第2話


side/akane



 茜ちゃん、と彼女は呼んだ。その響きは、すごく久しぶりで、なんだかくすぐったくって、そして少し、嬉しかった。

 彼女はとてもクールな人だと思っていた。あまり人とグループを作って行動しているところも見たことがなかったし、羽目を外してはしゃいでいるところなんて想像すらつかない。

 そんな彼女と、お昼休みにおしゃべりして過ごした。こんなこと、この高校生活で、起きると思っていなかった。ふたりで話したときの彼女は、やっぱりどこか私や他の人とは違っていて、不思議な人だという印象だった。どこが、と言われると難しいのだけれど、纏っている空気感というか、雰囲気が異質だと思った。彼女の周りはとても静かで、涼やかだ。それはあの白い肌に凛とした綺麗な顔立ちの、外見によるものだけではない。彼女の唇からこぼれた言葉たちは、どれも冷静で、選び抜かれたもので、そしてまっすぐだ。とてもミステリアスだけれど、嘘はないことが、少し話しただけの私にもわかる。つい口数が多くなったり話があちこちに逸れてしまう自分が、なんだか少し恥ずかしくなる。

 けれど、そんな自分でも彼女と楽しく過ごせたこと、彼女も楽しかったと言ってくれたことが、嬉しかった。誇らしいとさえ思えた。それに、まさかあの幽霊の噂が彼女のことだったなんて、思いもしなかった。天使のような彼女が、幽霊の正体だったなんて、という驚きと、そのことを話す悪戯っぽい笑い声がとてもイメージとは違っていて、すごくかわいらしいと思ってしまったのだ。あんな出会い方でなければ、きっとそんな一面は見られなかっただろう。


 次の日廊下で見かけた彼女は、いつもと変わらずひとりきりで、近寄り難さと憧れが混じったような視線を浴びている。孤高の彼女は、どこか寂しそうにも見えるけれど、やっぱりとても綺麗だ。



「私の下の名前? 教えてなかったんだっけ」

「そう、聞き忘れちゃってたなって、あの後気が付いて」

 そういえばそうだったね、と彼女は言う。彼女は確か成績もそれなりに良かったはずで、とても聡明なイメージがあったけれど、どこかぼんやりと抜けているところがあるのだなと思った。

「蓮未っていうの。植物のハスに、未来のミ」

「はすみ……」

「家族以外からは、あまり呼ばれないけれど」

 教えてくれた彼女の口調は、どこか皮肉めいた響きがあって、なんとなくだけれど、彼女は自分の名前が好きではないのかな、と思った。けれど、そんなことはまさか本人に聞けないし、私はそうなんだ、と曖昧な返事をした。

 蓮の花に、『その先』を感じさせる未来の未の字は、彼女にとても似合いで、綺麗だと私は思った。

「……はすみ、ちゃん」

「うん?」

「……な、なんか、呼び方変えるのって、ちょっと照れちゃうね」

「ふふ、そうかも?」

「徐々に慣れていくことにする! 徐々に、ね」

「わかった」

 彼女に茜ちゃん、と下の名前で呼んでもらえてすごく嬉しかったから、私も同じように嬉しい気持ちをお返ししたいと思ったのだけれど。何故だかとても恥ずかしくなってしまって、この時はやめにした。ゆっくり、慣らしていこうと思ったのだ。彼女は、そんな私を見て、柔らかく微笑んでいた。



 * * *



side/hasumi



 初めて彼女とお話をした日の帰り道、ふと思い出したことがある。

「そういえばね、私も覚えてたよ。二年生のときの、音楽の授業」

 覚えていたというよりも、彼女に言われて、遡った記憶に、彼女を見つけたのだ。

「私、何か目立つことしてたっけ」

「みんなが退屈そうにしていた座学の時間に、一人だけすごく熱心にノートを取ってる子が居たなって、記憶に残ってて。あれ、茜ちゃんでしょう」

「ああっ……うん、そうです」

 そう言われた彼女はなんだかとても気恥ずかしそうに頭を掻いてみせた。私は音楽の授業なんてろくにテストなんかありもしないのに、ノートまで取るなんて真面目な子なんだなあと、感心していたのだ。恥ずかしいことではないだろうと思う。

「私、音楽史とかはそこまで詳しくはないんだけどね。歴史……世界史とか、それ系の読み物とかが好きなんだ」

「そうだったんだ。それであんなに熱心だったのね」

「音楽もすごく歴史に深く関係してるんだってことがわかっていくのが、なんだか楽しくて。あれからモーツァルトについての本とかも読んでみたら、とっても面白かったの」

 好きなことについて話す彼女の目はキラキラしている。なんだかまだ少し恥ずかしそうにしているけれど、好奇心と知識への欲望が垣間見えるそのきらめいた目は眩しかった。

「本が好きだから、学校では図書室か、教室で本を読んで過ごしたりも多かったんだけど……、最近ほら、みんな受験勉強でピリピリしてるでしょ?」

「……それで、居場所が無く感じてたのね」

「あはは、そう。まあ、推薦で決まってる子なんて他にも居るんだから、私だけのことじゃないんだけどね。でもやっぱりなんかこう、息苦しくって」

 息苦しい。そんな言葉が彼女から溢れてくるのを、少し意外に思った。それは私がいつも学校という場所に感じていたことだったからだ。明るく素直で、誰にでも好かれそうな彼女が、自分と同じようなことを感じて生きていたということが、どうにも現実味を帯びないけれど、彼女は現にこうして、切なそうな、寂しそうな、孤独感を抱いた顔をしている。

