私たちにわかることは限りなく少ない
新幹線に比べるとフェリーの進み方はずっと鈍かった。
青い空と海で挟まれた水平線と、ところどころアクセントのように付け加えられた緑色の島々の眺めはたしかに美しかったが、ずっと見ていると飽きてきた。どんなものごとにも限度というものがある。景色の変化が乏しく、この船が海のど真ん中に浮かんだまま止まっているようにも感じられたが、それはそれで悪くないと思った。
夏もエピローグに入り、秋の気配がすぐそこまで来ているとはいえ、昼下がりの太陽にさらされる甲板の上は十分に暑かった。それでも両側の柵の前では、財宝を探し求めるようにあらゆる方向にスマートフォンのカメラを向ける人々の姿があった。僕はSNSが嫌いだったで、彼らの気持ちが少しも理解できなかった。
じっとしていても全身から噴き出す汗に耐えられなくなって、冷房が効いた客室内に戻ることにした。
土曜日にしては、人はまばらにしかいなかった。
窓からもやはり水平線が見えた。水平線以外にはほとんど何も見えなかった。
厳密には、水平線が見えているというよりは、空と海が見えていて、その境界として水平線という観念が付随しているというほうが正しいだろう。同じように、恋人関係などといったものは実在しない。そこにあるのは二人の感情と行為だけであって、その総体に付随する形で僕たちは恋を認識する。以前彼女にもこの話をしたことがあるが、ただ軽く笑われただけだった。
水平線を見るたびに、上京してからは水平線を見ることもすっかり珍しくなってしまったのだが、地球は本当に丸いのだろうかと疑わざるをえなかった。もちろん、かつて理系だった身なので、知識としては、地球は文字通り球以外ではありえない。国際宇宙ステーションから撮られた地球の写真を見たのも一度や二度ではない。しかし知っているということと、信じているということの間には、大きな乖離があった。
視界の左端から右端にかけて、わずかに曲がった弧を描いて青い世界を上半分と下半分に分かつ境界線を目にするとき、僕はもうその境界線の淵のことを想像していた。
もしも、金属光沢のようなグレーのスーツに身を包み、立派な白髭を生やした老紳士がやってきたとしよう。
「君、地球は本当に丸いのかね?」と彼は尋ねる。
「私が存じ上げる範囲では、その通りでございます」と僕は答える。
「ふむ。だが、私が訊きたいのはそういうことではない」
彼は海よりもわずかに深い青色のネクタイの前で、その髭を一撫でして詰め寄る。
「君だ。君は、どう思うのかね?」
「どうでしょう。正直に申し上げて、個人的には、やはり端があるような気がします」
「ほう、そうか。では、その『端』というところではどうなっているのかね? つまり、空や、海や、そのほかの何もかもだ」
僕を見つめるその目は、まるでクヌギの樹液を吸うカブトムシを興味津々に見つめる少年のようだった。少し考えを巡らせてみたが、どうも僕は彼の期待には応えられそうにない。
「申し訳ありません。まったく見当もつきません。滝のようになっているかもしれませんし、どこか別の場所とつながっているのかもしれません」
彼は怒るわけでもなく残念がるわけでもなく、何かを考えこむように手のひらであご髭全体を覆って静止していた。そして問題が自己解決されたようにリラックスして言った。
「いいんだ、謝ることはない。私たちにわかることは限りなく少ない」
「おっしゃる通りです」
そして彼は僕から目をそらして窓の外を見やり、満足そうな表情を浮かべて立ち去る。
彼は島に一体何の用があるのだろうか、と僕は思いを馳せる。
もちろん、そんな老紳士は実際には現れなかったし、仮に現れたとしても、僕はきっと「地球は丸い」の一点張りだったにちがいない。それはこれまで生きて身につけてきた社会性のおかげであるが、人によっては低俗性だと揶揄するかもしれない。
そんな妄想をしながら、一時間と少しのあいだ僕は代わり映えのない海を眺め、フェリーは己の進路を進んだ。
太陽に照らされた水面は、特定の一帯だけザラメをひっくり返したようにきらきらと輝いていた。それに見惚れていると軽いめまいがした。
島に上陸したのはよかったが、特に行くあてもなく困ってしまった。旅行でも聖地巡礼でもなく、帰省とも言い難かった。強いて言えば、逃避という言葉が一番しっくりくる。
