推理無双  

鷹山トシキ

第1話 2005・7 

 俺の名前は秋吉一馬あきよしかずまだ。東京都板橋区にあるD大学に通っている。今日は桜庭さくらばゼミの日だ。大河ドラマの『新選組!』の影響で幕末維新に興味を持った。

 俺の実家は埼玉県久喜市にある。そこから大学に通っていた。現在は3年生、来年の卒論に向けて研究をしていた。朝からムシムシしており、キャンパスに入るとクーラーでヒンヤリしており極楽だった。

 研究室には桜庭寿夫さくらばひさおが既におり、コーヒーサーバーで淹れたモカをご馳走してくれた。☕ 

「ありがとうございます」

 桜庭は白い髭がトレードマークの65歳だ。

 俺はノートパソコンをバッグから出して原稿を作り始めた。

 

 幕末の京都は政治の中心地であり、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の志士が集まり、従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、清河八郎による献策で浪士組の結成を企図した。

 江戸で求人したあと、京に移動した。しかし清河の演説でその本意を知った近藤勇や芹沢鴨らが反発、京都守護職の会津藩主・松平容保の庇護のもと、新撰組として発足した。


 同様の配下の京都見廻組が幕臣(旗本、御家人)で構成された正規組織であったのに対して、新選組は浪士(町人、農民身分を含む)で構成された「会津藩預かり」という非正規組織であった。


 隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。京都で尊王派の弾圧にあたった。商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に粛清するなど内部抗争を繰り返した。


 慶応3年(1867年)6月に幕臣に取り立てられる。翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従い転戦したが、鳥羽・伏見の戦いに敗北したあとは四散し、甲州勝沼において板垣退助率いる迅衝隊に撃破され敗走し解隊。局長の近藤勇は捕らえられ斬首刑に処せられた。

 

 トントン!ドアがノックされた。

「はい?」と、桜庭。

 ドアが開いて、4年生の三村伊織みむらいおりが入って来た。

「おはようございまーす」

「秋吉くん、彼女からイロイロ教えてもらいなよ」

 伊織さんは編集委員の委員長だ。俺も編集委員なのだが、4年の卒論を編集するのは3年の仕事だ。

「はい」

「ところで就活は順調かね?」

「ぼちぼちです」

 伊織さんがパイプ椅子に腰掛けながら言った。

「何の仕事するんです?」と、俺。

「印刷関係の仕事」

「そうなんですか」

「秋吉くん、木戸孝允はね……」

 俺は伊織さんの気が遠くなるような長い説明を、うつらうつらしながら聞いた。

 孝允は長州藩出身。同藩藩医和田家の生まれだが、7歳で同藩藩士桂家の養子となる。1849年に吉田松陰の門弟となり、1852年には江戸に留学して斎藤弥九郎の道場に入門し剣術を学び、また洋式の砲術や兵術、造船術、蘭学などを学んだ。

 1858年の安政の大獄以降、薩摩藩、水戸藩、越前藩など諸藩の尊王攘夷の志士たちと広く交わるようになり、高杉晋作や久坂玄瑞らと並んで藩内の尊王攘夷派の指導者となった。1862年以降には藩政の要職に就く。1863年の蛤御門の変や1864年の池田屋襲撃で但馬出石に潜居することを余儀なくされた。「逃げの小五郎」の異名をとったという話は司馬遼太郎の作り話であり事実とは異なる。高杉晋作らが藩政を掌握すると帰藩し、1865年に藩主より「木戸」の苗字を賜った。1866年には藩を代表して薩長同盟を締結している。


 新政府成立後には政府官僚として太政官に出仕し、参与、総裁局顧問に就任。1870年(明治3年)には参議に昇進した。五箇条の御誓文の起草にあたった他、版籍奉還や廃藩置県など封建的諸制度の解体と近代的中央集権国家確立のための基礎作業に主導的役割を果たした。1871年には岩倉使節団に参加しており、諸国の憲法を研究した。1873年に帰国したのちはかねてから建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進した。また内政優先の立場から岩倉具視や大久保利通らとともに西郷隆盛の征韓論に反対し、西郷は下野した。


