カウントダウン

アサツミヒロイ

第1話

 いつもと同じチャイム。予鈴も始鈴も終鈴も、すべて同じ音だというのに、鳴る時々で、なんだか別の音にさえ聞こえるように思う。朝の予鈴はなんだか背筋が伸びるし、お昼前は授業終わりを報せる音が待ち遠しく感じるし、一日の終わりを告げる音は、なんだか少し寂しくなる。けれどそれらは、全て同じ音色なのだ。


 そんな風に思うようになったのは、やはり、彼女と出会ってからだと思う。三年生になってからは、特にその違いが顕著に感じられた。


「それは、私たちの終わりの時間が近づいてきているからだよ」

 彼女はそう言った。私はその意味を理解しても、そうだねと頷きたくはなかった。


「ねえ、私たち、この音をあと何回聞けるのか、考えたことはある?」



 * * *



side/akane


 高校三年の冬というものは、考えていたよりも慌ただしい。しかしながら、この時期の過ごし方で今後の生活がどうとでも転んでしまうかのような緊迫感はあまり感じられず、どこか安閑としているような雰囲気もあった。

 それはもしかしたら、自分自身はこの受験シーズンに関与していないから、そう感じるのかもしれない。希望する大学の推薦が秋に決まっていた私は、進学後のための勉強はしていたものの、今すべき勉強で人生が決まる、というような緊張感は持っていないため、ぴりぴりした雰囲気も、それがふと緩まったような日常も、例えその輪に入っていたとしても、どこか少し離れたところから眺めているような感覚だった。

 きっとそれは、渦中にいる子たちにしてみれば、面白くないことだろうというのも、十分に想像できる。だから、正直なところ私は、今まで毎日過ごしてきた教室や図書室に、居場所がなくなってしまったような気がしていたのだった。


「こんなとこ、初めて来たな……」

 校舎裏に、所謂裏庭のようなものがあることは知っていた。それでもだいたいみんな、昼休みは教室か食堂で過ごしていたし、放課後は部活にバイトに塾にと、忙しくしていた。もちろん校舎の裏側なんて移動教室のときだって通りかかることはないし、体育館の窓から遠くに見えるこの裏庭はひどく木が生い茂っているように見えて、なんだか怖かった。何度か、幽霊が出るなんて噂も耳にしたくらいだ。そんなものは、本気にしてはいなかったけれど。

 それでも私がここに来たのは、どこか人気のないところを探してのことだった。変な噂のあるくらいの裏庭だから、そこはひっそりと静かで、人の影はない。季節柄、もうほとんどの葉も落ちてしまった木々の立てる、かさかさと乾いた音しか聞こえない。

 いつもの自分なら、この静けさにも、ちょっとした不気味さにも怖がっていたと思う。けれど今は、このがらんとした寂しげな空間がほっとする。昼休みの時間だけでも、どこか気の休まる場所で過ごしたかったのだ。ここが、こういうところで、本当に良かった。

「掃除とかしてるのかな、ここ……ていうか、寒っ!」

 もう十二月も半ばを過ぎた。私はそんなひとりごとを呟きながら、少し先に見えたベンチらしきところまで行って座って休もうと歩みを進めた。

 その時だった。

「痛い」

 靴の先に、何か柔らかいものがぶつかる感覚。と同時に、小さな痛みを訴える声。

「ご、ごめんなさい!?」

 私は一体何を蹴飛ばしてしまったのかわからないまま、咄嗟に謝った。しかし声がしたということは、人が居たのである。落ち葉だらけのその木の根本に、その声の主は座り込んでいた。

「……大丈夫?」

 それなりの強さでぶつかってしまったのにも関わらず、その声はどこかのんびりと間延びしていて、穏やかだった。慌てている私に対して心配するような言葉さえ掛けてくれた。そこに居たのは、さらりとした栗色の髪と、透き通るような白い肌が目に焼きつくような、儚げな少女だった。

 思わず天使かと見間違えてしまうようなその子の突然の登場に、それでも私がさほど驚かずに済んだのは、私がもう彼女を知っていたからだ。

「ごめんね、怪我してない?」

「ううん、大丈夫。私の方こそ、こんなところで寝転んでいたから。ごめん」

 地面は大量の落ち葉でどこからが花壇や芝生でどこが通路なのかわからなかった。わからないままベンチまで突っ切ろうとしたところ、木に寄りかかって座っていた彼女の足に気付かなかったようだ。

