Ⅸ 背中、虚しさ、盗賊が憎くてしょうがない
9-1
朝の陽射しに包まれて目覚めたライルハント少年が、背の高い木に登り小鳥と話していると、明け方に三人組がギラの町へ入ったと知る。ライルハントは剣を持ち杖に跨って飛び、入口のアーチを越えてリンボとアリアの家の屋根に降りる。騒然とする町民を意に介さず家に入ろうとすると、後頭部を何者かに殴られた。
振り向くとそこにはシュミレがいた。
「ああ、シュミレ。生きていたのか、よかった」
「よかねえよ。なんでわざわざ空路を選んで屋根の上に降りたんだてめえは。めちゃくちゃ目立ってるだろうが」
「昨日、空を飛んで入ったから妖精に阻まれなかったのだろうと言われたんだ。だから、同じようにするべきだと思った」
「……そっちも大事ねえみたいだな。まるで変わらねえ。ほら見ろ、エナが大変そうじゃねえかよ」
指さされたほうを見ると、駆け寄ってきた警備隊に、エナが必死で説明している。ライルハントはそこに近づいて説明に加わろうとしたが、ややこしくなるからやめろ、とシュミレに諫められる。
「イヴはどこだろう」
「イヴならスイ達と一緒にいるよ。今はスイとサンナーラとアリアで買い物をしているから、あたしとエナで待っていたんだ」
「そうか。僕達はどうしよう?」
「余計なことはせず、じっとしていればいいんだ」シュミレは肩を竦めた。「まあ、ここで何か金目のものを漁るわけにもいかねえからな。なんせ、妖精ってのがいるんだから」
「妖精の話を聞いたのか?」
「まあな。あと、その剣の話も」シュミレは、ライルハントが腰から下げている剣を見て言う。「どんなもんか見てねえかわからねえけど、すげえんだろ?」
「ああ。木に刃が当たったら、根こそぎ飛んで行ったんだ」
「なんだそれ。鞘がすっ飛んでないのが不思議だな――恐ろしいぜ」
「それはそうと、スイ達が戻ってきたらどうするんだ?」
「ギラの町は宿とかはないみたいだから、また野宿になるだろうな。だからこその買い出しだよ」
「そうしたら、次はサクランド王国か?」
「ああ。ギラの町からサクランド王国は、存外近くにある。それでも存在し続けていられるんだから妖精の力ってのはすげえな」
ふとエナのほうを見ると、やっと帰ってもらうことができたようで、戻っていく警備隊に手を振っていた。それからエナはライルハントのほうを向いて、おはようございます、と言った。
「どうですか、剣。すごいですか」
「ああ、すごいよ。これならどうにか生きて帰れるかもしれない」
「はい。無事に帰ってきてくれることを願っています」
「ところでよ、エナ」シュミレは言う。「宿がないのはいいんだけれど、風呂はどこかで借りられないのか? 昨夜、サンナーラが身体を洗いたそうにしていたんだよ」
「お風呂ですか……家のものが壊れてしまった場合は友達の家のお風呂を借りたり買えるまで待ったりするのが普通なので、見知らぬ人のためのお風呂はないですね。誰とも知り合いでない旅人がくるなんて、想定していないので」
「そうか。残念だ」
「ああ、でも。わたしの家なら、今日は母もお友達と食事をしていて誰もいないので、お貸しすることもできますよ」
「いいのか?」
「まあ、薪や貯水の減りでばれるとよくないので、あんまり使えないんですけれど……サンナーラさんだけならば」
「それなら心配しなくていいぞ」とライルハント。「僕の杖から綺麗な水を出せばいいし、木や火も杖から出せばいい」
「あ……たしかに。それなら問題ありませんね。皆さん入っても問題ないと思います」
「じゃあスイ達が戻ってきたらすぐに入ろう」
入ってきてから沸かすのでは遅いため、ライルハントとエナで先に風呂の準備を始めた。エナの指示通り、桶に水を張って、火のついた薪を筒に入れた。
「風呂もまた色々なものがあるんだな」
「そうですね! わたしも、キングコーラス城下町の宿屋のお風呂を見たとき驚きました。まるで仕組みが違うんですから」
「洗浄剤はあまり変わらないみたいだな。教えてもらう必要はなさそうだ」
「ちなみに、ライルハントさんの住んでいた島ではどのようなお風呂に入っていたんですか?」
「いいや、風呂に入るのは大陸で初めて経験したよ」
「では、どなたから教わったんですか?」
「シュミレだ。シュミレは優しくてな、僕に教えながらイヴのことも洗ってくれたよ」
「へえ。優しいですね、自分のお風呂を後回しにしてそこまでしてくれるなんて」
「いや? シュミレも身体を洗いながらだったぞ?」
「え? 一緒に……お入ったん……ですか?」
「そうだな」
