虹の軍勢
神無月 紅
第1話
世界は箱に包まれている。
そのような学説を発表したのは、アメリカの科学者ディジェ・イスマイールだった。
だが当然のようにその学説は学会に嘲笑を持って迎えられ、それに落胆したディジェは日本へと活動の場を移すことになる。
それだけであれば、よくある……とは言わないが、それほど珍しいことではない。
しかし……西暦二千五十年。
ディジェ・イスマイールが学説を発表してから二十年ほどが経った頃、それが正しかったことを証明する事態が起きる。
そう、後の世に言う大変革。
ディジェの唱えた学説は、間違っている訳ではなかったが決して正しいという訳でもなかった。
世界は箱に包まれているというその有名な言葉は、目に見える箱ではなかったのだから。
箱……それは、この世界を……もしくは地球を包み込んでいる次元の境界線。
その箱が崩れればどうなるのか。
それは、考えるまでもなく明らかだった。
箱が崩れたのは日本。
それも日本の中で最も人の多い……いや、世界で見てもこれほど人が集まっているだろう場所は少ない、首都東京。
昼間の池袋にていきなり空間が割れたのだ。
そうとしか表現出来ないような、空に浮かぶ亀裂。
最初は数センチほどの亀裂であり、誰もがその亀裂に気が付かなかった。
だが……亀裂は瞬く間に広がっていき、気が付けば一メートル、二メートル、三メートル……最終的には十メートル近くまで広がり、ようやく止まる。
その頃になれば、当然のように道を歩いていた者たちも空に広がる亀裂に気が付いていた。
一人が気が付き驚きの声を上げれば、その周囲にいる者たちも気が付き同様に驚きの声を上げ、そこからは加速度的に空の亀裂に気が付く者が広がっていく。
最初は映画か何かの撮影か? と気楽に考えていた者たちが多く、隣の友人と亀裂について話したり、電話を掛けたり、写真を撮ったり、ネットへと書き込みをしたりとしていた。
池袋でそのようなことをしていれば、当然警察が気が付かない筈はなく……やがて、現場へと警察が到着する。
これは、その後に起こったことを考えれば運が良かったのだろう。
もしいざというときにどのような行動をとればいいのか分からない者だけがここにいた場合、完全にパニックになり……下手をすればより多くの被害が出ていたのだから。
それでもこの場にいた者たちにとって、次の瞬間に起きたことは不運としか言えなかった。
このようなところにいなければ……そう思ってしまうのも仕方のない出来事。
次の瞬間……『空が、割れた』のだ。
「え? あれ、何? CG?」
そう呟いたのは誰だったのか。
だが、当然のようにそれに答えられるものはいない。
それどころか、警官までもがただ呆然と割れた空を見上げていた。
「ちょっ、おい。何だ? 急にネットが……」
「私のカメラも動かないわよ? 何で!?」
通信機器を持っていた者のうち何人かが、悲鳴のように叫ぶ。
先程まで話したり、ネットに書き込んでいたり、写真に撮っていたりとした通信機器が全く使い物にならなくなったのだ。
いや、それどころか警察の持っている無線機すら通じなくなっている。
「どうなっている!? こちら池袋駅前、空に異変が……おい! 聞こえないのか!?」
警官の一人が無線機に向かって叫ぶが、返事の類は一切ない。
そして……いよいよそのときがやってくる。
それに最初に気が付いたのは、誰だったのか……それは分からないが、通信機の類が使えなくなり、気が付いている者も殆どいなかったが、街頭TVの類も映像は消えて黒い画面のみがそこにあった。
そんな中、空に現れた割れ目から突然何かが落ちてきたのだ。
……そう、それは落ちてきたと表現するのが正しいだろう。
「きゃあああああああああああああああああっ! 大輔、大輔ぇっ!」
何かが落ちれば、当然落下する。
そして落下した先に何かが……もしくは誰かがいれば、落下したものにより潰されるのは当然だった。
今悲鳴を上げた、二十代の女の恋人が潰されたかのように。
女の顔には赤い血が、身体には内臓や眼球、肉片といったものが付着しており、女はそれに気が付いた様子も見せず、潰れた恋人……数ヶ月後には結婚する予定だった相手の名前を叫ぶ。
だがその叫び声は、女の恋人を踏み潰した存在の注意を引くことになる。
