エビカニ大将

鷺町一平

第1話

 もう四月に入ったというのに日差しは、まだ少し弱々しい。吹く風もちょっとだけ冷たい。まだ桜も三分咲きだ。

区画整理された一反歩10アールの田んぼがどこまでも続いている。時折、600メートルも先の国道を走る車の音が聞こえるだけだ。その一面の田んぼの畦道あぜみちの一つで、友納明人とものうあきひとは、肩まで田んぼの水に浸かりながら正念場を迎えていた。

 彼が手を突っ込んでいるのは、エビカニの巣穴。「エビカニ」とは、アメリカザリガニのことだがこの辺りでは、エビカニで通っている。明人はそのエビカニ取りのスペシャリスト。学校でもエビカニ取りの名人として一目置かれる存在だ。

明人の家は、農家だ。彼は四月上旬の肌寒いこの日、叔父と一緒に代掻(しろか)きにやってきたのだ。代掻きとはつまり、田んぼの整地である。田植えの前に苗を植えやすくするために、田んぼをならす作業をするのである。代掻きも終わりかけた頃、明人の眼が輝いた。絶好の獲物を見つけたのだ。

赤爪あかづめだ。でけぇ!」

赤爪とはエビカニの中でも年季が入っているやつで、必然的に大きい。殻が固くて、そのハサミは赤くて大きいのである。ゆえに赤爪なのだ。この辺りの少年たちにとって、赤爪のステータスはとてつもなく大きい。自他ともに認めるエビカニ取りの名人である明人にとって、この赤爪を捕まえて学校に持っていき友達の前で自慢することこそが、自らの存在証明に他ならなかった。

エビカニを素手で捕まえるのは、明人のもっとも得意とするところだった。そんなのカンタンだろうって? ちょっと待っていただきたい。このエビカニってヤツは、とんでもなくスバシッこいのだ。本家の海老がそうするように身の危険を感じるや否や、尻尾を丸めピューンとものすごい勢いで後ずさりする。そして田んぼの畔道にしつらえた巣穴に逃げ込むのである。この巣穴に入ったところが実は狙い目になる。巣は、行き止まりだからだ。手を突っ込んで入り口を塞いでしまえば逃げ道はない。

明人は先刻、大きな赤爪が一尾特大の巣穴へ入っていくのを見つけた。すぐさま走りより畔道に屈むような姿勢で、勢い良く穴へ右手を突っ込んだ。指先に赤爪の大きな爪の感触があった。しかし次の瞬間赤爪は、巣穴のもっと奥、明人の手の届かぬところへ逃げ込んでしまった。この赤爪の巣は深い。

時刻は午後二時を少し回ったばかり。畦道に完全に体を投げ出し、精一杯肩を伸ばして巣穴を探る。だめだ、指先に赤爪の感触はない。手が届かない。逃がすもんか! 明人の心に火が付いた。こうなれば穴を広げるだけだ。いったん手を抜いて畦道の巣穴の周りの土を取り除いていく。こうすればより腕が奥まで入るという寸法だ。

明人は、これまでよりもっと深く右腕を巣穴の奥深く突っ込んだ。もう肩まで畔についてる。田んぼの水が目の前に迫っていた。肩をひねって更に奥まで腕を巣穴深くまで入れる。体勢が苦しい。息遣いが荒くなる。顔があと数センチで水面に触れそうだ。

中指の先が赤爪のハサミに触れた! あと一息だ。次の瞬間、中指の先に激痛が走った。巣穴の最深部で行き場を失ない身の危険を感じた赤爪は、必死の反撃に出た。その巨大なハサミで迫りくる明人の指先を挟んだのだ。

だが、これくらいで怯むような明人ではなかった。これは想定内なのだ。いわば「肉を切らせて骨を断つ」だった。赤爪はそのハサミで一度挟んだものは、簡単には離さない。この習性を利用して指を挟まれたまま、痛みにキリキリしながら、明人は注意深く腕をゆっくりと巣穴から引き抜いた。見事な大きさの真っ赤なハサミをもったアメリカザリガニがその姿を現した。素早く左手で右手中指を挟んでいるハサミを引きはがそうとすると、身の危険を感じている赤爪はそのハサミにより力を入れた。ズキンと指先が痛むがなんとか引きはがしてバケツの中にその赤爪を入れた。ハサミが立派なことはもちろんだが、その挑戦的な甲羅、尾の太さ、入れられたバケツの中であとずさりして暴れる元気の良さ……どれをとっても申し分のない獲物だった。明人は満足げに頷いた。

挟まれていた右手中指はじんじんと痛かった。血も滲んでいる。だが明人にとっては名誉の負傷だった。もちろん明人とて出来れば指を挟まれたくはない。巣穴の奥の奥に指が届くか届かないかギリギリで身を潜めている赤爪を指先でしっかり捉えられれば、それに越したことはない。しかし赤爪のハサミを掴むというのはとてもリスキーでもあるのだ。何故ならば、赤爪は外敵にハサミを掴まれた場合、自らハサミを自切(じせつ)して逃げのびるという最終手段があるからだ。

どんなに立派な赤爪を持っていたとしても、ハサミが両方揃っていなければ「片爪」として価値はガタ落ちになる。脱皮の時に欠損部分のハサミも再生はするが、完全に元通りにはならない。成体の赤爪の場合には左右アンバランスなままである。

明人の「挟まれ作戦」は片爪にしたくないからこその苦肉の策なのであった。そしてまたそれが出来るからこそ、明人は「エビカニ獲りの名人」として子供たちに一目置かれているのであった。


「明坊、終わったのかい? サボってザリガニばっかり獲ってちゃダメだぞぉ」

笑いながら、叔父の豊が言った。明人は、叔父の豊と共に代掻きに来ていたのだった。明人の本来やるべき仕事は、代掻きした田んぼの畔の点検であった。

田んぼの畔に巣穴を作るので、水田に引き入れた水が漏れてしまうのを防ぐ意味で、ザリガニの巣穴を塞ぐのだ。そもそもアメリカザリガニは農家にとって稲の根を食べる害虫である。甲殻類なのに害虫というのもおかしな話ではあるが、ダニや線虫、甲殻類(ザリガニとか)、腹足類(カタツムリとかナメクジ)など、作物に被害を与える小型の無脊椎動物も害虫に含まれるのである。そういう意味では、明人は楽しみながら駆除しているとも言えなくもなかった。


豊叔父さんは、耕うん機にかご車輪と代掻き機をつけて代掻きをしていたが、ひと通り終わったので、テーラーで一服していた。基本的に耕うん機に椅子付き荷台が連結されたものをテーラーと呼ぶ。作業の際は、テーラーと耕うん機の連結部分を外して耕うん機単独で使うのだ。テーラーの椅子の背もたれ部分にぶら下げたトランジスタラジオから、沢田研二の新曲「危険なふたり」が流れていた。

明人は赤爪を獲った巣穴を泥で塞いで、バケツに入った赤爪を豊叔父さんに見せた。叔父さんは「危険なふたり」のリズムに合わせて体を揺らしながらバケツの中を覗き込んだ。

「お~っ、でかいザリガニだな~っ」

「ザリガニじゃないよ。赤爪だよ! 叔父さんが子供の頃は赤爪って言わなかったの?」

「あ~っ、そういや子供の頃、おじさんも赤爪って言ってたなぁ。こっち離れて長いから忘れちゃったよ」

 豊は、明人の父、仁の弟である。千葉県警の巡査部長をしている。今は船橋勤務だ。仁が入院しているために非番の時はこうして手伝いに来てくれているのだ。子供のころから良く釣りにつれて行ってもらったりしていたので、明人はこの叔父さんが大好きだった。


代掻きが終わった後、明人は叔父のクルマで病院に向かった。明人は病院の匂いが嫌いだった。健康な人間には縁がない場所、具合の悪い人間が集まる場所に違いなかったし、病院に来ると自分がなにしろ具合が悪くなるような気がしていた。だから父親が入院している病院にもかかわらず、できるだけ理由をつけて明人は病院に行きたがらなかった。しかし今日は大好きな豊叔父さんが父親に会いに行くというのでしぶしぶついてきたのだった。

 二階の二〇五号室、二人部屋だったが隣のベッドは空いていた。明人は父親に挨拶だけ済ますと病室の外に出てしまった。

「今日でひと通り代掻きは全部終わったよ。そしたらゴールデンウイークにはまた休みが取れるから、田植えにくるよ」

「すまねぇなぁ……。忙しいのに、手間かけさせちまってよぉ」

ベッドに横になったままで仁は答えた。

「なーに、気にすんなよ。俺も久しぶりに耕うん機、動かして気持ちよかったよ。ちょっと、腰にはきたけど」

「俺も、こんな体じゃあなぁ……」

「手術で、胃をほとんどとっちまったんだからしばらくはしょうがねぇよ。兄貴は家の事は何も心配しねぇで、早く治すこった!」

 父親との会話が済んだ豊が、病室から出てくると、外の椅子で明人が待っていた。

「明坊、もっと父ちゃんと話、しなくていいのか?」

 明人は首を横に振った。

「……だって、父ちゃん、前はふっくらしてたのにあんなにガリガリに痩せちゃって、顔見ると悲しくなってきちゃうんだもん……」

「そりゃあ、しょうがねぇさ。胃をほとんどとっちゃったんだから。だからって言って、明坊が暗い顔してたらダメだ。さぁ、笑って、笑って! 笑顔で父ちゃんと話してきな!」

 叔父さんに背中を押されて、明人は病室に入っていった。仁は、明人をちらっと一瞥すると視線を外し、天井を見ながら言った。

「明、ちゃんと豊叔父さんを手伝わねぇとしょうがねーど!」

 別に怒っているわけではない。これがいつもの父ちゃんの言い方だとは、わかっていた。明人は神妙に頷いた。


 翌日、明人は赤爪を学校に持っていった。

「明ちゃん、すげ~な。この赤爪でけぇ!」

 そういって順一は目を丸くして驚いた。天然パーマの順一はお調子者だったが、一番明人と仲がよかった。いつも一緒の遊び仲間、バタ臭い顔の輝夫やタレ目の茂雄なども目を輝かせて明人が持ってきたバケツの中を覗き込んでいる。順一は、バケツから取り出した赤爪を持って高く掲げてクラスの仲間にひとりひとりにゆっくりと見せてまわった。明人は鼻の下をこすって目を細めていた。クラスメートたちが口々にすげ~っとかカッコいい~っとか言ってるのを見るのは悪い気分ではなかった。

