29話 着信
週が明け、また一週間が始まった。学校では修学旅行に向けて準備が進められている。最後の修学旅行だ。類香はこれまで、修学旅行の思い出などなかった。一応参加はするものの、ぼーっとしているだけで毎回旅は終わっていた。
自由行動のグループは和乃に誘われて夏哉とも同じグループになった。類香は他のメンバーは誰でもよかったが、和乃と同じグループになれたことは嬉しかった。夏哉がいることにも少し安心していた。クラスに馴染めてきたと言っても、まだぎこちなさはある。夏哉であれば気を遣わなくても済むだろう。
和乃は例にもれず修学旅行を楽しみにしていた。一年生の時には修学旅行はなかった。そのため、小学校中学校の修学旅行の思い出を抹消した和乃にとっても最初で最後の修学旅行なのだ。
類香はそんな元気な様子の和乃を見て、彼女の息遣いに伝播するように修学旅行が楽しみになってきていた。修学旅行なんて面倒でしかなかったのに。類香は心の変化に戸惑いながらも、素直に向き合うことにした。
楽しみなのだ。修学旅行が。
その気持ちに嘘はいらない。類香は観光地を調べている和乃を見て嬉しそうに目を細めた。
修学旅行が近づく中、類香はアルバイトを終え帰宅した。今日は類香が晩御飯を作る日だ。類香はカレーを作ろうと、買っておいた野菜に目をやった。
楓花が最初に教えてくれたメニューだ。日本に来てから、類香がいつも暗い顔をしているからと、気晴らしにとっておきのレシピを教えてくれたのだ。楓花の作るスパイスの効いたカレーは類香の得意料理となった。
具材を切り、類香は大きな鍋に野菜を投入した。ごろごろと音を立てて転がるジャガイモを見る。鍋を転がすこの瞬間が好きなのだった。
しばらくして水を投入すると、類香のスマートフォンが鳴った。類香は火を止めることなく、傍に置いてあったその電話を受ける。
「和乃?」
ディスプレイに浮かんでいた文字は和乃だった。類香はスマートフォンを耳に当てる。
『類香ちゃん、ごめんね、こんな時間に……』
和乃だ。類香はゆっくりと鍋を混ぜると、火力を少しだけ下げた。
「いいよ。どうしたの?」
『あのね…………えっと……』
和乃の声は珍しく低かった。というよりも、あからさまに元気がなかった。
「和乃? 大丈夫なの?」
類香は眉をひそめる。どうにも様子がおかしい。
『私、類香ちゃんに……謝りたくて……』
「謝る? 何を?」
『えっとね……私、類香ちゃんを利用してた……』
「は?」
類香は意味が分からずそう声に出る。
『謝らないとって、思った。類香ちゃんは、前を向いているのに……私が、そこにいるのはおかしいんだ……』
「何を言ってるの? 和乃?」
類香の鼓動が早くなってきた。和乃は一体何を言っているのだろうか。手が汗をかいてどんどん冷たくなってくる。
「和乃、今、どこにいるの?」
『ごめんね類香ちゃん。こんな私に付き合ってくれて、ありがとう……』
「和乃! どこにいるの!? 何を言ってるの!? そんなこと言わないで!」
類香は声を荒げた。和乃の消えてしまいそうな霧のような声が、本当にどこかへ行ってしまいそうだった。じわりと全身に汗が滲み出てくる。
『類香ちゃん、類香ちゃんはね、幸せになれるんだよ。私は、類香ちゃんがずっと、ずっと幸せでいられるようにって、信じてるから……。だからね、私のことは、もういいんだよ』
「和乃!」
『私こそ、幸せなんて勿体ないんだから。私みたいな意味のない人間……類香ちゃん、もう、私、……疲れちゃった』
「和乃! そこを動かないでよ! 今、行くから……! ねぇ、どこにいるの!?」
類香は火を止めた。沸騰しかけていた鍋が一気に大人しくなっていく。
「和乃、お願い! 教えて……!」
しかし和乃は謝るだけで、何も教えてくれなかった。心臓が飛び出そうなほど激しく鼓動を打っているのが分かった。まさか変なことするわけない。そう信じたい気持ちは、もうどこかへ飛んで行ってしまったようだ。ここに立ち止まってなんていられない。類香はキッチンを後にすると上着に手をかけた。
「教えてよ、和乃……!」
すると、和乃のすすり泣くような声の後ろから汽笛の音が聞こえた。同時に、賑やかな商業施設の音楽が聞こえてくる。
「……ここって」
類香は前にもこの光景を耳にしたことがあった。
(そうだ、あの時の……)
類香は勢いよく玄関を飛び出した。足がもつれそうになりながら走ると、ちょうど帰宅してきた楓花とマンションの廊下でぶつかった。
「ごめん! 楓花さん! ちょっと出かけてくる! ご飯はまだなの……!」
「え? ちょ、ちょっと、類香!?」
必死な形相の類香を見て、楓花は驚いたようにその背中に呼び掛ける。しかし類香は立ち止まらなかった。突然のことに何も反応できず、類香が駆けて行った廊下を楓花は呆気にとられたまま見つめていた。
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