「びっくりした、こんなとこ、誰も居ないと思ってたから」

「私も驚いた。こんなところ、誰も来ないと思っていたから」

 彼女はふと私と同じような言葉を言い、ふわりと微笑んだ。



 * * *



side/hasumi


 こんなところ、本当に誰も来ないと思っていた。なんだか息苦しくて、のんびりしたいときに、ここへ来てひとりで過ごしていた。高校に通っている三年間、度々この裏庭に入り浸っていたけれど、人が訪れたのはほんの数回だった。そのうちの殆どが、少し離れたところにある用具倉庫の戸締りを確認しにきた教員で、私に気付いても気付かないふりをして去っていった。それ以外は特別教室の窓から何か落としただとか、サボる場所を探しにだとか、そんな理由で訪れた生徒たちで、みんな私の姿に驚いて逃げた。それから何度か裏庭の幽霊の噂を耳にしたけれど、多分私のせいだろうと思った。訂正する機会もなかったし、必要性も感じなかったので、そのまま黙っていた。

 だから、こんな場所には誰も来ないと思っていたのだ。私だけの場所……なんて、そんな幼いことを思っていた訳じゃないけれど、心休まる場所であることは確かだった。そこに、その子はやって来た。

「隣のクラスの子、だよね?」

「えっ! あ、うん、そう。B組の」

 彼女は戸惑っていた。どうしてかはわからない。さっきまで怪我の心配をしてくれていたくらいだから、幽霊だと思っている訳でもないだろうし。とりあえず私は、初めて話すのだから自己紹介からかなと思い、名乗ろうとした。

「私は……」

「知ってるよ、高山さん。目立つもの」

 彼女は私のことを知っているようだった。自分の校内での評判を考えれば、まあそういう人も居るだろうと思った。

「……ピアノのことで?」

 幼い頃からやっていたピアノで、これまでたくさん賞をもらったり、そのことで持て囃されたりしていた。それゆえに、私は校内でちょっとした有名人だった。とは言え、生徒や先生の中にはピアノなんて興味関心がない人は大勢居る。だから、そんなものはちょっとしたことだ。

 私は音楽を取り上げてしまえば特に何の特技もない、ただの普通のいち生徒だから、コンクールの結果だけを知った人たちから妙な持ち上げられ方をされるのはどうにも苦手だった。そして持て囃されるのを素直に喜べない私に対して、おもしろく思わない人たちが居るのも知っている。私にしてみれば困った話だけれど、その人たちにとっては私が困ることなどは、どうでもいいことなのだろう。

 私がそんなことをふと考えながら少し憂鬱になっていると、彼女は私の気にしていることなんて知らないような顔をして言った。

「ピアノのことは私詳しくないから、よくわからないんだけど……高山さん、きれいだから」

「……きれい?」

 拍子抜けする答えだった。いつものように何と返そうか少し考えていた言葉たちが、ぽろりと頭から落ちていった。

「かわいいっていうか、美人っていうか……うん、きれいだなって思って見てたんだ、私」

「私、見られてたんだ」

「あっ、ずーっとじろじろ見てた訳じゃないよ! あの、二年生のときの選択授業の音楽、一緒だったの、高山さんは覚えてないかもしれないけど。そのときにね、歌の上手いきれいな子だなって、それで覚えてたんだ」

「……そうだったんだね」

 一生懸命になって話す彼女に、なんだか少し恥ずかしくなって笑ってしまった。せっかく褒めてくれているのに笑うのは失礼かと思って、ばれないようにだけれど。容姿だって褒められるのは苦手なのに、彼女とは今初めて話すというのに、彼女の言葉にはまるっきり嘘がないように思えて、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。本来、褒められるというのは、こういうことなのかも……嫌な気持ちになるものではないのかもしれない。そんな当たり前のことを考えて、ひねくれていた自分を知って反省する。


 彼女はまっすぐな人だと思った。そう大きくもない校内で隣り合ったクラスなのだから、彼女のことをまったく知らないという訳ではない。何度も廊下などで見かけたことがあるし、いつも必ず友達と一緒にいたのを知っている。