 だが、クラスで一番反応が知りたい相手、関心をひきたい学級委員の奈美は、赤爪などに興味がない。みんなが明人の赤爪に注目する中、ただ一人背を向け椅子に座って本を読んでいた。順一から赤爪をもらうと、明人はそっと奈美の背後から赤爪を近づけた。赤爪は大きく広げたそのハサミで奈美の髪の毛を数本挟んだ。

「痛いっ! 何すんのよ!」

 奈美が手で振り払うと、赤爪は明人の手からはじけ飛んで教室の床の上に落ちた。

「信じらんない! どこまでガキなの。バッカじゃないの!」 

 普段のおしとやかな美少女ぶりからは想像もつかないような剣幕で怒る奈美を見てクラスがざわついていた。

「だいたい、ザリガニ釣ってとるんならともかく、素手で捕まえてるんだって?」

「ザリガニじゃないやい。エビカニだい! それに赤爪だ!」

床に落ちた赤爪は、教室の隅でハサミを広げて精一杯の威嚇をしようとしていた。明人は、素早く赤爪の背中の甲羅部分を掴んで、バケツに戻した。すると、手首を奈美に掴まれた。右手の中指の先には、絆創膏が貼ってあった。

「この指先はどうしたのよ。指先がエサですってか! 土の中には破傷風菌がいるのよ。ほんの小さな切傷のあるところから破傷風菌は入るのよ! 死んじゃったりすることもあるんだからね!」

 あれ、これってもしかして心配してくれてるのかな、それにしても怒った顔も可愛いなと明人は思ったが、口からは全然別の言葉が飛び出していた。

「バッキャロー、そう簡単に破傷風なんかになって、たまっかよ! 赤爪に指挟まれるのが怖くて、巣穴に手を突っ込めっかよ! エビカニ釣り? あんなの女子供のすることだっぺよ! 男は黙って巣穴に手ぇ突っ込むんだよぉ!」

「なによ、あんただって子供じゃないっ」

一転、奈美はプッと吹き出した。喜怒哀楽が激しい。くるくる変わるその表情が魅力的だった。 

「ハイハイ。何騒いでるの~。もうチャイムなったわよ。席につきなさ~い」

教室の引き戸がガラッと開いて、出席簿を手でバンバンと叩きながら、五年生担任の田丸美由紀先生が入ってきた。最近先生はどことなくウキウキしている。それもそのはず、六年生担任の高橋先生と婚約してるのだった。先生の幸福感とか充実感というものは、極めて敏感に生徒たちに伝わるもののようで、最近の五年一組はおしなべてどことなくクラスが華やいでいるという職員室の評判だった。尤も、全校生徒は小学校全体で百六十八人しかいないので、五年生は一クラスしかなく、生徒数も二十七人しかいないのであるが……。

「あら、ザリガニじゃない! 友納君がとってきたの? 大きいわねぇ。ちゃんとウチにもってかえりなさいよ。くれぐれも校内の古代蓮の観察池に放しちゃダメよ、友納君わかった? サリガニは外来種だから蓮の根を食い散らかしちゃって枯らしちゃいます。タニシとかも食べちゃって生態系を壊しちゃうからね~。みんなも飼ってるペットのミドリガメとか熱帯魚が大きくなって手に負えなくなったからってむやみに池や川に放しちゃダメよ~。注意してね~」

 田丸先生に釘を刺されてしまった。モロ、バレてた。実は明人は何回か、校内の観察池にザリガニを放流していたのだった。道理で最近、古代蓮の花が咲かないわけだ。

「さぁ、授業をはじめるわよ~。国語の教科書の一六頁を開いて……」

 

澄み切った空の上空で、トンビがくるりと輪を描いていた。

みんなで帰る道すがら、順一が一枚のヌード写真を出してきた。

「おーっ、なんだこれぇ。すげ~っ、ばっちり全部写ってるじゃん!」

輝夫が素っ頓狂な声を上げた。それは女の下半身が写っている生写真だった。四人の少年たちは色めき立ち、全員、その写真に釘付けになった。成人女性で顔はわざと写してなくて、豊満な乳房から下だけの全裸写真。陰毛はなく下半身の縦の割れ目がはっきり写っている。

初めて大人の女の陰部を目の当たりにした明人は衝撃を受けていた。こうなってるのか~、想像していたものとは全然違っていた。

「んだよ~っ。順一、これ、生写真じゃんか~。どっから持って来たんだよ!」

 タレ目の茂雄が口をとがらせて、尋ねた。

「父ちゃんが大事なもの隠している引き出しがあんだけど、そんなかに入ってたんだよ」 

屈託なく答える順一に、ませた茂雄は言い放った。

「これって、お前の父ちゃんの浮気相手なんじゃね~の?」

 座に微妙な空気が流れた。全く空気を読まない茂雄が能天気に続けた。

「知ってるか? この割れ目に、ちんこ入れるんだぜぃ。」

「んなはずあるか! ここに入れるためにはちんこが平べったくなきゃあ無理だろうがよ!」

 鍵だって、鍵穴に合ったものじゃなきゃ入らないではないか。明人はムキになってそう主張した。

「明ちゃんは、なんにも知らないんだなー。フェラっていうのもあんだぜぇ」

茂雄は、垂れ目をさらに下げて得意げに言った。

「ヘラ?」

「フェラーリのフェラ!」

「あんだそれ?」

 この年代の少年たちはまだ初心(うぶ)だった。性の知識は、環境の差によって実にませた子と驚くほど疎い子に分かれていた。まだ色気づいてない明人にとっては、すべてが未知の領域だった。のどかな田舎の小学生のよくある話に、畑で屯(たむろ)していたカラス数十羽が一斉に飛び立ち、カァカァと少年たちをからかうように鳴いた。道端の道祖神も笑っているように見えた。


ゴールデンウィークに入り、再びやってきた叔父、豊の働きもあり、田植えも無事に終わった。田植えで汗を流した豊をもてなす為、夕食の食卓には、明人の母、君江の精一杯の手料理が並んでいた。裏山で採れた旬の筍を使った筍とわかめの若竹煮、自宅で栽培した椎茸を使い、桜でんぶをふんだんにあしらったちらし寿司、近所の魚屋からとった刺身の盛り合わせ、豆腐の白和え、わかめとキュウリの酢の物、筍とあさりの白だしお吸い物、そして茶碗蒸し。小さな座卓に所狭しと並べられた普段みたこともないようなご馳走に内心、明人は目を丸くしていた。ふだん、母ちゃんはこんな料理作ったことないのに、頑張ったなぁと思った。その思いを祖母のつねが代弁した。

「今日は、おおごっつぉだなぁ」

 いまでこそ腰の曲がったつねは、若い時は村一番の働き者だったそうだ。朝は誰よりも早く畑に出て、夜は真っ暗になるまで田んぼで畔の草刈をした。つねと君江はそりが合わない。明人は学校から帰ってくると祖母と母が喧嘩しているかどうか、空気でわかった。孫の明人をつねが可愛がっていると、母の機嫌が悪い。そしてまた明人が母になついていると、孫をとられたようで祖母は面白くなかった。そんな時、明人は母と祖母、双方に気を使ってバランスをとってきた。小学生の男の子だってそれなりに家庭の平穏には心を砕いてきたのだった。しかし父の仁は、そんな空気を察しても、我関せずを決め込んでいた。

 つねが元気な頃は、そうやって家の中が常に緊張状態にあったが、最近少しボケてきた事と耳が遠くなってきた事で、幾分そんな緊張状態も遠のいて平穏な日々が訪れたかと思った矢先に、仁が入院する羽目になってしまったのだった。

酒好きな豊の為に、君江は熱燗あつかんを用意していた。猪口ちょこに注がれた日本酒を一気に飲み干すと豊は言った。

「美味いなぁ。燗の具合もちょうどいいですよ~、義姉さん。これは上燗ですね」

「叔父さん、じょうかんって何?」

「明坊、燗もいろいろあってな、上から熱燗、上燗、ぬる燗、人肌燗っていうんだよ。上燗ってぇのはだいたい45度くらいかな」

猪口を持った豊が嬉しそうにしているのをみて明人も楽しくなってきた。

「おおっ、すげぇ。金箔入りだぁぁ!」

「暮れに神社に奉納した御神酒の残りもので申し訳ないけど、金箔が入ってるから縁起がいいかなって思って……。豊さんの口に合えばいいんだけど」

 ちょっと照れながら君江が金箔入りの真相をバラした。

「金箔入りの豪華な純米酒を義姉さんのお酌で飲むなんて、こりゃあ緊張して酔えないかもなぁ」

「あらっ、そんなこと言わずにたくさん召し上がってくださいな。アタシも少し頂こうかしら」

「そう来なくっちゃ! ひとりで飲んでても楽しくないもの」

「オレも飲みたい!」

「おっ、明坊、ひとくち行くか?」

「やめてください、豊さん、この子ソノ気になっちゃいますから! 明人、アンタはダメにきまってるでしょ!」

どさくさに紛れて明人も猪口を差し出したが、君江にたしなめられた。つねも笑っていた。賑やかしにつけてあったテレビの歌番組からは、小柳ルミ子の「春のおとずれ」が流れていた。

 こうして楽しい夕食の団欒は過ぎていった。


 田植えも終わったある土曜日の午後、明人はエビカニ獲りの実演が見たいというリクエストに応えて、田んぼに少年たちを集めていた。集まったのは明人、順一、順一の弟で小三のまさる、輝夫、茂雄といった面々。それから女子では眼鏡をかけた図書委員の恵子と、恵子と仲良しの大人しい芳江が興味津々という風情で観に来ていた。といっても熱心なのは順一ひとりで、他の連中は田んぼの隣の水路でエビカニ釣りに興じていた。明人は内心、奈美が来るんじゃないかと期待していたが、来ないことを知って少しがっかりしていた。