 そのことを、嬉しいと感じてしまった私は、歪んでいるだろうか。例えマイナスな感情であったとしても、それを揃いだと喜ぶのは、変なことなのだろうか。

「……私も、わかるよ」

「えっ?」

「……息苦しさ。なんだかそこが、安心できる場所ではないような、自分が居るべきところではないような気がするの」

「……高山さんも、同じように思うことがあるんだ」

 彼女もまた、意外そうに驚いていた。どうやら私たちは、お互いのことを何か自分とは違う世界に生きているものだと思っていたのかもしれない。ぱっちりとした瞳はじっと私のことを見つめていて、その中にはちゃんと私の姿が映っている。確かに私はここに居て、彼女も私の目に映っているのだろう。

 そう思うと、どうして自分たちが別世界の生き物だと感じていたのか、わからなくなってくる。私たちの間にあったように思えていた境界線は、もしかしたら、私自身が引いていたものだったのか。

「……私たち、ひょっとしたら、少し似ているのかも」

「ええ? 似てないよ」

 彼女はそう言いながらも、ころころと笑う。口ではそう言うけれども、きっと彼女も同じことを考えたのだ。


 彼女と居ると、今まで過ごしていた薄暗い裏庭が、ふいに明るくなったような気がしてくる。それまで浅い呼吸しかできなくて、苦しくて、ぼんやりしていた視界が、どんどんとクリアになっていくような、そんな気がしてくるのだ。

 実を言うと、自分しか居なかった静かな空間に誰かが来るのは、ほんの少し嫌だった。けれど彼女なら、私の居る場所をどこでも素敵に変えていってくれるのかもしれない。そんな風に思った。


 その日家に帰ると、母が何か気付いたような顔をして尋ねてきた。

「最近なんだか楽しそうね。何かいいことがあった?」

 家でまでにこにことしていた自覚はないけれど、そんな風に言われるということは、すごく態度に出ていたということだろうか。私は少し気恥ずかしい気持ちになる。

「うん。学校でね、お友達ができたの」

 それでも私は素直にそう答えた。彼女と友達になれたということは、私にとって喜ばしく、誇らしいことなのは隠したくはなかったから。

「……そう、よかったじゃない」

「うん」

 母がそう言いながらも、少し複雑そうな顔をする。悲しいことではないのだから、そんな顔をしないでほしかったのにと思いつつ、先のことを考えると、それも無理もないよなと思った。私も母も、曖昧に笑ってその話は終わりにした。



 * * *



side/akane



 裏庭で彼女と出会ってから、数日が過ぎたころ。もう二学期も終わり、明日の午前授業と終業式が終われば冬休みに入る。町はすっかりクリスマスムードに染まっているものの、受験生たちにはそんなことは関係ないようだった。みんな少し浮き足立った雰囲気にはなっているものの、でも遊んでる場合ではないよね、というような感じだ。

 高山さんとは、お昼休みの時間のたびに裏庭で会っているけれど、相変わらずそれだけだ。それ以外はもともとクラスも違うため、廊下ですれ違うくらいのタイミングでしか会うことがない。隣のクラスなのだから、会いに行けば会えないこともないけれど、わざわざ会いに行く用事もなければ、まだそういう間柄だろうかという遠慮も少なからずある。


 それに、私と高山さんが仲良くなったことを、なんだか誰かに知られたくはなかったのだ。恥ずかしいとか、そういうのではなく。ただ、ふたりの秘密にしておきたかった。


「高山さんは、冬休みはどうするの?」

 私たちの学校では、年末年始以外の冬休みは希望者のみの各科目の補習授業があった。ほとんどが受験対策のものだったが、私は苦手科目だけは受けに来るつもりだった。

「……冬休みは、ちょっと忙しくしているから。補習とかにも来れそうにないな」

「そっか。じゃあ次会えるのは、三学期に入ってから……かな?」

 私が少し言い淀んだのは、三学期に入ってからも、三年生はほとんど自由登校になるからだ。私のようにもう進学先が決まっている人や、それぞれの勉強などのために学校へは来なくてもいい期間に入る。これまでの上級生たちの様子を見ていると、半分以上の生徒が学校へは来ていなかったように思う。そういう私も、あまり学校へ来るつもりはなかった。クラス内ではまだ気まずいままだったし、三学期に入って急にそれが元通りになるとは思えなかった。進学後のための資格の勉強をするのだって、別に学校まで来る必要は特になかったのだ。

