第一部

目覚め

 俺が眠りから醒めた時、奇妙な液体に満たされた透明なカプセルの中に横たわっていた。


 不思議と息も苦しくないし、心も落ち着いていて、不快感はまるでない。


 ただ漠然と、長い夢から醒めた時に感じるような非現実感が残っている。


 やがて現実と夢との境界は揺らぎ、混濁する意識の中で自分の輪郭をはっきりと見極められぬまま、俺は快適だったカプセルから非情な現実へと追い出された。


 気が付けば薄い入院着を着せられて、糊のきいた白いシーツの上に冷たい体を横たえていた。


 まだ夢の続きを見ているのだろうか。無機質な白い部屋の中で、急に不安を感じて怯えながら震えているうちに、意識が再び飛んだ。


 再度目覚めると、白い病室のベッドに寝かされていた。

 硬めのマットと皴のないシーツのパリッとした感触は、柔らかで透明な夢から覚めて白灰色の現実へと向かう乗換駅だった。


「ここはどこだ?」

 ベッドの横に立つ白衣の男を見つけて、俺は問う。


「その前に、自分のことがわかるかね?」

 白衣の男の問いかけに、俺の口から自然と言葉が発せられた。


「俺は……トミオカセイジュウロウ、高校三年、18歳。トミーと呼んでくれ」

 四十過ぎに見える白衣の男は、やや困惑の表情を浮かべる。


「トミオカセイジュウロウ、だと? どんな字を書くのか教えてくれないか?」

「世界遺産の富岡製糸場のトミオカに、清い、数字の十、ロウは桃太郎の郎だ」

 白衣の男は首を傾げた。


「世界遺産だと?」

「……」

 富岡製糸場は俺の住む群馬県自慢の世界遺産なのだが、もしかして知らないのだろうか?


「君の名は大島晃(オオシマアキラ)、17歳のはずだが、違うのかね?」

 男の言葉が何を意味するのか、俺には理解できない。


 ただ男は白衣の下に白い全身タイツのような白い服を着ていて、それだけでは医師かどうかも怪しかった。


「もう一度聞こう。自分の名前を思い出せるかね?」

 俺は困惑し、男の顔を見上げる。

「俺は、富岡清十郎だ」


 それにしても、ここはどこの病院で、今どんな状態でここにいるのだろうか。

 今は柔らかな枕に頭が埋もれた状態で、白い天井と軽い肌がけの胸元しか見えない。


 すると、突然目の前の空間へ重なる新たな映像が浮かんだ。


 AR、仮想現実というのだろうか。寝たまま見上げる白い天井の手前に、半透明の映像が浮かんでいる。


 それは、一人の男が寝ているベッドを、足元から見下ろしたものだった。


 恐らく俺自身の姿を天井のカメラから見下ろした映像なのだろうと思ったが、そこに横たわる男の顔は明らかに自分とは違う、知らない誰かだった。


 俺は右目を閉じて軽くウインクをしてみる。

 映像の中の男も同じように右目を軽く閉じた。

 まるで自分のようだ。


 俺は気味が悪くなり、ぶるっと震える。すると映像の中の男も、同じように体を震わせた。

 白衣の男が再び口を開いた。


「君の肉体は概ね1999年7月の状態で固定されている。推定される年齢は10代後半、身長178センチ、体重65キロ程度の男性で、所持していた学生証から都立高校3年生の17歳と思われる」


「……」


「そしてその学生証の写真からも、君は大島晃本人であろうと思われていた。だが残念ながら、君に関する情報はそれ以外何一つ発見されていない」


「オオシマアキラ?」

 俺はその名を口に出してみるが、それは俺の知っている自分の声とは違う。


 俺の名は、富岡清十郎だ。

 2001年生まれの高校3年生。18歳のはずだ。


 混濁した記憶が、ようやく戻りつつある。

 俺は高校3年の秋にスポーツ推薦枠で大学の面接を受けるために上京した。


 安ホテルへ荷物を置くと、俺は翌日の面接を控えて街を散歩していた。せっかく東京へ来たのだからと、ある人気ゲームキャラクターのフィギュアを探して何軒もの店を出入りした。

