夜会にて

 色とりどりのドレス、笑いさざめく声、グラスのぶつかる涼しげな音。

 華やかなざわめきの中で、アイリスは仲の良い友人であるアストリ-伯爵夫人と話していた。二人が社交界にデビュ-したときからの付き合いで、お互い気の置けない仲だ。

「貴女のネックレス、とても素敵よアイリス。メイストホ-ン伯爵からの贈り物かしら?」

「ええ。夫の瞳の色と同じだから、ついねだってしまったの」

 そっと指先で宝石を撫でる。北方にある大国の大貴族を祖父に持つ夫―クリストハルト・ヘインズは、このアクアマリンのような透きとおったアイスブル-の瞳に、この国の貴族にはまず見られない淡い金色の髪をしている。名門であるセルスター侯爵の嫡男にふさわしい品格と整った容姿を兼ね備え、社交界でも注目を集める彼の妻であることは、アイリスの誇りだった。

「愛されているのね、羨ましいわ。結婚も伯爵が強く希望されたんですって?愛人の一人も持たないで尽くしてくれる夫なんてなかなかいないわよね」

「ええ、シェリル。とっても大切にしてもらえて、幸せでたまらないの。わたくし、今でも不安になるくらいよ。これはわたくしの夢なんじゃないかしらって」

 あの頃、クリストハルトとの結婚を夢見る令嬢は数えきれないくらいにいたけれど、アイリスはとりたてて秀でたところのない、平凡な少女だった。だから、クリストハルトがアイリスとの婚約を発表したときは、誰もが耳を疑ったものだ。彼であれば、伯爵家の中でも歴史の浅い、ウィ-トリ-家の小娘などよりももっと良い家の令嬢を迎えることができるはずだった。口さがない者たちは弱みでも握られたのだと噂し、様々な憶測を囁き合った。その憶測は全て的外れなものだったけれど、アイリスが卑怯な手でメイストホ-ン伯爵夫人の座を手に入れたことは事実だった。それがまた、現実感のなさを助長させているのだ。

 完璧な夫に愛される幸福な妻を演じることは、さほど苦ではないはずだった。結婚する前から覚悟はしていたし、クリストハルトがアイリスを大事にしてくれていることも事実だ。ほんの少し、周囲の想像とは違うというだけで。

 それなのに、どうしてこんなに、胸が苦しいのだろう。

(……駄目ね。最近、うまく感情が制御できていない気がするわ。疲れているのかしら……)

 顔を曇らせたアイリスをいたわるように、シェリルはアイリスに微笑みかけた。

「あんなに素敵な方ですもの、不安になるのも無理はないわ。でも大丈夫、貴女はとっても魅力的よ。立ち居振る舞いだって貴婦人の鑑といっても申し分ないわ。もっと自信を持ちなさいな」

「……ありがとう、シェリル。あの方にふさわしい妻でいられるよう、もっと頑張らないと」

 柔らかな口調に、少しだけ救われた気分になって頬を緩めたとき、ふわりと嗅ぎなれた香水の匂いが鼻腔をかすめた。涼やかなのに、どこか濃密な甘さをはらむ香り。

「良い妻を持てて私は幸せだが、あまり根を詰めてはいけないよ、アイリス」

「まあ、クリストハルト様ったら!いつの間に?」

 上から声が降ってきて、後ろを振り返る。いつの間にか忍び寄っていた夫に思わず声を上げるアイリスを見て、クリストハルトは悪戯が成功した子供のように笑った。シェリルはそんな彼にふたことみこと挨拶すると、あとはごゆっくり、というふうにアイリスにウインクをしていなくなってしまう。

「アストリ-伯爵夫人は察しが良くて助かるな」

 くつくつと喉を鳴らして笑う夫を軽く睨む。心臓に悪い登場の仕方はやめて欲しい。

「まったくもう……驚かせないでくださいませ。女同士、積もる話もありますのに」

「はは、それは悪かった」

 ちっとも悪いと思っていないそぶりのクリストハルトに小さくため息をつく。何か飲み物を頼もうと給仕を探して首をめぐらせたとき、見覚えのある姿を認めて息を呑んだ。反射的に夫を振り仰ぎ―次の瞬間、激しい後悔に襲われる。

 一心に、彼はそのひとを見つめていた。

 エヴァン・ノ-ランド。アイリスの幼馴染で、アルヴァン伯爵家の三男だ。明るい若葉色の瞳が印象的な、クリストハルトの恋人。結婚してからは、ほとんど顔を合わせていなかった。

 灼けつくような熱をはらんで注がれる視線に、心臓が大きな音を立てる。見ていたくないのに目を奪われるほど、情熱的な瞳だった。狂いそうなほどの嫉妬と羨望に、息がつまる。

「……アイリス?」

 気づけば、夫が心配そうにアイリスを覗き込んでいた。その瞳に、先ほどまでの熱はない。

 ―決して、向けられるものではないのだ。私には。

「……ごめんなさい、ぼうっとしてしまって。お酒を過ごしてしまったようですわ」

 なんとか笑みを取り繕う。うまく笑えているだろうか。

 無理だろうな、と思う。作り笑いがばれる程度には、長い付き合いだ。

「……そろそろ帰ろう。必要な情報は集め終わったから、あまりここにいても意味はない」

 そっと手を取られる。手袋越しに伝わる温もりに、初めて自分の手が冷え切っていたことに気づいた。優しい手つきに、泣きたくなる。

「……すまなかった。見過ぎた」

 静かな声に、首を振る。あまり話すと情けない声になってしまいそうで、いいえ、と答えるのが精いっぱいだった。

(……我ながら、最低だわ)

 夫の気づかいが胸に痛い。彼に好きな人がいると分かっていて、それでもと結婚を望んだのは自分だ。みっともなく取り乱すなんて真似は許されないのに、怒るどころか心配してくれるクリストハルトの優しさが、今はただただ苦しかった。

 ちらりと後ろを振り返ると、招待客と歓談するそのひとの、柔らかな笑顔に目が惹きつけられる。社交用の整った笑みだったけれど、それでも自然に相手の頬を緩ませるような、不思議な温かさを持っていた。—きっとこんなところに、クリストハルトは惹かれたのだろう。

 挨拶もせずに帰ってしまうことを心の中で謝りながら、アイリスはそっと目を背けた。

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