第七話『天使と隣人―1』

 虚勢を張った仄音が家を飛び出し、一人残されたロトは呆気に取られていた。


「仄音……本当に一人で大丈夫かしら……」


 一人で行くことは勇ましくて好ましい。が、引きこもりを拗らせている仄音だ。いきなり一人で買い物に行かすのは心配であり、はらはらとした気持ちが芽生えたロトは部屋の中をいったりきたりと歩き回る。


「どうして急に一人で行くなんて言い出したのかしら……」


 やがて寒さを覚えたロトは炬燵に浸かって、頬杖を突きながら考える。あの時の会話を思い出し、答えは簡単に見つかった。


「もしかして私の服装?」


 仄音は出かける直前に「そんな格好で出かけるなんて目立つよ! このあんぽんたん天使!」と言い残していた。あんぽんたんの意味は兎も角、前者の発言から服装が原因なのは明白だ。

 ロトは自分の服装を隅々まで確認する。

 ひざ下辺りまで伸びたふんわりとしたスカートに、フリルが特徴的な服。全体的な色合いは主に紫と白であり、何もおかしなところはない。きちんと天使印の入った純正の衣服だ。


「まさか似合っていないとか?」


 いや、そんなことはない筈だ。少なくとも自身の感性では物凄く似合っている。きっと仄音の感性がおかしいのだ。長年の引きこもりで、きっと人としての感性が狂ったのだ。

 そう結論を出したロトは仄音の元に向かおうと玄関の扉に手を掛けた。仕事ではなく、プライベートなので窓から飛ぶようなことはしない。


「あっ……」


「ああ、胡桃さん。どうも……」


 扉を開けると、そこにはチャイムに手を伸ばす胡桃の姿があった。お気に入りの赤いパーカーを怠そうに着込み、黒縁の眼鏡越しに視線が合う。

 微妙な空気が流れ、束の間ロトは軽いお辞儀をして去ろうとする。が「待った! ちょっと色々聞きたいことがあるねん!」と胡桃によって肩を掴まれてしまった。


「ごめんなさい。貴方に構っている暇はないの」


 しかし、我関せずといった態度でロトは胡桃の手を払い、アパートの階段を駆け下りる。


「ちょ、え!? その格好で出かけるつもりなん!?」


 ロトはピタッと足を止めた。

 普段なら気にせずに仄音の元へと向かうが、何しろ胡桃の発言は服装に関わることだった。それもまるで自分の服装がおかしいと思っているかのような言い方だ。



「貴方には詳しく聴かなければならないようね。こっちに来なさい」


「え? ちょ、襟を引っ張ったら伸びるやんか。はなせー」


 先ほど、ロトは仄音の感性がおかしい。だから自分の格好がおかしく見えると結論付けたが、その考えは目の前の胡桃によって否定された。

 真の原因を究明すべくロトは胡桃を家の中へと引き込んだ。適当な場所に座らせて、水道水をコップに入れて出しておく。

 塩対応という訳ではなく、これが限界なのだ。お茶は偶然にも切れ、林檎ジュースは昨日に仄音が引き寄せた不幸によって亡くなった。今、ロトが出来る精一杯のおもてなしだった。


「それで? どういうことかしら?」


「え? なにが? ……それよりもロトは何者なん? ずっと訊きたかってん」


 ロトの質問に小首を傾げ、胡桃はずっと気になっていたことを尋ねた。ロトの正体について、本当は昨日に仄音から聞き出すつもりだったのだが、生憎仄音は不幸に苛まれていたため聞けなかったのだ。

 胡桃から見たロトは不審者だ。変な仮面で鼻から上を隠し、まず一般人では着ないような奇抜な服装。仄音を更生させようとしており、それでいて親族のようではない。極めつけにはビデオの巻き戻しのように壁を修復した魔法だ。あの時の衝撃は今でも脳裏に焼き付いており、決して白昼夢ではない。


「ベランダのガラス……ボールが飛んできて割れていた筈なんやけどロトが魔法という奴で直したんやろ? 何者なん? まさか魔法少女――え? な、うぐっ!」


 魔法少女を疑うという行為はロトにとっての禁句。

 それを知らずに口にした胡桃は天使の怒りを買ってしまい、身体に触れられたと思ったら物凄く身体が重くなった。まるで身体に小学生が乗っているようで、あまりの重たさから顔が炬燵とくっついてしまう。