そんな会話をしていると、スイが食べ物を、サンナーラが衣類をリュックに詰めてやってきた。イヴはアリアにおぶられていて、色々な感情が渦巻いているエナの表情を不思議そうに見つめていた。風呂が熱くなると、真っ先にサンナーラが入った。それから交代で、スイが色々と持ち込みながら入る。
順番待ちをしているシュミレに、エナが近寄る。なんともいえない顔をしているエナを見て、
「どうした? 具合でも悪いのか?」
とシュミレは言った。
「いえ……あの、シュミレさん」
「なんだよ」
「ひとつ訊いてもいいですか」
「なんでもいいよ。さっさと言えよ」
「ライルハントさんと、婚約されてますか?」
「え、されてねえけど? なんで?」
心から驚いているシュミレを見て、エナは少しだけほうっとする。
「いえ、その。ライルハントさんと一緒に、えっと、お風呂に入ったことがあると、聞いて」
「ああ。ライルハントが風呂の入り方も知らねえみたいだったからな。でもそれがなんで婚約になるんだ?」
「ええーっと……いえ、そうでないならいいんです。いいんです。……ちなみにシュミレさんは、ライルハントさんのこと、どう思っていますか」
「友達」シュミレは即答した。「ライルハントにとってそうじゃなかったとしても、そのくらいの情はあるよ」
「そうですか……お友達……わかりました」
「一緒に入りたいなら言えば入れるんじゃねえのか?」
なんでもないことのように言うシュミレに、エナはおろおろとする。「そんな! まだそういうのは早いというか……アピールしすぎというか!」
「誰の命も、どんな命も、明日あるとは限らねえぜ?」
「え……でも、ライルハントさんは死にません」
「……あたしがガキの頃、お菓子を作るのがすげえ上手いコックのおばさんがいたんだ。よく喋ったんだけど、ある日お菓子の作り方を教えようかって誘われたとき、あたしは断ったんだ。興味はあったけど、あたし今よりもっと男子っぽくてガキっぽい感じだったから、似合わない気がして。気恥ずかしくて。で、その翌年、おばさんは殺された。おばさん以外の色んな人達と一緒に殺された。……あのとき素直に頷いていたら、美味しいお菓子が作れるやつになれてたのかもな。あたし」
「……シュミレさん、そんなことが」
「ライルハントが死ななかったとしてもよ」シュミレはエナの瞳を見つめる。「エナが死ぬかもしれないぜ」
「……シュミレさん。わたし」
「あたしになんか言ってる暇があったら、ライルハントに言うべきこと言ってこい」
スイが湯から上がる。シュミレがイヴを連れて入りに行く。スイに呼ばれて、更衣室のドアの前で順番待ちをしているライルハントに、エナは言う。
「あの、ライルハントさん」
「どうした、エナ」
「お風呂……えっと、その」
「風呂がどうした?」
「……あの、ですね。なんというか、……えっと、だから、……実は、わたし、じゃなくて、こう」
最初は伝えたい内容に対する照れだったが、次第に、もじもじとずっと切り出せない自分が恥ずかしくなってきてしまう。エナは自分の鼻息が荒くなっている気がして、引き返したくなりながら、それでもシュミレの話が頭をぐるぐると回り続けて、はっきりとした言葉をまったく紡げなくなってしまった。
ライルハントはそんなエナの頭を、ゆっくりと撫でた。
「大丈夫だ。なんだって言えばいい。怒らないし、笑いもしない」
それは幼少時、自分が育ての親にされたことであり、言われたことだった。言いづらい失敗も、そうされれば気持ちが落ち着いて、ゆっくりと伝えることができた。
エナは触れられたことでさらに緊張してしまったが、同時に安心もしていた。
目の前の彼は、きっと本当に、エナが何を申し出ても、怒らない。嫌いにだってならないでいてくれる。そんな気がしたのだ。
「……ありがとう、ございます」
そう言って、深呼吸をした。
それから、
「あの、ライルハントさん。……お風呂のとき、お背中、洗わせてください」
と、言った。
「背中? いいぞ。でも、なんでだ?」
当然の疑問をライルハントが言うと、エナはまたまごついてから、
「ライルハントさんが、いてくれたおかげで、わたしは昨日いつもより、楽しい気持ちになれましたから、お礼です」
ということにした。さすがに愛しているからとは言えなかったが、嘘も言わなかったからいい、と自分に言い聞かせた。
ライルハントは、そうか、と頷いて、
「それなら僕も昨日、エナと市場を見たり森を歩いたりするのは楽しかった。エナの背中も僕が洗おう」
と屈託のない笑顔で言った――エナは思ってもみなかった申し出に、またしばらく、何も言えなかった。
9-2へ続く
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