「グラアアアアァァ」
唸り声と同時に、何かの液体が女の頭に落ちる。
だが、女は恋人の名前を叫ぶだけでそれに一切気が付かない。そして……
「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
次の瞬間、叫んでいた女の上半身がなくなり……否、食い千切られたのを見て、周囲にいた者たちがようやく我に返って叫ぶ。
男を踏み潰し、女の上半身を食い千切った存在……全高五メートルほどもある、その存在に対する恐怖を込めて。
くっちゃくっちゃと、女の上半身を食らっている存在は、一言で言えば恐竜と呼ぶべき存在だった。
勿論空を割って姿を現したのだから、ただの恐竜ではない。
もしこの場に恐竜について詳しい者がいれば、今まで発見されたことのない恐竜であると断言するだろう。……そもそも、生きている恐竜が存在すること自体ありえない話なのだが。
もっとも、現在では恐竜には体毛が生えていたという学説が一般的なのに対し、女を食い千切ったその存在は体毛は一切生えていない。
周囲に響いた悲鳴で、ようやくその光景を見ていた者たちも我に返ったのだろう。それぞれに悲鳴を上げながら、その場から逃げ出していく。
だが……絶望というのは限りがない。
最初に落ちてきた恐竜と同じような恐竜が、割れた空から数匹、次々に落ちてくる。
人を潰し、街灯を潰し、車を潰し……それだけで被害はかなり大きくなり、その上さらに逃げ出そうとしている人々を食い殺していく。
ティラノサウルスに近いその姿は、手で殴られるようなことはないが、その変わり足で踏み潰され、尻尾で吹き飛ばされ、顎で食い殺される。
全高五メートルほどもある恐竜がそれぞれに暴れているのだから、犠牲者は加速度的に増えていく。
周囲には手や足、内臓、頭部……そして大量の血や体液といった、人の残骸と呼ぶべき物が多数転がる。
少しでも恐竜から離れようとする者たちは、そんな人の残骸を踏みつけながら走っていく。
普段であればその感触に眉を顰めるのだろうが、自分の命が懸かっている状態でそのような些事に気を回す余裕はない。
それどころか、慌てて走った結果、地面に転んだ老人や子供ですら踏みつけていく者すらいる。
「くそっ! くそっ! 何でだ、何で!」
苛立ちと共に叫んでいるのは、先程無線機が使えないことに戸惑っていた警官だ。
腰から抜いた拳銃の銃口を恐竜へと向けて何度となく引き金を引いているのだが、その銃口から放たれた弾丸は恐竜に命中するよりも前に空中で何かに当たって弾かれる。
恐竜の巨躯であれば、弾丸を外すということはない。
だが、放たれた弾丸は恐竜の身体に命中すらしないのだ。
何度となく引き金を引く警官だったが、当然拳銃というのは残弾が決まっている。
相手が人間であれば容易に殺せるだけの弾丸を何発も放ち……それでも弾丸は恐竜に一発も当たらず、空中にある見えない何かによって弾かれた。
そして……ついに、警官が引き金を引いても、カチリという音だけが周囲に響く。
そう、弾切れ。
周囲には恐竜から逃げ回っている怒号が飛び交っているのだが、それでも警官は自分の拳銃が弾切れになった音を確かに聞いた。……聞いて、しまった。
「っ!?」
自分自身の唾を飲む音が聞こえる。
恐竜も、自分に対してちょっかいを掛けてきた相手というのは理解しているらしく、警官を一瞥する。
緑色の目にあるのは、知性ではない。ただ、ひたすらの食欲のみ。
それを理解し……警官は今まで押さえつけていた恐怖に襲われるようにして、生存本能に動かされるようにその場で踵を返し……
「がっ!」
背中を見せた瞬間、恐竜の振るった尻尾が警官へと命中し、そのまま数メートルほども吹き飛ばされ、近くに建っていた建物の壁へとぶつかり、強烈に身体を打ち据えられる。
「あ……あ……」
手足が本来曲がってはいけない方へと曲がっており、既に立ち上がることも出来ない。
出来るのは、ただ痛みに呻くだけ。
意識が朦朧としていたのは、警官にとっては幸運だったのだろう。
その巨躯に相応しい口を開き、涎を垂らしながら自分へと向かってくる恐竜の姿を認識することが出来なかったのだから。
そして意識が朦朧としていたために、生きたまま噛み砕かれるという恐怖を味わわなくてすんだのだから。
