日宿り亭

由香木玲

第1話 孤育て

「ここは、日宿り亭。“ 雨宿り”じゃあございません、“ 日宿り”でございます。善男善女の皆様にゃあご縁がないかもしれやせんが、ほんのちょいとの間お天道様から隠れたいって人間が、時々いらっしゃるもんです。

 何も悪いことじゃございません。眩し過ぎる日差しは毒にもなりやすからね。きらきらした日差しをちょいと避けて、少し休めば大丈夫。またお天道様の下を歩いて行けやしょう。

 ここに来る人にゃあそれぞれ訳がお有りですが……おっと、皆様方。ここで聞いたことは日向じゃ明かさねえでくだせえよ。」


−−−−日宿り亭は日陰にある。ちょっと日差しが眩しいとき、華やかな世界に疲れたとき、誰かの真っ直ぐな視線に耐えられないとき、魔がさして後ろ暗いことをしてしまったとき、ふと飛び込んだ陰の下はもう日宿り亭の軒先である。





「どうせなら、苦しめばいいのに」

 思わず自分の口から出た言葉に、奈津子はどきりとした。


 幸い、相手には聞かれていない。この場にはいないのだ。今日は生後六ヶ月の子どもを夫に任せ、産後初めて奈津子一人で外に出てきたのだ。まだ三月だというのにやたらと眩しい日差しを避けて、何となく入った半地下の喫茶店でようやく人心地ついたら、思わず独り言が出てしまったのだ。

 出産後、夫以外の大人と会話をする機会がない。それどころか夫ともまともに話せている気がしない。変な独り言の癖がついてしまったし、久々に一人で出たら人との会話が困難になっていることに気が付いて驚いた。飲み物を買ったコンビニで、袋がいるか聞かれたとき、何と答えて良いのか一瞬分からなくなったのだ。

 たかだか半年の育休と思っていたが、生涯で一番長く感じた半年かもしれない。この調子でまもなく再び社会に出ることができるのか、急に不安になった。


 こんなものだとは思っていたが、育児の主戦力は実質奈津子のみ。おまけに奈津子が育休中で家にいるからという理由で、夫は家事をほとんどしなくなった。

 それでも休日は、夫もそれなりに料理を作ったり子のおむつを替えたりしてくれてはいる。しかし、大人が二人いる状態でのそれは、一人で子どもを抱えて行うのとまるで難易度が違う。

 早くも動き回るようになり目が離せない赤ん坊を側に置いて一体どれだけのことができるのか、夫も一度思い知ったらいい。どうしてもそんなどす黒い感情が湧いてきて、拭いきれない。

 それがうっかり口をついて出たことに、奈津子は狼狽えた。



 喫茶店の中は洋館風の凝った内装だった。ビルの半地下という立地にも関わらず、思いのほか広さもある。暗い色合いの重厚な木製の窓枠や腰板には優雅な曲線の彫刻が施されている。天井からは凝った装飾のシャンデリアが下がっている。今どき蝋燭ということはないだろうが、時折ゆらりと明滅して見えるのは、古い電球だからだろうか。

 明治の文豪が通ったと言われれば信じてしまいそうな時代がかった雰囲気の店内は、日常からはかけ離れていたが、妙に落ち着く。


 客はぽつぽつと。一人客ばかりのようだ。静かな店内に、どこかで聞いたようなクラシックが小さな音で流れている。


 そういえば何か注文しただろうかと疑問に思ったとき、店員と思しき男性がコーヒーカップをトレーに載せてやってきた。

 店構えからすれば、黒ベストにボウタイでもしたマスターが出てきそうなものだが、やって来たのは藍色の着物に法被を羽織った、昔の旅館の番頭のような出立ちの男だった。髷こそ結っていないが、長めの髪を頸の後ろで束ねている。