港に立ち尽くしても仕方がないので、とりあえず縁のある場所を巡っていくことにした。
かつて実家だった場所は知らない家族が住んでいた。表札には楷書で「古川」と彫られてあった。古川というのは島の苗字ではないから、移住してきたのかもしれない。そうだとすると、かなり珍しい話だった。
生まれてから中学校を卒業するまで島で過ごした。それから進学のために両親と一緒に東京に引っ越した。祖父は生まれる前に亡くなっていて、祖母は幼いころに一緒に遊んだ記憶がかすかにあるものの、思い出という点では大差なかった。どんなに美しい思いも、どんなにみじめな思いも、時の流れの前では無力なのだ。二階建ての家は売り払われて、新生活のための資金の大部分に充てられた。
学校は相変わらずあるべき位置にたたずんでいた。校舎の外壁は記憶よりもやや灰色っぽく、建物も運動場もやや小さく感じられた。
島には小学校と中学校がひとつずつしかなく、高校はなかった。二、三年に一度、転校していく人や転校してくる人がいる以外は、ずっと同じ顔ぶれだった。小学校も中学校も二クラスしかなく、クラス替えはおままごとにすぎなかった。少子化や過疎化といった社会問題のしわ寄せの真っただ中に置かれていたことを知ったのは、高校で現代社会の授業を受けたあとだった。
通学路にあった駄菓子屋は空き家になっていた。
登下校の際にお店に寄ることは「買い食い」として禁止されていた。今になって思えば営業妨害も甚だしいところだが、とにかく禁止されていたのだ。それでも僕たちはお店の常連客だった。小学生の僕はよっちゃんイカがお気に入りだった。お店の中では、あまり話したことがない同級生も、知らない先輩や後輩も、みんな友達だった。島の駄菓子屋は、僕たちにとってのジュネーブだった。それに対して、先生も、親も、大人なんてくそくらえだった。駄菓子屋のおばちゃんだけは僕たちの定義においては大人ではなかった。
釣り具店はいくらばかりか見慣れない品々が棚に並んでいた。
いつも仲間たちと魚とりをして遊んだ。釣りをすることが一番多かった。お金をケチって自分たちでミミズを捕まえて餌にしたこともあった。気が向いたときには網や銛を使ってみることもあった。手に入れた魚はその場で塩焼きにして食べた。監視する人も咎める人は誰もいなかった。大漁だったときには各々家に持ち帰ってその日の食卓に一品貢献することもあった。一匹も釣れない日でも、楽しさで言えば大して変わらなかった。遊びに成果主義を導入するのは愚か極まりないことである。
神社の境内は何一つ変わっていなかった。
中学一年生の冬、本殿の裏にある階段で初めての彼女とキスをした。唇の感触があまりに柔らかいことに驚いた。レモンの味はしなかった。それから同じ場所で僕たちは幾度となく口づけをした。神様に見られているような、いつか罰が当たるような背徳感は、むしろアクセルとしてはたらいた。そして十カ月の記念日を過ぎた頃に別れた。ほんのり寂しかったが、悲しくはなかった。とにかくそれが僕と彼女にとっての初恋だった。
それから、最寄りの公園、膝丈まで雑草が生えた学校への近道、押しボタン式の信号……。それぞれの場所で、それぞれの思い出がフラッシュバックした。
思えば、そのころが人生の最高潮だったかもしれない。ただ、最大値なのか極大値なのかは人生の終わり際までわかりはしない。
中学校を卒業すると、同級生はみんなバラバラになってしまった。隣の島の高校に進学する人、本州の高校に進学する人、東京の高校に進学する人、島で仕事に就く人、家の漁船を手伝う人、行方不明になる人。長いチュートリアルを終えて、それぞれの人生が幕を開けた。
連絡先を持っていない人は、おおよそ二度と会うことのない人となった。連絡先を持っていても、この先二度と会わないだろうという人は多かった。昨日まで同じ時間に同じ教室に集い、時には談笑もしていた同級生が刹那にそのような遠い存在になってしまうのは、悲しいというよりも奇妙で受け入れがたかった。卒業の意味を知るには僕はまだ幼すぎた。
だいたい見るところも見たので、まだ日暮れまで時間があるうちにあそこに向かうことにした。
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