「私は魔法少女ではなくて天使よ。取り消しなさい」


「こ、これも魔法か!? わ、分かった! 私が悪かった!」


 ギブギブと声を上げて炬燵を叩く胡桃に、不敵な笑みを浮かべたロトは少し経ってから重力魔法を解いた。直ぐに解かなかったのは気まぐれである。

 理不尽な重力から解放された胡桃は額から汗を噴き出して、のぼせたようにぐったりとしていた。


「あんたは思ったよりも危険なやつやなぁ。仄音をどうするつもりなん?」


「私は善良な天使。最後の時まで仄音を更生させるつもりよ」


「最後の時……ねぇ……もうええわ……」


 なんだか含みのある言い方が胸につっかえる。

 ロトの態度からきちんと説明する兆しは見えず、飽くまで隠し通すつもりなのだろう。執拗に聞いたとしても、また魔法を掛けられるのは容易に想像がつき、胡桃は大人しく引き下がった。


「それにしても善良な天使か……あはは……」


 果たして一般人に魔法を掛けて脅す天使を善良と呼べるのか? それを口に出したら再び逆鱗に触れてしまうのは明白のため、心の中に留めておく。が、顔に出てしまっているのでロトにはバレバレだった。


「いちいちむかつくわね……まあいいわ。それよりも答えなさい」


「だからどうしたん? 言葉が足らんって」


「私の服装の話よ。その……おかしいかしら?」


「うん」


 間髪入れずに答えた胡桃。

 不安に染まっていたロトの表情は不気味なほどの真顔に豹変し、再び胡桃の身体に触れた。


「いたたっ! 事あるごとに魔法を掛けるのは横暴やで! ヤクザ天使め!」


「うるさいわね。貴方にはこのくらいが丁度いいのよ」


「どういうことやねん! うちはか弱い少女やぞ!」


 重力魔法に悶え苦しむ胡桃を横目に、ロトは腕を組んで考える。

 仄音ではなく、自分の服装が原因だと分かった。しかし、具体的にどこがおかしいのだろうか? いくら考えてもロトには分からず、天使と人間の常識の差違を感じ取っていた。


「マジで言ってるん?」


 ロトの心境を何となく察した胡桃は冷ややかな視線を向ける。

 教えなさいと言わんばかりにロトは魔法を解いた。


「その、服自体は似合っていると思うで? けど、普通に考えてそれで街中を歩くのは目立つやん?」


「……? 天使界では普通よ? 何なら葉っぱ一枚の人もいるし……」


「葉っぱァ!? じゃなくて人間界ではその服装はおかしいんよ! 似合う似合わないじゃなくて奇抜な服は浮くの! 周りの人を見てみ!」


 言われてロトは脳内で人間界の様子を思い出す。忙しなく働く人間、不倫をして鼻の下を伸ばす人間、勇敢に鮪の一本釣り漁船に乗る人間、活発に遊びまわる子供、親の仕送りで生きている屑人間、ムラマサを向けられて慄いている人間。一部碌でもない記憶が混じっているが、胡桃の言うことが理解できた。


「どうやら私が間違っていたようね。貴方と仄音のセンスを絶望的、いやミカエル並みと疑っていた自分が恥ずかしいわ」


「誰やミカエルって……まさか葉っぱ一枚の人物じゃないやんな?」


「ええ、あの人は仕事だと正装だけど、私服は葉っぱ一枚と天使の輪だけだもの。あ、あと靴下は履いていたような気がするわ」


「なにその変質者……」


 呆れたと言った風に胡桃はミカエルという人物を想像して拍子抜けした。天使というものはもっと厳格だと、そういうイメージを抱いていたのだが、現実は違った。

 ロトという感性がズレ、横暴な性格をしている天使と、全裸に葉っぱが私服な天使。いや、それはもはや私服ではないだろう。ほぼ全裸である。


「でもどうしようかしら。代わりの服なんて持ってないわ」


「魔法で出されへんの?」


「私の得意魔法は重力魔法、修復魔法よ。流石に服を創造する能力はないわ」


 無から何かを想像するのは高度な魔法であり、流石のロトもそういった類の魔法は心得ていなかった。


「……あ、そうや。うちの服を貸したろか?」


 ロトの失礼極まりない態度に、胡桃は一瞬服を貸さないと考えた。

 しかし、それはあまりにもつまらない仕返しだろう。もしかしたら魔法で脅迫をされるかもしれない。だから、何とかロトに一矢報いてやろうと思考を張り巡らせ、悪ガキのような悪戯を思いついた。


