第十八話 タクト=ノーヴェンス

 ―聖王暦六七六年―


 とある辺境の村にリンドランテはいた。魔大陸から最も遠くに位置するこの村で、リンドランテは魔王の息子を育てていたのだ。


 あの戦争から一年。魔族の残党狩りに躍起になっている各国から身を隠すには最適のこの村で、リンドランテは慣れない子育てに追われている。当然、出産の経験のないリンドランテから母乳が出る訳もなく、村人から牛の乳を分けてもらい、赤ん坊に与えていた。


「いい飲みっぷりですね。これは丈夫な子に育ちそうです」


 この村にはリンドランテの過去に踏み込んで来るような者はいない。誰もがみな戦争から逃れ、行き着いた末に住み着いた流民なのだ。村での生活は大変貧しかったが、リンドランテは村の近くに出た魔物を退治する用心棒として、何とか生計を立てている。


「……そろそろ名前を考えた方がいいでしょうか」


 赤ん坊の正式な名前をリンドランテは知らない。しかし、この先言葉を覚えるようになった時に名前がないと不便だろう。


「名前……。名前ですか……」


 もちろんリンドランテは誰かの名付け親になった経験などなかった。満腹になって満足したのか、スヤスヤと寝息を立てている赤ん坊を見詰める。人間の村で住むようになってから、どういう訳か側頭部にあった小さな角は見えなくなっていた。時折大泣きした時に角が生えることはあったが、感情に高ぶりに起因するものなのだろうか。角が生えている等、村の者に見つかったらどんな事になるかは想像に難くない。リンドランテは赤ん坊が大泣きした時は、決まってシーツで赤ん坊の頭を隠し、必死になってあやした。


「せっかくだから、何か意味のある名前がいいですね」


 リンドランテは知恵を絞って、赤ん坊の名前を考える。そしてふと、脳裏にある情景が浮かんだ。


「音楽……」


 まだリンドランテが幼い頃。王宮で聞いた音楽の事を思い出す。複数の楽器の奏者の前に立つ指揮者の姿。それが形も音色もばらばらの楽器達を纏め上げていく様は、リンドランテにはとても素晴しいものに見えた。


「この子にも、いろんな人を束ねられる立派な大人になって欲しい。それこそ種族の垣根を越えて、人間と魔族が手を取り合えるような……」


 そう。リンドランテはこの赤ん坊との出会いを経て、ある願いを抱くようになっていたのだ。いつの日にか人間と魔族が争う事ををやめて、互いに手を取り合い、共存して行く。そんな未来を。


「タクト……」


 指揮者の振るっていた棒。それを意味する言葉。それに物語の中に出てきた素敵な王様の名を付け加える。


「タクト=ノーヴェンス」


 何かがかちりとはまった気がした。リンドランテは赤ん坊の頭を撫でながら、もう一度その名を口にする。


「タクト=ノーヴェンス」


 すると、赤ん坊がぱっちりと目を開き、リンドランテを見据え、そして笑った。リンドランテは驚いたが、その笑顔につられて笑みがこぼれる。


「今日からあなたはタクト=ノーヴェンスですよ」


 赤ん坊――タクトは、自らの頭に伸ばされたリンドランテの手を両手で掴み、楽しそうに振るった。


 リンドランテは自分も名乗ろうとして、ふと考える。本名を名乗って良いものだろうか。この世界ではリンドランテの名前は広く知れ渡り過ぎている。何がきっかけでタクトが魔族の生き残りだと露見するかわからない。だとすれば、自分はリンドランテの名を捨てた方が、この子のためになるのではないか。


 しばし考えた後、リンドランテは自らをこう名乗る。


「私はリン。リン=フォーグナーだ。よろしく、タクト」


 口調も変え、彼女はリンドランテ=アウル=ブリュンスタットであることを捨てた。この先ずっと、自分がリンドランテに戻ることはないだろう。もし戻る時が来るとしたら、それはタクトが一人前になり自身の過去を全て知った後、自分と敵対する道を選んだ時だけだ。そんな未来は訪れて欲しくはないが、そうならないように自分は全力を尽くすだけである。ブリュンスタット王国の第一王女でも、世界を救った英雄でも、誰でもない。一介の旅人――リン=フォーグナーとして。




 タクトは成長するに連れ、徐々に人間とは違う能力を見せ始めた。高い魔力に、高い身体能力。それは周囲の子ども達から明らかに浮いており、やはり彼は人間の子ではないのだとリンに現実を見せ付ける。


「ねぇ、どうしてボクは他の子と違うの?」


 その言葉を聞いた時、リンの心中は穏やかではいられなかった。やはり隠そうと思って隠せる能力ではない。ましてや今のタクトはまだ幼い子どもである。自ら力をセーブするなんて出来ないし、説明した所で理解も出来ないだろう。だからリンはこういう時、自分が幼い頃によく言われていた言葉を口にするようになった。


「それはな、タクト。お前がそういう加護を受けて生まれてきたからなんだ」

「かご? かごって何?」

「精霊の力さ。お前は生まれつき精霊に愛されてるんだ。だから他の子にない力を持ってる。これはとても貴重なことなんだぞ?」

「……よくわかんない」

「……だよな~」


 戦争の終わった世界において、加護など争いの種にしかならない過ぎた力だ。実際、そんな力を持った人間を奪い合い、各国が揉め事を起こしているとも聞く。もしリンドランテとして国に帰っていたら、自分もそんな揉め事に巻き込まれていただろう。


 しかし、タクトが持っているのはそんな精霊の力ではない。魔族として持って生まれた能力だ。他者にこの真実を知られる訳にはいかない。リンは幼いタクトを連れ、村を出ることを決意する。普通に人間ならば無茶な旅だろうが、タクトの身体能力ならば不可能ではないだろう。


 こうして、タクトはリンと共に旅をする事となった。一箇所に長く留まらず、村から村へ、町から町への根なし旅。路銀はリンが何でも屋と称して始めた雑務や魔物退治の報酬で稼ぎ、一定の金が溜まったら、また次の場所に行く。その傍ら、タクトに剣の扱い方や魔法、サバイバル生活のすべを教え育てる日々。何度かタクトの能力を巡るトラブルもあったが、そこはこれまでに培った交渉術で穏便に話を済ませ、事なきを得る。旅は概ね好調で、タクトが一○歳を迎える頃には、一端の戦力になっていた。


「タクトは物覚えが早いな」

「師匠がぐうたらだからな。俺がしっかりしないとダメになる」


 最近はこういった生意気な口も聞くようになって来ている。頼もしい反面、少し怖くもあった。あと何年こうしていられるだろう。自分が思っているよりずっと早く、タクトは一人前になってしまうのではないだろうか。


 だからこそ、リンはタクトの前であまり力を見せることがなくなった。自分がやって見せた分だけ、タクトはすぐに習得し、次をねだって来るからだ。リンは日々酒に溺れるようになり、タクトはそんなリンの世話をする。元々豊かとは言えなかった生活は更に質素なものになり、やがてそれが当たり前になっていった。


 タクトが一三歳になり冒険者登録ができる年齢になると、リンは早速タクトを連れて冒険者ギルドへと向かう。タクトは大層喜んだが、リンの心中は穏やかではなかった。これでまた一歩、タクトが一人前に近づく。永遠の別離となるかも知れないその瞬間がやって来る事が、何よりも辛く、また恐ろしかった。もし全てを知ったタクトが、自分との別離を望んだとしたらと思うと、胸が張り裂けそうになる。それほどにタクトと過ごした一三年間は、リンにとって大切なものになっていたのだ。

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