2話 出会いとか別れとかetc......
春というのはなぜだか心がざわつく。
それを喜びと捉える人間もいれば苛立ちと捉える人間もいる。期待と不安、出会いと別れ、成功と失敗、日本人として生きる以上、この春の陽気と不安定な心模様は切っても切り離せないわけである。
ちなみに俺はこの心のざわつきが心底嫌いである。
春とは変化の季節だ。凍った地面から草木が芽吹くように、固く閉じた蕾が花開くように、卵から生物が孵るように、停滞を許さないこの季節には全く同じようなことが人間関係にも生じる。クラス替えというノアの大洪水は今までのクラスを一掃し、新しい人間関係という種を蒔いた。
これが芽吹くのはいつになるかは分からない。もしかしたら芽吹かないことだってあるかもしれない。
まあこんなことを考えているわけだが、もう既に十度以上の春を越してきた俺にとって多少の揺らぎこそあれど慣れたものである。嫌いなことに変わりはないが、なんとかなると腹を括ってしまえばそんなに怖いものでもない。
そんな春の大洪水から一月がたった今部活動の春季大会も終わり、目下問題はといえば中間テスト。クラスで1人、この後に控えた用事のために授業用のノートをまとめていた
「これでよしと」
どれくらいの時間こうしていただろう。
空はすでに赤く染まり、集中の途切れた視界にはなまぬるい光がぼんやりと張り付くようだ。
放課後の夕陽が差す教室、見てくれはさぞ美しかろうが教室の中にいる人間にとってみれば西日の強烈な光線が直撃しているわけである。息苦しさに思わず窓を開ける。教室にはすでに俺一人。思うがままだ。
高台にあるこの学校からは海が見渡せる。それも3階ともなればそれはもう夕陽に照らされた紅い空に青い海のコントラスト、ベタではあるがいくら見ても飽きないそんな景色である。
夏を目前に控えてるとはいえ、夕暮れ時に吹き込む海風は正直肌寒いくらいだ。いくら5月とは言え西日の持つ鬱陶しい熱量は夏に匹敵する。これには顔をしかめずにいられない。風では洗い流せないような粘性のある暑さが顔にへばりついているような感覚だ。
がらりと背後でドアが開く。
「用が無いならさっさと帰りなさいよ」
凛とした声が響いた。
姿を見ずとも、声だけで分かるその聡明さ、誠実さ。そんなものを持ち合わせているのは俺の知っている限りうちの学校には一人しかいない。
「別にいいだろ誰もいないんだから」
「私がいるじゃないの」
我がクラス一信頼が厚く、誰からも頼られ、尊敬のまなざしを一身に集める彼女は
「硬いこと言うなよ、委員長」
我がクラスの委員長。通称『委員長』こと
小中高と学級委員長やら生徒会長やらを務めあげ、古くからの友人は彼女のことを敬意をこめて『委員長』と呼ぶ。俺もそのうちの一人であり、彼女は俺の幼馴染のうちの一人である。
「ていうか風見くん、反省文は先生にちゃんと提出したの?」
そう、俺は今朝時間通りの登校を諦め、30分の大遅刻をかました。学年主任の先生は努力の欠片も見えない態度が気に入らなかったらしく、反省文を書かせるという前時代的な罰則を科した。
放課後に提出するように言われていたが、まだ提出していない。それどころかまだ書きあがってすらいない。
「いや、まだ」
「なら早く出してきなさい」
「いや、まだ書けてない」
彼女は小さく溜息を着くと呆れたように目を伏せた。そして、諦めたように机を2つくっつける。
「じゃあ今ここで書きなさい。見ててあげるから」
「委員長は帰らないのか?」
「今から生徒会の議事録まとめるからまだ帰らないわよ。ていうか風見くんは早く帰らなくていいの?今日も行くんでしょ」
「あいつ風邪引いたってさ。今日は少し遅れて渡すもん渡して帰るよ」
「そうなの。じゃあ集中して反省文が書けるわね」
満面の笑みを浮かべながら彼女は言う。適当な反省文でこの教室を出ることは叶わないだろう。
「何で嬉しそうなんだよ」
「ちょうどいい話し相手ができたと思ってね。一人で仕事するのも気楽でいいけど、さすがに毎日はちょっと寂しいもの」
委員長の口から聞く単語としては意外なものが飛び出した。弱音を一切口にしない彼女からは想像もできない言葉に俺は呆気にとられてしまった。
「なに驚いてるのよ。私だって人間なんだから寂しいと思うことくらいあるわよ」
「委員長がそんなこと言うイメージがなくてさ……」
「じゃあ今日は少し優しくしてね」
「なんなら委員長の仕事終わるまで付き合うよ」
「だめよ。あなた先生待たせてるんだから。もし私がそれを知ってて風見くんを引き留めたなんて言ったら私まで怒られるじゃない」
自分の些細なわがまますら我慢する。どこまでも真面目な奴だ。
「それもそうだな」
「ところで風見くん」
委員長の声のトーンが一段階上がった。優しい微笑みのまなざしの奥には凍てつくような光が静かにたたずんでいる。きっと彼女はろくでもないことを言うに違いない。その前に逃げなくてはいけないのに体がすくんで筋の一本すらも自由に動かせない。
「なんでしょうか」
ゴクリとつばを飲み込む。もはや反省文どころではない。
「月刊紙の進捗はどうかしら?佐伯さんには写真とレイアウトをお願いしてるから文章は風見くんの担当のはずだけど」
月刊誌とは毎月各学級の広報委員が持ち回りで行う学級新聞のようなものだ。学校のニュースやインタビュー記事、行事予定などのコーナーを設け冊子にして発行する。
