第四話『天使と掃除―2』

「なに? どういうことなん?」


 壁越しに質問を投げ掛ける胡桃。その額には青筋が出来ており、怒っている事が察せられる。


「ご、ごめんなさい! 実は――「奴が現れたのよ。私はそのために力を振るっただけ」


 仄音の言葉に被せてくるロト。

 尤も、その発言ではGごきぶりが出たと分からないので、胡桃は未だに状況を理解できない。


「奴? いや、それでも壁に穴をぶち空けるのはあかんやん? 何をしたのかは知らんけど、どう大家さんに説明するつもりなん? 修繕費やばいで?」


「大丈夫よ。奴を倒したら私が修復魔法で直す。貴女にとっても都合が良いでしょう?」


「はぁ? 魔法ってファンタジー世界じゃあるまいし……頭大丈夫なん?」


 ロトの本質は天使であり、不思議な魔法を扱う。その事実を知らない胡桃は頭がおかしい人を目の当たりにしたかのような、冷たい目になった。


(そういえば胡桃さんはロトちゃんの正体を知らないんだ……説明は、まあいっか……)


 一方で、二人のやり取りを見ていた仄音は仲介して天使の事を説明しようと思ったが、直ぐに考えを改めた。何故なら、胡桃のような人は己の目で確かめないと信じないだろう、と踏んだからだ。


「ッ! 出たわね!」


 また壁に張り付いたGに、ロトは殺気を放ちながらムラマサぶれーどを構える。このままでは壁が穴だらけになり。最悪の場合はアパートが崩れてしまう。


「ロトちゃん! ダメだよ!」


 懸念した仄音は彼女の背中を包み込むように抱き締めて、その行為を防いだ。


「離して! 倒さないといけないわ!」


「だ、大丈夫。ロトちゃんがやらなくても、私が殺虫剤で何とかするから!」


「でも……嫌でしょう?」


「嫌だけどロトちゃんのためなら頑張れるよ」


「仄音……」


 二人は見つめ合い、今にもキスでもしそうな雰囲気を醸し出し始める。


「なんだこれ……なんだこの雰囲気……」


 やり取りを穴越しに見ていた胡桃は怒気消沈し、ただただ馬鹿らしく思ってしまう。

 その時、空気を読んだのかGは動き出し、こそこそと近くにあった穴へと入り込んだ。そう、胡桃の部屋へと繋がる穴へ、だ。


「ちょっ! なんでゴキ――あ、そういう事か!」


 そこでやっと奴とはGを指す言葉だと分かった胡桃だったが、同時にGのために壁を壊したのかと呆れてしまう。


「っていうかゴキブリこっちに来たやん! どうす――ちょっ! 待てぇ!」


 ロトに非難を浴びせようとした胡桃は言葉を詰まらせた。

 目の前で破壊された筈の壁が元に戻る工程を目にしたのだ。まるでビデオの巻き戻しのように砕け散っていた残骸が独りでに壁へと戻り、最初から穴なんて無かったかのように直ってしまった。


「勝ったわ……やっぱり天使は最強ね」


 ロトは勝利の余韻に浸り、自慢げにウインクして身も蓋もない事を言った。


「えぇ……確かに壁が戻ったのは修復魔法だっけ? 凄いと思うけど……」


「そうでしょう? 天使は凄いのよ」


「でも胡桃ちゃんが……」


 仄音の視線の先は修復された壁であり、向こう側からは胡桃が文句を言いながらGと戦う裂帛の叫びが聞こえてくる。元々、仄音の家にいたGを退治する筈だったのに、何故かその役目を胡桃に押し付けてしまう結果になった。

 申し訳ない気持ちでいっぱいになった仄音は胡桃にいつか殺虫剤でもプレゼントしようと決心する。


「ざまあないわ……」


 健気な仄音とは裏腹に、Gを押し付けたロトは嘲笑っていた。その姿は天使というよりは悪魔のようだった。





 さて、死闘を繰り広げて何とか問題を解決した二人は再び作業に戻った。

 仄音は部屋の整理整頓に手をつけ、勉強机の引き出しの中や棚を探っては何があるのかを把握。ついでにいらない物があれば除けるという反復横跳びのような行為を何度も繰り返していく。