「グオオオオオォォォッ!」
警官を噛み砕き、飲み込んだ恐竜は嬉しそうに遠吠えを上げる。
「グオオオオオオオオオオオオオオオォォ!」
「ギョオオオオオオオオオオ!」
「ギャガアアアアアアアアアアアアアアアア!」
そんな恐竜の遠吠えに応えるように、逃げ惑う人間を貪り食っていた恐竜たちが鳴き声を上げた。
それは、歓喜の声。
食べても食べても、尽きることのない食べ物のいる場所を見つけたがゆえの歓喜。
この後……他の警官も次々に集まってきて、恐竜へと向け発砲するのだが、最初の警官と同じ恐竜の身体に命中される前に何かに弾かれ、拳銃は全く効果を上げなかった。
そして拳銃を撃ったことにより恐竜の注意を引いた警官は、次々に食い殺されて恐竜の胃の中に収まる。
最悪なのは、通信機器が一切通じなくなっていたことだろう。
拳銃が効かない……恐竜にバリアのようなものが存在しているという情報は、なかなか他の者たちに伝わらなかった。
だからこそ警官の被害が無駄に広がったと言える。
また、通信が出来ない地域は池袋を中心にして加速度的に増えていき、それによる被害もまた次第に広がっていく。
現代社会では、通信が非常に重要な意味を持っている。
それが出来なくなるということは、破滅的なまでの被害を生み出すのには十分だった。
それでも、拳銃が効かないというのを理解した警官が全て恐竜に食い殺された訳ではない。
何とか逃げ延びることが出来た警官数人が警察署へと駆け込み、事情を説明する。
当然最初はそのような話を上司は全く信じなかったが、何人かが続けて警察署へと駆け込んできては同じような説明をするので、不承不承ながらも上司はそれをさらに自分の上司へと報告する。
TV番組も砂嵐となっており、それどころか有線の電話さえ出来なくなっているという異常性もあってか、報告を受けた上司は直ぐにそれを上司へと、その上司はさらに上司へと……という風に報告が上に上がっていき、やがて最終的には警視総監へと報告が上がる。
そして警察庁長官にも同様の報告が上がり……ここでようやく国は池袋で起きている異常な出来事がどのようなものなのかを理解した。
恐竜……もしくは怪獣とでも呼ぶべき存在がどこからともなく現れ、人間を食い殺していると。
さらにはバリアのようなものがあり、拳銃は効果がないと。
だが、当然ながらそのようなことを聞かされても、すぐに信じられる訳もない。
映像の類があれば別だったかもしれないが、有線無線にかかわらず……それどころかカメラの類も池袋では使えなくなっていた。
それでも異常事態が起きていると判断して自衛隊の出動を決定したのは、総理大臣の英断だったのだろう。
事実、ここで総理大臣が自衛隊に出動するよう命令していなければ、人的被害はもっと大きくなっていたのは間違いないのだから。
最初にその恐竜を見たときは何の冗談かと思った自衛隊だったが、それでも人を食い殺している光景を見ればすぐに排除へと移るのは当然だった。
自衛隊の内の何人かが政府へと直接走って連絡をしに行き、その間に恐竜と自衛隊の戦いが始まる。
最初は警官のときと同じく銃撃が行われたが、それは当然のようにバリアに防がれる。
それに恐竜たちは威嚇の声を発するが、相対しているのは自衛隊だ。
銃で効果がなければと、用意されたのは……戦車。
ただし、この時点で自衛隊にも予想外のことがあった。
それは、戦闘機のレーダーやセンサーの類が全く使い物にならなくなっていたということだ。
高速で空を飛ぶ戦闘機だけに、その各種レーダーやセンサーは重要な役割を果たす。
だが、池袋に近づいた瞬間、レーダーやセンサーがまともに動かなくなったのだ。
戦闘機の速度を考えれば、そのまま飛ぶのは自殺行為であり……結局戦闘機はその場を退避する。
結果として、恐竜と戦ったのは戦車と戦闘ヘリ。
どちらもレーダーやセンサーはあるが、それでも戦闘機よりはまだ動かすことが出来たためだ。
そして戦車の砲弾はバリアを突破し、戦闘ヘリのミサイルもバリアを突破する。
最終的には恐竜を全て倒すことに成功するのだった。
この日……世界は大変革を経験することになる。
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