利器を手にした迷子
ぬえべ
本編
Ⅰ
鍵を拾った。何の変哲も無く、どこにでもあって、誰のものでもあるような鍵だった。それを手に取ると、八月の照り輝く太陽の迸りを反射させ、私の泣き腫らした目を射抜いた。
私にはあてがなかった。丁度自分の居場所を失ったばかりであった。だが、鍵には必ず鍵穴という居場所がある。そして、鍵によって開かれる場所も。
私はこの鍵は神の思し召しだろうと考えた。そして私はこの鍵を自分の物とした。この鍵が正しく当て嵌まり、開く所が私の所有となるはずだ。急いで見つけ出そう、黒く恐ろしい夜が訪れてしまう前に。薄汚れた自由しか持たない私は早速歩き出した。
Ⅱ
痛く眩しい日差しを避けるように、私は青々と茂った街路樹の陰を辿っていた。すると上から声が聞こえた。
「おい、お前は一体何を持っているんだ。」
声の主を探すと濃い緑のモザイクに紛れて、一匹のカラスがそこに居た。
「これは鍵、私が拾ったんだ。この鍵が嵌まる所を探しているんだけど、どこか知らないかい?」
「ふん、お前が拾ったのか。それなら、お前のだな。中々キラキラしていて素敵じゃないか。誰のものでもないのなら、寝床の一つにしてやろうと思ったが。」
カラスは私の求める質問には答えずにぶつくさと呟いていたので、私はもう一度話しかけた。
「ねえ、これをどこかで見たこともない?」
「こんなのどこにでもあるようなモノじゃないか、知らないね。」
カラスは大きく首を横に振った。少し残念な気持ちになってしまったが、私は別の質問を続けた。
「何故鍵を寝床にするの?鍵は居場所を開くけど、居場所にはならないよ?」
カラスは大きく嘴を開き、ポカンとした表情を浮かべた。
「それはお前、偏った考えだよ。いいか、俺みたいなヤツはその鍵とやらを使って、何かを閉じ込める必要もないし、誰からか守る必要もない。ただ自分の必要なモノ、俺なら寝床が作れれば良いんだ。ほら、俺の寝床を見てみろ。」
そういってカラスは枝の根本に置いてある塊を羽根でさした。目を凝らして見るとそれはハンガーや、靴下などの消耗品達で作られていた。
「全部オレが取ってきたんだ。オレはコイツらが何かは分からない。だが、オレは全て寝床にした。オレにはそう使うのが正しいのさ。」
カラスは自慢げに言い放った。
「決まった事に囚われちゃいけない。お前もそうだ。まあ、お前は身体がオレよりデカいから、それを寝床にする事は出来ないな。なら、それを売って別の何かを買えば良いさ。」
得意げに話されたカラスの案に感心した私は、やはりカラスは賢い生き物だと思った。
だが、その通りにしてしまうと、この鍵は私のものではなくなってしまう。それではいけない。私は鍵が導く空間が欲しいのだ。
それにカラスのように寝床を作るだけでは駄目だ。それでは空間のない、ただの平面だ。夜が私の身体に這いつくばってしまう。真夜中のような体毛を持つカラスならば、平気であるかもしれないが、それではいけない。私が考え込む間もカラスは饒舌であった。
「機嫌が良いからとっておきを見せてやろう。オレの物の中で一番気に入ってるんだ。この赤い石は三日前に手に入れたんだ。五丁目の一番角っこに住む婆ちゃんが死んで誰のものでもなくなったから、オレが頂いたんだ。」
カラスは私の頭上にある枝まで降りてくると、器用に嘴で掴んだルビーを私に自慢げに見せた。
鮮血を固めたようなそれは、カラスの黒い身体に包み込まれているようだった。死んでしまったらこのようにコイツに奪われ、自分のモノではなくなってしまうのか。私は少し嫌気を覚えた。
「もしお前が死んだら俺がソレを貰ってやろうか。」
「いいえ、絶対にあげない。お前にだけには絶対あげないよ。」
「変な事を言うヤツだな。いいさ、そんな固くてツンとしたのを寝床にしたら、オレは傷ついてしまいそうだしな。」
機嫌を損ねたカラスは飛び立ち、また生い茂った葉の影に隠れてしまった。
Ⅲ
カラスと別れた後、私は何時間も彷徨い歩いた。鍵によって開かれる場所は見つからず、ただ私の腹が空っぽになっただけだった。
