原風景

白瀬天洋

何かを失うこと

 久しぶりに島に戻ろうという気になったのは、恋人と別れたからだった。

 「将来が見えない」

 最後にそう告げられた。

 三年と四カ月。長い時間をかけて築かれた愛の形は二秒で砂になった。これからまた気が遠くなるほど長い時間をかけて、砂は風に吹かれ水に運ばれ、彼女と僕の中で堆積して地層の一部となる。

 彼女の気持ちもよく理解できた。大学を卒業してから就職ではなく進学を選び、気が付いたら僕は博士課程にいた。数学、とりわけ数学基礎論と呼ばれる分野を専攻していた。文字通り、数学の基礎を研究対象にする学問。わかりやすく言えば、役に立たない数学という学問の中でも群を抜いて役に立たない分野である。

 その間に彼女は就職し、立派とまでいかなくとも、まともな社会人になっていた。法学部卒は就職に有利らしく、彼女はホテルグループを経営する企業の事務職に就いた。いつか彼女はこんなことを言っていた。自分が日々勤しんでいるのは、適当な数字たちを並べ替えては体裁をそれっぽく整えるだけの、世界一つまらない仕事だと。


 「この先、どうするの」と彼女に尋ねられたことがある。

 「うまくいけば、どこかの大学で研究員のポストに就けると思うけど……」

 「『うまくいけば』ってなに? わたしたち、もういくつだと思ってるの」

 彼女は二十五で、僕は来月二十七になる。

 「もう子どもじゃないんだよ」と彼女は言った。ため息に飲み込まれそうな声だった。

 大人ってなんだ、という言葉を、しかし僕は飲み込んだ。

 「わかってるよ」代わりに中身のない返事をした。

 たぶん、僕は何もわかってはいなかった。おそらく、彼女も僕より何かをわかっていたわけではない。そのあと、どちらも何も話さなかったと思う。

 「まとも」というのは、実に変な響きをもった言葉だ。


 二〇一五年の夏が終わろうとしていた。トワイライトエクスプレスが見届けられながらその最期の旅路を全うした一方で、アップルウォッチが人々のライフスタイルを一変させる革新的な製品として発売された。世界中のメディアがイスラーム過激派組織のニュースで持ちっきりだった。たくさんのものが失われ、たくさんのものが生まれた。世界が変わるんだということをみんなどことなく感じていたが、それがユートピアかディストピアかは誰にもわからなかった。はやぶさ2はまだ名もない小惑星を目指して地球をぐるぐると回っていた。

 亭主関白や大黒柱などといったものはすでに前時代的な概念ではあったけれど、ひとりひとりの人間の奥深くに根付いた思想、あるいは思想の源泉は、そう容易には変わらないものである。生物の死骸が地中深くにおいて石炭そして石油になり、いつか掘り出されて燃料になるように、思想も年月をかけて人間の中で熟成し、その営みの薪炭となる。

 もしも人間が不死の存在であったなら、大陸合理論もイギリス経験論も、もちろんドイツ観念論も生まれることはなかっただろう。

 そしてなにより、明日のご飯が食べられるかどうかは極めて現実的な問題だった。

 彼女はそれなりの給料をもらっていた。一方僕はまだ学生の身分で、奨学金という名の借金を積み重ね、卒業後に博士研究員、いわゆるポスドクに就けるかどうかも不透明だった。もちろん僕は全力を尽くすつもりでいたけれど、彼女が不安になるのももっともだった。軋轢は活断層のように二人の間に横渡り、たまたま地震が起きたのが三日前、それだけの話だった。

 しかし、理解できるということと受容できるということの間には大きな差がある。


 彼女が出ていく二日前の夜、僕の七畳半の部屋で、僕たちはワインが入った二つのグラスを挟んで長い話をした。

 僕たちは二人で話をするのが好きだった。ことあるごとに、あるいは何もないときにでも、とにかくあらゆることを話した。食事の前も、食事の後も、セックスの前も、セックスの後も。どこから際限もなく話題が湧きだしてくるのかと問われればたしかに不思議だったが、満天の星空にきらめくひとつひとつの光に物語があるように、二人の間で話すことが尽きることはなかった。