 のどかな午後だった。さっきから国道では市長選の選挙カーが「石川ゆういち、石川ゆういちに清き一票を!」と候補者名をがなり立てていた。順一がおどけていった。

「選挙カー、うっせ~っ。ここまで聞こえるんだけどぉ!」

 田んぼから国道までは優に数百メートルは離れていた。

「ホントだよな~、田んぼの蛙やエビカニには、選挙権ね~のになぁ」

茂雄は自分で気の利いた事を言ったつもりなのか、ひとりでウケていた。全く面白くないってことがわかってないんだ、だから茂雄は浮くんだよって内心、明人は思った。輝夫が言った。

「奈美の父ちゃん、当選するかな?」

「えっ、あの石川って奈美の父ちゃんなのか? 立候補してんのか?」

 明人はそんな話は初耳だった。

「ちがうよ、輝夫くん。奈美ちゃんのお父さんは今度立候補した新人の石川優一候補のお兄さんで、なんていうんだっけ、選挙…選挙さ、さ……」

 奈美と仲のいい恵子が言い淀んでいると、茂雄がしたり顔で助け舟を出した。

「選挙参謀だろ」

「そう、それそれ! 後援会作っていろいろと応援してるみたい」

 奈美のうちは手広く会社やってるからいろいろ忙しいんだな…だから来ないのかなとぼんやり明人は思った。七月に入るとすぐに市長選だったが、子供には関係のない話だった。

「順一、まず畔の穴を探すんだ」

「うん、あったよ、明ちゃん」

 順一はすぐに、巣穴を見つけた。

「これ、エビカニの巣穴だべ?」

「手ぇ、突っ込んでみればわかっぺ」

「え~っ、エビカニじゃなくてヘビの巣穴だったらどうすんだよ~」

情けない顔で順一が訊いてきた。

「くちゃめじゃなきゃあ噛まれたってたいしたこたぁねーべ!」

「くちゃめって何だっけ?」

「マムシのことさ」

 ぎゃっと言って、順一は巣穴に入れようとしていた手を引っ込めた。

「ちぇっ、意気地がねぇなぁ。冗談だよ~。この辺りにマムシなんかいねーよ」

「なんだよ~っ、脅かすなよ、明ちゃん」

 実は明人も、エビカニの巣穴に手を突っ込むときは一抹の不安を感じていた。もしくちゃめが入っていたらと思うことはあったが、幸いにも今まで一度もそんなことはなかったから、たぶん大丈夫だと思っていた。

「おっ、その巣穴に今、結構でかい赤爪が入っていったぞ!」

「順ちゃん、とってみ!」

「おっしゃ!」

 順一はおそるおそる巣穴に手を差し込んだ。

「どうだ? 赤爪に触ったか?」

「ンと、まだ……、あ、ハサミの先に触った」

「挟まれないようにして、出来るだけハサミの根元を持つんだ。ゆっくりだぞ、順ちゃん、早く引っ張りすぎると赤爪は自分でハサミ自切して逃げちゃうからな!」

 順一のとなりで明人は懸命にアドバイスを送った。

「分かった。そーっと、そーっと……」

 肩まで泥んこになった順一が、巣穴から顔をだした赤爪を最後に引き抜こうとした瞬間に、赤爪はハサミを自切して巣穴の奥に再び逃げ込んでしまった。泥だらけの順一の右手には、赤爪の片方のハサミだけが残った。

「あ~っ、もうちょっとだったのにぃ~」

 切断されたハサミを名残惜しそうに順一は、青空にかざした。

「何やってんだよ、順一~。へったくそだなぁ!」

 見ていた輝夫が笑った。

「簡単じゃね~んだよ! じゃあ輝夫やってみろよ!」

 順一は、そう言って頬をふくらませた。順一に代わって畔に横になった明人はすばやく巣穴に手を突っ込んであっという間に順一が逃がした赤爪を引っ張り出した。立派な赤爪ではあったが、左のハサミが付け根のあたりからもげていた。

「順ちゃん、ほら、見てみ。この付け根のところにスジがあるべ。切れ目なんだわ。紙でいうミシン目。ちょっと変な力が加わるとすぐ折れるんだわ。いざとなったら、ここから自切してエビカニは逃げるのさ」

「ふ~ん、でも明ちゃん、エビカニはまたハサミ生えてくんだべ?」

「そりゃあ、小っちゃい時なら脱皮のたびにハサミは大きくなるからほとんど分からないくらいになるけど、成体になったら、完全には元通りにはなんねえな」

「オレも左右のハサミがアンバランスなエビカニ、見たことある!」

 横から輝夫が口を挟んだ。

「片爪じゃあ、どんなにでかくても、赤爪としての価値なんてね~よ」

 そういうと、明人は赤爪の胴体と尻尾を二つに引きちぎった。尻尾の部分を素早く皮をむいて剥き身にすると、隣の水路でエビカニ釣りをしている茂雄たちのほうにポイッと投げた。剝き身は水路にポチャンと落ちた。するとたちまちエビカニたちが群がってきて剝き身の争奪戦が始まった。いうなれば共食いである。順一の弟の勝が群がるエビカニたちを網で掬った。いとも簡単に大量のエビカニが獲れた。あっという間にトタンバケツはエビカニで一杯になった。トタンバケツの中でうごめくエビカニたちがトタンをひっかくカリカリという音がひっきりなしにしている。

 明人は、尻尾を失った上半身のみの赤爪を農道に投げ捨てた。極めて短時間に左のハサミと尻尾を失った赤爪は、痛覚がないのか、まだ死なずに農道の草の葉陰に隠れた。きっと数時間のうちにはカラスのエサになっているであろう。

「残酷~。男子ってホント平気で生き物殺すよね~。可哀そうって思わないのかしらね~」

 水路でその一部始終を見ていた恵子が、芳江と顔をしかめながら頷きあった。

正直、明人は動揺した。そんなことを言われるとは思ってもみなかった。考えたことすらなかった。そして、ここに奈美がいたら、やっぱり同じように「残酷~っ」と言って顔を背けてしまうのだろうかと想像した。

「ちぇっ、だから女子はめんどくせ~んだよ! なにかっつ~とザンコク~! カワイソウ~! しか言わねぇ。こうやってエビカニ釣りの餌になってんだよ、なっ、勝」

 水路でエビカニを釣っていた輝夫が珍しくムキになって反論した。

「エビカニのいちばんのごちそうはエビカニなんだよ」

 さっきまで夢中でエビカニを網ですくっていた勝が無邪気に答えた。ある意味真理だった。当時の少年たちは、家の冷蔵庫からくすねてきたかまぼこや魚肉ソーセージやサキイカよりも、剝き身のほうがよっぽど釣れることを経験則で知っていた。

「『一寸の虫にも五分の魂』って言葉、知らないの?」

 なおもそう言って恵子が突っかかってきたので、何故か茂雄がキレた。

「じゃあ、お前ら女子は、蚊一匹だって殺すなよな! 刺されまくってどんなに痒くても蚊取り線香とか使うなよ。ゴキブリが出たって殺虫剤もダメだかんな! ぜってぇ使うなよ! 自分だけは虫一匹も殺しませんっていうそういうの、ギゼンって言うんだかんな!」

「なによ、なによ! 茂雄君はアタシが偽善者だっていうの? 酷いわ!」

 そう言うと恵子は泣き出してしまった。芳江がそんなことないよ~と慰める。順一は面白がって、へんな節をつけて歌いだす始末。

「あ~あ、泣かしちゃったぁ。いっけないんだ~、いっけないんだ~♪」

 生き物を殺すことをなんとも思わないこの年代の少年たちと違い、女子はやっぱり感傷的である。


 その夜、明人は順一の家に泊った。トタンバケツ一杯のエビカニを手土産に。もっともそれは主に水路で茂雄や勝が釣ったものだったが。

 順一のうちは両親が遠くの親戚の法事に行っていて留守で、一九歳の姉とその彼氏だという男しかいなかった。二十一歳になる高史というその男は自動車整備工場で働いているらしい。そばに寄るとかすかに油の匂いがした。

順一の姉、看護学校に行ってる律子が大漁のエビカニを茹でてくれて、夕食のおかずになった。

「明ちゃんも、順もいっぱい食べな。自分たちで獲ってきたエビカニなんだから」

そういって律子は笑った。他にもテーブルには彼氏に食べさせるためか、腕によりをかけた律子の手料理が並んでいた。

明人はエビカニを獲るのは好きだったが、エビカニ料理はあまり好きではなかったのでほとんど手をつけなかった。順一はうまいうまいと言ってパクパク食べていた。代わりに明人は手ごねハンバーグをもりもり食べた。律子が彼氏用に作ったハンバーグは美味かった。律子はあまりの勢いで明人が食べるので彼氏の分が無くなってしまうのではないかと気が気ではなかった。

「エビカニ釣り? なに素手で? しちめんどくせぇ事やってんなぁ」

缶ビール片手に高史は上機嫌だった。

「俺たちの頃は、火のついた2B弾を池に投げ込んで爆発させて、衝撃で浮き上がってきた魚を獲ったもんだ」

「水の中では消えちゃうんじゃないの?」

 順一が茹でたエビカニをほおばりながら、素朴な疑問を口にした。

「ところが2B弾は水の中でも平気なんだよな~。結構な爆発力で水柱が上がったりしてよぉ、面白かったなぁ~、ありゃあ」

「そんなの、邪道じゃん!」

 口をとがらせて、明人は渋い顔をした。

「そっかぁ? 魚なんか獲れればなんでもいいじゃん!」

 すでに缶ビールで酔っ払ったのか、赤い顔して高史は笑った。その口元から覗く歯は、前歯が一本欠けていた。


 夜中に尿意を催して明人は目が覚めた。部屋の柱時計を見ると十二時半だった。何回か泊りに来て勝手知ったる友達の家。便所の位置もわかっているので迷うことはなかった。途中の廊下で障子越しにひそひそと話声が聞こえてきた。

