うなぎの寝床にはうなぎの時が刻まれる
麻々子
第1話
京格子の前をゆっくりと歩いた。格子の上を私の影が動く。門口に立つ。引き戸は開け放たれていた。そのまま、じっと立っていた。どうして私がこの家に住まなきゃならないのか、よくわからない。
京の町屋は、うなぎの寝床というそうだ。これをママから始めて聞いた時、私はおばあさんが住むこの家を恐いと思った。うなぎが住む家なんて気持ちが悪いと、まだ小さかった私は本気でそう思っていた。
門口を入ると通り庭という土間が表から裏まで通っている。暖簾をくぐると「流し」のある走り庭になり、座敷庭へ出る。座敷庭の下草と石灯籠のかげに巨大なうなぎが住んでいて、戸を開けると、そのうなぎが細長い走り庭を通ってにゅーっと顔を出すのではないかと思っていた。それぐらい通り庭は薄暗く湿っぽく感じられた。
「こんにちは」
私は、思い切って声をかけた。
「どちらはんどす」
おばあさんの声が聞こえた。ああやっぱりこの言葉はだめだと思う。なぜか、この言葉を聞くたびにこの家にはいるなと、私には聞こえる。なぜなんだろう。聞き慣れない言葉だからだろうか。それとも、この言葉に人を拒否する何かが含まれているせいだろうか。そんなことを考えながら「美弥です」と、私はこたえた。
「いや、美弥ちゃん。一人でようきゃはったな。入りよし、入りよし」
藍色の暖簾からおばあさんの顔がのぞいた。うなぎではない。夏でもきりっと藍色の着物を着たおばあさんの顔が笑っている。そんなに喜んでくれるんだったら、駅まで迎えに来てくれてもよさそうなもんだと、私はいじわるく思う。
私は暖簾をくぐり、走り庭から部屋へあがった。
「ここにお座り」
おばあさんは、麻の座布団を私にすすめてくれた。私はちゃぶ台の前にすわった。エアコンはない。夏用に立て替えられた葦戸が開け放され奥座敷を通して庭が見えた。
私が小さいころ、うなぎが住んでいると思っていた庭へ、かすかな風が通り過ぎる。バス停から歩いてきた私には、その風も涼しいとは感じられなかった。首筋を汗が伝って落ちる。
「暑かったやろ」
おばあさんは冷蔵庫から麦茶を出してコップに注ぎ入れた。出された麦茶の中で氷がカランと音をたてた。
私は、いっきに麦茶をのみほした。
「六年生いうても、まだ子供やのに、こんな小さいバッグ一つ待たせて、一人でよう来さすわ。ほんまにあんたのお母さんは冷たいなぁ」
私は、先に宅急便で私の荷物が来てるはずなのにと思う。
おばあさんが忘れていたというように扇風機をつける。汗が急に冷たく感じられた。
「ここに来るの、迷わへんかったか?」
おばあさんは、私のコップに麦茶をつぎたす。
「はい」
「そうか、そうか。ほんで、あんたのお母さんは今、何したはんねん?」
「明日から、出張だといってました」
正座していた足が痛くなってきた。もぞもぞと足を動かす。
「なんぼ仕事がいそがしいいうても、そんなことしてるさかい、離婚せんならんにゃ。私はそんな風に育てたつもりはないのになぁ」
おばあさんの眉間にしわがよる。
「子供は私が育てます、ゆうて、結局はこれや。はじめから、私におしつけるつもりやったにちがいないわ」
手にもっていたうちわで、ぱたぱたと胸をたたいた。
私は、早くそのはなしを終えてほしくって下を向いた。ママの悪口は聞きたくない。一度引きかけた汗がまたふき出てきた。
「ああ、ごめん。ごめん。お母さんの離婚はあんたが悪いわけやないで、あの子があほなだけや。私は、どんな理由にせよ、美弥ちゃんが来てくれて、うれしい。ほんまやで」
おばあさんは、私に向かってやさしく笑ってくれた。でも、私は知っていた。ママとパパが離婚した理由を。私に対する教育方針が違うといって、いつも二人はいい争っていた。もっと我慢をさせなきゃいけないとか、そんな我慢は必要ないとか……。「一流校に入らなきゃ」とパパがいえば、「生きる力が必要よ」とママがいう。もし私がいなければ、二人はきっと、仲良く暮らせたんだと私は今も思っている。
「離れには美弥ちゃんのお母さんが使うたはった勉強机とタンスがあるし、今日からあんたの部屋や。自由に使うたらええしな。そやけど、ベッドとちがうし、お布団の上げ下ろしはちゃんとしてや。マンネンドコは、あきまへんで」
「マンネンドコ?」
「いや、万年床もこのごろの子は知らんのかいな。お布団をひきっぱなしにしとくことや。昔の学生さんは、ようそんな人がやはったらしいわ。あ、それから、二階へは上がったらあかんえ。よろしいな」
私は、まただ、と思った。私がおばあさんの家に来るたびに、おばあさんは私に二階へ上がったらだめだといった。私が小さかったときは、階段が急で危ないとかいっていたような気がする。今はそんなこともないだろうと思って、「どうして、二階に上がっちゃいけないの?」と聞いてみた。
「うーん」とおばあさんは答えにくそうにしていた。そして、
「昔、ここが学生さんの下宿っていうのをしてたんを知ってるやろ?」
おばあさんが聞いた。
私はママから聞いたことがあった。京都には大学がたくさんあって、この家はいろいろ便利な場所にあるから二階を学生さんに貸していたということを。
私はうんとうなずいた。
「もう使う人がいやはらへんようになって、汚のうなってるんや。そうじも、長い間してへんしなぁ。古い家やし、床でもぬけてけがしたらたいへんや。上がらんでもええとこへは上がらんでもええ。よろしいな」
おばあさんは、「よろしいな」という言葉だけきっぱりといった。
私は、「はい」というしかなかった。
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