これは全校生徒に配られる。隅から隅まで見る奴もいないが全く持って目を通さないやつもあまりいない。みんなさらっと見てそしてカバンの奥で芸術的な折り目とともに教科書の下敷きにしてしまう。ある日出てきたときにはそれはもう化石といっていい代物だ。
その程度のものではあるが、作る側はいつだって真剣だ。言わずもがな今月の担当はうちのクラスである。
発行は月末だが、校閲や印刷、冊子にする作業を考えると月の中頃には草案を提出したいというのが本音だ。ちなみに今は5月10日。来週は中間テストが控えている。テスト明けには提出できる状態にしておかなければならない。
正直なところ文章はまだ一文字も書いてはいない。これを正直に告げるしかなかった。
「いや……」
「テスト明けの週に提出なんだからしっかりしてよね」
「まあ、
彼女は彼女なりに自分が何もできていない現状に不満を感じているのだろう。俺が好きで引き受けたことであり彼女が責任を負う必要は一切ないのだが、立場上の責任と本人の責任感の強さも相まって彼女は何事にも大きな責任感を感じてしまう。
本当にこいつは……。
「なによまじまじと」
「委員長は本当に真面目だな」
「ちゃんとしてるのが一番楽だもの。性に合ってるし」
ふと、今まで聞いたことはなかったがずっと気になっていたことを聞いてみることにした。
「委員長ってさ羽目外したくなることとかないのか?」
「無いことはないけど……何よ急に」
俺の背後から差す西日が眩しかったのか一瞬顔をしかめ目をそらす。
なんだかその様子が面白かったのでもう少し質問してみることにした。彼女は嘘をつかない。きっと彼女なりの誠実な答えをしてくれることだろう。
「高校生ってそういう年頃だろ。真面目な委員長も人並みに不良娘するのかなと思ってさ」
彼女は唇に手を当て少し考えると、言葉を選ぶようにゆっくりと答えた。
「羽目を外したいことはあるけど悪いことをしたいとか、反発したいと思ったことはないわよ。買い物したり、お茶したりで十分だもの」
彼女らしい健全な応えだ。期待していた答えが帰って来てなんだか嬉しいような気分になった。
「真面目だしいい人だよな委員長って」
目を伏せ、期待外れとでもいうようにわざとらしく、はあっと息を吐いた。
「私、風見くんに真面目って言われるのそんなに好きじゃないって知ってた?」
「知らないけど、なんで?」
「だって、小中高って友達やってきたのに真面目しか言うことないんじゃ寂しいじゃない」
あんまり正直に言うのも恥ずかしいし悪態をついてその場を逃れようかとも思ったが、優しくするといった手前、優しくしないわけにもいかない。
「真面目なだけじゃないぞ」
彼女に思っていたが言ってないことなんて山のようにある。長い間友人をしてきたおかげで良くも悪くも素直に物事を伝えるということはここ数年しなくなってしまった。きっと分かってくれる。委員長には特にそういう甘え方をしていたような気がする。
いくら長い付き合いとはいえ、たまには思っていることを正直に告げる日があってもいいのかもしれない
「意外とお喋り、あと可愛いものが好き」
ふと彼女が持っていたシャープペンシルに目をやる。それは見覚えのあるものだった。
「まだ持ってたのかそのシャーペン」
「そりゃ貰ったものだもの大切に使うわよ」
俺が昔家族で旅行に行ったとき幼馴染にそれぞれお土産を買った。その時に勝ったイルカがモチーフのシャープペンシルを彼女はまだ使ってくれていた。
イルカをモチーフにした鮮やかな青は彼女の凛とした印象によく似合っている。
「優葉がクラゲだっけ」
「そう。なんかふわふわしてるようで存在感があるところが似てるから」
「じゃあなんで私はイルカなの?」
「イルカって賢いし泳ぎも早いし見た目も」
『かわいい』と言おうとしてやめた。それはいくら何でも恥ずかしい。優しくするという大義すらをも粉々にしてしまうような爆弾だ。
「凛としててかっこいいから」
一瞬、言葉に詰まった。きっと彼女はそれを聞き逃さない。何を言おうとしていたのかも見透かされているような気がして、俺はわざとらしく付け加えるように言った。
「あと顔が可愛い」
「ありがとう。お世辞だとしても嬉しいわよ」
彼女はにこりと笑って言った。こういう時に茶化さないのも彼女のいいところだ。人からの好意を素直に受け取ることができる。
ここでお世辞なんかじゃないと言えれば俺の一人前の男だったが、俺はまだ半人前だったようで、口の中に布を押し込まれたように口が自由を失った。今の一瞬だけがそれを言えるタイミングだったのに、俺はまた彼女に思っていることを一つ伝えそびれたわけだ。
「ほら、風見くんさっさと先生に提出してきなさいよ。あなたがいたんじゃ私の仕事も進まないわ」
手元を見ると思ってもないことを書き連ねただけの反省文がそれなりの形をしてそこにあった。一切筆が進んだ記憶はないが、会話をしながら適当に文字を書き進めている間にそこそこの分量になっていたようだ。どうやら考えもせずに文字数を増やすことに関しては才能があるらしい。
できたのであればさっさと提出しに行こう。これ以上の説教を喰らうのも面倒だ。
「分かったよ。邪魔して悪かったな」
「また明日ね」
彼女はまたにこりと笑って、彼女らしく控えめに手を振った。
「あぁまた明日」
教室を出るときに見た彼女の横顔は陽の赤が差していた。
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