第5話

 翌明朝、瑛介は獣の唸り声で目を醒ました。

「犬が!」

 亘の声で跳ね起きた三人は、周囲を蠢く黒い群れに目を疑った。

(十、いや二十匹はいる)

 亘は棒切れを構えているが、この数では到底太刀打ち出来ないだろう。狼狽しながら辺りを見回す瑛介の目に、ぽっかりと抉られた窪地が目に入った。

「ここに降りるぞ!」

 すり鉢状の窪地は、三メートルほどの深さがある。内壁にまともな足場は無いものの、木の根が露出していた。

「亘、お母さんを。ひろ、荷物はいいから、先に降りられるか」


 瑛介は亘と呼吸を合わせて母親を立ち上がらせる。にじり寄ってくる唸り声に急かされながら、木の根を掴んで、慎重に降りていった。

 なんとか底まで降りると、ひろが中央で待っていた。こっちこっちと手招きしている。上を見ると、黒い群れは窪地を取り囲み、自分たちを無数の眼球で見下ろしていた。

「……大丈夫、奴らは降りられない」

 瑛介と亘は、母親を壁から離れた所に下ろす。

「あいつらは賢い。ここに降りれば、上がれないと分かってるんだ」

 瑛介は壁の厳しい傾斜を見る。咄嗟の賭けだったが、どうやら成功したらしい。群れはしばらく唸りながら徘徊していたが、瑛介たちに動く気がないと分かると、一斉に駆け去っていった。


 念のため半時間ほど待った。そろそろか、と瑛介が立ち上がると、隣から細い声がした。

「……先に行ってくれるかい」

 母親の消えそうな声に、三人は言葉が出ない。

「私は動けないから」

「そんな、俺らが支えるんで――」

「あんたたちが先に山を下りて、人を連れてきてくれる方が良いでしょう、ね?」

 そう言われた瞬間、瑛介には何故だか「それは駄目だ」という気がした。確かに、動けない人間を連れて進むより、自分が人を呼んできた方が早い。亘も相当疲労している。母親を支える余裕などないはずだ。しかし――。

 ――なんだか早く皆に会いたいわ。

 瑛介は両手で頬をぱちんと打つと、ひとり大きく頷いた。


「ひろ! ついてきてるか!」

 瑛介の声に、背後から「きてる!」と返事があった。

 昨日よりは霧が薄い。時折、雲間から覗いた太陽が、点々と木漏れ日を地面に落とした。


 四人は全員で山を進んでいた。母親を背負う瑛介を、兄弟が支え合って追っている。

(なんて、軽い)

 背負った母親はあまりに軽く、そして体温を感じさせなかった。

(でも……脚が動かねえ)

 まるで空を背負っているかの如く、途轍もない重圧が、瑛介の身体に掛かっていた。

 ひたすら無言で進む。葉で手を切り、木の根に躓きながら、石のように重い脚を気力で振り上げた。


 一歩一歩を数え、五十歩目を踏み出したとき、「あ」と背後から短い叫びが聞こえた。瑛介は緩慢に振り返る。霧の中、二つの影が地面に倒れ伏していた。

「にいちゃん……」

 ひろが前のめりに倒れた亘の背に触れている。亘の四肢は微動だにしていないが、背中は小刻みに上下していた。

(俺が連れて来たんだ)

「……待ってろな」

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