3話 説教とか風邪とかetc...

 委員長に別れの挨拶を告げ教室を後にした。


 向かう先は職員室。職員室で楽しいことなどもちろんあろうはずもなく、恐らくこの後待っているのは説教である。遅刻をしたのだから仕方がない。それも30分の遅刻だ。間に合わせようという努力すら見えないところが余計に担任の怒りに触れたらしく、反省文プラス雑用プラス説教という欲張りセットである。


「失礼します」


 職員室の中に一歩足を踏み入れる。職員室というのはどうしても異質な空間のような気がする。言うならば社会と学校の狭間。普通の会社ほど業務的なわけじゃないが、友人というほど仲良くない。そんな空気が紙やコーヒーの香りとともに部屋に充満している。


「遅いぞ風見。何してたんだ」


 開口一番飛んできたのは非難の言葉。担任の寺西先生は急かすように机の上を指で、一定のリズムを保ちながら叩き続けている


これは残念ながら当然である。放課後に提出しろと言われていたものを放課後に書き上げたのだ。そんなことを正直に言ったのでは先生の逆鱗に触れるのは間違いない。正直だけが正義ではないのだと俺は今朝学んだ。ここは嘘も方便で上手く躱そうではないか。


「ちょっと忘れないうちに授業のノートまとめようと思いまして」


「お前が香月の家にノートと配布物を届けてくれてることは知ってるがな、それが言い訳になると思ってるのか?どうせ反省文書き忘れてて急いで書き上げたんだろう」


 どうやら俺の思考はお見通しらしい。


「それにしても遅い。放課後に提出だと言ったはずだぞ。今何時だ?」


 時計を見る。時刻は17時30分。見たままを正直に告げる。


「17時30分です」


「そうだ。放課後は16時からだな。1時間30分の遅刻というわけだ。何をどう忘れたらこの時間に提出しに来るのか分からんが朝の遅刻が可愛く見えるな」


「面目ないです……」


 ぐうの音も出ないとはこのことだ。『委員長と……』と今すぐ正直に全てを喋ってしまいたい衝動に駆られるが、喉元まで上がってきた言葉をぐっと腹の奥底にしまい込み、その上に蓋をする。謝罪で解決できることの方がこの世の中は多い。誠実さとは決して正直なことばかりではない。


「それはそうと、何で今朝30分も遅刻したんだ」


 これは言い訳のしようがない。うなされて寝ざめが悪く遅刻したのだ。


「本当にただただ寝坊したんです。間に合いそうもなかったので普通に登校しました」


「急ごうという気は?」


「全く。忘れ物の確認まで万全に済ませてきました」


「偉そうにするな」


 その通りだ。忘れ物の確認など前日に行うのが学生たるもの。小学生の時はできていたことがどうして年齢を重ねるうちにできなくなるのだろう。失敗に対して器用になると言えば聞こえがいいが、怒られ慣れてしまっているという言い方も出来る。怒られても真剣に反省することができないのだ。


 人は一度やったことは繰り返しできる生き物である。きっと犯罪者はこうやって生まれていくのであろう。しみじみと感じる。


「本当に反省してないなお前。まあ事故や事件に巻き込まれたってわけじゃないならいいけどな」


 最後の一言で子供であることを思い知らされた。情けなくなり、その場を早く立ち去りたい衝動に駆られる。


「それじゃあ俺はこれで」


 背を向ける俺に矢のように鋭い声が掛けられる。


「今回はまだ初めてだから許すけど」


 振り返った先生の顔には影が差しており、表情はよく分からなかったが厳しい表情はしていることは容易に想像できた。


「今後こういうことが続くようなら、お前が香月の家に行くのは先生としては看過できないぞ」


 それは到底想像できていたはずのことだった。今更驚くようなことじゃない、驚くようなことじゃないのに、こんなにも心臓が早鐘を打つのはどうしてなのか


「本来であれば教師や学級委員がやるべき仕事だ。それをわざわざ引き受けてくれてる生徒の生活習慣やら学業に乱れが生じたなんて許される話じゃないだろう」


「それは……」


『俺のことなんて関係ない』とそう言いたかった。しかし頭の中では分かっていた。そんなのは俺の独りよがりでしかないと。学生の本分はあくまでも学校生活に集約される。学外の勝手な行動で学校生活に悪影響が出ては本末転倒。当たり前のことだ。