 六対四で彼女が話して僕が聞き手にまわることがほんの少し多かった。彼女は特にピロートークが好きで、話の途中で僕が寝落ちするのがお決まりだった。

 あの夜、本当に長い話をしたはずだが、どういうわけかあまり覚えていない。「将来が見えない」という台詞と、彼女が僕のワイングラスの十センチメートル先を無表情なままじっと見つめていたことと、白ワインが想像以上に辛口だったことだけが、磯浜の岩肌にへばりつく海藻のように脳裏にこびりついて離れない。

 それから二日後、彼女は化粧品やちょっとした服やアクセサリーを回収するために僕の部屋に立ち寄り、そして二度と戻ってこなかった。そのとき僕は近くのカフェにいて、二階の窓際の席でロイヤルミルクティーを飲んでいた。これはあらかじめ約束した通りのことだった。もう一度でも顔を合わせることはよくない、そんな宗教染みた不吉な予感を二人は暗黙のうちに共有していた。

 網入りの窓ガラス越しに真っすぐ奥に伸びる商店街が一望できた。両側の建物から突き出た形状も色彩もさまざまに異なった看板たちは、無造作ながら全体としてひとつの芸術作品のようだった。

 平日の昼下がりにもかかわらず、たくさんの人が往来していた。誰しもが自分自身の哲学をもって、目的地に向かって、それぞれの人生を生きていた。少なくとも僕にはそう感じられた。人々が行き交う通りはカラフルな蟻の巣にも見えたが、ひとりひとりが物語を秘めていた点で蟻塚とは決定的に異なっていた。もしかすると蟻の一匹一匹にも物語があって、僕には理解できないだけかもしれないが、人間に理解できない物語を物語と呼んでいいのかどうかは、また形而上の問題である。

 熱いロイヤルミルクティーは甘くも苦くもなかった。二人でカフェに行くときには、僕は決まってアイスコーヒーを注文し、彼女は決まってロイヤルミルクティーを注文した。素直にコーヒーにしておけばよかったと後悔した。


 彼女は小柄で、一重の目とは不釣り合いなほどまつ毛が長く、左目の目尻と右耳の裏側にほくろがあった。髪の長さは一年の周期でセミロングとショートボブを、季節に合わせて伸ばしたり切ったりしていた。

 一月生まれのやぎ座。生クリームが苦手なので誕生日ケーキはいつもチーズケーキ。

 A型。献血は一度だけ一緒に行ったが不健康だからと断られた。

 オムライスが好物だが得意料理は豆腐ハンバーグ。

 シャンプーとコンディショナーはいち髪でトリートメントはパンテーン、化粧水と乳液はオルビス。付き合いたての頃は無印良品のものを使っていた。

 セックスは後背位。

 煙草はアメリカンスピリットしか吸わなかったし、煙草の匂いが嫌いな僕を気遣って僕の部屋では取り出しさえしなかった。

 「そうなの?」と僕が聞いて、「わかんない」と返ってくるのが口癖だった。

 彼女のことならなんでも思い出せたが、そんな記憶はこの世には存在しない架空の人物のプロフィールように思われた。もちろん彼女がまだ生きている保証はどこにもないわけだが、そういう屁理屈以上の問題だった。

 彼女のことを思い出すたび、僕はひどくうんざりした。彼女も僕のことを思い出しては同じように感じているかもしれないと思うと、申し訳ない気持ちにもなった。でもそれはきっと杞憂だろう。


 ロイヤルミルクティーを飲みながら、僕はSNSのアプリをひとつずつ開いては彼女のアカウントをブロックするなり削除するなりした。長い間アイコンに使われていたツーショットの画像はすでにどこかも知らない風景の写真に変わっていた。

 彼女のことを思い出したり思い出さなかったりしているうちに約束の時間を過ぎていた。まずいロイヤルミルクティーを流し込んで僕はカフェを出た。


 部屋に帰っても何かが変わったような気がしなくて、しばらくぼうっとしていた。やがて火山灰が空を覆っていくように、憂鬱な気持ちが心を満たしていった。何かを得ることは何かを失うことだ、と誰かが物知り顔で言っていたが、何かを失うことはただそれを失うということだけだった。

 僕は居ても立っても居られなくなり、部屋を掃除し始めた。掃除というよりは、学級の席替えのようにあるものをある場所に移し、別のものを別の場所に移す作業だった。とにかくそれはわずかばかり僕の心を落ち着かせた。そうして落ち着いてくると、どこからともなくどこかに行きたいという衝動に駆られ、考えるより前にスマートフォンで新幹線を予約した。

 島に戻るのは三年ぶりだった。

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