深夜回廊

エリー.ファー

深夜回廊

 私は半壊の屋敷を前にしていた。

 月明りである。

 雲一つない。

 静かである。

 誰かが喧騒を取り殺したとしか思えない。

 古傷に入り込むほどの鋭利な無音。

「寒いな。冷たい」

 私は独り言がどのように響くのかを試した。自分の神経がどれほど過敏になっているかを知っておきたかった。

 よい時間になった。

 薄汚れた鉄製の門を蹴り飛ばして、中へと入る。

 荒れ放題の庭には蛍の光がそこかしこにあった。ただ、こちらに近づいてくることはない。私の心を見透かしているとしか思えない。

 息を長めに吐く。

 履物を脱ぐことなく中へと入り、腰の日本刀の柄に指先をほんの僅かばかり付ける。

 掴んではいけない。掴めばそれが隙となる。柄が少しばかり大きくなっていると想像してそれを優しく掴むような感覚がいい。

 父親にも兄にもそのことは何度も何度も教えられた。むしろ、そのことについての小言が一番多かった。

 我が一族に生まれてしまった以上、運命は決まったのだ。と言わんばかりの猛烈なしごきに耐える日々が私の青春だった。

 私はもう、どちらの年齢も追い越してしまった。

 死ぬとか死なないとかそんなことはもう分からなくなってしまった。ただ、死に至る過程を恐れるほどに大人になってしまった。

 中には回廊がある。

 壁はほぼ崩落している。天井も同じく。

 しかし。

 床は、異様に綺麗である。毎日誰かが使い、掃除をし、磨き、愛していなければ説明がつかない。滑るように光っており、その上を歩くことすらはばかられる。

「そこのお方」

 私は横を向く。

 女がいた。

 白無垢姿の女であった。

「何か」

「ここはどこかご存じでしょうか」

「あぁ、回廊だろう」

「いえいえ、ここは深夜回廊で御座います」

「深夜回廊とは」

「昼間は光の中で御座いますからただの薄汚れた回廊で御座います。しかし、闇の中に落ちればその名は回廊から深夜回廊。化け物たちが潜む、この世の果ての回廊、深夜回廊となります。」

「今、この場は闇に落ちているのか」

「えぇ、見ての通りで御座います。ですから、ここはお帰りになった方がよろしいかと」

「昔、ここにガキが来たと思う」

「それが、何か」

「そのガキと一緒に、そのガキの父親と兄もいたと思う」

「それが何だというので御座いましょう」

「父親と兄は、殺された。この深夜回廊の化け物たちに殺されたのだ」

「そうですか」

「あろうことか、化け物たちはそのガキの前で殺したのだ」

「不憫なことで御座います」

「しかし、ガキは生き残った。父親と兄を殺した化け物とは別の、ある女の化け物に見初められて、命だけは助けられたのだ。そして、逃がしてもらった」

「えぇ、それでどうしたのですか」

「私は復讐をするためだけに剣術を磨いた。ここの化け物たちを殺すためだけに。父親と兄を殺した化け物たちを地獄に送るために。すべてを懸けたのだ」

「それはそれは」

「しかし、その深夜回廊も時代の移り変わりの中で勢力を次第に失っていったと聞く。そして、今や深夜回廊にはたった一匹の女の化け物だけが住んでいるそうだ」

「左様でございますか」

「もはや、この剣技は復讐すべき相手を失い錆びついてしまった。しかし、私は、私の命を救った女の化け物に一目会いたいと思ったのだ」

「何故で御座いましょう」

「その者と心が通じ合っているということなのだと、私はそう思っている」

「その者は幸せで御座いますね」

「お前なのだろう」

 私は女の方を向いた。

 女は頬を赤くし、視線をわずかばかり下へと逸らしている。

「もはや、私の父と兄を殺した化け物はいない。ならば」

「ならば、なんで御座いましょう」

「ここには私の命の恩人しかいないということになる」

 私が女へと近づく。

 女が私へと少しばかり近づく。

 お互いが顔を近づける。

 その瞬間。

 私の居合切りに、女の胸元から生えてきた毛だらけの太い手が長く鋭い爪を立ててぶつかる。

 私は素早く後ろへと下がり、納刀して居合切りの構えへと戻る。

 女は揺蕩うようにして少しだけ下がると、太い手を何本も背中から生やして微笑んだ。

「命の恩人に向かってその態度はいかがで御座いましょうか」

「馬鹿がっ、赦せるわけがないだろうっ。貴様がっ、この深夜回廊の女主であることは十分に知っているっ。私を求めるが余り父と兄をここに呼び寄せて殺したことは断じて許せんっ」

「本当に惚れていたので御座います」

「惚れてもらって結構。ついでに斬られてくれればなお結構」

「化け物ではなく、人の女に生まれておれば、夫婦にもなれたので御座いましょうか」

「あぁ、なっただろう。なっただろうさ。私はお前に惚れている。そして、お前が私に惚れていることも分かっている。だからなおのこと、赦せぬのだよ」

「あぁ、恋に身を焦がすとはまさにこのことで御座いますね」

「あぁ、全くだっ」

 女はけたたましく笑うと、何度も何度も床をならし、床のありとあらゆる隙間から赤黒い米粒ほどの蜘蛛を、何千、何万、何億匹と呼び寄せる。

 そして。

 泣いていた。

「あぁ、そうだな」

 私も。

 泣いていた。

「死ぬまで殺しあって夫婦になろう」

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