「もしお前がその立場を守りたいなら死ぬ気でやれ。無理だと思うなら早いうちに先生に相談しろ。いいな」


「分かりました」


 玄関から外へ出る。


 グラウンド中に響く掛け声、ボールの音、土を蹴る音、合図の笛の音、音楽室からかすかに聞こえる吹奏楽器の音、応援団の練習している太鼓の音。


 見上げると、空に張り付いた鱗のいっぺんまで紅く染っている。


 うろこ雲が出たら天気が崩れるという話をふと思い出した。


 1人で歩くと、取り止めもなく色々なことを考える。


 柄にもなく感傷的な気分に浸ることもある。


 1人という寂しさがそうさせるのだろうか。どれだけ美しい空模様であったとしても、いや美しければ美しいほどその分だけ哀しいような気がしてしまう。


 輪郭が曖昧になり、もうすでに一日の仕事を終えようとしている夕陽は昼よりも一生懸命に燃えている。そんなに頑張らなくても空は十分に明るいし、なんならそろそろ明るさにも飽きてくる時間だ。


 全てが終わってしまうように感じられてこの時間は好きじゃない。『終わり』を明確に感じるのは幼い頃の記憶なのだろうか。『夕暮れになったら遊ぶのはもうおしまい』、そんな刷り込みがきっとどこかにある。条件反射に近いその感覚は、どれだけ楽しいことがあったとしても、まさに青空を赤く染める夕陽のように少し物悲しい感情で上書きしてしまう。


 夕暮れの光は心の真ん中を焼き尽くす。ぽっかりと空いた穴は夜の闇が盲目的な優しさで埋めてくれるだろう。


 正面玄関から正門へと続く道は右手にサッカーグラウンド、その奥に陸上トラック、左手には野球場、さらにその奥に多くの部活が兼用で使う室内練習場と、部活動の見学にはもってこいなわけだが、一人でこの道を歩くのは何だか気恥ずかしい気分になる。


 仕方がないので部活動に励む生徒たちの活気や熱のこもった声を一身に浴びながら正門へと歩を進める



 学校の正門の周りには花壇がありこの時期はラベンダーが咲いている。


 この時間になってしまえば彼らも赤く染まってしまい本来の青さを発揮できないでいる。


 しかし、大敵の海風に晒されながら控えめに静かに咲く彼らの気高さは確かにそこにあった。それは潮の香りにも負けない強い存在感だ。


 ラベンダーの香りは正直好きじゃない。しかし見た目は好きだ。毎日世話をしている人間に感謝したいくらいには。


「こんなことしてる場合じゃないな」


 人を待たせていることをすっかり忘れて感傷に浸ってしまった。


 ふと空を見上げてみるとまだ空には徐々に藍色が溶け出していた。


「急ごう」


 朝通った道を少し早足で駆ける。


 やはり急ぐのは得意じゃない。


 身体が覚えてしまった道を順に通り、空模様があまり変わらないうちに目的地へとたどり着いた。


『香月』という表札の下に設置されたインターホンを鳴らす。これにももう慣れたものだ。


「ごめんください」


「あ、柊人くん?ごめんなさいねえ毎日毎日」


 インターホンに出たのは香月優葉かづきゆうはの母親だった。

 彼女は現在風邪を引いているらしい、出てこられないのも無理はない。


「いえいえ、具合の方はどうですか?」


「だいぶ良くなったんだけどね。まだ咳と喉の痛みが引かないみたいで」


 思っていたよりも重傷だったらしい。


「土曜日、久々に外に出たい!なんて言うもんだから一人で散歩させてたらあの子上着着ないんだもの」


 それは確か雨の日。彼女のことだきっと傘を差さずに外に出たら帰るころに雨に打たれでもしたのだろう。そういう奴だあいつは。


「しかも雨の中傘も差さずよ?そりゃ風邪も引くわよ」


 大方予想通りである。


 優葉のお母さんは呆れたように大きくため息を吐く。


「ま、明日か明後日には良くなってると思うわよ。また遊びに来てちょうだい」


 優葉のお母さんに今日の分の配布物と授業ノートを渡す。


「じゃあ今日のところはこれで帰ります」


「本当にありがとうねえ」


「柊人くん来てくれてるけど顔出さなくていいの~?」


 優葉のお母さんが自室にいるであろう優葉に向けて大きく呼びかける。


「いい!」


 元気そうな否定の返事が返ってきた。喜んでいいものやら悲しんでいいものやらといったところだが、思っていたほど容体は悪くなさそうだ。


「だって。また来てね」


「お邪魔しました」


 香月家を後にする。


 ふと、視線を感じた。


 振り向くとカーテンがはらりと動いた。


 向かいの家の犬が動いたカーテンを凝視している。こいつも幼馴染と言って差し支えないだろう。約15歳。老犬である。


「そうかそうかお前も気になるか」


 年の割につやのある白い毛に覆われた頭をなでてやると目を細めて尻尾をこれでもかと振っている。


「あいつもお前くらい素直だったらな」


 誰に掛けたのか、自分でも分からない声は次第に暗くなっていく世界に溶けて消えていくようだった。





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