「お待たせしました。珈琲でございます」

 人の良さそうな笑顔でそう言うと、その番頭はソーサーを奈津子の前に置いた。


……そうだ、入り口に『珈琲五百圓』と書いてあったっけ。


 辛うじてそれは思い出せたが、やはり注文した記憶がない。産後は頭も鈍るというがここまで衰えるものかと、奈津子は額を抑えた。


「おや、どうかなさいました?」

 番頭が気さくに声をかけてくる。

「いえ、何でも。ただ、店に入ってから今までの記憶が何だかぼんやりしていて。注文したのも忘れていたみたい」

「ああ、これは失敬。ご案内を失念したのはあっしの方です。当店ではまず皆様に珈琲をお出ししてますんで」

 あっけらかんと言う番頭に、奈津子は目を見開いた。番頭はどこからか大きなメニュー表を取り出すと、奈津子の前に示して見せた。


  Menu

   ・お話を伺う

   ・お話をする

   ・静かに過ごす

  *いずれにも珈琲が付きます。


 不可解なメニューを見て、奈津子は狐につままれたようにしばし茫然とした。訝しんで辺りを見回すと、ぽつぽつといた客は、よく見れば猫やら狸やらが、かっちりした三揃いのスーツやら昔の女学生風の袴やらに身を包んで座っているのであった。そうと気付いてから見れば、番頭の顔も何やら狐に似ているような気がする。


……そうか、これは夢なのか。


 そう理解すると、奈津子の警戒心がふっと解けた。

「それじゃあ、私の話を聞いてもらえる?」

「喜んで」

 番頭が目を細めて答えた。

 奈津子は彼に向かいの椅子を勧めた後、今日に至るまでの半年間の、澱のように溜まった思いを吐き出した。



「つまらない話でしょ?」

 奈津子が自虐的に話を締めると、番頭は少し考えるようにして言った。

「それで、『どうせなら苦しめばいい』と」

「私、自分でもどうかしてると思う。何だかこのところ、恨みがましいことばっかり考えちゃって」

 ため息をつきながら、奈津子は頬杖をついた。

「夫がいて子どもがいて、戻れる職場もあって、友人たちからは羨ましがられてるくらいなのに。なんでだろ」

 番頭は水を一口飲むと真顔で答えた。

「そりゃあ、お客さん、お疲れなんでございましょう」

 奈津子もコーヒーを啜った。

「それもそうか」

「あったりまえでしょう。犬や猫だって、子育て中ってぇのは大変なもんですよ。ましてや人間の子どもってやつは産まれたときには歩けもしねえし、一人で乳も咥えねえ。そんな状態から育てていって完全に手が離れるまで十年以上かかるってんですから、大変なのはお天道さんが東から昇るくれえ当然のことです」

「そうだよねえ、ほんと。そんな大変なことをほとんど一人でやってちゃあ疲れるわけだ」

 憑き物が落ちたように、奈津子は笑った。なんでこんな簡単なことに思い至らなかったのだろう。

 番頭が続ける。

「そのくせ、今の人間がたは、子を育てるのは誰にでもできて当たり前みたいに思ってるように見えますなあ。周りが皆そんな具合じゃ、育ててる方は気が抜けねえってもんです」

「それだわ。夫からもそう思われてそうで……ああ、だからか」

 奈津子の口を突いて出た『どうせなら、苦しめばいいのに』は、苦しんで、理解して欲しかったからだ。


 ただそれだけのことが腑に落ちただけで、奈津子の胸の内がふと軽くなった。


「ありがとう。聞いてもらって何だかすっきりした」

「そうですかい。それなら良うございましたが、あっしがお世話できるのはこの店の中だけですんで。外じゃあきっと誰かの助けを得てくださいよ。くれぐれも、お体お大事に」


 お代の五百円を硬貨で支払って店の外に出ると、眩しかった日が少し傾いてきていた。電車に乗って帰れば日が沈む頃には家に着くだろうか。

 しばし考えて、奈津子は夫に電話をかけた。

「もしもし、お疲れ。今から夕飯って作れそう?……ふふ、そうでしょ。分かってるって。私もいつも、この時間クタクタなんだもん」



−−−−日宿り亭は日陰にある。日向の世界に疲れたとき、一寸逃れた日陰は日宿り亭の軒先である。

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日宿り亭 由香木玲 @yukaki_rei

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