「私は、どうしようか迷ってるんだけど……」

「……私も迷ってる。私も、もう進学先は決まっているから」

「そ、そうだったんだ! そういえば、聞いてなかったよね。ていうか、聞けてなかったんだけど……」

 昼休みも彼女は勉強とは関係ない本を読んで過ごしていたり、毎日私と会ってなんでもない話をしているのだから、彼女もきっと私と同じで既に進路が決まっているのだろうとは思っていた。それでもこういうのはデリケートな話題だし、なんとなく気軽には聞けずにいたのだ。

「ふふ、そうだろうと思った。茜ちゃんは優しいよね」

「そ、そんなことないよ」


 彼女は少し切なそうに微笑む。そんな顔をして優しい、なんて言われるものだから、鈍感な私でも、何か言いようのない不安を感じて、心臓がどきりと強く鳴った。

「……私も、言いにくかったから。茜ちゃんの優しさに甘えちゃった」

「……それは、別にいいけど……」

 なんだか私は彼女の話そうとしていることを聞くのが怖かった。どうしてそんなに怖くなったのかはわからない。言わないままでいてくれたらいいのにと、この気持ちの正体がわからないままに、そう思った。

 けれど彼女は、その繊細そうな薄い唇をそっと開く。

「ウィーンの音大にね、決まってるの。何年か前から長期休みとかには向こうの先生にお世話になっていて、その先生が勤めてる大学に」


 一瞬、頭のなかが真っ白に染まったみたいだった。

 彼女のことを考えれば、まったくありえない話ではなかったのだから、そんなに驚く話でもない。どこにでもありふれた話ではないけれど、彼女はどこにでもありふれた女の子ではないのだから。

「……そう、なんだ」

「……うん」

 私はうまく言葉を紡げなかった。どういう気持ちでいたらいいのか、全然わからなかったから。

「じゃあ……春からは、とっても大変だね」

「うん。言葉とか……まだ少し、自信がないから。引越し準備とかもね」

 彼女はきっとすごいピアニストになるのだと思う。海外への進学は、その夢への大きなステップなのだ。誰にでもできることではない、すごくおめでたい話のはずだ。


 けれど私たちはそのとき、ちっともうまく笑えていなかった。それまでは、ふたりともすごく自然に笑えていたはずなのに。



 ぎこちない私たちの雰囲気を無理やり終わらせるみたいに、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り響く。私はその音にハッとして、我に返ったような気持ちになった。

「あ……、ねえ、もう戻らなきゃ」

 そう言って教室へと戻る準備を急ぐ私を、彼女は相変わらず寂しそうな目をしたまま、じっと見つめていた。

 そしてそのまま、私にこう問いかける。

「ねえ、私たち、この音をあと何回聞けるのか、考えたことはある?」

「……何の話?」

「チャイムの音。この音ってね、一日に予鈴も含めて十五回鳴るの。卒業までの日数と掛けて、その内に午前授業とか鳴るのが少ない日も何日かあるから、その分を差し引くと、このチャイムを含めてちょうど残り四百五十回……この数を、茜ちゃんは多いと思う?少ないと思う?」

 彼女の目はふざけている風ではなかった。だから、チャイムは今も私たちを急かすように鳴っているけれど、その問いにもきちんと答えなくちゃいけない気持ちになった。


 まず一日に十五回も鳴っていたことを、私は知らなかった。そんなこと、数えて考えてみたことがなかった。

 四百五十という数字は、ただそれだけ聞けば大きな数に思える。しかし一日に十五回となると、その数で単純に割った場合でも、残り三十日分。午前授業の日もあると言われた通り、きっかり三十日ではないにしても、私たちがこうして学校で生活して、この音が聞けるのは、残り三十日とちょっとしかないということだ。


 そう考えて、ふと怖くなった気がした。今はまだ十二月。卒業式は三月。まだ先のことだと思っていた。

 そう考えているうちにも、昼休みの終わりを告げる予鈴のチャイムが鳴り終わる。

「これで、残り、四百四十九回……」

「そう。私たちがどう感じたところで、関係なく残された数は減っていくの」

 その言葉にぞくりとした。私がどう感じたとしても、時間はどんどん過ぎていく。そんな当たり前のことを、私はすごく恐ろしく思ったのだ。

「……怖いな」

「怖い?」

 彼女は小さく首を傾げて、同じ言葉で聞き返した。

「わからないけど、そう感じた」

「……そう」

 短く返した彼女はその瞳に憂いを残したまま、けれど安堵したように、目を細め、その唇に笑みを浮かべた。

 私の答えは、彼女の満足のいく言葉だっただろうか。私はそれを教室に戻ってからも、ずっと考えていた。


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