第23話 傷口
付け加えられたエインの説明によると、私の傷は傷であって傷ではないらしい。エルヴァーリオの手によって付けられた、抉り傷。確かに存在はしているのだが、その中がないらしい。
わかるように説明しろ。そう言うと、彼はさらに付け加えた。
普通、傷はなにかで埋め合わせようとする。肉が互いを補完し合うはずだが、この傷にはそれがない。血、肉。すべてが、まるっきり消えてしまっているというのだ。
「ちゃんと見えるんだ。肉壁っていうのかな、そんなのが。お前の傷にはかさぶたすらない。そこに、ただ空洞があるんだよ」
いくら説明されても、理解と納得はできなかった。自分の目で見るほうが早い。首をもたげ傷を確認しようとしたが、途端激痛が走って止めた。駄目だ。痛みでそれどころじゃない。とにかく、痛み止めを塗ってもらわなければ始まらない。
「ちょっと染みるけど……いや、染みるのか? わかんねぇけど、我慢しろよ」
彼は鞄に入った赤い粉のようなものを手につまんだ。見えないから何とも言えないが、その謎の粉を空洞となった傷に撒いているのだろう。確かに、心なしかマシになったような気はする。
「痛いか?」
「いや、マシになったくらいだ」
汗も引いてきた。呼吸も穏やかになり始めている。喋ることすら苦痛だったが、今ではすらすらと言葉を紡げる。
「どうだ? 感じるか?」
「なにを言っている?」
「いや、分からないならそれでいい」
よくわからない言い回しに、私は首をかしげる。首を上げようとすると、エインに止められた。
「見ないほうが痛くならずに済むぜ」
どういうことだと思ったが、ここはエインに従うのが吉だろう。死にはしないだろうが、痛いのは私も好きではない。わざわざ苦しみに向かっていくのは愚か極まりない行為だろう。
おとなしく、私は空を仰ぐ。なにかしているというわけでもないのに、エインは忙しそうだ。荷台から水を汲んだり、鞄からよくわからないものの入った布包みを取り出したり。だが、それが一体なにに使われているのかは、分からない。
「もう起きても大丈夫だ」
起き上がり、傷を確認する。
「……なんだ、これは……っ!」
そして、我が目を疑った。
そこには穴というか、空洞があった。脇腹、その一部分をスプーンで掬いだしたかのような痕だ。なにも、ない。血もなければ肉もない。空洞だけが、そこに広がっている。
「どういうことだ……!?」
傷口に触れても痛みはなかった。少しざらざらとしているのは、薬のせいだろうか。そこにあるはずのものがないという感覚は、とても気持ち悪かった。それが物であれ、痛覚であれ、だ。
……忌々しい。あの愚か者は、一体どれだけの傷を私に残せば気が済むのだ……!
死の間際にさえ、私に呪いを撒いたのだ。往生際悪く、私に自身の爪痕を残して逝ったのだ。あぁ、忌々しい! 苛立ちをぶつける場所もなく、私は傷に爪を立てた。痛みなど感じない。それが余計に腹立たしかった。
「ちょっと、思ったんだけど、さ……」
「なんだ?」
エインを睨むと、彼は傷口をそっと撫で、おずおずと言った。
「それ、似てないか?」
「なにに?」
「その……研究所で見た、ババアに、さ……」
言われて、私ははたと傷口に目をやった。
包まれる炎。まるで腐食するかの如く、消えてゆく老婆の肢体。
そして、消え失せた抉り傷――。
確かに、似ている。それを同一であると決めつけるには早計過ぎると思うが、似ているのだ。引き金となるのが炎ではなく、ナイフであっただけ。私の体は、老婆が如くに、消えた。
「これこそが、奴らが言う虚無だというのか……?」
虚無は肉体を構成する四大を繋ぎ止め、切り離す。私の抉り傷部分の四大が切り離されたとしたら。
「……笑わせてくれるな」
私は鼻でエルヴァーリオを嗤った。最後まで、奴は己を驕り抜いたのだ。私を消し、自分も死ぬ。これで全て終わらせよう。どうせそんな腹だろう。笑いがこみあげてくる。奴はこの私を殺せると、信じて疑わなかったのだ。確かに、殺されそうにはなった。だが、今の私はひとりでは――。
――待て。私は今、なんと言おうとした? ひとりではない? 私は鼻で嗤った。なにを言っている。私はいつでも、これからも一人だ。エインはただの旅仲間。いや、仲間と呼べる関係なのかどうかも怪しい。契約上の関係だ。そうだ、それだ。契約が終われば解散という、なんともあっけなく寂しい――。
「おい、大丈夫か? そんな怖い顔して」
「あ、いや……なんでも、ないのだ……」
「そうか? まぁ、なんでもいいけど。包帯巻くから寝転がってくれ」
あ、あぁ。私は寝転がり、エインの横顔を眺めた。包帯を手に、脇腹をぐるぐる巻きにしていく。私は空を仰ぎ、自嘲した。
……寂しい、など。
寂しい。そんな言葉が出てくるほどに、私は彼のことを知らぬ間に信用しきっているのだ。少なくとも、背後から刺されても仕方ないなと思えるほどに。彼は、良い奴だ。馬鹿ではあるが、良い奴なのだ。
だからこそ、恐ろしい。
エインが人の姿を取り戻したとき。私と違って、恐れられる存在ではなくなったとき。
私を恐れる、その時が来るのが。
「……なぁ、エイン」
「ん?」
そんな私の腹の内を知らぬか、エインは間の抜けた声を投げかける。
「貴公が人となったとき、貴公は私を……」
恐れるのか。その言葉は、最後まで紡げなかった。
忘れてくれ、と目を閉じる。
「仮に俺が人に戻れたとして、だぜ?」
暗闇の中、声が反響して耳についた。
「絶対にお前をビビらねぇ、とは言い切れない。だって、お前は自由に俺を殺せるんだからさ。たぶん気ぃ張っちまって、ろくな会話もできやしねぇと思う。嫌になって、お前の側を離れるかもしれない」
炎が燃ゆる。ぱちぱちと空気を鳴らして。
でもさ、とエインは静かに続けた。
「でも、たとえ万人がエルと敵対しても、俺だけはエルの隣に立ってやるよ」
私は上体を起こし、目を開いた。そこには、至極真面目な顔をしたエインがいた。炎が彼の横顔を揺らし、彫りを深くさせる。その中で、瞳だけは爛々と煌めいていた。
「使い物になんねぇかもだけどさ、それでも、俺だけは終わりまでお前と一緒に戦ってやってもいいかなって思えるわけなのさ。――なんて、照れんだけどさ」
含み笑いで頭を掻きながら、彼はそそくさと火の様子を見に行ってしまった。私はその後ろ姿を、ただ茫然と見つめていた。
「……終わりまで私と、か」
包帯をそっと撫でる。優しく巻かれた包帯は傷口に負担をかけることなく、程よく傷を守っていた。
エインの言う終わりが、最後なのか、最期なのかは分からない。
ただ、これだけは言える。
エインは私のために命を捨てても構わないと言えるほどには、私を信頼してくれているのだ。似た境遇だから、同じくバケモノと忌避される存在であるから、そこに惹かれたのかもしれない。
――だが、たとえそれが似た者同士、傷を舐め合っただけの関係であったとしても。
「焼けたぜ、エル」
「あぁ、エイン」
立ち上がり、彼のもとへと急ぐ。
私は、それを信じていたいのだ。
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