(27)
アリスさんの伸びた黒い前髪の下からは、茶色い瞳が覗いている。たしかに、ウィンターフィールド先生と並んだら姉妹に見えるだろう。特にふたりの目元はそっくりだった。――もっとも、今では先生の方がアリスさんより年上になってしまっていたが。
正気の輝きを取り戻した瞳で、アリスさんはゆっくりと周囲を見回した。
「アリス姉さん! 正気に戻ったのね!」
先生は感極まった様子でアリスさんに近づき、その手に触れようとした。けれども、それは当然のように叶わなかった。アリスさんはすでに亡くなった人間――亡霊。本来であれば、とうにこの地上には存在しないはずのものなのだった。
先生はそれに気づいて、とても悲しそうな顔をした。一瞬だけでも、姉のように慕っていたアリスさんが戻ってきたかのように、もしかしたら錯覚したのかもしれない。しかしそれは、錯覚にすぎなかった。
「アリス姉さん……」
『グレイス……久しぶり。大きくなったね』
そう言って微笑んだアリスさんの表情は穏やかで、先生が言った「心優しい人間だった」という表現が、とてもしっくりときた。
わたしたちはふたりの再会を黙って見守る。
『グレイス……私は――』
「姉さん……いいのよ、言わなくて……いいの」
『……ううん。私は……言わなきゃ……認めなくてはならないわ』
先生の眼鏡の奥にあるまなじりには、涙が浮かんでいた。そしてそんな先生を困ったように見ながら、アリスさんは目を細めて微笑んだ。けれどもその微笑みにはどこか翳がある。
……正直に言えば、「浄霊術」が成功したとしても、アリスさんを説得するのは苦労するだろうという予測があった。けれども、現実は違った。アリスさんは――。
『私、死んだのよ。自分で……死んだの。ここで……』
アリスさんは、とても聡明な人……だったんだろう。
自らが死んだことも、それが自ら選択した結果だということもすべて理解して――受け入れて、もうすぐ旅立とうとしている。
それが「浄霊術」の効果かどうかはわからない。あるいは、妹分だったウィンターフィールド先生を前にして間違いに気づいたという可能性もある。それか、長い年月をかけてアリスさんの魂そのものは怨念を消化していたとか。
色々と可能性の話をすればキリがない。たしかなのは、今、目の前にいるアリスさんは、死を受け入れて天国へ向かおうとしているということだ。
『……バカなこと、しちゃったね。グレイスを泣かせて、気づいたよ。もう、遅いけれど……』
「うん……本当に馬鹿なことをしたんだよ、姉さん……私、私……!」
先生の声は、そこから先は言葉にならなかった。
人間は死んでしまえばそれでおしまい。死は不可逆の事象だ。――たとえ、輪廻転生などという事象が存在しても、同じ人間に生まれ変わって、やり直すなんて都合のいいことは、まず無理なのだろう。
少なくとも、わたしたちの生きる世界では、そうだ。
アリスさんと先生のやり取りを見ていて、わたしはかすかな後悔を覚えた。前世のわたしが死んで、悼んでくれる人間が、どれだけいただろうか。「死ぬのには早すぎたよ」……そんなことを言ってくれる人間が、ひとりでもいただろうか。
家族関係は淡白で、友人はひとりもいなかった。せめてひとりくらい、わたしが死んだときに、思い切り泣いてくれる友人がいれば――わたしの前世の人生は、なにか変わったのだろうか?
『ごめんね、グレイス。ごめんね』
せめてひとりくらい、わたしの死を悼んでくれるだろう友人がいれば、わたしは今でも後悔の念を抱き続けていたのだろうか?
『……みんなも、怖い思いをさせてごめんね。謝られても……って思うかもしれないけれど』
「いいえ。いいんです。元から持っていたものではなく、半ば噂によって形成された怨念も、貴女の身の内にあったようですから、気にしないでください」
「……そうね。あたしは謝罪されてもグチグチ言うような人間じゃないから! 気にしなくていいわ!」
「え、ええ。うん。たしかに怖かったけれど……アリスさんはもうそんなことはしないわけだし」
『ありがとう……あなたたちは優しいね。……もし、あなたたちみたいな友人が、ひとりでもいてくれたら……よかったのに』
アリスさんの言葉に、わたしはなんだか胸がいっぱいになって、張り裂けそうな気持ちになった。
「――じゃ、じゃあ! 友達になりましょうよ!」
気がつけば、そんな言葉が口から飛び出していて。
『友達……』
アリスさんがおどろいたように瞬きしたので、わたしは気恥ずかしさに頬を赤くする。
突飛なことを言った自覚はあった。これから天国へ行く人間に対して言っても仕方がないだろうと、わたしの中の冷静な部分が言う。
けれども……どうしても、伝えたかった。もし、死を選ばなければ、それからの人生であなたと友達になりたかったって人は、絶対にいたよって……希望的観測かもしれないけれど……言いたかった。
そんなわたしに続いて、ローズマリアが声を上げた。
「わたくしも、貴女とお友達になりたいですわ。闇属性同士、色々とお話したいことってありますもの」
「あ、あたしも……まあ、友達になって欲しいって言うなら、いいわよ!」
クリスタルもそれに続くが、そのセリフは素直とは言いがたいものだった。けれども、それが今の彼女の精一杯素直な言葉なのだろう。それがわかったから、微笑ましくてなんだか口元がにやけてしまった。
アリスさんはやっぱりびっくりしたような顔をしたが、次第に目を細めて微笑んだ。
『ありがとう。……ねえ、あなたたちの名前を聞いてもいい?』
「わ、わたしの名前? えっと、エマ・サマーズ……」
「わたくしはローズマリア・ディ・スプリングフォードと言います」
「あたしはクリスタル・オータム! 一度で覚えなさいよ!」
『……うん。すぐに覚えちゃった。だって……私の友達の名前なんだもの!』
アリスさんはこれ以上にないという、花が咲いたような笑顔を見せる。
そして、その姿が徐々に薄らいで行くのがわかった。
「アリス姉さん……!」
『グレイス。これが本当のお別れよ。立派なあなたを見られてよかった。いっぱい心配かけちゃって、ごめんね。でも、エマとローズマリアとクリスタルに会わせてくれて、ありがとう。……もう、心残りはないわ』
「うん……うん。……私も、最後に会えてよかった……。……さようなら、アリス姉さん。ゆっくり、眠って……」
『うん。バイバイ、みんな。……会えて、うれしかった』
……そうしてアリスさんは、旧放送室から煙のように消え失せた。
そしてその後、もう二度と彼女の亡霊が現れることは、なかった。
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