カウンセラー
薄いブルーの白衣(?)を着た小柄な女性が病室へ入って来たのは、俺が昼食後のうたた寝に幸福をかみしめている時間帯だった。
一瞬迷惑そうな顔をした俺だが、施設見学の学生が迷い込んだのかと思うほど若いというより幼く見える彼女を一目見て、瞬時に目が覚めた。
だが、ここの人たちの外見に騙されてはいけないと、警戒は怠らない。
「こんにちは~。たいへんお待たせいたしました、カウンセラーの山野ですぅ」
遅くなった出前を届けるような満面の営業スマイルを浮かべて美少女がベッドへ近寄るので、気が抜けた。魂を吸い取られそうな、底知れない深みを感じる琥珀色の瞳だった。
細身で背が低く、長い黒髪を白衣の背中に垂らしている。化学の実験室を抜け出した可愛らしい中学生のようだが、近くで見ると意外と胸は大きい。そこだけは、岩見看護師に負けぬ威圧感があった。
「こんにちは。大島です」
俺は体を起こして頭を下げる。
「そんなに緊張しないでね、トミー。今日はちょっとお話をするだけだから。私は精神科医の山野澪という者です。臨床心理士とかカウンセラーとか、色々な肩書があるけど、本当は澪ちゃんと呼んでほしいかな」
くそ、あの変人ドクターに続いて、この妙なテンションの医者まで俺をトミーと呼ぶ。
「ドクター永益にも言いましたけど、俺をトミーと呼ばないでください」
だが山野医師は俺の言葉を無視してマイペースで話を続ける。
「今日は午前中にガイダンスを体験したんだね」
「はい」
「どうだった?」
どうもこうもない。いい加減にしろ、と言いたいのだが、そうも言えない。
「いや、あれが現実だとはとても思えなくて……」
「そうかい?」
「だって、50年後とか怪獣とか言われても……」
「うん。でも君、実際にその目で見たんでしょ?」
「えっ?」
「一昨日の襲撃の時に屋上に上がって、目の前で見たんでしょ、あのアオガエルを」
俺は驚いて、目を見開いたまま動けない。
山野先生は、実に愉快そうな表情で俺を観察している。しかしその表情は、次第に優しい丸みを帯びていった。
気が付くと、俺の両眼から涙が溢れていた。
「うん、大丈夫だ。不安にさせてごめんね。君は少しもおかしくなんかないんだ。少しばかり変なのは、この世界の方さ」
そう言って、中学生のような外見の少女が俺の頭に手を伸ばし、優しく撫でてくれた。
俺は我慢できずに、ぼろぼろと涙をこぼした。
後ろに控えていた岩見看護師が俺に駆け寄り、柔らかなタオルで涙を拭いてくれた。
「晃さん、ごめんなさい。私のせいで、かえって混乱させてしまって……」
岩見さんはそう言うと両手で俺の頭を抱えて、胸に抱き寄せた。
俺は再び、花の香りを嗅いだ。ああ、やはりこの人は違うんだなと思うと、黙ってはいられなかった。
「あなたが謝る必要はないです。だって、本当の岩見さんは、俺のせいで死んだんだ……」
俺は、この女性が本当の岩見看護師ではないことを確信している。
「あら驚いた。あなた、この子が鈴ちゃんじゃないことがわかるのね」
山野先生は、岩見さんをこの子、と言った。やはりこの人は、見た目通りの年齢ではないようだ。
偽物の岩見美鈴は、それでも俺の頭を離さずに小声で語りかけた。
「わたしは岩見美玲。本当に美鈴の妹よ。でもね、安心して晃さん。姉さんは死んでいないわ」
そんなはずがない。俺は彼女の上半身が炎に包まれ、燃え上がるのを目の前で見たのだから。
「えっと、玲ちゃん。その、鈴ちゃんはいつ頃治るの?」
山野先生は、二人をよく知っているらしい。
「ドクター永益は、あと三日もすれば完治だと言っていましたが……」
「だってさ。美鈴ちゃんは別室でドクターが治療してくれているから、三日後にはまた元気にここへ顔を出せると思うよ。だからそれまではこの美玲で我慢して」
「そうです。美鈴姉さんの偽物ですが、一生懸命やりますので、しばらく我慢してください」
俺の顔を抱く美玲さんの手に、力が入る。
だが、簡単には信じられない。
「あと三日だって? そんなに早く? 本当に?」
「ああ、本当だよ。21世紀の医学を舐めるなよ、少年」
山野先生が胸を張るので、そう信じるしかない。俺は再び涙が溢れるのを感じたが、無理に顔を上げる。
「ミレイ、さん?」
「うん」
「失礼なことを言って、すみませんでした。でも、お姉さんが無事でよかった……」
そこまで言うのがやっとだった。
再び美玲さんが顔を強く抱きしめるので、俺はその胸で思う存分に泣いた。
「よし、トミー。もう大丈夫だな」
「でも山野先生。どうして皆、すぐにその事を教えてくれなかったんですか?」
俺の困惑は、もっと早く晴れたはずだ。
「そんなの決まっているだろ。何故なら、その方が面白いからさ!」
当たり前のように爽やかな笑顔を浮かべて、山野先生はそう言い放った。
「さて、今日はこれ以上無理だな。また明日来るよ。じゃあね~」
ほんの短い時間に俺の不安を取り去った後にまた新たな不安を残して、山野先生は帰って行った。
美玲さんの柔らかな胸に顔を埋めて泣いていた俺は、無抵抗のままその感触と花の香りを満喫していたが、はっと気付いた美玲さんが俺の頭を離して顔を覗き込んだ。
「そろそろ落ち着いたかな?」
「はい」
「よし、この続きは美鈴姉さんにお願いしなさい」
そう言われた俺は余程物欲しそうな顔をしていたのだろう。
「こら」
そう言って俺の鼻を指でピンと弾いて、美玲さんは部屋の隅に置かれている唯一の装飾品である花瓶を手に取ると、水を替えてくるね、と言って出て行った。
そうか、あの花は本物の生け花だったのか、と思いながら、俺は鼻の奥に残る花のような美玲さんの残り香を思い出していた。
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