優先席

 酒のつまみに、おれが静岡県の電車に揺られていた時に会った話をしよう。

 一言でまとめるなら、とある正義マンの話さ。


 当時おれは二十代そこそこで、一人旅しに……ってここは関係ないんだった。まあ舞台は静岡県のローカル線だと思ってくれていい。

 休日なのに三割も席が埋まっていない、まさに『ガラガラ』の車内でな。

 青春十八きっぷ最高だな、とおれは目を閉じたんだが、あいにく邪魔が入った。心地よく終点までひと眠りしようかなっていう時に、誰かさんがマナーモードにしなかったんだ。


 だれかさんのスマホから今どきの音楽が流れ落ちる。

 走行音に負けず、十秒ほど響いたところで一層大きくなって薄眼で見たんだ。優先席に座っていた高校生のカバン。それが件の音の発生源だったのさ。

 彼が首を左右に振って窺っている。申し訳なさそうに切るのかな――と思いきや、

「もしもし……あ、お母さん? 今東静岡辺りだから、あと――」


 おいおい、ここ車内だぞ。

 すぐに切らずにそのまま話すって……まったく最近の若者はなってないな。

 おれも若者だけど、マナー違反者はさらに若い。高校生がよりにもよって優先席に座って通話していた。まあ、がらがらだったし、ものの十数秒でやめてくれたから別にいいけど。

 スマホをポケットにもぐらせ、しばらくして顔を揺らしてリズムをとる。ひもは見えないが、おそらくワイヤレスイヤホンで聞いていたのだろう。


 車内は平常運転に戻り、静寂が戻る。

 んじゃ寝よ……と、その時だ。

 おれの隣に座っていたおっさんが、おもむろに立ち上がった。減速途中とはいえ、まだ駅についてないのに早いなぁ――と目で追跡すると、なぜか降車ドアを通り越した。


 上でアナウンスするドアを無視して、違反者が座る優先席に向かった。先ほどマナー違反をした高校生の前に陣取るや否や、手を横に振り上げ――パチンッ!


 そいつの頬にビンタを喰らわせたのだ。そう、おっさんは『正義マン』なのだ!


 彼にとっては不意を突かれた感じに顔をハッとさせる。え?――みたいな。

 そりゃそうさ。

 いきなり見ず知らずの、それも浅黒くて毛深い、めっちゃくちゃ汚いおっさんの手で鉄拳制裁をされたんだからな。

 呆然とした若者がぶたれた頬をさすり、上目遣いになる。見られた当の正義マン(中年男性)は微動もせず、何処か誇らしげでつり革につかまってた。

 車内は何事もなかったかのように次の駅、静岡駅につく。


「気を付けろよ」

 ホームに降りたおっさんが、同じく駅で降りる高校生にありがたい忠言を残して立ち去っていった。迎えに来た母親らしい女性の脇を通って。


 翌日おっさんは逮捕されたらしい。供述では、

「そんなこともあった気がするが思い出せない」だとよ。


 40代の正義マンが? そんなこともあった気がするが思い出せない?

 クソダサすぎるだろ? まったく、人って面白いよねぇ。

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