「……もう、高史ったらダメだってばぁ…」

「こんなになってんだよ。もう我慢できねぇよ!」

「あの子たちが起きちゃったら、どうするの!」

「大丈夫だよ。今頃疲れてぐっすり寝てるに決まってる! なぁ、ディープスロートってヤツやってくれよ~。」

「しょうがないわねぇ。ちょっとだけよぉ……」

 じゅぼっ、じゅぼっというくぐもった音が聞こえてきた。それが何を意味しているかはなんとなくわかった。先日の学校帰りの茂雄の言葉を思い出していた。全身がカッと熱くなった。息を止めていたが、心臓の鼓動が障子一枚隔てた二人に聞こえやしまいかと心配になった。二人に気づかれないように、明人はそーっとそーっと音を立てずにその場を離れた。

 布団に戻ってからも、興奮で心臓の鼓動は全く収まらない。隣で安らかな寝息を立てている順一を起こそうと揺り動かしたが、もう食えないよ~と寝言を言うばかりで全く起きる気配がなかった。結局、この夜明人は朝まで一睡も出来なかった。


 明人は、急に今までそれほど意識してこなかった「女子」が気になって仕方なくなった。小五ともなれば、発育にも差が出てくる。女子の体なんて気にしたこともなかったが、昼休みのドッジボールの時、誰それがムネあるなぁとか品定めをするようになってしまった。こうなってくると誰がブラをしていて誰がしてないかが気になって気になって仕方なかった。保健委員の美佐子ちゃんは背は高いけどムネは扁平だとか、意外に恵子がムチムチしているとか、観察していたら奈美にボールを当てられてしまった。

明人にボールを当てたときの奈美の顔が得意げだったので、絶対当て返してやろうと狙っていた。場外でボールを受けたとき、明人の狙いは奈美だけだった。陣地の中で逃げ回る奈美のムネに狙いを定めた。奈美のムネは正直服の上からでは発達してるのかそうでないのか明人には全く分からなかった。ちょっとした仕草のときにちょっぴり膨らんでいるような気がしないでもない。でもきっと奈美はまだブラしてないよな~。とにかくそのムネにめがけて思い切りボールを投げつけた。一旦はキャッチしようとした奈美だったが勢いに勝ったボールは激しく奈美のムネに当り、奈美はその場にうずくまった。場が静まり返った。一瞬、明人はヤバいと思ったが、しばらくすると奈美は何事もなかったように立ち上がって場外に自ら出たので、安堵した。


 午後の授業が始まる前に、恵子をはじめとする女子数人に、明人は廊下の隅に呼び出された。女子たちの先頭に立った恵子がメガネのフレームを持ち上げながら、鼻の穴を広げて抗議してきた。

「友納くん、奈美のムネ狙ったでしょ。女子はねぇ、ムネが成長してる今の時期はねぇ、ちょっとブラウスが触れただけでも痛い時があるんだよ! それをわざとボールぶつけるなんてひどい! 男子ってほんとデリカシーない。それに友納くん、アタシのムネもじろじろ見てたでしょ。そんな人だと思わなかった!」

 明人は、恵子に畳み込まれてたじろいだが、心の中を見透かされたようでつい、言い返してしまった。

「何言ってんだよ、ブス! お前なんか見てるはずないだろ! 自意識過剰なんだよぉ!」

「サイテー!」

 捨て台詞と共に恵子たちは教室に戻っていった。明人は、恵子は絶対ブラしてると確信した。

 放課後、奈美とは掃除当番が一緒だった。一緒に机を片付けてたとき、明人は小声で一言、ごめんと謝った。

「何が?」

「あの……、ドッジボールのときぶつけちゃって……」

「べつに悪い事したわけじゃないじゃん。フツーに私がボール受けられなかっただけだよ。何謝ってんの?」

 奈美の大きな瞳が明人の顔を覗き込んできたのでドギマギした。なんだ! 奈美は全然気にしてね~ジャン。明人はほっとした。そして奈美は絶対まだブラはつけてないと確信したのだった。


 爽やかな風が長い小学生たちの行列を通り抜けていった。道の両側に広がる畑には絹さややソラマメ、チンゲンサイ、30㎝程に育っているトウモロコシなどの青々とした葉が揺れている。心地よい五月晴れのある日、社会の野外授業で、五年生は小学校から北東一キロメートルの栗山川に向かっていた。

「美由紀先生って野外授業好きだよな~。先月も妙覚寺の百観音、見学に行ったし」

 順一が歩きながら話しかけてきた。

「たぶん、先生自身が教室いたくないんじゃね~の?」

 輝夫が真っ青な空を見上げながら言った。

「だよな~。天気がいいとオレなんか居ても立ってもいられなくなってくるもんな~。ウズウズしてくんだよな~」

 明人は胸の前でかきむしるような動作をしていると、前を歩いていた奈美が急に振り返ったので、明人はドギマギした。

「こんな天気のいい日は、外に出るに限るわよね、やっぱり」

 さっきから明人は、奈美の背中が気になって仕方なかった。ピンクの薄いブラウスの背中越しにブラのホックがあるかどうかをさっきからずっと確認しようと目を凝らすのだがはっきりわからなかった。以前の明人なら間違いなく能天気に「お前、ブラしてんの?」と訊けたのだが、今はそんなこと直接訊けるはずもなかった。そんなことで一喜一憂している心の中を見透かされたような気がしたのだった。

 里山の鬱蒼とした杉木立のなだらかな坂道を下ると、田んぼが両側に広がる。舗装された広域農道に沿って流れる川、これが栗山川である。否、この言い方は正しくない。正確には栗山川に沿って広域農道が作られたというのが正しい。川幅は約五メートル。決して大きな川ではない。

 生徒たちは川のほとりの草地にそれぞれ場所をとって座った。田丸美由紀先生はその中心に立っている。

「ハイ。今日は学校の北東一キロメートルの栗山川支流に来ました。みんなが住んでるこの千葉県北東部というのは、あるものが出土することで大変有名なんだけど、分かる人は手を挙げて!」

 結構な数の生徒たちが手を挙げていることに田丸先生は満足していた。

「じゃあ、茂雄くん!」

「ウチのカミさんが、言うことには……」

 茂雄は例によって、当時流行っていた刑事コロンボのモノマネをやり始めた。

「茂雄くん、キミを差したのは先生の失敗だったわ。コロンボはいいから。第一似てないし!」

 苦笑いしながら田丸先生は言った。

「ちぇっ。先生、ひでえなぁ。丸木舟で~す」

「正解! じゃあ丸木舟って何かなぁ? 恵子ちゃんわかる?」

「丸木舟は一本の木をくり抜いて作る船です。刳船くりぶねとも呼ばれています」

 恵子はスラスラと答えた。

「そうね。丸木舟の発見例は千葉県内だけで百例を超えて、日本全体の半分を占めています。この辺りは縄文時代はラグーンと呼ばれる潟湖せきこで沼や湖だらけだったの。ざっくり言うと、今から五千年くらい前はこの辺は海だったのね。ちょうど海岸線くらいかな~。だからこの栗山川流域からたくさん、丸木舟が出土するのね~」

 生徒たちはみんな地元のことなので、真剣に聞いていた。普段ならふざけあって聞いていない生徒が何人かいてもおかしくなかったが、そんな生徒もいない。時折、川面で魚が跳ねるが誰も気をとられる生徒はいなかった。みんな食い入るように聞いている。田丸先生は手ごたえを感じていた。

「職員室の前の水槽に入って展示されてる丸木舟は、昭和三十年にこの栗山川の向こうのあのあたりの田んぼの地下1・4メートルの泥炭層から出土したものなの。それから観察池の古代蓮も昭和二十六年に検見川の落合遺跡から発掘された、今から二千年以上前の蓮の実から発芽して開花したものを譲り受けた歴史のある古代蓮なのよ。そんじょそこらの蓮と訳がちがうんだから、みんな大切に育ててね~」

「明ちゃん、すげ~な! オレ等が住んでるところって!」

 興奮した順一が、明人の脇腹をつついてきた。

「お~っ、ただの田舎じゃなかったんだな!」

 そう言いつつ、内心明人はそんなスゲー古代蓮の池にこっそりエビカニを放していたのを反省した。珍しく茂雄がなにもギャグを挟まず、頬を紅潮させて言った。

「先生、オレ今まで東京のいとこが来るたび、『こんななにもない田舎』ってバカにされてなにも言い返せなかったんだよね。今度から自慢できるね!」

「そうよ~、茂雄くん。私たちの郷土に誇りと愛着を持つことはとっても大事な事よ」

 腕組みしながら、大きく茂雄が頷く。

「じゃあ、その丸木舟は一体、なんで出来ているでしょうか? 順一くん!」

「ん~と、大昔だからぁ、鉄とかないはずだから、木かな」

「アタリマエだろ! 丸木舟っていうんだから木に決まってらぁ。なんの木だよ、順一」

 すかさず茂雄にツッコまれてあたふたする順一。

「スギ? ヒノキ?」

「ブーッ。わかる人いる?」

 学級委員で、クラスで一番の座をテストでいつも奈美と争っている宮田博一(ひろかず)が手を挙げた。ノートを広げながら答える。

「ムクノキ、カヤ、イヌガヤなどが多いです。緻密で堅い木が好まれたようですね」

「よく下調べしてきたわね。さすがね、宮田くん」 

 優等生の博一は先生の受けが抜群にいい。勉強も出来て先生受けがいいとなると必然的にクラスの女子の受けもよくなる。本人もそれを意識していた。だが明人は、そのせいで博一がみんなから期待されている『品行方正博一くん』を演じようととして窮屈そうだなと感じていた。だけど、自分から進んでそうなっているわけだから仕方ない。

「みんな、縄文時代の人々の暮らしを想像してみて。住んでいたのは地面に穴を掘っただけの竪穴住居たてあなじゅうきょ。まだ鉄はなく磨製石器と呼ばれる石器の表面を磨いたものを使ってたのよ。今みたいに道路が舗装されてるわけもない。第一、道路自体があったかどうか。整備もされてない。湖沼が多かったから、移動の手段は荷物もいっぱい積める丸木舟が最適だったのよ。大きいものでは七メートルくらいあるものも見つかってるの」