 憲法制定を建言していたが、大久保利通に容れられず、富国強兵政策に邁進する大久保主導政権に批判的になり、政府内において啓蒙官僚として行動。1874年には台湾出兵に反対して参議を辞した。翌年の大阪会議においては将来の立憲制採用を協議して政府に復帰したが、大久保批判をすることが多かったため、晩年は政府内で孤立しがちだった。地方官会議議長や内閣顧問などを務めたが、復職後は健康が優れず、西南戦争中の1877年(明治10年)5月26日に出張中の京都において病死した。西南戦争を憂い「西郷よ。いいかげんにしないか」と言い残したという。

 その遺族は、華族令当初から侯爵に叙されたが、これは旧大名家、公家以外では、大久保利通の遺族とともにただ二家のみであった。


 昼食はキャンパスの地下にある食堂で伊織さんと食べた。奇遇にも2人とも餃子定食だった。🥟

「君は料理とか作るの?」と、伊織さんは餃子にラー油をかけながら言った。

「あんまり」

「この前、餃子作ったんだ」

 家庭で作る場合はフライパンや中華鍋、専門店では鉄板などを用いる。フライパンに並べた餃子に少量の油と水を加え蓋をして蒸して、水分が蒸発したら蓋を取り、さらに加熱して焦げ目をつける。油で焼いて焦げ目をつけてから水を加えて蒸し焼きにする方式もある。

 蒸す時の水に片栗粉や小麦粉を少量加えることもある。焼き上げた後にパリパリした薄皮ができ、これを羽根餃子と呼ぶ。

「いつまでもおふくろさんに作ってもらってちゃダメよ?大人なんだから」

 うるせーな!と、思ったが「そうですよね」と苦笑いした。

 

 🌆

 夕方、バイトに向かった。バイト先はラムレス通商という物流関係の会社で、俺はトラックからの荷物の積み下ろしをしていた。仕事を終えたときには汗まみれになり黒いTシャツが真っ白になるほど水分を奪われる。水筒のミネラルウォーターが瞬時に膀胱の中に消えた。

 倉庫で男性の遺体を見つけた。

 職場は高島平にある。

 高島平は板橋区北部、荒川及び新河岸川南岸に位置する後背湿地。総面積313ヘクタール。北側に新河岸、西側に三園、南側に大門・四葉・徳丸・西台、東側に蓮根と接している。高島平一丁目から高島平九丁目まであり、高島平二丁目は約3分の2、高島平三丁目は約2分の1の面積が高島平団地(高島平二丁目が賃貸、高島平三丁目が分譲)である。


 特に高島平六丁目は、埼玉県との県境から200mとなっているほか、東京都中央卸売市場板橋市場やトラックターミナルを中心とする物流拠点となっている。高島平駅北口の高島平八丁目には商店や飲食店が多く、買い物客で賑わう。高島平九丁目には都営三田線の車両基地である志村車両検修場があり、その上に都営住宅が建っている。


 区画は整理されており、町域内は高島平五丁目を除いて東西と南北の道路が90度に交差し、住所表示による道順案内が容易にできる。荒川の後背湿地のため、全体が平坦な土地で、町域内の高低差はほとんどない。地域内を流れている前谷津川とその支流は、すべて暗渠となっており、その上が遊歩道となっている。


 周辺の新河岸・三園を含めて高島平地域、高島平地区などと呼ばれることもある。明治から大正時代までは大半が北豊島郡赤塚村に属したため、赤塚地域の一部とされることもあり、警視庁や郵便局は、この区分を基本としている。