「こんなものかな。大掃除でもないし……うん、これでいい筈……」


 勝手に折り合いをつけて終わろうと思った矢先、仄音はギターに目がいった。

 普段使っている場所だから、要らない物はないだろう。そう分かってはいるが、もしかしたらとんでもない伏兵が潜んでいるかもしれない。念のため、いや、ほぼ何となくでギター類に触れた。


「えーっと……アンプにギター、カポタストとピックは……元の場所に仕舞っておこう」


 頻繁に使う用品は出しっぱなしになりがちなので今日くらいはと小物入れに片づけ、次に立て掛けられていたハードケースに手を付ける。


「弾かない時くらいケースに入れていた方が良いよね? 出しっぱなしだとギターに悪いらしいし……あれ?」


 頑丈なケースの蓋を開け、そこにギターを入れようとしたが仄音はある事に気がついた。

 ケースに備え付けられた小さな収納スペース。そこに紙切れのようなものがはみ出ているのだ。


(何かのチラシかな?)


 そういう先入観を抱き、仄音はゴミを撤去する感覚で紙を抓んで引っ張った。


「あ……これって……」


 出てきたのはゴミではなく、正しく思わぬ伏兵というもの。

 本当に思いもしなかったもので、言葉を失った仄音は出てきた写真に釘付けになってしまう。

 その写真は幼い頃の仄音と、親友だった人物が映ったツーショット。幼い仄音は屈託のない笑みを浮かべており、隣で立っている少女も然りだ。背景は当時通っていた小学校の教室で、時刻は夕方なのか綺麗な夕焼けに染まっていた。

 傍から見るとアルバムとか入っていそうな、ただの思い出の写真だろう。しかし、態々ギターケースに入れていたという事はとても大事な物で、思い出深い物なのだ。

 だからこそ、今までこの写真の存在を忘れていた仄音は形容し難い感情に苛まれた。


「どうして忘れていたんだろう……」


 学生時代、肌身離さず持ち歩き、この写真があったから仄音は頑張ってきた。

 仄音の全てが詰まっていると言っても過言ではなく、それを忘れてしまっていた自分が憎く思え、同時に懐かしくも思え、寂しくも思え、それらが蟠りとなって心に圧し掛かる。


「こっちは終わったけど――仄音? どうしたの?」


 洗濯を終えて戻って来たロトは仄音の暗い表情を見て何事かと思い、また奴が現れたのかと心配する。

 しかし、ロトは辺りをきょろきょろと見回すがそれらしい物体どころか影もない。それどころか仄音が持っている写真に視線がいった。

 人の写真を許可なく見るのは良くないだろう。プライバシーの侵害だが、気にするなというのも酷だ。考えに考え、天使と悪魔の囁きに惑わされたロトはじりじりと仄音に近づいて、何とか写真を覗こうとした。

 刹那、ロトの気配を感じ取って我に返った仄音は慌てて写真を隠すように戻した。


「何を隠したの? 写真だったわよね? 私は見ちゃいけないのかしら?」


「え? うーん……見られたら恥ずかしいから秘密だよ。それより終わった?」


「……ええ、洗濯なら終わったわ」


 白を切るだけでなく、話題を変える必死さ。余程隠したい事があるのだろうと感じたロトは腑に落ちない。


「手で丹念に洗っておいたわ」


「ありがとう……ん?」


 仄音の家には洗濯機がある。

 それなのに手洗い? と疑問に思った仄音だったが、ベランダに干された洗濯物を見て驚愕した。


「いや、下着しかないのに洗濯機を使うのって、なんだが勿体ない気がして……」


「あ、あああああああ!」


 恥ずかしさのあまり顔に火がついた仄音。

 忘れてしまっていたが、ロトに洗濯を任せるという事は下着を見られるという事なのだ。それどころか洗濯機を使えばいいのに手洗いをされている。


「へ、変態! 変態天使!」


「何言っているの? 頼んできたのは仄音でしょう?」


「そ、そうだけど……ああどうして気がつかなかったんだろう……」


 揚げ足を取られ、仄音は後悔した。意を汲んでくれなかったロトを責めたい気持ちがあるが、貞操概念を忘れていた自分も悪いので叱る事が出来ない。


「今更じゃないかしら? これから一緒に住むならこれくらいの事で一々言っていられないわよ? それに私たちは女性じゃない。別に気にすることないわ」


「うぐっ……」


 確かにそうだろう。

 仄音の脳裏にはロトと同衾した記憶が蘇り、これからも下着を見られると思うと気が気でないが、後には引けない。この環境に適応していくしかないのだ。

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