 明人は目をつぶって、想像してみた。当時の人々の暮しを……。丸木舟かぁ、作るのにどのくらい時間かかったんだろうか。チェーンソーも電動工具もノコギリすらない時代かぁ。丸木舟で潟湖へ出ていったんだろうなぁ。石器でつくったモリとか持って、魚を見つけて刺してとったんだろうか。そのころもう魚網ってあったのかな? 貝塚がたくさん残ってるから貝もいっぱい食べてたんだろうな。

一日の終わり、狭い丸木舟いっぱいに魚や貝を詰め込んで帰ってくる男たち、それを迎える女たち。おかえりなさい。お~っ、今日は大漁だったぞ! ん、まてよ。縄文人って日本語しゃべってたのか? そもそもどんな言葉使ってたんだろう? ま、いいか。いいマグロが獲れたぞ! まぁ素敵。今日はお刺身にしましょう。ってか、マグロが獲れるわけね~か。細かい事は気にすんない。喜ぶ女たち。漁から帰ってきた男たちも出迎える女たちも、明人の頭の中のスクリーンでは出演者は全部クラスメートになっていた。順一や輝夫、茂雄、恵子や芳江もいた。順一が漁獲が少ないと恵子に怒られている。あんたはいつもそうなんだから。そして、いつの間にかその女たちの輪の中の中心にいるのは奈美になっていたのだった。明人はいつのまにか、うつらうつらしていた。夢を見ていた。

 パシャッ! 明人の顔に冷たい水しぶきがかかった。

「寝てたでしょ!」

 いたずらっぽい目をして、奈美がにまっと笑った。

「ね、寝てるワケね~だろ! 瞑想してただけだわ!」

「ウソっぽ~い!」

 そう言って笑った奈美の白い歯が眩しかった。

 そのとき、一羽のカワセミが滑空してきて川面ではねたクチボソをドンぴしゃのタイミングでキャッチして飛び去って行った。一部始終を目撃した明人と奈美は思わず、顔を見合わせた。

「見た? 今の。すごかったね。なにあの鳥」

「カワセミだな。揚水機場(ようすいきじょう)の隅からずっと狙ったんだ。さっきから時々、クチボソ跳ねてたからタイミング計ってたんだ!」

 カワセミは、揚水機場の屋根に戻って獲物を飲み込んでいた。いにしえの昔から続く生存競争。弱肉強食の掟。生きるための闘いに必死なのだ。そこにいい悪いの感情が入る余地などない。あるのは厳しい自然界の摂理のみ。

「五千年前の縄文時代の人たちもこんな風景を見てたのかな……」

 明人がそうつぶやくと、奈美は少し驚いた表情をみせた。

「意外と、ロマンチストなんだね」

 ざわついていた。茂雄と順一が川べりの草むらの上で取っ組合いをしていた。

「何やってんのよ! アンタたち!」

 止めに入ろうとした田丸先生は足を滑らせた。とっさに明人はバランスを崩して川に落ちそうになった先生の手を引っ張った。すんでのところで先生は川に落ちずにすんだ。明人が先生を助けていた分、茂雄と順一の取っ組合いは博一が止めていた。

 気を取り直した田丸先生は髪をかき上げながら言った。

「全く! 授業中なのに何やってんのよ。危うく先生川に落ちそうになったわよ。それで原因は何?」

 順一と茂雄は口ごもって言わない。その様子を察して、博一がとっさに切り出した。

「喧嘩じゃないんです。アオダイショウにびっくりした順一くんが、茂雄くんにしがみついちゃっただけなんです!」

 アオダイショウと聞いて、クラスの女子たちがざわめいた。田丸先生はちょっと怪しんでいたが、他ならぬ博一の言うことだから信じることにしたようだった。先生受けがいいとこういう時に得なのである。

「いっけない、もう、こんな時間!」

 腕時計を見ながら田丸先生が、川べりに思い思いに座ったり立ったりしていた生徒たちに声をかけた。

「そろそろ、帰るわよ~。早くしないと給食に間に合わなくなっちゃう」

 クラス一の大食漢、見た目もかなり太い和利がうれしそうに一番早く立ち上がった。

 学校に戻る道すがら、明人はふたりに取っ組合いになったきっかけを聞いた。実に些細なことだった。丸木舟についてスラスラ答えた恵子に目を細めていた順一に、茂雄が恵子のこと好きなんだろ! って言ったことがきっかけらしい。好きなわけね~だろ、照れるなよ、好きじゃね~よ! この押し問答から例によって茂雄のしつこさに頭にきた順一がキレたっていうのが理由。しょうもないことでケンカすんなよってことでギクシャクしてた順一と茂雄は、すんなり仲直りした。

「博一、さっきは取り繕ってくれてありがとうな。今度うちに遊びに来いよ!」

 順一が言った。「品行方正博一くん」は、ニコッと微笑んだ。こうして博一は明人たちの遊び友達になった。


クラスが騒然としていた。大事件だった。田丸先生が婚約者の高橋先生からもらった婚約指輪を観察池に投げ捨ててしまったのだ。

「……で、それからどうしたんだよ!」

 茂雄が、焦って保健委員の美佐子に詰め寄った。

「そんな怖い顔したら、美佐子が喋れなくなるべ」

 順一が茂雄をたしなめる。さっきの体育の授業中に芳江が貧血で倒れたのはみんなが知ってる。芳江が貧血で倒れるのはよくあることなのでみんなさほど驚きもせず、保健委員の美佐子と田丸先生が付き添って保健室に連れて行った。そこで騒ぎは起こった。その一部始終を目撃していた美佐子の話が聞きたくて、美佐子の席の周りにクラスのみんなが集まっているのだった。

「保健室に行ったらね、先生の婚約者の高橋先生と保険室の白川先生がすごくいい雰囲気で顔を近づけあってたの。あたしなんか最初キスしてるのかと思っちゃったくらい。それを見た田丸先生、ショックを受けちゃったみたいですぐ保健室出て行っちゃったの」

「ホントにキスしてたの?」

 好奇心いっぱいで恵子が問いただしにかかる。この手の話題は五年生といえどもやっぱり女子の大好物であるのは昔も今も変わらない。美佐子は手を前で大きく振りながら否定した。

「それが全くの誤解で、ただ目にゴミが入ったから白川先生に診てもらってただけなんだって!」

「な~んだ。つまんね~」

順一が言った。美佐子が続ける。

「田丸先生をすぐ追いかけて高橋先生も保健室を出て行ったんだけど、ことはそう簡単じゃないのよ!」

 茂雄があとを引き取った。

「田丸先生は納得しないって訳だ! それで観察池の前で、田丸先生と高橋先生の言い争いになった。この、浮気者~、婚約解消よ~! とばかりに薬指から婚約指輪を引き抜いた先生は、観察池に指輪を投げ捨てちゃった! いや~、女の嫉妬はコワイですね~。恐ろしいですね~。それでは、さよなら、さよなら、さよなら」

 また茂雄がひとり芝居を始めた。最後は淀川長治のモノマネまで入れたけど、またしても誰にもウケない。クラス中がしっちゃかめっちゃかになった。みんな口々に、まずいじゃんかよ~、先生たちどうなっちゃうの~? とか言い出して収拾がつかない。奈美の提案で放課後に、田丸先生抜きの緊急ホームルームをやることになった。

「というわけで、田丸先生は、今まさに婚約解消の瀬戸際に立たされています!」

 さすがにそれは大げさだろうと明人は思ったが、「品行方正宮田博一(ひろかず)くん」は、教壇の上から続けた。

「先生受けのいい僕が、いろいろ情報を仕入れてきました」

 なんでも博一の話によると、関校長先生や白川先生の説得もあり、今は田丸先生の気持ちも落ち着いて一時的な感情で指輪を投げ捨てちゃったことを反省しているらしい。誤解がとけて婚約者の高橋先生もホッとしているそうだ。博一は続けてこう言った。

「なんとか僕たちで、田丸先生のピンチを救ってあげたい! みんなで指輪を見つけてあげたいと思います!」

 クラスのみんなから拍手が起こった。

「あの指輪とても高かったんだってよ」

「当たり前よ! 給料三ヶ月分なんだから!」

 恵子が誰に聞いてきたんだか、知ったかぶりをする。

「いいな~。ダイヤモンドでしょう? やっぱりエンゲージリングなら断然ダイヤよね~」

 いつも貧血で倒れる芳江がうっとりしている。おめえはダイヤより鉄分摂るのが先だろうが、と明人は思った。女子はすぐ話題がそれて困る。

「提案があります。みんなで観察池に入って先生の指輪を探しましょう!」

 宮田の隣で同じく学級委員である奈美が言うといろいろな反応があった。

「え~っ、どうやって?」

「あのな~、観察池って小さそうに見えてけっこう広いぞ」

「水あるし、どうやって探すんだよ~。水中メガネでもかけんのかよ~」

「かいぼりしかね~べな」

 目を閉じて、腕組みをしながら明人は呟いた。

「な~に? かいぼりって?」

 へぇー、奈美でも知らないことあるんだー、はりきって説明しようと思ったら横から茂雄が口を挟んできた。

「池の水、抜くことだよな~、明人」

 んだよ、オレが説明しようと思ったのにぃ。

水、抜くたってどうすんだよ~、みんなでバケツリレーでもすんのかぁ、そんなの日が暮れっちまうわ……男子が口々に騒ぎ出す中、輝夫が言った。

「家に、ポンプあるど。父ちゃんに頼めば出してくれべ」

「じゃあ決まり! 今度の日曜、九時集合! みんなで田丸先生の指輪探すわよ!」

 奈美が目を輝かせて宣言した。

「え~っ、今度の日曜は姉ちゃんたちと東京ボンバーズ観に行くんだよぉ!」

 予定が入っていた順一はあからさまに嫌な顔をした。

「都合が悪い人は無理にとはいわないわよ。有志だけでいいわ」

 それからの学級委員としての奈美の行動力にはみんな舌を巻いた。何しろその足で関校長先生と直談判して、それは素晴らしい、是非おやりなさい! という言質をとってしまった。さらに田丸先生はあとで関校長に呼ばれて、実に素晴らしいクラスだ、生徒たちにそれほどまでに慕われて先生は幸せ者ですな、と言われたのだという。