 男性は白目を剥いていた。

「昨日は死体なんてなかったよな?」

 班長の力丸功りきまるいさおは言った。

「ええ」

 俺は昨日もシフトに入っていた。

 警察の調べにより、被害者は宇喜多邦夫うきたくにおという指名手配犯と判明した。殺害方法は絞殺だった。

 1975年12月30日、警視庁蛇骨じゃこつ警察署は管内で発生していた連続拳銃強盗事件の容疑者としてチンピラ3人を逮捕した。当時の蛇骨警察署は火災で焼失しており、蛇骨中学校の校舎を間借りしている状態であった。


 翌1976年1月2日、容疑者のひとりを蛇骨警察署へ護送して取り調べた後、署内の留置場に留置した。

 1976年1月3日正午、蛇骨町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が蛇骨警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが蛇骨中学校に到着、警察官の制止を振り切って約80人のチンピラが署内に乱入し、留置中の3人の即時釈放を要求した。

瀬川せがわたちを返せ!」

 危険を察知した呂宋右衛門るそんうえもん警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、チンピラ20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれた。


 交渉にあたった江戸川敬三えどがわけいぞう署長は「瀬川なんて男は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、チンピラたちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。


 チンピラはついに留置場を発見した。体育館の地下に瀬川たちはいた。

「体育館を改装したようだな」と、角刈りのチンピラの宇喜多邦夫。

 中にいた瀬川たちを連れ出し、「署長は、瀬川は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、学校の前を通りかかったトラックを奪って逃走した。

 それきり、チンピラたちは行方しれずとなった。

 父親の秋吉貞夫あきよしさだおは刑事で、白目を剥いた死体は死んでから相当時間が経っていることを教えてくれた。

 犯人は倉庫の鍵を自由自在に使えた人間ということになる。俺は鍵の場所すら知らなかった。

 ラムレス通商には俺以外、4人の人間が働いていた。

 力丸功

 須賀綱吉すがつなよし

 沼田史也ぬまたふみや

 村田優作むらたゆうさく

 

 力丸と村田はフォークリフトを操縦でき、俺と沼田は派遣会社フロッグから派遣されていた。

 派遣社員に鍵は預けられていなかった。

 つまり、力丸・須賀・村田のうちの誰かということになる。

 須賀は勤務中に骨折をして入院をしてるので犯行は不可能だ。

 

 街を襲うギャングと戦うが、戦いで街を破壊したため俺は警察に事情聴取される羽目になった。相手はゴリラみたいな顔をした滝田夏男たきたなつおって刑事だ。

 しかも、この事件で政府は俺の保護プログラムを廃止し、その影響で、政府組織の一員で秋吉家の保護を任されていた男、芳賀雅之はがまさゆきも、秋吉家の保護の任を解かれることとなった。芳賀は秋吉家を付近のモーテルに2週間宿泊させる手配をさせた後、彼らに別れを告げ去っていった。

 そんな中、秋吉家の母親である秋吉靖子あきよしやすこに、ギャングと秋吉家の戦いを見ていたゲーム会社『シナプス』を率いる雷同若葉らいどうわかばと、彼の妹である和泉いずみから、スーパーヒーローの復活が掛かったある任務の依頼が届く。その任務は、正義の味方として活躍する姿を世界に見せ、秋吉家の活動が再び法律で許されるようになることを目指すというものだった。

 靖子が任務で家を留守にしている間、俺はまだ中学生の妹の面倒をしないといけないため留守番をすることとなる。大学は行ってもいいがバイトはダメになった。🙅

 秋吉家はもともとは埼玉県久喜市に住んでいたが、同県春日部にある雷同が用意した新たな住居に引っ越し、靖子は早速任務へと出かける。犯罪の多い大宮での任務で靖子は暴走するトラックを止めて人々を助けるが、スナイパーに靖子は危うく撃たれそうになった。