街の広場にフラフラと行き着いた私は、一枚の壁に縋るような形で蹲った。私は空腹が起こす身体を蝕むような気持ち悪さに、引きずり込まれていた。空っぽの胃が唸っていた。
ふと、視線を上げると私と同じ体勢で、私を覗き込むヒツジの顔があった。
「腹を空かせているのか、君は。それならばコレを食べるが良い。」
ヒツジはズボンのポッケからパンを取り出し、私に渡した。私はそれを掴み、無我夢中に頬張った。
ヒツジはそんな私をじっと見つめていた。ヒツジは真っ黒なモーニングコートを着ていた。不気味なヤツだ、と思いながら、チラッとヒツジの後ろに立つ時計を見た。ヒツジの背後にあり、私の前にある時計の短針は十七時の位置を刺していた。
夏のおかげでまだ空は暗くはなっていないが、夜は徐々に忍び寄っている。太陽は既に傾き、空は熟し初めていた。私は焦燥に駆られた。だが、彼はそんな私にはお構いなしに話し出した。
「人はパンのみにて生きるにあらずだ。君もそうだろう?それなのに何故そのように獣のように食らうのだ。」
「このパンがなければ、多分、私は空腹で死んでいたよ。空腹で死ぬ前なら、獣も人も変わらないんじゃない。」
「おかしな事を言う子だな。もし完全な空腹になっても、死にはしない。それは君の腹の中が空っぽの”ない”になるだけで、君自身は”ある”のままさ。」
私はヒツジの口から湧き出る言葉の連なりを読み取れなかった。そして、この恩人に対して少しいかがわしさを抱き始めていた。
「意味がわからない。それに貴方の”ある”の私自身も、今彷徨っていて”ない”になる所なんだ。そうだ、この鍵を見たことはある?」
「いいや、見たことない。鍵というには随分と奇妙な形をしているモノだな。鍵には鍵のはまるべき場所があるはずだが、それを君は知らないのかい?」
「そうなんだ、これは僕が拾った鍵からね。」
「では君は”ある”の”ない”だけを手に入れたのか。」
「どういうこと?」
奇怪な話をする彼に私は辟易としていた。彼の為に時間をすり潰しているのが、何だかとても惜しく思えた。
「鍵は作られる時、ただ鍵のみ生まれるのではなく、鍵の線を象るような鍵穴と同時に生まれるだろう。もし、鍵穴がなければ鍵は”ある”ではない。使えないゴミの金属片、意味の”ない”ものさ。そして今、君は鍵のみを持ち、鍵の使われる場所を知らないんだね?それでは、鍵の”ある”は”ない”のままだ。」
ヒツジの言葉は私の頭の中で激しく堂々巡りを行う。”ある”と”ない”の交錯が私を掻き乱す。ヒツジは私にグンと顔を近づけた。
「ところで彷徨っている君の”ある”は何だい?居場所は?家族は?君は一体?」
向かい合ったヒツジの瞳は、その横に広い瞳孔で私を責め立てるようだった。
私は何も答えられずにいた。それは、ヒツジへの恐怖心からもあるが、私は実際、その答えを一切持ち合わせていなかったからだ。
ヒツジの呪詛は続き、その呪いに縛りつけられている気分であった。彼の瞳の中の私は顔を歪ませ、苦しそうだった。
ヒツジはやっと存分に脅かされている私を見つめ直し、鼻で笑うような態度を取った。
「何も答えられない君は腹だけでなく、脳味噌も”ない”のか?おい、それでは君は欲求だけは一人前に”ある”間抜けな畜生ではないか。それでは一生漂泊するのみだな。」
「うるさいな!ヒツジの君に言われたくないよ!」
私はヒツジの放った言葉により、私の膨大な恐怖心は途端に苛立ちとなった。そして、それは抑えきれずに動きとなってしまった。
私はヒツジの事を力任せに押した。するとヒツジはグラリと倒れ、地面に当たると粉々になり、消えてしまった。それまでヒツジであった粉々のガラス片は何も言わず、ただここに散らばった。私はたった今しでかした事に対する罪悪感より、閑静を取り戻せた事に喜びを見出していた。
だが、私ははっと気づき辺りを見渡した。振り返り見ると、私の背にあった時計の短針は十九時の位置を指していた。彼とのやり取りは五分程だと思っていたが、こんなに時間を奪われてしまったのか。
私は酷く焦った。冬よりは一日の寿命が長い真夏の太陽が、未だ私の影を作ってくれている。だが、影はもう長く伸びていて、千切れてどこかに行ってしまうのではないかと思えるほどだ。