 教頭の新塚は苦々しく思っていた。新塚は、校長の関より三つ年上だった。

校長の関が、奈美に「これは理科の授業の一環でもありますから是非おやりなさい」と太鼓判を押したことに対して、校長室にやってきて異を唱えた。

「ずいぶん、お優しいんですなぁ、校長。この件はいわば、職場恋愛の末の痴話げんかではないですか。どちらかといえば、学校の恥に数えられるべきではないかと……。本来ならば処分ものですよ。それが一転、『かいぼりは、理科の授業』の大岡裁きですか。付き合わされる生徒が気の毒というものです」

「なにがおっしゃりたいんですか。教頭先生……」

 関校長は、デスクに座って書類に目を通していたが、書類をわきに置いて眼鏡を外すと、まっすぐ新塚教頭の目を見ながら静かに尋ねた。

「つまりね、田丸先生が教育長の遠い親戚筋だからなのかなぁと思いましてねぇ。やっぱり校長っていうのは普段からそういう点数稼ぎをしないとなれないものですかねぇ」

 校長室のドアにもたれかかり、腕組みをしながら神経質そうな頬をぴくぴくさせて新塚はうそぶいた。

「面白い事をおっしゃいますね、教頭。日々、教育の現場ではいろいろなことが起こります。起こってしまった出来事にいい悪いはありません。それを決めるのはあくまでも我々なんですよ。それをピンチと捉えるか、チャンスに変えられるかは裁量次第……。生徒たちの純真な心を、そんな風にしか判断できないから、アナタは校長になれないんではないですかね?」

 そう言って、関校長は、教頭の言いがかりを一蹴した。


 かくして日曜は朝から『かいぼりデー』となった。.午前九時前には、観察池の前は各種の網やスコップ等を持参した生徒たちや、駆けつけた何人かの保護者たちでいっぱいになった。なかには本格的な胴付長靴に魚捕獲用たも網という猛者もいて、それは賑やかだった。

この賑わいをみた当事者である田丸先生や高橋先生は恐縮の面持ちだったが、関校長は朝からテンションが高かった。関校長の『かいぼりは理科の授業の一環』というツルの一声で、順一も東京ボンバーズを諦めて来ていた。順一はそれでもまだぶちぶち言っていた。ちきしょ~、ローラーゲーム観たかったなぁ、オレは佐々木ヨーコ命なんだよとか、ダブルホイップ生で観たかったとか言ってた。気持ちはわかるよと明人は慰めた。

当時の少年たちはみんな夢中でローラーゲームを観ていた。明人はスター然とした長い髪の佐々木ヨーコよりも、目立たないけど、ここ一番でいい働きをする堀井由美子のファンだった。

 高橋先生から注意事項の説明があった。在来種と外来種はわけること。ふざけたりしないで真剣に取り組まないと怪我をしたりするから気をつけるようにというような話だったけれど、もうみんな軽い興奮状態でほとんど上の空だった。

 輝夫の父ちゃんがポンプのスイッチを入れると、観察池から吸い出された池の水がみるみる校庭の敷地の脇にある側溝にあふれ出た。どんどん観察池の水かさが少なくなり十五分ほどで池に植えてある古代蓮の根元が見えてきた。網をもった生徒たちが底が見えた池の中に入り、残っている水たまりに集まって跳ねている魚たちや生きものを次々と掬って、あらかじめ校庭に用意されたバケツに分類していく。

 高橋先生は在来種、田丸先生は外来種の担当だ。分類がわからないのは先生に見せるというルール。いろいろななものが棄てられているのが確認できた。あちこちでなんだこれ~の声が上がる。時に悲鳴だったり、嬌声だったり、普段の日曜の朝ならば閑散としている小学校の校庭は、活気があふれる朝となった。

 古代蓮の根元周辺にはアメリカザリガニがうじゃうじゃいた。誰かが叫んだ。

「あ~っ、このエビカニ甲羅が柔らかいよ~。気持ちわり~!」

「ホントだァ。ぷよぷよしてるぅ。なにこれぇ、友納くん、教えて~」

「こっちのエビカニはお腹にいっぱい紫色のつぶつぶがついてるよ~。これなに? 卵?」

 エビカニに詳しい明人は大忙しだ。

「甲羅がぷよぷよなのは脱皮直後だから。もう何日かすると甲羅は硬くなってくるよ。おお腹のつぶつぶはメスが卵抱いてるんだよ。ちなみにつぶつぶがオレンジ色になるとその卵はもう死んでるから」

 小一時間もすると複数用意されたそれぞれのバケツはいっぱいになった。在来種のバケツにはギンブナやクチボソ、メダカやドジョウなどがいた。かたや外来種では何と言っても、明人もこっそり放していたアメリカザリガニがダントツでバケツ一杯とれた。他にはウシガエル、ミドリガメなど。ミドリガメなどは明らかにペットとして飼育していて飼いきれなくなって観察池に誰かが棄てたものだろう。可哀そうだが、外来種は処分せざるを得ない。それが本来のかいぼりのやり方なのだ。

 それにしても、それ以上に驚かされたのが、出るわ出るわ、がらくたの山だった。小さな観察池の中にこれほどいろいろ捨てられていたのかというのが率直な感想だった。ざっと列挙してみよう。体操服、傘、タンバリン、縦笛、弁当箱、どんぶり、茶碗などの食器からのこぎり、バット、何故かトロフィー、いちばんのケッサクだったのは、くしゃくしゃに丸めて捨ててあった古い通知表。名前はもう読めないが、誰かが成績が悪くて親に見せたくなくて棄てたものに違いなかった。

 いろんなものが棄ててあったが、肝心の田丸先生の婚約指輪は出てこない。順一は捕獲網で泥を掬って網の中に入った泥を校庭にはたいている。時折まだ捕獲し損ねたザリガニやなまずなんかが出てきたが、指輪は出てこない。明人をはじめとした何人かの生徒は泥まみれになって観察池の古代蓮の根元あたりをしらみつぶしに調べていた。

 次第にみんなの顔に落胆の色が浮かびだした。校庭の片隅に積み上げたがらくたの山を丹念に恵子たち女子は探していた。心なしか田丸先生は元気がない。それでも、もとはと言えば自分が悪いんだからと諦めてたのか、さばさばした声でみんなに呼びかけた。

「みんな、今日はありがとうね。これだけ探しても出てこないんだから諦めよう。でも初めてかいぼりやって、本当に良かったと思う。みんなは今日、身をもって生態系ってことを考えることが出来たんじゃないかな。外来種をむやみに池にすてたりすると生態系を壊すってことを学べたのはとっても有意義だったと先生は思うわ」

 奈美が額の汗を手の甲で拭きながら言った。

「先生、諦めたらそこで終わりです。もうちょっと探しましょう!」

「そうだよ、先生。見つからなかったらオレ、東京ボンバーズ観に行かなかった意味がなくなっちゃう!」

 順一は最後までそこにこだわっていた。

「でもね、みんな。指輪がないからって先生たち、結婚できなくなったわけじゃないから……」

 そのとき、明人は泥まみれになって古代蓮の根元をほじくっていたが、束になって固まってる古代蓮の根の奥に赤爪が一尾潜んでいるのを見つけた。そしてその赤爪の先が陽の光でキラッと光ったのを見逃さなかった。

「あったどーっ」

 思わず、明人は叫んでいた。明人が掲げた赤爪のハサミの先にダイヤの指輪が眩しく輝いていた。日曜午前の小学校の校庭に歓声が響いた。


 六月の後半、梅雨に入り、しとしと小雨が降る日に、明人の父、仁は退院した。目はさらに落ちくぼみ、頬骨が突出してまるで正面から見るとしゃれこうべが歩いているかのような妖気を漂わせていた。そんな中で目だけがランランと光っていた。入院当初とはまるで人相が変わってしまったことに、明人や君江、そして祖母のよねも気づいていたが、誰も口に出して言う者はなかった。タクシーから降りるときは、君江と明人が両脇から支えたが、足どり自体はしっかりしていた。半年ぶりに我が家に戻った仁は、感慨深そうに少しだけ頬を緩めた。

 君江はもちろん、仁が退院したばかりでそうそう食べられるわけもない事は承知していたが、退院祝いの食卓の彩りとしてたくさん料理を並べた。シーチキンにさくらんぼときゅうりのサラダ、かりかり梅を使ったさっぱり味のチキン南蛮、とうもろこしとちくわのかき揚げ、新玉ねぎと初夏のピーマンの肉詰め、生オクラとミョウガ入りのところてんなどが食卓を飾った。

 仁は、ひとくちふたくち手を付けたが、なかなか箸がすすまない。ついには、酒をもってこいと言い出した。お酒は医者に止められてるからと君江がたしなめるも、一度言い出したらきかない。

「あんな若造のやぶ医者の言うことなんか、聞いていられるか! いいからつべこべ言わずに持ってこい!」

怒鳴られた君江は、しぶしぶ酒を出した。仁は君江の手から熱燗徳利をひったくるように奪うと、あっと言う間に猪口で三杯を手術したばかりの胃に流し込んだ。明人はどんどん心の中が鉛のように重くなっていくのを感じていた。仁の退院で久しぶりに華やいでいた家の空気が一気にどんより重くなった。これからの展開がどうなるかは、火を見るより明らかだった。

案の定、君江が仁の一番好きな「湯豆腐」を持ってきたときにそれは起こった。あっと言う間に酔いが回った仁は、手術で味覚が鈍くなっていることもあり、湯豆腐に箸をつけた途端に制御がきかなくなっていた。

「こんな不味い湯豆腐が食えるか!」

 仁は座卓をひっくり返した。仁の退院を祝うべく座卓に並べられた色とりどりの料理が皿ごと宙に舞ったかと思うと無残に畳の上に飛び散った。そしてその上に座卓が落下してきて皿が割れる音がした。吹っ飛んだ座卓の足が君江の右肩に直撃した。さらに割れた徳利の破片が君江の左頬をかすめた。君江は肩と頬を押さえてその場に倒れ込んだ。