「ビルの上から狙っていた」

 夕飯の片付けをする俺に母は言った。

 俺は若葉と協力してスナイパーの隠れ家を突き止め、蓮田はすだで彼を捕まえることに成功するが、その正体は介護福祉士の木下翔きのしたしょうであり、彼は困惑した様子のまま埼玉県警の刑事に逮捕された。


 俺は、同級生との恋に悩む妹の千夏ちなつや、漢字の宿題に頭を抱える弟、虹尋にじひろの世話に追われていた。

「さんずいがつく漢字を20個書かないといけないんだ」

 海河清、プリントには3個しか書かれていない。

 渚渓潔浜汀、5つ俺は思いついた。

 

 7月3日

 🌋小笠原諸島の南硫黄島沖の「福徳岡ノ場」と呼ばれる海底火山が噴火する。

 ⚾長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督が、東京ドームで試合を観戦。1年4ヵ月ぶりに、公の場に姿を見せる。

「くそ暑い」

 俺は湘南に泳ぎに出かけたが溺れて死んだ。


 7月6日〜8日

 主要国首脳会議がイギリス(スコットランド)・グレンイーグルズにて開催。


 冥界での修業がはじまった。冥界は海の中にあった。俺は人魚になって鮫やエイの泳ぐ血の海を泳いだ。リュウグウノツカイってのを始めて見た。

 リュウグウノツカイは全身が銀白色で、薄灰色から薄青色の線条が側線の上下に互い違いに並ぶ。背びれ・胸びれ・腹びれの鰭条は鮮やかな紅色を呈し、神秘的な姿をしていることから「竜宮の使い」という和名で呼ばれる。全長は3 mほどであることが多いが、最大では11 m、体重272 kgに達した個体が報告されており、現生する硬骨魚類の中では現在のところ世界最長の種である。


 体は左右から押しつぶされたように平たく側扁し、タチウオのように薄く細長い。体高が最も高いのは頭部で、尾端に向かって先細りとなる。下顎がやや前方に突出し、口は斜め上に向かって開く。鱗・歯・鰾を持たない。鰓耙は40 - 58本と多く、近縁の Agrostichthys 属(8 - 10本)との鑑別点となっている。椎骨は143 - 170個。

 背びれの基底は長く、吻の後端から始まり尾端まで連続する。全て軟条であり、鰭条数は260 - 412本と多く、先頭の6-10軟条はたてがみのように細長く伸びる。腹びれの鰭条は左右1本ずつしかなく、糸のように長く発達する。腹びれの先端はオール状に膨らみ、本種の英名の一つである「Oarfish」の由来となっている。この膨らんだ部分には多数の化学受容器が存在することが分かっており、餌生物の存在を探知する機能を持つと考えられている。尾びれは非常に小さく、臀びれは持たない。

 河童に追われた。俺はひたすら逃げた。中学生の頃、俺は散々イジメられた。いつか復讐してやろうと思ったが、結局果たせぬまま卒業した。あの頃から少しも強くはなっていなかった。

 宮本武蔵が二刀流で河童を成敗してくれた。


『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利し、16歳で但馬国の秋山という強力な兵法者に勝利し、以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利したと記述される。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書が存在することから、父と共に当時豊前国を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い。


 武蔵が行った勝負の中で最も広く知られているものは、俗に「巌流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に豊前小倉藩領(現在は山口県下関市域)の舟島(巌流島)で、岩流なる兵法者[注釈と戦ったとされるものである。この内容は江戸時代より現代に至るまで芝居、浄瑠璃、浮世絵、小説、映像作品など様々な大衆文芸作品の題材となっている。


 大坂の陣では水野勝成の客将として徳川方に参陣し、勝成の嫡子・勝重付で活躍したことが数々の資料から裏付けられている。

 その後、姫路藩主・本多忠刻と交流を持ちながら活動。明石では町割(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭(本松寺、円珠院、雲晴寺)を行っている。この時期、神道夢想流開祖・夢想権之助と明石で試合を行ったことが伝えられている。


