛び出す。子どもができることが分かって安心、というような顔ではない。子供ができたことに対する純粋な喜びに満ちた表情を浮かべているのが、不思議だった。義務で抱いた女との子どもでも、彼は愛しいと思えるのだろうか。
「もちろんだ。君は、嬉しくないのか?」
「それは……」
当然のように頷かれて、言葉に詰まった。
嬉しい、という感情は、確かにある。もしかしたら、この子をきっかけに、彼が自分を見てくれるようになるかもしれないという淡い期待も。けれど、それらの感情は、心の片隅で小さく縮こまっているに過ぎなかった。
アイリスの心を占めていたのは、エヴァンへの罪悪感だった。子供が生まれれば、クリストハルトはエヴァンよりもそちらに意識を割くようになるだろう。たとえ子供への愛がなくとも、父親の義務として、彼はそれを苦に思うこともなくやってのける。
(……いいえ、違う。このかたは、当然のこととして子どもを愛するのだわ。だから、エヴァン様との時間を削ってでも、家族の時間を持とうとする……)
自分のやりたいことよりも、やるべきことを優先し、どんなことでも必要だと思えばためらいなく実行する。それはヘインズ家当主の嫡男として育てられた彼の、奥深くに根差す感覚だ。むしろすすんでそんな状況に身を置いているふしさえあった。そんな強靭な行動力と精神が、時に危うく思えることがある。
「……クリストハルト様。わたくしは、怖いのです」
無意識にお腹に手を当てて、アイリスは呟くように言った。
「あなたが、この子のために、エヴァン様をお捨てになる気がして」
返事はない。それを肯定と受け取って、アイリスは彼の手を握りしめた。
「お願いです。わたくしと、この子のことは気になさらないで。どうか、あなたが本当に望むことをなさってください。でないと……あなたは、機械になってしまう」
「機械?」
「おのれの意思を持たず、家のために動くモノですわ。この前、世界展示会に行ったとき、一緒に観ませんでした?ただ役目をこなすだけの、もの言わぬ道具……」
「……。あんなふうに、俺がなってしまうと?」
「ええ。今だってそんな傾向がおありなのに、この上エヴァン様までいなくなってしまったら……いいえ、エヴァン様を捨てさせてしまったら、きっとわたくしの知るクリストハルト様は、死んでしまう。それだけは、耐えられないのです」
それに、と心の中で付け足す。彼に言えないけれど、理由はもう一つあるのだ。
家の名に恥じないようにと、常に自分を厳しく律してきたクリストハルトが、どうしても諦められなかったエヴァンとの関係。それがなくなってしまえば、アイリスが彼の妻でいるべき理由などどこにもない。離縁されても、文句は言えないのだ。
(ああ、わたくしはどこまでも、自分のことばかり。嫌になるわ……)
自己嫌悪に沈むアイリスの頬を、クリストハルトはそっと撫でた。
「……わかった、考えておこう」
ゆっくりおやすみ、と声をかけて、クリストハルトは立ち上がる。去っていく後ろ姿を眺めながら、アイリスは重いため息をついた。
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