「こん馬鹿アマ、こんなクソ不味い湯豆腐、俺に食わせやがって! 嫌がらせか!」

 いきり立った仁は、倒れている君江の上にのしかかり、殴りつけようとしていた。惨憺たる有様だった。たまらず明人は母が可哀そうで必死で止めに入った。

「あにすんだよ! 父ちゃん! 母ちゃんは父ちゃんが食えなくても少しでも目で楽しめるようにって作った料理でね~か!」

 泣きながら明人は、父に手向かっていた。

「父ちゃん、この子には手をあげないで!」

と君江が悲鳴にも似た声で懇願すると、ますます仁は激昂した。

「なに、クソガキ。病室にもろくに来やがらねぇで!」

 退院したばかりで歩くのもやっとなくせに、どこにこんな力が残っていたのかと思うほどの意外な強さで、仁に突き飛ばされた明人は、後頭部からガラス障子に突っ込んだ。横枠部分のガラスが割れ、派手に障子が破け桟(さん)がへし折れた。勢いが減殺されずにそのまま頭から柱にぶつかった明人は、痛さでしばらく起き上がれなかった。突き破ったガラスの破片が刺さり左手の甲からも出血していた。

 さすがにこれはやりすぎたと思ったのか、バツが悪くなった仁は、もう寝る!と宣言すると、寝室に引き上げ疲れてるだろうからと早めに敷いてあった床(とこ)に横になり頭から、布団をかぶってしまった。

 まるで大型台風が通り過ぎたかのようだった。後には、目も当てられないような凄惨な光景が残された。割れて散乱した食器や皿、調味料、納戸や仏壇にまで飛び散った料理、ひっくり返った座卓や椅子、バラバラになった障子や桟…。

 君江は、頬に張り付いた髪もそのままに、虚ろな目でのろのろとした動作で割れた食器やガラスや徳利、飛び散った食べ物などを片付け始めた。座卓が当たった右肩をかばいながら…。その背中越しにつねが、すまなそうに言った。

「仁はよぉ、手術して体が思うようにならなくて、癇癪起こしてんだァ……、勘弁してやってくろう……」

 君江は無言で、片付けを続けた。それが精いっぱいの抗議だったのかもしれない。明人は柱にぶつけた後頭部に手を当ててみた。こぶが出来て少し血が滲んでいた。少しズキズキと痛んだ。

君江がオキシフルで消毒してくれ、包帯をまいてくれた。同様に左手に刺さったガラス片を取り除き消毒した。ちょっと滲みた。明人は自分だって痛いだろうに懸命に包帯をまいてくれる母をみていたら感情が揺さぶられて大粒の涙がぽろぽろとこぼれた。それをみた君江は何も言わずに息子を抱きしめた。そして二人してさめざめと泣いた。悲しいんだか、悔しいんだかよくわからない感情が渦巻いていた……。


七月の第一週、この夏いちばん気温が上がって三十五度を記録した猛暑日に市長選が行われた。選挙権がまだない明人は全く関心がなかったけれど、バスケ好きで体育館をいつも利用している茂雄は、体育館が投票所になるためバスケが出来ないと文句を言っていた。君江もつねも投票に行った。つねは腰が曲がっているので、歩くのがたいへんだということで敬老会の人がクルマで送迎してくれた。

あの日以来、あまり体調がすぐれず寝たり起きたりしていた仁は、再入院することになった。

投票を済ませて帰ってきた君江が赤と黄色の風船を明人にくれた。

「ちぇっ、ガキじゃないんだからこんな風船いらね~よ」

「あんた、都合のいいときだけガキじゃなくなるんだね~」

 そういって、君江は笑った。

「ふ~んだ。選挙はそれでどっちが勝ちそうなん?」

 ほとんど興味はなかったが、奈美の叔父さんが立候補していたのでそれだけが気がかりだった。選挙結果ではなく叔父さんが当選したら奈美は単にうれしいのかなって思ったに過ぎなかった。

「あぁ、新人の石川優一さんって、あんたの同級生の叔父さんなんだって? どうかねぇ。現職が強いからね~、ウチの市は。相当実弾使ったって話だよ。あくまでも噂だけどね~」

「実弾って…お金? 家(うち)ももらったの?」

「家には、来ないねぇ。だって豊叔父さんが警官だもの…」

「そっかぁ。叔父さん曲がったこと嫌いだもんね!」

 意識して、いちばん聞きたいことは避けていた。明人は、今の時期の再入院が一体何を意味するのか薄々、子供心にも気付いていたが、母に聞くことが怖かった。きっとそれは母の君江にとっても同じだろうと考えていた。かくしてこの親子は双方で極力父の具合についての会話を避けていた。

 翌日、学校で奈美の叔父さんが落選したことを知った。現職市長の圧勝で獲得票は現職の原田市長の半分にも満たなかった。奈美は取り立てて残念がってる様子もなかった。少なくとも外からはそう見えた。内心はどう思っているのか明人には知る由もなかった。もし、落ち込んでいるようなら、一声かけていたかもしれないが、もともと小学五年生が市政に関心もってるほうがおかしい。いつもの日常にかまけて、奈美に変化がないなら、明人が気をもむことはなかった。なにしろ明人にはそれ以上に父親の再入院のほうが気がかりだったので、そのほかの事はすぐに忘れてしまっていた。

 あの日、仁から言われた「なかなか病室にも来ない…」という一言が気にはかかってはいた。だがますます病室には行きづらかった。時には病院にまでは行っても病室へ寄らないで帰ってきてしまうこともあった。気まぐれな仁は、機嫌がいいときはめちゃくちゃいい。元気な時は頼みもしない玩具や本を買ってくることがあった。明人の好みなどお構いなしだった。どっちかというと有難迷惑であったが、そんなこととても口には出せなかった。父親が機嫌がいいということだけでうれしかった。機嫌が悪いときには、そばに寄ることさえ怖かった。いつ怒鳴られるかといつもびくびくしていた。

 入院してからは、明人が行くと よく来たな、と言ってくれた。病院食を、おれはこんなもんは口にあわねぇから、おめえ、食えと言われてよく食べた。歯ごたえがなく、味も薄くて、正直美味しくはなかったが、残すと仁に怒られそうな気がしたので、きれいに平らげた。食べるところを見ている仁は、明人がきれいに食べると満足そうな笑みを浮かべた。

 ここ何回かは、病室を訪れるたび、仁は眠っていた。声をかけても起きないときもあった。病院には君江のクルマに同乗してくることもあったし、君江がパートの時は学校が終わってから家に帰って自分の自転車で来ることもあった。だから病室で、君江や親戚と鉢合わせすることもあった。昭和四十八年七月…盛夏、明人は自分の父親がもう永くないことをひしひしと膚で感じていた……。


 夏休みを十日後に控え猛暑だったこの日、奈美の父親が選挙違反で逮捕されたというニュースが午後七時からの全国放送で流れた。容疑は公職選挙法違反。

市長選に立候補した実の弟の後援会幹部として複数の運動員に票の取りまとめの買収工作を行ったというものだった。それでなくてもこの地域は以前から金権体質が指摘されており、票をお金で買うことに罪悪感をもたないという意識の低さが問題となっていたので、恰好のマスコミネタになってしまった。事実、放送では「反省なき町、Y市。変わらない金権体質!」というテロップが流れたという。

小さな町は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。翌日、明人が早めに学校に行くと、教室にはいくつものグループが出来、みんなひそひそと小声で話し合っていた。誰しもが奈美の父親の逮捕の事を話題にしていることは言うまでもなかった。そして誰もが奈美は学校を休むだろうと思っていた。しかし、彼女は気丈にも登校してきた。

「おはよう!」

 つとめて明るく元気な声で、奈美は教室に入ってきた。クラスメートたちは、みんな何事もないかのような顔をして「自然さ」を取り繕った。奈美に「大変だったね」、「大丈夫?」という声をかける者は誰もいなかった。だが、こんな日に「自然さ」を取り繕うとすることこそが、実は「不自然」なのだということに、誰もが内心気付いていた。やがて、この作られた不自然さに耐えきれなくなって、均衡を破る何者かが現れるのは時間の問題だった。果たしてそれは誰なのか。異様な緊迫感を孕んだ時間はじりじりと過ぎていった。そして、それは二時限目が終わったときに起こった。

 パーンと乾いた大きな音がした。茂雄だった。彼は今朝の朝刊を自分の机の上に叩きつけたのだった。その一面には、「金権千葉の黒い渦、Y市市長選で買収工作」などの大見出しが躍っていた。

「参っちゃうよな~。誰かの父ちゃんのおかげで、またこのY市の評判がガタ落ちだよ~」

 これ見よがしに腕を頭の後ろで組んで、チラチラ奈美のほうを見ながら、わざとのんびりした声で茂雄は呟いた。奈美は能面のような無表情な顔でまっすぐ前を向いたままだった。

「『ごめんなさい』の一つくらいあってもいいんじゃね~の。学級委員なんだしぃ」

「ちょっと! やめなさいよ! 茂雄くん。選挙違反したのは奈美ちゃんじゃないのよ。お父さんよ。奈美ちゃんは関係ないじゃないの!」

 憤慨した恵子が、茂雄に詰め寄った。クラス中から、そうだ、そうだの大合唱が始まった。旗色が悪くなった茂雄はそれでも言い返した。

「そうは言っても、オレたちの郷土が全国放送でブジョクされたんだぞ! お前、悔しくね~のかよ! 郷土愛はないのかよ!」

「それは…、アタシだって悔しいけど……」

 教室は一瞬にして、ざわつき始めた。みんな思い思いに喋りだしていた。誰も奈美の気持ちなんて考えていやしなかった。

 それまで黙って聞いていた明人は立ち上がった。

「うるせ~よ。お前ら!」

 明人の一喝で教室は静まり返った。

「オレ等に選挙はカンケーない。まだ選挙権すらないんだからな! 大人の世界の話なんだよ! 教室にそういうの持ち込むなよっ! 奈美の気持、考えろ! 相手の立場になって考えてみろよ! ギャーピーギャーピー騒いでるままのガキでいいのかよ」