 元和の初めの頃、水野家臣・中川志摩助の三男・三木之助を養子とし、姫路藩主・本多忠刻に出仕させる。


 寛永元年(1624年)、尾張国に立ち寄った際、円明流を指導する。その後も尾張藩家老・寺尾直政の要請に弟子の竹村与右衛門を推薦し尾張藩に円明流が伝えられる。以後、尾張藩および近隣の美濃高須藩には複数派の円明流が興隆する。


 寛永3年(1626年)播磨の地侍・田原久光の次男・伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石藩主・小笠原忠真に出仕させる。


 寛永期、吉原遊廓の開祖・庄司甚右衛門が記した『青楼年暦考』に、寛永15年(1638年)の島原の乱へ武蔵が出陣する際の物語が語られ、直前まで江戸に滞在していたことが伝えられている。同様の内容は庄司道恕斎勝富が享保5年(1720年)に記した『洞房語園』にもあり、吉原名主の並木源左衛門、山田三之丞が宮本武蔵の弟子であった旨が記されている。これらの史料に書かれた内容は隆慶一郎などの文芸作品の題材となっている。


 島原の乱では、小倉藩主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津藩主・小笠原長次の後見として出陣している。乱後に延岡藩主の有馬直純に宛てた武蔵の書状に一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。


 寛永17年(1640年)熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ熊本に移る。7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、鷹狩りが許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられる。同じく客分の足利義輝遺児・足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。翌年に忠利が急死したあとも2代藩主・細川光尚によりこれまでと同じように毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として、藩士がこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。この頃余暇に製作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。


 正保2年5月19日(1645年6月13日)、千葉城(熊本)の屋敷で亡くなる。享年62。墓は熊本県熊本市北区龍田町弓削の武蔵塚公園内にある通称「武蔵塚」。福岡県北九州市小倉北区赤坂の手向山には、養子伊織による武蔵関係最古の記録のひとつである『新免武蔵玄信二天居士碑』(通称『小倉碑文』)がある。


 武蔵の兵法は、初め円明流と称したが、『五輪書』では、二刀一流、または二天一流の二つの名称が用いられ最終的には二天一流となったものと思われる。後世では武蔵流等の名称も用いられている。熊本時代の弟子に寺尾孫之允・求馬助兄弟がおり、熊本藩で二天一流兵法を隆盛させた。また、孫之允の弟子の一人柴任三左衛門は福岡藩黒田家に二天一流を伝えている。


「武蔵さんありがとうございます」

「なんのなんの」

「ところで冥界から出るにはどうしたらよいのでしょう?」

「1年に1度、あの世に通じる道が現れる」

「それはどこに?」

「それを探しておるところだ」


 7月14日

 知床半島の世界自然遺産への登録が決まる。

 須賀綱吉は、沼田史也から松永久秀所縁の茶碗を購入するが、この茶碗は沼田がつくった贋作だった。

 初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好政権内で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍した。久秀は長慶の配下であると同時に交渉の一環として室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍で活動することも多く、その立場は非常に複雑なものであった。また、長慶の長男・三好義興と共に政治活動に従事し、同時に官位を授けられるなど主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの地位を得ていた。長慶の死後は三好三人衆と、時には協力し、時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。その後、信長に反逆して敗れ、信貴山城で切腹もしくは焼死により自害した。


 茶人としても高名であり、茶道具と共に爆死するなどの創作も知られている。

 

 7月15日

  三重県の熊野灘沖でタンカー2隻が衝突し1隻が炎上。6人が死亡。

 俺は由比ヶ浜で不気味な魚に襲われた。死を覚悟したが、プカプカ浮いている腕に喰らいついたので難を逃れた。

 紋付袴を着た男がこんな話をしていた。

 天保9年(1838年)6月、相州(現在の神奈川県)浦賀の浜辺にいるところを発見され、生け捕りにされた。外観はエビのようであったが、頭部はショウジョウ、顔は馬またはネコに似ており、ヒレは四肢のようであった。両の目玉は鐘のように光り、腹は金色に輝いていた。