夜が来てしまう、私を飲み込みに来てしまう。いや、夜は私以外の全てのモノも飲み込む。それに恐れ、皆温かな明かりを灯した居場所に閉じこもる。しかし、今の私はそれを失っているのだ。急がねばならない。私は鍵を強く握りしめ、広場から続く商店街を歩いた。
Ⅳ
既にシャッターが下ろされた店が並ぶ中、一つ開いている店があった。私にはそこがポッと輝いているように見えた。
導かれるようにドアを押し開けると、店内の四方の壁にズラリと鍵がかけてある。私は歓喜した。ここなら私の持つこの鍵の居場所が分かるかもしれない。
私は急いで店の奥にいる店主らしきモノに話しかけた。ソイツは大きなヘビだった。
「おや、いらっしゃい。何をお探しだい?今なら豚用が安いよ。魚用もお買い得さ。あ、人魚用が出来たばかりだけど、中々細工が効いて小洒落ているんだ。お安くしとくよ。」
パイプを咥えた口の隙間から長い舌を震わせたヘビはニタリと笑っていた。そんなにも沢山の種類があるのなら、この鍵の居場所も分かるはずだと私は確証した。
「コレ、どこのか分かりますか?もし貴方が作ったのなら分かると思うんです。」
蛇は私がかざした鍵をジロジロと眺めた。
「ああ、これは確かにオレが作ったヤツだ。随分とおっかない持ち方をしてるな。これはねえ、何にでも使える。でも逆に何にでも使えるって事は、使えないかもしれない。なぜなら皆何にでもを嫌い、自分のを欲しがるからね。」
その言葉は私をまた困惑させた。
「それじゃあ、これは使えないの?これが使える所はないの?」
「いや、だから何にでも使えるのさ。まあ、今は何にでも使える自由があるのなら、って言ったほうが正しいかもしれないが。」
言い終えた蛇はパイプをふかし、煙を撒かした。私は立ち込める臭気に包まれた。
私は、蛇の言うとおり、使えない鍵を握りしめ、今はもう無い場所を探し求めていたのか?そんな、困った。私は鍵が繋ぐ、私ではないモノを求めているだけなのに。その中に、居たいだけなのに。その中で、夜を恐れずに明日の朝日を待ち望みながら、繰り返される眠りにつきたいだけなのに。
外界はいつの間にか私のそのちっぽけな願いすら、叶えさせてくれなくなったのか。ああ、それでは私に与えられた自由は、ただの孤独ではないか。
涙が私の視界を眩ませた。気の毒そうに私を見るヘビは、こう告げてくれた。
「そんな悲しそうな顔をしないでくれよ、そうだ。私がソレをお前の手にピッタシ合うような、お前用にしてあげようか。」
「それじゃあ、尚更駄目なんだ。私を導く、私ではないモノが欲しいんだ。私に合わせたら、ただの私じゃないか。」
私はまたメソメソと泣いていた。そしてどうにもならない気持ちのまま店から飛び出た。
もうすぐ太陽は消えてしまう。そして、私は夜に飲み込まれてしまう。夜は喜びも悲しみもせず、当たり前のように私を喰らうだろう。他の生物と同じように。
だが、私はまだ覚悟がなっていないんだ。もう少し、ホントにもう少しだけ、待ってくれ。私は私のみで夜を迎えたくないんだ。私を象り、私の事を遺してくれるモノがなければ嫌なんだ。
私の心が赤子のように喚き出したその時、私の脳裏はある論説を閃いた。
この鍵は何にでも使える鍵だ、ヘビはそう言った。それならば、この鍵はまだ私の物ではない、自由の鍵だ。自由の鍵がはまるべき鍵穴は?同じく自由さ。では、私は今何の身である?
閃きは私を十分に納得させるモノだった。私は鍵を手に取った。私はあのカラスのようにコレの使い方を知らない訳ではない。
又、あのヒツジの言う通り、私の中に”ある”と”ない”が存在する事を認めよう。
空っぽで自由しか”ない”私と、夜に恐れをなす私の”ある”心。鍵と彷徨う空間の私。
鍵穴は?
そうさ、ここだよ。
私はその鍵を私の”ない”に差し込んだ。
グサッと嵌まった鍵の音を聞き、私は正しさと安堵を覚え、体液を流し始めた。
鍵は、瞬刻の生命を燃やす、真っ赤な夕日と私に染まっていった。
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