 ガタン! 突然、奈美が立ち上がった。肩が震えていた。何か言おうとしている……。

「いいよ! 奈美。今は何も言うな!」

 明人はわかっていた。こんな時、ひとことでも発すれば、ギリギリこらえていた感情の堰が切れて制御出来なくなることを……。ひとことでもなにか言ったら奈美は号泣してしまうだろう。そしてその後は抑えがきかずに泣きっぱなしになってしまう。クラスメートにそういう奈美は見せたくなかった。


 放課後、教室は閑散としていた。いつも女子たちに囲まれて華やかだった奈美の周りには、誰もいない。それが女子特有の気配りなのか、優しさなのか明人には分からなかったけれど、少なくともいつも通りでないことだけは確かだった。明人の周りにもいつも屯(たむろ)している友達は誰もいない。茂雄はもちろん、順一も輝夫も帰ってしまった。教室には奈美と明人だけが残っていた。明らかに世界は変わった。昨日までの日常は消えてしまったのだ。あの後、異変を察した担任の田丸美由紀先生にも、普段通りにしなさいと言われたが、大人たちの態度に敏感に反応するのが子供だ。そう、彼等はどっちつかずの年齢だ。いみじくも君江が言ったように、あるときは子供、そしてある時は大人……だって仕方ない。子供か大人かよりもまず先に、に・ん・げ・ん、だから……。

「さっきはありがとう…」

「オレたち、浮いちゃったみたいだな…」

 長い沈黙の後、奈美は切り出した。

「…今日、……今日ね…、学校に来るのはとても勇気が要ったの。何を言われても気にしないようにしようと目に見えない鋼の鎧を身につけてきたつもりだったんだけど、簡単に割れちゃった」

「だから、友納くんが、何も言うなって言ってくれたとき、とてもうれしかった」

 そう言って、奈美は笑おうとしたが、うまく笑えず半笑いになった。

「今日は、家に帰れるの?」

「ううん。家は報道のカメラマンとかマスコミがいっぱいだからって、さっきお母さんから学校に電話があったって田丸先生が教えてくれた」

「お母さんの実家が茨城の神栖にあるの。そこからお祖母ちゃんがクルマで迎えにきてくれることになってるの。しばらくそっちにいなさいって」

「そっかぁ、大変だな……」

 教室の窓から見える空が真っ黒になったかと思うと、突然雷鳴が轟いた。校庭に稲妻が走った。それは今まで息を潜めてため込んでいたうっぷんを晴らすかのように身もだえ踊り狂うフラメンコを想起させた。

「うわぁ…、綺麗!」

 稲妻を怖がるでもなく、ごく自然に奈美は呟いた。雷ははっきりと恐怖を感じる人間とそうでない人間に分かれるという。奈美も明人も全く雷恐怖症ではなかった。

 そして、すごい夕立になった。薄暗くなった教室で、明人と奈美はどちらかともなくお互いの置かれた状況を話し始めた。明人はいったん退院した父親が再入院したこと、奈美は叔父の市長選出馬経緯、そして父親が後援会長として叔父と何を目指していたか……などを話してくれた。

「お父さんは、叔父さんと二人でこの町の古臭い政治を変えようとしていたの。理想に燃えていたのよ。私とお母さんは、無謀だと思ったし、もし落選したらカッコ悪いから止めてって言ったんだけど、最後には折れたわ。だって理想を語るお父さんは目がキラキラしてたんだもん。でも選挙は素人だから選挙プランナーを雇ったの。その人のプラン通りに選挙戦を進めていったのよ。お父さんの最大の失敗は、選挙のことはそんなに知らなかったのに、後援会長ってことで責任者になってしまったことなんだわ。

 お父さんの容疑は、買収ってことになってるけど、本当はこうなの。選挙事務所開きに手伝いにきてくれていた近所の人たちに、ちょうどお昼どきになったから、弁当を出したのよ。そしたらそれが引っかかったの。お茶だけならよかったんだって。お茶ならいいけど弁当はアウト。それが公職選挙法なのよ。決して票の取りまとめなんて頼んでないわ。普通の感覚なら、お昼になったらお弁当くらい出すじゃない。でもそれは公職選挙法では買収になるの。要はグレーゾーンなのよ。厳密に言ったらお茶はいいけどコーラなんかの缶入り飲料出したら買収になるの。何故なら缶入り飲料は商品として価格がついてるものだから。

 それがニュースになると『公職選挙法違反!』『買収!』っておどろおどろしい言葉が使われて『金権政治』って括りでいかにも悪いことやってるって印象になるの。公職選挙法の隅から隅まで、アタマに叩きこんで選挙戦っている人なんていないわ! だからいわゆる選挙屋とかプランナーと呼ばれる人たちが幅をきかしているのよ。だけど彼等のプラン通りにしても一歩間違ったらこういうことになるの」

 明人は、これだけ奈美が熱弁をふるうのを見るのは初めてだったので、あっけにとられていた。

「物を盗んだとか、人を殺したとかいう誰がみても悪い『絶対悪』じゃないの! 高い志を持って、選挙に立候補して、暮しを、地域を変えようと理想に燃えて挑戦する人たちが、あやふやでいいかげんな、どっちにもとれるような世間の常識からかけ離れている法律によって、罪人扱いされて本当にいいのかしら? だから私はお父さんを信じてる。例え世界中が敵になっても。だって、だって私はお父さんの娘だから……」

 明人には、奈美の言ってることの半分も理解できなかった。だけど、奈美を好きになったことは間違いじゃなかったと、心の底から思った。

 教室の窓の向こうに夕焼けが見えた。いつの間にか、夕立はあがっていた。雨上がりの校庭に、一台の黒塗りの高級車が滑り込んできた。奈美を迎えに来た祖母のクルマだった。


 八月に入ってすぐ、明人の父、仁は容体が悪化して亡くなった。亡くなったのは深夜三時だったので、明人は寝ているところを祖母つねに起こされた。タクシーで病院に駆けつけたときには間に合わず、仁の顔には白い布がかけられていた。病室に入ると、君江が憔悴しきった顔で振り返った。

「つい、さっきだったんだよ」

 親の死に目に間に合わなかったという負い目だけがしばらく明人の胸に残った ある程度、覚悟はしていたが、胸にぽっかり大きな穴が開いたようだった。

 それからのことは、明人はあまりよくおぼえていなかった。告別式の日が、うだるような暑さだったことだけは記憶していた。同級生が次々に焼香に来てくれた。奈美の父親の逮捕以来、ちょっと疎遠になっていた茂雄も来てくれた。もちろん順一も輝夫も来た。恵子たちも来てくれた。そしてお母さんと一緒に奈美も来てくれた。奈美は黒いワンピース姿でそれが正式の喪服かどうか、明人には知る由もなかったが、ひどく大人びて見えた。

 告別式が終わって数日たった。油蝉がうるさいほど鳴いていた。降りしきる蝉しぐれの中、明人は縁側でぼんやり膝を抱えて、空を見ていた。夏休み中だったが、全身から力が抜けてしまい何もやる気が起きなかった。親戚たちが集まってこれからの事を相談していた。叔父の豊や他の親戚たちがしばらくは農繁期に田んぼをやることになった。母の君江はそれまでパートだった縫製工場の仕事をフルタイムにして働くことになった。

 一家の大黒柱が亡くなってしまい、まだ小学生の自分がしっかりして母を支えていかなくてはと、心ではわかっているのだが、まるで体に力が入らなくて抜け殻のようになってしまっていた。近しい肉親、それも父親が亡くなるとは、これほどまでに堪えるものなのか……。これからどうすればいいんだろう……。

 電話が鳴った。君江が取り次いでくれた。奈美だった。


 明人が自転車をとばして待ち合わせの国道のバス停に行くと、埃っぽい停留所の時刻表看板のわきに麦わら帽子に黄色のワンピースという出で立ちで奈美は立っていた。この間の告別式の雰囲気ともまた違っていて、沈んでいた明人の心は沸き立った。

奈美の歩くスピードに合わせて明人は自転車を押しながら、二人は田んぼに続く農道を歩いていた。春に植えた稲はすっかり実り、夏の風に重そうな稲穂を揺らしていた。

「ごめんね、突然。私、どうしても最後に、友納くんが素手でエビカニ獲るところ、観たかったんだぁ……」

「最後……?」

「うん、私、二学期から転校するの!」

 明人にとってはショックだった。

「今回の事があったからじゃないの。前から決まってたの。中学は有名私立を受験するの。それの準備ってわけ。母方の遠い親戚がいる静岡の学校」

「そうなのか……。寂しくなるな」

 出来るだけ、動揺を表に出さないように他人事のように明人は呟いた。


 明人は田んぼの畦道に横になって、巣穴に腕を肩まで入れていた。その隣にちょこんと膝を折って奈美が見学している。

「へぇー、そうやって獲るんだぁ。初めて見た」

 奈美が見てるんだ。カッコいいとこ、見せなくちゃと内心、明人は意気込んでいた。指先に赤爪の感触があった。

「捕まえた……。ん?」

「どうしたの?」

 引っ張り出した赤爪はとても立派だったが、左のハサミが根元からなかった。片爪である。自切したのではない。もともとなかったのだ。その片爪を奈美に見せた。

「片爪だ…」

 不意に、胸の底からわけのわからない感情が沸き上がって、涙が溢れ出た。

「オレも、こいつといっしょだ!」

泣きじゃくる明人の頭に優しい手のひらの感触があった。

 奈美の手が、おずおずと、そっと明人の頭を撫でていた。

「友納くん、私たち……、強くなろうよ!」

「私、向うに行っても手紙書くから!」

 明人はこっくりと頷いて、そっと片爪を巣穴に戻した。

 二人の頭上には夏の入道雲が、無限の広がりをみせていた。その一角に陽の光が当たって切ない輝きを放っていた。

<了>

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エビカニ大将 鷺町一平 @zac56496

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