 日中は通常の魚のように海中を泳いでいるが、夜になると水から上がって陸上で生活していた。

「思い出した。ほうそうぎょって妖怪だ」


 7月23日

 千葉県北西部地震発生。首都圏の鉄道はダイヤが大幅に乱れる。東京都区部で震度5強を観測。

 久喜市に住む力石功と妻、寧々ねねには法学を勉強する平太へいたという一人息子がいた。

 19歳の平太は都内にあるD大に通っているが、夏の間に実家に戻り、アルバイトをしていた。平太は幼馴染の芽郁めいと交際しはじめる。しかし、芽郁の夫の栄太郎えいたろうは暴力的で、芽郁は全身に痣が出来ていた。

 芽郁には5歳になる玲央れおって息子がいたが、栄太郎は玲央にも輪ゴムを当てたり虐待をしていた。

 

 芽郁が風呂に入ってる最中に栄太郎はケータイを盗み見して、平太の存在を知る。

《旦那さんから何からやられたら警察に相談した方がいいよ》

「クソガキが!」

 風呂から出て来た芽郁に栄太郎は飲みかけの缶ビールを投げつけた。

「何するのよ!?」

「平太ってのはどこのどいつだ!?」

「勝手にケータイ見ないで!」

「生活出来るのは誰のおかげだ!?」

「アナタには感謝してるわ、けど殴ったりするのは許せない」

「俺に歯向かうのか!」

 

 翌日の夜、平太がバイトをしている久喜駅近くのマクドナルドに出かけて、家に戻ろうとしてる帰ろうとしてる平太を尾行して路上でボコボコに殴った。アスファルトに頭を打ちつけたことで平太は亡くなった。

 

 7月25日の夜、芽郁は悪怯れた様子もなくナイターを見てる夫に殺意を抱いた。

(アナタに人間の心はないの?)

 トイレに入り、便器に腰掛け栄太郎は「警察も間抜けだな?」とクスクス笑った。

 トイレから出ると、芽郁が「今、警察から電話があったわ?逃げましょう。玲央を呼んでくる」

 玲央は2階の自分の部屋でテレビゲームで遊んでる。

 車で那須なすにある友人の山荘へ行くと芽郁は栄太郎をアイスピックで刺し殺し、裏山に友人と埋める。


 7月26日

 日本人宇宙飛行士野口聡一が搭乗したスペースシャトル「ディスカバリー」の打ち上げに成功。2週間のミッションを終え、8月9日に地球に帰還。


 冥界でゾンビに追われていた俺は洋館に逃げ込んだ。灯りはついておらず、窓の外から注ぐ月の光を頼りに先を進んだ。暖炉の中に青く輝く不思議な玉が落ちていた。玉を拾うと脳細胞が活性化された。

 元の世界に戻る扉は伏見稲荷にあるようだ!

 冥界にも新幹線が存在する。魔力を持った人などは空を飛んで移動したりも出来るが、まだ俺にはそんな魔力はない。

 伏見稲荷は、京都盆地東山三十六峰最南端の霊峰稲荷山の西麓に鎮座する稲荷信仰の御本家。その信仰は稲荷山の三つの峰を神そのものとして崇拝したことを源流とする。初め農耕の神として祀られ、のちに殖産興業の性格が加わって衆庶の篤い信仰を受けた。神が稲荷山に降り立ったという縁起から、2月の初午の日は古来より多くの参拝者で賑わう。清少納言が自らの稲荷詣を『枕草子』に記すほか、『蜻蛉日記』『今昔物語集』など古典にもしばしば登場する。平安時代、東寺(=教王護国寺)の造営にあたって鎮守社となるや、真言密教と結び付いてその信仰を拡大、次第に神位を高めて『延喜式』名神大社に列し、天慶5年(942年)に正一位の極位を得た。この間、延喜8年(908年)に左大臣藤原時平が三箇社を修営(『年中行事秘抄』)、その後源頼朝や足利義教らが社殿の造営、修造に関わったが、応仁の乱にてすべて焼亡。乱後、社僧による勧進の下で再建が始まり、明応8年(1499年)に至って遷宮を迎えた。近世まではこれら勧進僧たちが稲荷信仰の普及や稲荷講の結成に大きく関与したという。