 

 ついでに野球部の女子マネージャーに何か気の利いた土産でもないかとうろうろしているうちに都会の人波に疲れ、ぼんやりと交差点を歩いていたところへ、白い乗用車が猛スピードで突っ込んで来たのを覚えている。


 確か、あれは2019年の11月だった。


 俺の身長は169センチで体重は62キロ。小柄だが引退したばかりの野球部では不動のレギュラーで、俊足強肩巧打の捕手だった。


 あと少しで甲子園へは行けなかったが東京の大学から声がかかり、面接試験を受けるためにその日は一人で上京していた。

 白衣の男が言う1999年には、まだ俺は生まれていない。だから俺が大島晃であるはずがないのだ。


 そんなことを考えているうちに、目の前のAR映像は消えていた。


「さて、目覚めたばかりで混乱しているだろうから、今日は無理をしないで横になっていなさい。これから精密検査を行うので、詳しい話は明日以降にしよう」


 そうして俺はベッドに横たわったまま、様々な機器を使った検査を受けた。



 翌朝早く、空腹で目が覚めた。


「うむ、肉体的には昨日まで普通に暮らしていたような状態で通常の食事が可能だが、念のため流動食から始めて様子を見よう」


 朝早くから病室に現れた怪しい白衣の男はやはり医師なのであろう。横に控えていた看護師に言って、食事を用意させた。


 30分としないうちに得体のしれないスープのような液体が用意された。俺はベッドの上で上体を起こし、自分の手でスプーンを持ち、貪るように食べた、というか、飲んだ。

 食後は電動車椅子で別の部屋へ移動した。


 自動運転の車椅子というのには初めて乗ったが、便利なものだ。

 リハビリルームのような場所へ連れて行かれると、そこにいたインストラクターの指示に従い軽く体を動かした。


 驚いたことに普通に立って歩いても、息切れもめまいも起こさない。

 本当に、昨日まで普通に暮らしてきたような肉体のコンディションに感じた。

 精神は混乱していたが、肉体だけは何故か絶好調である。

 あんな大袈裟なカプセルに入れられていた理由がわからない。


 その後病室に戻り、緩いゼリー状の昼食を取ってから、白衣の男の問診を受ける。


「君自身のことを思い出したかね?」

「いえ、何も……」

 昨日の問答から、自分が富岡清十郎であると言い張るのはためらわれた。


「昨日、君はトミーと呼んでくれと言っていたが……」

「いや、それは忘れてください……」


 そこで、これ以上の追及を避ける意味でこちらから質問をする。

「今日は何日なのですか?」


「2050年2月2日だ」

 悪い冗談だと思った。


 茫然とする俺に、男が言う。

「納得できないようだな、トミー。本当に今年は2050年で、しかも君は1981年生まれの大島晃だ。この事実は変わらない」


「それなら何故俺をトミーと呼ぶんです?」

「君が自分でそう呼んでくれと言ったのを忘れたのか、富岡清十郎。いや、トミーか。だが君が生まれたのは1981年10月3日。住所は文京区春日で、名前は大島晃なのだ」


 それが本当なら、俺はもう70歳近い年齢のはずだ。

 だが、この肉体はどう見ても十代後半の若さだろう。


「そういえば、この肉体は17歳だと昨日言われたと思ったが……」


「そう。1999年の7月から、君の時計はずっと止まっていたんだ。これから、その止まっていた50年を取り戻そうではないか、トミー。ようこそ、夢の21世紀へ」


 そう言って医師は右手を出す。


 現実感のない世界に突然放り込まれて、俺はその手を握り返してよいのか、本気で迷った。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る