 でも、ただそれだけだ。他には何も知らない。

「なんか、恥ずかしい。ねえ、私にも名前、教えてよ」

「ああ、ごめん! 私は、間宮茜っていいます」

「まみや、あかね?」

「? うん」

「みんなが『まみ』って呼んでるのを聞いたことがあったから、てっきりまみちゃんなんだと思ってた」

「ああ、そうなの、みんな『まみ』って呼ぶよ。うちのクラスにね、もう一人アカネちゃんが居るから」

 彼女はあっけらかんと笑う。あだ名とはそういうものか、と納得するが、彼女の苦く笑う顔を見て、少し心に何かがひっかかる。

「あかねって、どういう字?」

「字? 普通だよ。草かんむりに、西って書く、茜」

 茜色、赤く染まる夕焼けの空の色。あたたかい色の名前は、彼女にぴったりだと、私は思った。

「きれいな名前」

「そ、そうかな?」

「うん」

 私がそう言うと、恥ずかしそうにしながらも、どこか嬉しそうにしている。さっきの私も、同じような顔をしていただろうか。


「どうしてこんなところに来たの? 何か用事?」

 今日も裏庭は静かで、寂れていて、何もない。用事なんて早々ある訳がないと思いながらも、そう聞いた。

「うーん、特に用事ってこともないんだけど。……ちょっと、誰も居ないところはないかなーって」

「一人になりたかった?」

「うん、そう……あ! でもだからって高山さんのこと邪魔だとかそんな風には思ってないからね! ただなんとなく、クラスに居づらくて、お昼くらいは、のんびりできるところがないかなと思ってたの」

「……そっか」

 彼女がそんな風に話すのは、少し意外だった。私は彼女のことを別に知らないけれど、私が見かける彼女はいつも友達の輪のなかで笑っていて、私とは違って、『うまくやれている』人間だと思っていたからだ。

「……ここ、いいでしょ」

「えっ?」

 彼女が驚くのも無理はない。特に整備もされていなくて、今は落ち葉だらけで道と花壇の境目さえわからない。落ち葉を除けたところで花壇に何か植わっている訳でもなく、殺風景のお手本のような景観で、日陰になっているから昼間でも薄暗くて気味が悪い場所だ。普通、こういうところを『いいところ』とは言わない。

「誰も来ないよ。たまーに先生とかが来るけれど、無視して帰っていくし、生徒が恐る恐るやってきて、私のことみておばけだ~って逃げてくの」

「……! 幽霊の噂って、もしかして高山さんだったの?」

「知らないけど、多分そう。私はここでさっきみたいに寝転んでたり、ぼーっと木を眺めたり本を読んだりしてただけよ」

「あはは、おっかしい」

 彼女はころころと笑って、まんまるの目を細めていた。こんなにも屈託無く笑う顔を、ずいぶんと久しぶりに見たような気がする。

「でも、ここ寒くない? 高山さん、お昼は? お茶飲む?」

「寒いのは平気。お昼はもうさっき食べた。お茶は、ありがとう」

 ころころと話題が変わる忙しない様子に、思わず笑ってしまう。私がひとつひとつ順番に答えると、ごめんね、いっぺんにたくさん聞いちゃった、と恥ずかしそうに笑っていた。

 彼女は持っていたランチトートから水筒を取り出して、ひとつきりのコップにあたたかな湯気の立つお茶をいれて、渡してくれた。はい、と笑顔を向けてくれる彼女の頬は、寒さで少し赤くなっていた。やわらかな良い香りのするお茶の湯気を鼻先や頬に感じて、平気だと思っていたけれど、ずいぶん冷えていたのだと気がついた。



 それから私たちは、何でもない学校の話なんかをしながらお昼休みを過ごした。彼女とは初めて話すはずなのに、その人懐っこい笑顔に、つい話が弾んだ。やがて静かな裏庭にも予鈴が鳴り響き、教室に戻ろうと支度を始める。

「あのさ、高山さん」

「なに?」

「また、ここ来てもいいかな」

 そう尋ねてきた彼女は、少し恥ずかしそうにしていた。

「なんか、久々に息抜きできたっていうか、その……高山さんと話すの、楽しかったから」

 そのとき、日の当たらない裏庭に、ひと筋光が射し込んだような気がした。ふわりと視界が明るくなったような、あたたかくなったような、そんな錯覚を抱いた。

 それはもちろん、ただの気のせいである。いつも大きな校舎に日の光を遮られた裏庭は依然として薄暗く、冷え込んでいるままだ。だとしたら、私がそんな気持ちになったのは、彼女の影響なのではないかと思った。

 突然の明るさに、眩しくて目を細めたくなるような。あたたかな空気を深く吸い込んで、ずっと感じていた息苦しさから逃れられたような。そんな気がしたのだ。

「もちろん。ここ、私の場所ってわけじゃないし……それに、私も。楽しかった」

「……! よかった」

 そう言って、彼女は安心したように笑った。予鈴は私たちを急かすように、余韻を残して鳴り終わる。授業遅れちゃう、と早足で歩き出す彼女について、私も教室へと戻る。

「じゃあ、また」

「うん、また。茜ちゃん」

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