 明治政府の神仏分離令によって、本願所のほか境内の仏堂がすべて廃寺となる一方、崇敬者による鳥居の奉納や私的な「お塚」の建立が稲荷山中で顕著化し、現在の伏見稲荷大社を特徴づけるものとなった。稲荷祭の最終日に東寺の僧侶らが東門(慶賀門)の前に供物を並べ、還幸する下社の神輿に読経をあげる儀式があり、古くから続く両社寺の深い関係を今に伝えている。


 お堂の前に来たとき巨大な蜘蛛が現れた。俺は武器になるものを何も持っていない。🕸🕸🕸蜘蛛は巣を次々に作り出しバリアを張っている。

 寛文時代の奇談集『曽呂利物語』には「足高蜘の変化の事」と題し、ある山野に住む男のもとに夜、大蜘蛛が60歳ほどの老婆に化け、髪を振り乱して襲いかかり、男に刀で足を斬り落とされたという話がある。

『狗張子』によれば、京都五条烏丸で、ある山伏が大善院という寺に泊まったところ、夜更けに激しい音とともに、天井から毛むくじゃらの手がのびて山伏の顔をなでたので、刀で斬り落としたところ、翌朝には仏壇のそばに2尺8寸(約84センチメートル)の大蜘蛛の死骸があったという。


 天保時代の『信濃奇勝録』には、大蜘蛛が人間の生気を吸って病気にさせたという話がある。信濃国(現・長野県)下水内郡飯山に、母子2人暮しの農家があったが、息子が病気になって「クモが来る、クモが来る」と言って苦しむようになった。母親はクモを殺そうとしたものの、クモは病人にしか見えないらしく、祈祷にすがっても効果はなかった。その内に息子を想う母の念の力か、次第に母にもクモが見えるようになり、寝床にいるクモを押さえつけたが、逆にクモの糸に捕えられてしまった。母の苦しむ声を耳にした近隣の人々が駆けつけ、クモを殺して母を救い出すと、それは見たこともない巨大なクモだった。息子は一命をとりとめたものの、血を吸われた上に体のあちこちの皮が剥げ、しばらくは杖無しでは歩けないほどだったという。


 木陰から宮本武蔵が現れて、怪物を一太刀で斬り殺した。武蔵は刀を一本しか持っていなかった。

「もう一本はどうされたのです?」

「困っていた人がいたからくれてやった」

 武蔵は祭りで太鼓が二本の撥を用いて叩かれているのを見て、これを剣術に用いるという天啓を得、二刀流を発案した。

 武蔵と別れ、千本の赤い鳥居を抜けると光り輝く扉が現れた。俺は安堵の息を漏らした。

 扉を開けると光の渦に包まれた。

 

 修業を終えて、俺は元の世界に戻って来た。

 宇喜多を殺したのは村田優作だった。

 優作の父親、村田哲也むらたてつやはチンピラで宇喜多の仲間だったが、盗んだ宝石の取り分を巡って宇喜多に殺された。

「アイツを殺すことが俺の糧だった」

 暗い倉庫の中で優作は涙を流した。 

「奥多摩の山の中で宇喜多を見つけたときは死神に感謝した。呪文を唱えてロープを出して、宇喜多を絞め殺してキャンピングカーに乗せてここまで運んで来たんだ」

 

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