第33話 ルクティの裸エプロン

 トッシュはトイレの前に立つルクティに声をかけた。

 シルのトイレに付き添っているのは分かる。

 だが、トッシュの目には、ルクティが微かに震えているように見えたのだ。


「ルクティ、どうした?」


「う……」


 ルクティの喉から、息が漏れたとも呻き声とも分からない音がした。


(様子が変だ。まさか、夜中になるとゾンビに戻る?)


 トッシュの背筋に緊張が走る。

 ちょうどそのタイミングで不意をうつようにルクティは両腕を伸ばし、トッシュの肩を掴む。


「ルクティ?」


「……」


 まるで恋人がキスするかのような仕草で唇をそっと近づけてくる。



「おい、どうした」


「うー」


「おい! ゾンビになったのか?!」


 ゾンビなら兎も角、華奢な女子に過ぎないルクティをはねのけるわけにもいかず、トッシュは困惑する。


 ルクティは桃色の唇をそっと小さく開き、トッシュの首筋を吐息で湿らす。


 そして、八重歯を暗闇の中で薄ぼんやりと輝かせると、ガッと大きく口を開けてトッシュの首に噛みついた。


「くっ……!」


「ふがふが……」


 しかし、トッシュは年下の少女の色香に惑わされて棒立ちしていたわけではなく、ちゃんと、防御力を上げて置いたので、牙は突き刺さらない。


 あまり硬くしすぎればルクティの歯が欠けてしまうかもしれないので、ほどほど程度に防御力は上げてある。


「まさか、この洋館に居る限り、夜になるとステータスゾンビになるのか? 確かめるか。ステータス表示! ……ん?」


 トッシュはルクティの頭に触れてステータスを表示してみたが、ステータス異常は無い。


「どうなってるんだ。異常はないみたいだが……」


 ルクティはガブガブと何度かトッシュの首筋をかじろうとし、歯が刺さらないことを理解すると、そっと口を離した。


 そして、すぐに、はっと目を大きく開く。


「……! も、申し訳ありません」


「え?」


 ルクティは慌てて身を離すと、暗闇でも分かるほどに顔を赤くする。


 それから、わちゃわちゃとした手つきでエプロンをたくしあげ、トッシュの首筋から唾液を拭き取る。


 少女の裸体が顕わになったが、暗いからよく見えないしトッシュは現代人のように異性の裸に興味津々でもないので、特に気にしなかった。


「えっと、ゾンビになったかと思って、ビビったんだけど」


「誠に申し訳ありません。何年もゾンビをしていた癖で、つい……」


「癖? あ、あー……。そういうこと」


「誰も居ない洋館を何年も彷徨っていて……。だから、人が居るのを見たら、急に嬉しくなって……」


 急に嬉しいとは。

 寂しさが紛れるという意味か、獲物を見つけたと言うことか。トッシュは少し考えたが、そんなことを指摘しないくらい分別はわきまえている。


「う、ううっ……」


 トッシュの首筋から唾液を拭き取り終えると、ルクティの小さな体が小刻みに震え出す。


「どうした?」


「あの、ご主人様……。

 メイドの身分でありながら身分をわきまえずにお願いしてもよろしいでしょうか」


「遠慮なんて要らないって言ってるだろ。この家の持ち主って意味でご主人様って呼ぶのは構わないけど、別に雇用主でもなんでもないから、トッシュって呼んでくれればいいし、ほんと、マジでなんの遠慮も要らないから」


「……はい。あの、頭を撫でてくれませんか」


「頭を? 分かった」


 トッシュは言われたようにルクティの頭にそっと触れる。


「こうして頂くと……落ちつきます」


 ルクティはふっと笑むと、そのまま倒れそうになるので、トッシュはルクティを正面から受け止め、腰に腕を回して支える。


「ルクティ?」


「怖くて……」


「……?」


「私、ずっと、洋館を彷徨って、怖くて……。ゾンビだったときは平気だったのに……。急に、怖くなって……」


「……! ごめん。俺が人間に戻したせいで……」


「ううっ……。すみません。人間に戻れて嬉しいんです。でも、恐怖が消えなくて」


「ごめん。考えが浅はかだった……」


 ゾンビから人間に戻してあげたことは正しい。

 だが、そのことによってトッシュはルクティに悲しみを与えてしまったのだ。


 かしこさ2のゾンビだったころは、暗い洋館を彷徨っても何も感じなかったし、記憶力もほとんどなかった。


 しかし人間に戻ったルクティは、脳裏にこびりついたゾンビ時代の記憶に苦しんでいる。


 トッシュは罪の意識にさいなまれた。


「本当に、ごめん……。俺が浅はかだった。俺のスキルは使いどころが難しいって分かっていたのに……」


「いえ、私こそ……。助けて頂いて、恩返しもしていないのに、こんな、ご迷惑を、おかけして……ううっ……」


 トッシュはルクティに声をかけることは出来なくなってしまった。


 何が正解か分からない。


 ゾンビのまま倒してしまえば良かった、とは思いたくない。


 半永久的に洋館を彷徨い続けるより、人間として暮らす方がきっと幸せなはず……。


「ご主人様、暖かい……」


 ガチャッ。


 用を足し終えたシルがトイレから出てきた。


「どうしたの?」


「何でもない。ルクティも暗くて怖かったらしい」


「そうなの? ごめんね、ルクティ。シルのせいで……」


 シルがルクティの足に抱きついた。


 ルクティは泣き顔をシルに見せたくないのか、トッシュの胸に額をぎゅっと当てたまま放さない。


 それから、ルクティを一人にするわけにもいかないので、3人は同じベッドで川の字になって眠った。


(ルクティに、人間に戻れて良かったと思わせてあげたいなあ……)


 翌朝、ルクティは前夜を引きずらない笑顔を見せてくれた。

 それが強がりだということは、トッシュにも分かったから、可能な限り目を離さないようにしようと心に決めた。

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