「嫌よ。貴方の服なんて……ちゃんと洗っているの?」


「し、失礼やね……兎に角、取ってくるから待っといてな」


 胡桃は慌ただしく自分の家へ帰り、数分も経たずにロトの元へと帰ってきた。手には真新しいメイド服が握られており、ロトは好奇心を抱いた。


「その服は?」


「メイド服やで。うちはコスプレが好きでな。去年に買ったんやけどサイズを間違えて……多分、ロトちゃんならピッタリやよ。因みにほぼ新品やでー」


 ロトはメイド服を受け取り、それをまじまじと観察する。今、着ている服と似たような感じで、どちらかと言えば気に入った。


「天使界で何度か見たことがあるわ。ミカエルの召使いがそんな服を着ていたような……」


「み、ミカエルってやつは全裸に葉っぱで、メイド服を着た女の子に奉仕させてん……」


 呆れる胡桃を横目に、ロトは広げたメイド服に惹かれていた。

 黒と白を基調としており、所々にフリルが点けられていて、エプロンのようになっている。スカートは足元辺りまで伸び、何故か専用のカチューシャまで付いていた。全体的に良い生地を使っているのか、糸ほつれなどは一切なくて安物のようには見えない。

 メイド服という存在は知っていたが、その用途は詳しくないロト。しかし、あまりにも人間が着ている私服とはかけ離れている見た目をしているメイド服に、自分の服装と似たような気配を感じとった。


「気に入ったけれど……これ、本当に普通の服?」


「まあ普通の服ではないな――あぶっ!」


「ならいらないわ」


 ロトは折り畳まれたメイド服を胡桃の顔面に投げつけて返した。


「ちょ、ちょと待ちや! 確かに普通じゃないけど、歴史的にも由緒あって人間界では人気なんやで!」


「……本当かしら」


「ほんまやで。日本では若い女性が一度は着たいと思うものや。私だってそうやった……」


 どこか遠い目をした胡桃に、ふとロトはとある光景を思い出した。


「そういえば人間界でその服を着た女性を見たことがあるわ」


「多分、日本橋らへんやろ。あそこらへんはオタクが集まるからなぁ。メイド喫茶が割とあるんよ。最近は特に増え始めたな。だからロトちゃんも着よう!」


「…………」


 胡桃は揶揄ってロトをちゃん付けで呼び、期待を混ぜた熱い眼差しを送る。

 一見ピュアな女性に見えるが、内心はロトに仕返しをするというドス黒い感情が渦巻いており、それを着て外に出て恥をかけという気持ちが強かった。

 それを巧まずして察したロトは腕を組んで、瞑って天を仰ぐ。そして、今着ているよりはマシだと結論付けた。単純に気に入ったという理由も大きい。


「分かったわ。これを着て仄音の元へ行く」


「そうそ――仄音?」


 てっきりロトは一人で出かけると思っていた胡桃は呆気に取られる。

 よく考えれば分かる事だろう。この家に引きこもりである仄音の姿は見当たらず、そこから物事を繋げていけば簡単に察せられる。


「ちょい待ち、仄音と待ち合わせしてるん?」


「まあ、そんな感じね」


 失態を犯した胡桃は頭がクラクラとした。

 もし、このままロトがメイド服を着て仄音の元に行けば、変な注目を集めてしまって仄音は羞恥心で死んでしまうかもしれない。その責任は悪戯をした胡桃にある。

 胡桃は仄音のことを嫌っておらず、寧ろかつての自分と境遇が似ているため好感を持っていた。だから、自分の悪戯の所為で仄音が困ると思うと胸が痛い。


「じゃ、着替えて出掛けるから貴方は帰って、どうぞ」


「ちょ、ちょっと待っ――だから襟を引っ張んな! わぷっ!」


 慌てている胡桃を引きずり、外へと放り出すロト。その姿はまるで朝一に面倒くさそうにゴミを出す人間だろう。

 ほっぽり出された胡桃は諦観し、強く願った。


「仄音が死にませんように……」


 ただただ仄音が強く生きるようにと、ついでに死んだことを考えて天国に召されるようにと、手を合わせていた。

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